子熊のスティーブン

あつしれんげ

第1話

ぺたりと冷たい床に座り、元は白かった壁を僕はじいっと見つめた。

何も身につけていない肌は、床の冷たさに震えている。

今は誰もいないこの家は、とても静かで肌寒い。

僕の目は薄汚れた壁を写し、ゆっくりと呼吸を繰り返す。

すると、銀色に輝く糸状のもやもやとしたものが、壁の中で蠢いているのが見えてきた。

僕はそれを目で追った。

くるくると茶色の目玉を動かし、まるで川のように壁の中を流れていくものを、ただぼうっと見つめる。

そうしたらだんだんと、頭の中もひやりと冷たくなって、うとうと眠くなる。瞼を閉じ、耳を澄ませばざわざわとした耳鳴りが聞こえてきた。

それは小鳥が歌うように甲高く響いている。

小さく体を折り曲げ、床に鼻を鳴らせば埃っぽい土のにおいがした。

瞼を閉じた真っ暗闇が、緑の草や色とりどりの花が咲く空間に変わっていく。

嗅いだこともない花の香りを想像しながら、僕は深い眠りについた。


***


「おいでスティーブン、首にリボンを結んであげる」

優しく語りかける声で、僕は目を覚ました。付けっぱなしのテレビの音が、ざわざわとした雑音となって、徐々にはっきりと僕の耳に聞こえてくる。

もっとよく聞こうと頭を動かすと、かちゃりと鈴のような音がした。僕の首に巻かれた長い紐は、トイレの金具に擦れて乾いた音を出す。

それを指でつまむと、切れてしまいそうなほどちぢれて傷んでいた。

僕はドアの隙間から腕を伸ばす。ひらひらと、空をつかむように伸びた腕はとても細いものだった。

誰かが近づく音がする。それと同時に、けたたましく泣く赤ん坊の声が聞こえてきた。

語りかけるママの優しい声が、僕の耳を撫でる。それは決して僕のものにはならないものだった。

瞼を閉じ、その声を何度も頭で繰り返せば、僕の体はやわらかなママの胸に抱かれる。

もっとそれが聞きたくて、両手を広げ、空間の外へと腕を伸ばす。

その瞬間、僕の優しい空想は、ヒステリックな声とともにかき消された。

ママは切れかかっている首の紐を見て、僕がここから出ようとしていると勘違いしたようだった。

ママの腕が伸びてきて、僕は激しく突き飛ばされる。僕の痩せた体は簡単によろめき、便器に頭を打った。

勢いよくドアが閉められ、大きな音がぐらついた頭に響く。

隙間の空いていないこの狭い場所は、息もできないほどに窮屈で、泣いてしまいそうなほど心細くなる。

僕は閉じてしまったドアを見上げた。

見開かれた茶色い目玉が、待って、待ってと上下に震える。

腕を伸ばしてドアに触れると、その冷たさに指がふるえ、手入れのしてない伸びた爪で、かりかりとそのドアを引っ掻いた。

小さな音はだんだんと大きくなっていく。取り残されたかのようにひどく寂しい僕の心が、大きな口を開けて悲鳴をあげた。

それが届いたのだろうか、ママの近づく足音がした。

静かに回されるドアノブをを、茶色い目がとらえた。

少しだけ開いた隙間から覗く、久し振りに見たママの目は、冷たく僕を見下ろしていた。

開かれた隙間から腕が伸び、僕の首に巻かれた紐を解いていく。

近くに感じるママの体温と、僕に触れる硬い指先の感触が薄い肌に伝わっていく。

この瞬間だけ、それは僕だけのものだった。

ママの指は僕の細い首に、また新しい紐をきつく縛る。それが終わると僕を一瞥し、ママはここから出て行ってしまう。

閉じられようとしているドアの前で、閉めないでと腕を伸ばした。

僕の声をまるで聞こえていないように無視をするママは、音を立ててドアを閉じた。

ドアの隙間から差し込む光が、僕は大好きだった。

冷たい床が熱を持ち、その上に寝転がり目をつむると、床の上から青々とした草が生えてきて、ふわりとした感触を楽しみながら日向でまどろむことができたのだ。

消えてしまった狭いこの場所で、僕は静かに目を閉じる。

すると、ママがかちゃりと音をさせ、ドアを開ける気配がした。ドアの隙間から顔を覗かせて僕に微笑んでいる。

ゆらゆらと動く、貼り付けられたようなママの笑顔は、とても優しそうだった。

僕を抱きしめるママの腕は暖かくて、いい香りにつつまれた。

その時、小さく聞こえる泣き声で目を開けた。見上げれば扉は堅く閉じていた。

僕は自分でドアノブを回して隙間を開ける。赤ん坊の大きな泣き声と、それをあやすママの優しい声が聞こえた。

「よしよし」となだめる声は甘ったるく、僕の耳をくすぐった。

「よし、よし」

ママみたいに僕も小さく呟いた。

「いい子ね、スティーブン」

ママが優しく撫でていた。小さな熊のぬいぐるみを取り出して、赤ん坊をあやしている。子熊の首には綺麗なリボンが巻かれていた。

「スティ、ブン」

僕の呟きが聞こえたみたいに、その子熊と目があった。その目は僕と同じ茶色い目をしていた。

「スティーブン」

もう一度呟くと、それはきらりと目玉を輝かせ僕を見た。

すると、赤ん坊がぐずるたびに揺らされたぬいぐるみは、指の間をすり抜け床に落ちる。するりと床を滑る体が、ドアの近くまでやってきた。

ママに気づかれないように、それを素早く手で掴み、しっかりと胸に抱く。

決して見つからないように、初めて僕は、自分でドアを閉めた。








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