第2話

四角く切り取られた灰色の世界は、僕のすべてを否定した。

薄く黄色みかかった便器に、傷だらけの壁に囲まれ、薄っぺらな布が敷いてあるだけのひやりとした床の上で横になる。

僕は扉に背を向けて、壁に向くようにして丸くなった。胸に抱いた小さなぬいぐるみは僕の手の中にすっぽりとはまり、つぶらな瞳で見つめてくる。

「おいで、スティーブン」

扉の隙間から、いつものテレビ番組の音が聞こえ、僕は耳をすました。

楽しそうな音楽に、小鳥がぴよぴよ歌っている。子供達みんなが笑っていた。

「スティーブン」

くすくすと僕が笑えば、スティーブンも僕に笑いかけ、茶色い目玉がきらりと光る。子熊の手を取って、音楽に合わせダンスをするようにゆらゆらと動かした。

その時少しだけ開いたトイレの扉が勢いよく閉められた。

僕が笑っていることが許せないママが、何度も何度も扉を蹴る。

そのつど頭に響く怒号に、僕はスティーブンをぎゅっと抱きしめ膝を抱えて丸くなった。

背中越しでもわかるほど、ママの叫び声はずっと僕を睨んでいた。

耳を塞いで目を閉じれば、その声は小さくなって消えていく。

どのくらい経ったのだろうか、目を開けると、いつのまにかトイレの扉が開いていた。それはいつもみたいに少しだけ開いた状態ではなく、完全に開け放たれている。

急に視界が広くなって、僕はよろよろと立ち上がった。

想像していた扉の向こう側はずいぶんと狭いものだった。

歩き出そうと足を伸ばせば、くんと首を引っ張られる。その拍子に、繋いでいたスティーブンの手がするりと離れて落ちていった。

それは冷たい床を滑っていき、扉の向こうへと行ってしまう。

取りに行こうとしても、紐で繋がれた体は前へ進もうとしない。引っ張られた紐が、ぎりぎりと肌を食い込ませて首が締まっていく。

唸り声をあげて、僕は手を伸ばした。その手は空を掴むように、ぐんぐんと伸びていく。

前のめりになった体は赤く染まり、紐が結ばれた首元から血が流れ落ちてくる。

汗が滲んだ足裏は、音を鳴らして前に進もうとした。

その時ぶちんと音がして、無理に足を踏み出した体はよろけて床に尻餅をつく。僕の小さな頭が便器にぶつかって頭の中がぐらりと揺れた。

思いっきりぶつけた後頭部は、脳みそが氷の中につけられたかのような衝撃だ。

目眩と吐き気で、僕の体は一瞬で重くなる。打ち続けられる痛みのなか、霞んでいく僕の視界は真っ暗闇へと変わった。


***


甘い花の香りで目が覚めた。

目玉だけで見渡すと、青い空に暖かな日差しが照らされて、木々についた青々とした葉っぱたちが風に吹かれ揺れている。

そのとき一匹の蜜蜂が、ぶんと音を立て肌をかすめ飛んで行った。それを目で追い、また空に戻すと、僕を覗き込む少女と目があった。

その少女は寝転がる僕に影をつけながら、うふふと笑った。

びっくりして飛び起きたら、その子も目をまん丸くして僕を見つめる。

その子は羽を広げて長い脚が地面につくか、つかないかのところで宙に浮いていた。その首には僕みたいな紐がくくられていて、ふいに自分の首元を触ったら、僕を繋いでいた紐が途中で切れているのに気がついた。

目を見開く僕を、その子はきょとんとした顔で見つめている。

最初は女の子かと思ったけれど、何も身につけていない裸の体に、僕と同じものが付いていた。

青白い羽をぱたぱたと広げて飛ぶ彼は、ママくらいに大きな体をしていた。

「きみは、だれ?」

「私はココよ、あなたは?」

自分の名前がよく分からなかった僕は、とっさに「スティーブン」と答えた。

「あら、そう」とココは首を傾ける。

その蝶の背中をよく見ると、青白い羽に赤い模様が透けている。

まるで背中の皮を切りとって作られた羽のようだった。

羽の裏側はむき出しになった桃色の肉に、真っ赤な血が滲み出してとろりと糸を引いている。

そして、ぱたぱたと羽の音に合わせて、雨水のように赤い血が落ちてきた。それはココを見上げる僕の頬を、赤く点々と濡らした。

羽を動かすたびに落ちてくる血液は、鮮やかに地面を彩っている。

「綺麗だね」

僕がそう言うと「あら、ほんとう?」と、長く綺麗な黒髪を揺らしながら笑った。

首が折れているのか、歪な角度でココはゆらゆら笑っている。

「ねえ、僕のスティーブン知らない?どこかに行ってしまったんだ」

「だあれ、それ。知らないわ、聞いたこともないわね」

「ほんとうに?」

「ええ、本当よ。本当のことしか言わないわ。だってあなたに嘘をついたって、これから起こる楽しいことに比べたら大したことではないんですもの」

「何が起こるのさ」と僕が聞くと「とっても素敵なことよ」とココは唇に指をそえ、内緒話のように僕に囁いた。

そうやってココと一緒に歩いていると、いつのまにか小汚い小さな子犬がココの足元で彼女を見上げていた。

その子犬はココを見上げて小さな手をいっぱいに広げ、ぽろぽろと涙をこぼしている。

ココの首から伸びる縄をくわえたと思えば、僕が瞬きをした一瞬のときに、人の形となっていた。

それはずいぶんと背が低い人間で、僕よりも小さく、そのくせ顔は妙に大人っぽい。

その小人はココを連れてどこかに行こうとしているみたいだ。

「どこにいくの?」

声をかけると、その小人は振り返らずにこう答えた。

「…い、今からココをつくるんだ」

顔に見合わず、子供のような甲高い声が響く。僕は眉をひそめた。

「この子がココじゃないの?」

首をかしげてそう言うと「…そう、だよ」と小人は答えた。

「これは、ココの標本だよ。…蝶々だから、釘にはりつけて飾るんだ」

「そんなことより、僕のスティーブン知らない?いなくなっちゃったんだ」

僕がそう言うと、これから磔にされるココが「あら、忘れていたわ」と呑気な声を出す。

「エド、スティーブン知らない?」

エドと呼ばれた小人は振り返らずに首を振った。

ココの首がぐるりとこちらを向く。首を後ろをかっくんと折り曲げたココは、僕の目を見つめ「残念ね」とけらけらと笑った。

それが何だか可笑しくて「首が折れてる、変なの」と指をさして僕も笑った。

「折られちゃったの」

口を尖らせ、ゆらゆらと笑うココが動くたび、乳首についている鎖のようなピアスの音がなる。

「ねえココ、エドって喋り方が変だよね。ココを作るよりそれをどうにかしたほうがいいんじゃない?」

「あら、どうして?これでいいじゃない。正しい話し方なんて、そもそもあるのかしら」

「聞き取りにくいよ」

エドの耳に届いている筈なのに、僕たちは大きな声で話をする。

エドはこちらを振り返った。

「そろそろ、だね」

「何か待っているの?」

「ココの材料だよ」

その瞬間、僕のすぐそばで、何かが潰れる音がした。どちゃ、どちゃりと粘ついた音が地面に叩きつけられている。

「気をつけて、これに当たると、怪我をするよ」

よく見ると、それは人の形をしていた。落ちた衝撃なのか、お腹から肉や骨が突き出している。

血と肉が混じり合ったぐにゃぐにゃの物体は、晴れた空を雨のように赤い肉を撒き散らし、折り重なるよう降ってきた。

ココは真っ青な空を見上げ、けらけらと楽しそうに笑っていた。赤い水飛沫をあげながら、赤く透き通る羽を上下させている。

「どうして空から降ってくるの?」

次々と降ってくる赤い血を避けながら、僕はココに尋ねた。

「あら、死体は空から降ってくるものなのよ」

さも当然のことのように言うココは、血と肉の雨を全身に浴びて叫ぶように笑っていた。

「ほら、見て!スティーブン。これ全部私よ、私なの!私になるの!」

ココは首につながれた紐を手繰り寄せ、足元の小人に近づいた。

「大好きよ、エド」

地面に足をつけて小さくかがみ、ココは視線をエドに合わせた。

エドは優しくココに笑いかけ、折り重なる死体の山をかき分けている。

きっと彼らは僕のスティーブンのことなんて知らないのだろう。死体の足を引きずっていく二人を見つめて、僕はこの場を後にした。

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