白い服の人【修正版】

凍った鍋敷き

白い服の人【修正版】

 あの人がやってきたのは。桜のつぼみをちらほらと見掛けるようになった頃でした。今にも落ちそうな曇り空でも良く映える、真っ白い詰襟を着て、背筋がピシッと伸びている、背の高い男の方でした。

 髪は短く切り揃えられて、冬の終わりには寒そうな頭をしていました。濁りの無い、真っすぐな瞳で、私を見てくる、ちょっと怖い感じの人でした。

 庭の手入れをしていた私は、ちょっと人前に出られる格好ではなく、恥ずかしい思いをしましたが、その人は「突然お訪ねして、申し訳ありません」と頭を下げました。

 この国では全てにおいて男性が優先されます。でもこの人は、躊躇なく、女性である私に頭を下げてきました。悪い人では、なさそうですが……

「実は」

 彼は、先日亡くなった父の教え子だそうです。父は軍で教官をしていましたが、体調を崩して数年前に退官していました。彼は、父が退官するその年の最後の教え子だそうです。

 彼は外国に駐在していて葬儀には間に合わず、急遽帰国して、真っすぐに我が家に来たそうです。折角なので上がって貰いました。

 母は身体が弱く、私が小さい時に亡くなっておりました。父も亡くなり、唯一の家族の兄も軍に入っており、宿舎暮らしです。父の遺品の整理も終わり、ひと段落したところでした。

「散らかっておりますが」

「あ、いえ、お気遣いいただいてすみません」

 二階建ての母屋に、倉庫代わりの離れが一つ。それと父の趣味だった小さな庭。それが私が住んでいる、家です。

 彼は父の遺影のある仏壇の前に正座し、ゆっくりと手を合わせました。目を閉じ、静かにそこに佇んでいます。空気はピンと張り詰めて、緊張感を持っていました。微動だにせず、ずっと手を合わせていました。私はそれを横で見ているだけでした。

「先生には色々と教えていただきました」

「そうだったんですか……」

 小さなテーブルに、お茶を出しました。私と父しか住んでいない家でしたから、大きなテーブルは必要なかったんです。

 突然、タンタンと屋根を叩く音がし始めました。私と彼は同時に窓を見ました。ガラスに雨粒がぶつかって円を描いていました。

「あ!」

 洗濯物を干したままです!

 私は慌てて外に出ました。今日は天気がすぐれなかったけど、春物を洗って干したんです。これから直ぐに必要になりますから。

「手伝います」

 彼はそういうと、大きな手でわしわしとタオルや服を手に取っていきます。私は真っ先に下着を回収しました。流石に見ず知らずの男性に、これを見せるわけにはいきません。

 私が無事に回収した時には、彼は既に残り全部を集め終わって、縁側に持って行っていました。余りの手際の良さに驚いてしまいました。

「はやくこっちへ」

 彼は屋根の下へ来るように呼び掛けてくれました。どうやら私は彼の要領のよさにぼけっとしていたみたいです。

 パタパタとサンダルをつかっけて縁側に滑り込みました。途端に叩きつける音が勢いを増しました。

「なんとか本降りの前に中に取り込めましたね」

「ふぅ、あぶなかった。雲が低いとは思っていたのですが、こんなに早く降るとは……まだ乾ききっていませんねぇ……」

 私が手に持った下着の乾き具合を確認していると、脇からコホンと咳払いが聞こえてきました。いけません、やってしまいました。まったく恥ずかしい事です。もう三十に手が届こうというのに、これだから貰い手がないのです。

 彼の方を見れば、頬をちょっと赤くして、そっぽを向いていました。私が見ていることに気が付いたようで「と、ともかく、中に入れましょう」と言って、彼はさっさと中に入ってしまいました。私も慌てて後を追いかけます。

 回収した洗濯物は乾いてはいないのですが、籠の中に入れておきます。彼が帰ったら家の中に干すことにしましょう。

「ん?」

 彼が洗濯物を抱えたまま天井を見上げて、怪訝な顔をしています。

 ポタン、と一粒水滴が落ちてきました。一粒、また一粒。ポタンポタンと続きます。

「あ!」

 そうです、雨漏りです。どうやら屋根に穴が開いているのか、そこから雨が入ってきて、どこを経由しているのか分かりませんが、丁度仏壇の前に落ちてくるんです。勿論、そこだけではありません。

「雨漏り、ですか?」

「あの、恥ずかしながら……」

 我が家は築四十年は経っていますから、そりゃ雨漏りの一つや二つ、あるわけで。

「桶か何かはありますか?」

「え、あ、はい」

 彼に促され、私は風呂場に桶を取りに行きました。急いで居間に戻ると、彼が湯呑をもって雨漏りの水滴を受けていました。しかも両手に持って、精一杯腕を伸ばして二か所の水を受けています。

 私は不謹慎にも彼の様子に「ふふっ」と笑ってしまいました。彼は私に気が付いて、「いや、目についたのが湯呑でして」と苦笑いをしていた。

 必要な場所に、桶と湯呑と茶碗を置いて、二人でふぅと息をつきました。同時だったので、思わず見合ってしまいました。

「はは、丁度合ってしまいましたね」

 彼は頬を緩ませました。初めて見た時の怖そうな顔は何処にもなく、それは、いたずらっ子の笑顔でした。

「結構、雨漏りしてますね」

「えぇ、古い家ですから」

 正直、雨漏りは仕方ないと思っています。父が亡くなって、私の稼ぎだけでは大工さんに頼んで修理するだけのお金が用意できないのですから。

 彼は天井を見上げ、顎に手を当てて何かを考えているようです。私はくにっと首を捻りました。何を考えていらっしゃるんでしょうか。

「直さないと。ダメだなぁ」

 彼はぼそりと零しました。不意に彼は私に振り返ります。随分と真面目な顔です。

「今日の所はこれで失礼いたします。また、近いうちにお邪魔させてもらってもよろしいでしょうか?」

 彼は内地にいる間は、父の仏壇に挨拶に来たいそうです。まぁ、悪い人ではなさそうだし、断る理由もないので、承諾しました。

「有難う御座います」

 彼は深々と頭を下げ、そのまま玄関に向かいました。

「あ、雨が降ってますけど、傘はお持ちですか?」

「これしきの雨は問題ないですよ」

 彼はにこやかにそういうと、指を伸ばした右手を額に当て、出て行ってしまいました。彼は突然訪れて、急に帰っていきました。


 次に彼が来たのは一週間後の、良く晴れた休日でした。彼は何枚もの板と大工道具を抱え、大工の様な格好をして、門の前に立っていました。すらっと背が高いのに、丈の合っていないズボンを穿いて、どうにも頓珍漢な様子でした。

「雨漏りを、直そうと思いまして」

 彼はにこやかに笑いながら、こう切り出しました。私は呆気に取られて返事も出来ません。

「……先生がご存命ならば、伝手に頼む手もあったのでしょうが……」

 彼は沈痛な面持ちで、そんな事をおっしゃりました。確かに私は父の知り合いなど良く知りません。父は家に誰かを連れてくるという事も、殆どありませんでしたし。私の知り合いに大工などはいませんし、かといって兄に頼むのも気が引けます。だからと言って、彼にやってもらうのはお門違いだと思うのです。

「ですが」

「御恩をお返ししたかったのですが、先生は既に鬼籍に入られてしまいました」

 彼は、仏壇に置いてある父の遺影に視線を移しました。小さな額縁の中で、気さくに微笑む父の顔が、二人に沈黙を落とします。

「せめて、残された貴女が、安心して暮らせるようなお手伝いでも出来ればと」

 彼は遺影を見つめたまま、そう言いました。

「すみません、勝手ばかり言ってしまって」

 彼が謝ったのは、私なのか、父に対してなのか。私には、よく分かりませんでした。彼はそんな私の気など知ってか知らずか、にこやかに微笑んで、颯爽と二階へと階段をのぼってしまいます。

 私の寝室は二階です。見られて不味い程散らかっている訳ではありませんが、男性には見られたくはないのが女というもの。せめて分かっていれば片づけをするのに。などと頭の中で文句を言いつつ、彼の後を追いかけます。

「あの、ちょっと!」

 彼は階段をのぼり切ったところで立っています。よかった、まだ扉は開けていないようです。

「す、すこしだけ、待ってください」

 私は扉をちょっとだけ開けて、隙間にスルリと潜り込みました。一人暮らしの女の部屋の無防備な様子を見られては、あわせる顔がなくなってしまいます。見られてはならない物だけ押し入れに隠します。部屋を見渡して、粗相がないかを確認します。布団は畳んである、衣類もしまった、鏡台も綺麗。よし、大丈夫!

「も、もう大丈夫です」

「失礼します」

 彼が扉を開け中を見た途端、動かなくなってしまいました。チラと私に視線をくれると「もしや、貴女の部屋でしたか」と困惑げな顔をしました。私の行動で察して欲しかったのですが、彼は苦手なようです。

「散らかっていて恥ずかしいのですが」

「いえ、突然お邪魔したのはこちらです。配慮が足りず、申し訳ありません」

 大工さんな彼が丁寧な口調で謝ってくる。ちょっと滑稽です。

「まずは、屋根裏の状況の確認からです」

 そういうと彼は押し入れの扉に手をかけました。ちょっと、それはダメです!

「あぁ……」

 私の制止も間に合わず、彼は押し入れを開けてしまいました。隠したものがドサッと雪崩の様に滑り落ちてきました。ちょっと、男性には見て欲しくない物まで……

 彼は視線を脇に逃がしました。

「あ、あの」

「今片付けます!」

 ワタワタと回収して布団の中に隠してしまいます。彼もチラッと見ていますが、気が付かなかったふりをしておきましょう。行遅れの肌着なんて見たくもないでしょうし。そういえば彼の歳を聞いていませんでした。あっと、そんな事は後回しです。

「もももう、大丈夫です」

私の合図で彼は押し入れに入って天井を開けました。そんな所が開くのですね。大工姿の彼はそのまま天井に潜ってしまいました。彼が歩いているのか、頭の上からミシミシと音が聞こえてきます。大丈夫でしょうか。

「あぁ、ここだな。とするとこのあたりか。あぁ、やっぱり」

彼の声が聞こえてくるので大丈夫なのでしょうが、怪我をしないかと心配です。

 またミシミシと音がすると、彼が押し入れから出てきました。体中埃だらけでしたが、満足そうに「雨漏りの箇所がわかりました」と笑いました。彼に怪我が無くてホッとしました。

「場所がわかったので、今度は屋根の上から直します」

 彼はベランダに出て、大工道具を片手にひらりと降りてしまいました。瓦をカチャカチャいわせて、時折「おっと」なんて危ない声を上げています。怖くて見ていられません。

 彼は大工道具を取り出すと、瓦を剥がし、板を当てて金槌をトンカンと奏でています。慣れているのかいないのか、私には分りませんが、怪我だけはしないで欲しいです。

「いて」

 あぁ、もう、心配しているそばからこれです。

「大丈夫ですか?」

「間違って指を叩きそうになってしまいました。あぁ、びっくりした」

 びっくりしたのはこっちです!

 なんで私がハラハラしなければならないのでしょうか。もう。

「ここはよしっと。次はそっちだな」

 剥がした瓦を元に戻し、彼は違う場所へと移動します。しかも今度は屋根の縁です。

「そっちは危険です!」

「気を付けますから、大丈夫です!」

 私が大丈夫じゃないんです!

 などど心の中で怒ってみても通じるわけもありません。ため息をつくばかりです。

 言っている傍から足がずるっと滑っています。

「おっと、危ない」

 危ないじゃありません!

 私は手に汗握る思いです。なんであんな危なっかしい所に行くのでしょう。男の人の考える事は、わかりません。

「あぁ、ここだ」

 彼は呑気な口調で作業を始めました。もう、怖くて見ていられません!

 結局、彼は他に二か所ほど直してくれました。私の心臓が爆発する前に終わってよかったです。本当に。

 折角雨漏りを直して頂いたので、その日は昼食を食べて行ってもらいました。


 その後、彼は毎週の休みの日になると、訪ねてくるようになりました。来る時は、大体あの白い服を着ています。家の傷んでいる所を治してくれたり、ネズミが出て困っていると、どこからか三毛猫ちゃんを連れてきてくれました。その猫は、うちに懐いてしまいました。おかげでネズミも見なくなりましたが。

 私が、父が気に入っていた庭の木を枯らしてしまった時には、土を掘り返して、木を抜き、処分もしてくれました。その時は植木屋さんの格好をして、頭にはねじり鉢巻きもしていました。とても可笑しくって、ケタケタ笑ってしまったのですが、後から思えば失礼だったなと、反省しています。

 兄も時々家に戻ってきます。食事後に彼の話をすると「白い服ねぇ」と顎に手を当てて考えています。

「海軍だな」

「海軍、ですか?」

「白い服は海軍と決まってる」

 兄は陸軍だそうです。私はその辺の知識が無いので良く分らないのですが。

「海のやつらは、スカしてやがって、いけすかねえぁな」

 兄はそんな事を零しました。彼は別に悪い人ではないのですよ?

 どうも兄は、彼に良い印象を持っていないようです。会ったことも無いのに、と思ってしまいます。

「兄さん、それは偏見では?」

「なんだ、お前は、そいつの肩を持つのか?」

「だって、彼は家の雨漏りを直てくれましたよ? その他にも庭の手入れとかもです。親切にしてくれていますよ」

 そういうと兄は黙ってしまいました。仏壇をちらっと見て、難しい顔をしました。何を考えているのでしょう?

「歳は?」

「はい?」

「そいつの歳は幾つと聞いたんだ」

「えっと、二十六とか」

「年下か」

「えぇ」

 確かに彼は歳は下ですけど、私などよりも余程しっかりとした人です。ちょっと少年っぽいところもありますけども。

「大分遅いが、春が来たのか」

 兄は呟きました。もうとっくに春ですけど。兄は何を言っているのでしょう?

「今の内に言っておくが、北の国との関係がきな臭くなってきたから、備蓄とかの準備はしておけよ」

「はい?」

「海を挟んだ北の国が、戦争を吹っかけてくる予兆がある」

「戦争、ですか?」

「外交部が交渉をしているが、狂犬国家は話が通じないらしい。外交部にいる同期がぼやいてるのを聞いた」

 兄がちょっと暗い顔をしています。

 戦争、ですか。私には、良く分りません。

「ソイツが海軍だとすると、真っ先に呼ばれるな」

「そうなの、ですか?」

「相手さんが攻めてくるには、まず海を渡らないといけないからな。まぁ、俺達も行く羽目にはなるけどな」

 兄が腕を組んで唸っています。確かにここは島国だから海を渡らないと、どうにもならないのですが。

「戦争なんて、嫌です」

「俺だってやりたかねえけど、何もしなきゃ殺されるだけだ。それにお前も守らないといけないだろうが。だから戦うんだよ」

 兄は、私がいるから戦うのだそうです。兄も結婚していれば、私ではなくお嫁さんのためになるのでしょうけども。

 そうすると、彼は何のために戦うのでしょうか?

 彼のご両親は既に他界されていると聞きました。ご兄弟もいないとか。命令されるから、でしょうか?

 今度会ったら聞いて……もし戦争が始まってしまったら、会う事も無いのでしょうか。なんだか胸がチクチクします。

「食料とか、必需品は今の内に買い込んでおけ。政府から発表があると皆一斉に買うから品薄になる」

 心配してくれる兄の言葉も、今の私の頭には、すんなりとは入って来ませんでした。


 兄の言葉が頭から離れないでいる、そんなある日。休日でもないのに、彼が尋ねてきました。今日はあの白い服です。

 初めて会った時の様な、少し怖い顔をしています。

「あの、」

「突然すみません」

 私の言葉を遮って、彼は強い口調で話してきました。ともかくあがってもらいます。

 彼はまず仏壇に手を合わせます。うちに来る時は、必ず最初に仏壇へ行きます。私はその間にお茶の用意をするのです。

 お茶と茶請けを持って行けば、彼はテーブルについて待っていました。

「いつもお茶ですみません。紅茶は飲まないもので」

「いえ、出していただくお茶は美味しいです」

 彼はお茶を一口飲んで、小さく息を吐きました。そして向かいに座る私に視線を合わせてきました。

「ここは落ち着きますね」

「はい?」

 何が落ち着くのでしょう? 古い家だからでしょうか?

「来週からちょっと忙しくなるので、挨拶をしておこうかと」

 彼の言葉に、私の頭に浮かんだのは、兄の言っていた戦争のことでした。兄の言う事が正しければ、彼は戦争にいくことになります。

 来週から忙しくなる、という事は、そういう事なのでしょう。

「そ、そうですか」

 私には、かける言葉が思いつきません。部屋には沈黙が訪れてしまいました。

「では、そろそろ戻るとします」

 彼を見送りに、玄関へ行きました。庭の桜の木は、青々とした葉を、風にゆだねています。とても戦争など起こるなんて、私には思えません。

 彼は指を伸ばした右手を額に当て、微笑みました。

「失礼します」

「あの、御無事で……」

 彼は私の言葉に一瞬驚いた顔をしましたが、何事もなかったかのように手を下げ、歩いて行ってしまいました。

 北の国が我が国に宣戦布告したと、ラヂオで聞いたのは、翌日の事でした。


 春も終わり、長雨の時期も過ぎました。彼が最後に来てから、すでに数か月。ラヂオからは毎日戦況が流れてきます。

 どこそこの戦いで勝った。戦死者は何人だ。相手の船を沈めた。こんな言葉が蔓延しています。

 兄のすゝめもあったので、長持ちしそうな食料や日用品はかなり買い込んでありましたが、言うほど不足しているわけではないようです。普通に商店で買う事も出来ます。街は騒がしくもなく、至って普通です。

 ただ、行っているであろう彼の消息は分かりません。彼には家族もいませんから、万が一の時の連絡も、どこに行くのかも分りません。

 不安で胸が痛い日が続きます。

「無事でしょうか……」

 雨漏りがしなくなった家で、雨が降るたびに、彼の事を思い出します。仏壇にいる父に、彼の無事を祈る毎日です。


「明日から、俺も出る」

 兄が帰って来て、そう言いました。

「まぁ、勝ち戦だから心配するな」

 兄は仏壇に向かって、そう言いました。戦況はラヂオが言っているように、優位に進んでいる様です。私にはそれが良いことなのか、判断が付きません。ともかく、彼が無事に帰って来れることを祈るだけです。

「海軍が頑張ってるから、本土は安全だ。これからは、今後刃向かってこない様に叩きのめすんだ」

 兄はその為に行くのだとか。

「行かなければいけないのですか?」

「言葉が通じる相手なら、話し合いもできるが、言葉が意味をなさない国なら、軍事力で話すのが外交という物だそうだ」

 外交部にいる兄の同期の方の言葉だそうです。悲しい事だがこれが現実なのだと、兄は言います。

「ま、お前は心配せずに、家を守っていてくれ」

 そう言って兄は微笑みました。兄も、彼と一緒です。


 うだるような太陽が威張る季節も終え、金色の稲穂が首を垂れ始めました。ラヂオからは相変わらず戦況が伝えられますが、以前ほど頻繁ではなくなりました。もう終わりが近いのでしょうか。でも、兄も、彼も、まだ帰って来ません。私は一人です。彼と兄の無事を、仏壇の父に祈る毎日です。


 木枯らしが吹き、月の季節も過ぎ去りました。ラヂオからは、相手が降伏した、との声がします。戦争は、終わったようです。私は仏壇に祈ります。彼と兄の無事を。

 家の周りは静かです。騒ぐ者もいません。みな、毎日を淡々と過ごしています、本当に戦争などあったのでしょうか?


 灰色の空から粉雪が舞う中、兄が帰ってきました。隣には見知らぬ女性がいます。

「結婚する事になった」

 兄がそう言うと、隣の女性は俯き加減で頭を下げてきました。

「えっと、おめでとう、御座いま、す?」

「もうちょっと祝えよ」

「帰るなり、お嫁さんを連れてくるからです」

「あ、あの、始めまして!」

 兄のお嫁さんになる女性が、ぺこりとお辞儀をしました。


「とまあ、そんなわけで俺は家を出るから」

 兄は笑っています。

「出征前に結婚の約束をしたわりには、随分と手際が良くないですか?」

「まぁ、そのつもりで住むところを探してたからな」

 いつの間にやら兄にも恋人がいたようです。そう言えばこの女性は、父の葬儀でも見かけたかもしれません。その時は忙しくて、てんてこ舞いでしたから……

「ま、だからお前も気にせずにうまくやれ」

「……この家は守りますけど、うまくって?」

 兄は大きなため息をつきました。

 まったく、なんですか、失礼な。

 隣の女性も苦笑いをしています。

 私が何をしたというのでしょうか。

「俺達陸軍は終わりだが海軍はまだやることが山積みだろうがな」

「戦争は終わったのでは?」

「終わったさ。終わったら今度は後始末が始まるんだよ」

 兄が言うには、相手の国から不法に侵入しようとする輩がいるそうです。その人達を捕まえて送り返すのだとか。大体、戦争に負けただけなのに祖国から逃げ出す人間に、まともな奴はいないそうです。確かに祖国を見捨てるような方はどうかとは思いますが。

「船も何隻か沈められている。ま、戦死者名簿に彼の名前はなかったが」

 兄の言葉に、目の前が真っ暗になりました。

 戦死。

 私の頭にその言葉が木霊します

「早とちりするな。名簿にはないんだから」

 兄が眉間に皺を寄せて窘めてきます。でも私の心臓は、働き過ぎで倒れそうです。

「何か情報を掴んだら教える」

 兄と女性は、帰っていきました。私は仏壇の父に手を合わせました。どうか無事でありますように。

 彼はまだ、帰ってきません。


 行く年を惜しむ鐘の音がなり、新しい年が挨拶をしてきましたが、彼の行方は不明なままです。近くの神社に、彼の無事を願いに行きます。

 一人で迎える新年は、寂しいものです。父に新年のお酒を供え、祈ります。何処からか聞こえてくる、笑い声や新年を祝う声も、私には煩わしく聞こえてしまいます。

 彼が見つけてきた猫ちゃんは、座布団で丸くなっています。寒くてネズミも出てきません。出番待ちのいい身分です。

「あなたは、お餅は食べないわよね」

 話し相手は三毛猫ちゃんです。煮干ししか食べません。早く帰ってきてくれないと、私は霞になってしまうかもしれません。


 梅の花が咲き始める頃になりましたが、まだ彼は帰ってきません。毎日が単調に繰り返されていきます。そんなある寒い日、私が洗濯物を干そうと庭に出た時、見覚えのある白い服の男性が立っているのが目に入りました。左の袖を風に揺らして立つその人は、間違いなく、彼でした。

 洗濯物を詰め込んだ籠をおき、サンダルのまま走りました。息をきらせて辿り着いた私に、彼は微笑みながら言います。

「ご無事そうで、良かった」

 それはこっちが言いたい事です。でも言いたいことがあったはずですが、その言葉は閉じこもってしまって口からは出てきません。辛うじて出た言葉は

「おかえり、なさい」

 でした。

 彼は右手を額にあて

「只今戻りました」

 と返してきました。

 戻ってきてくれて嬉しい気持ちの陰で、風に吹かれてそよぐ、彼の左袖が気になってしまいます。肘から先が見当たりません。私の視線に気が付いたのでしょうか、彼は気まずそうな顔をし、視線をずらしました。

「中でお茶でも飲みませんか?」

 ここでは人目もあるので彼を中にいれてしまいます。


「先生、終わりました」

 彼は仏壇の父に報告をしています。片手だけの合掌で。

「先生の言う通りでした。戦争は何も生みませんね」

 彼はじっと、父を見つめています。

「守る事はできましたが、失うものばかりで、得るものはありませんでしたよ」

 私も彼の報告を、静かに聞いています。彼が何を語るのか、私も聞きたいのです。

「この腕になってしまいましたが、まだ軍にいようと思います。得るものは無くても、失うものばかりでも、守らなきゃいけないって事を、教えていかないといけませんから」

「軍に、残るのですか?」

「えぇ。この体ですから内勤になるでしょう。ですので、先生の様に教官を目指そうかと思います」

 彼は満足そうな笑みを浮かべていました。


「あぁ、やはり落ち着きますね」

 小さなテーブルで、彼と二人でお茶を飲んでいます。お茶を口に含んで目を細めています。

「しばらく軍の病院に入院していたんです」

 任務を終えて港に戻る途中、機雷に接触して船が大破したそうです。その時の爆発で左腕を失ってしまったとか。勿論怪我はそこだけではないのでしょうけども、彼は何も語りませんでした。

「治療に、ふた月ほどかかってしまいました。ようやく退院の許可がおりたので、挨拶にと」

「……腕で済んで、良かったです……」

 もしかしたら、と思うと、声が詰まります。

「実は、船が機雷接触する直前、先生の声が聞こえたような気がして。そっちへ見に行ったんです。その直後に、私がいた場所で爆発が起こりました。あれは、先生が助けてくれたんでしょう」

 私がやかましくも祈るから、父が助けてくれたのかもしれません。仏壇の父を見ましたが、写真は、何も答えてくれません。


「雨漏りはしませんか? 戸はちゃんと開きますか? ネズミはまだでますか?」

 彼は私の心配ばかりです。ご自分の事を顧みて欲しいです。

「えぇ、大丈夫です。えっと、その」 

 その右手だけで、不便ではないのですか?

 何度か聞こうとしましたが、うまく口が動きません。聞かないまでも、不便なのは分かります。片腕では、服を着るのも大変なはずです。

「そろそろお暇致します」

 彼が腰を浮かせてしまいました。私はまだ何も聞いていません。

「あ、あの、最近この辺りも物騒になって、夜一人では心細いんです」

 私は何を言っているのでしょう。別に物騒になったわけではありません。口が適当な事を喋っているんです。

「そんな物騒な事が起こっているんですか?」

 彼は眉を寄せ、怪訝な顔をしています。

「そ、そうです、ひ、一人だと不安なので、一緒に、住みませんか? そ、その片腕では、普段の生活も大変でしょう。代わりといってはなんですが、炊事とか洗濯とか、私がやります」

 彼は驚いたのか、口をぽかーんとあけてしまっています。

 だって、どうしているか分からない状況よりは、傍にいてくれた方が安心です。

「あ、あの?」

「ほ、本気ですよ! 今まで随分とお世話になってしまいましたしそのお礼もしたいんです!」

 彼は口を開けたまま固まっています。私が早口で声を張り上げているからでしょうか。

「しかしですね、ひとつ屋根の下に一緒にいるわけには」

「そこは、大丈夫です! 今までだって何も起こっていませんから」

 そうです、何も起こっていないのですから。彼にとっては、ここは世話になった先生の家なのです。私はそこに住んでいる、娘でしかないのです。考えていてちょっと悲しいのですが、事実ですから。

 ですが、彼はちょっとむっとした顔をしています。怒らせてしまったのでしょうか……

「何も起こっていないのではなく、起こしていなかったのですよ」

 彼は私の目の前に立ちました。思わず見上げてしまいます。

「片腕でも、男は力があるんです」

 彼の指に顎をつままれてしまいました。惚けている私の唇が、塞がれてしまいました。彼の顔がゆっくり離れていきます。

「まったく、貴女は不用心すぎる」

 彼の右手が腰に回され、強い力で抱きしめられてしまいました。私は呆然と抱かれているだけです。

「貴女を放っておくと、悪い男に引っかかってしまいそうです」

 彼は強く見つめてきます。私はその視線から目を逸らすことができませんでした。

 その日、彼は泊っていきました。


 桜の花が散るころ、私と彼は籍を入れました。責任がどうとか、男としてなんとか、などと彼は言ってます。

 彼は教官になるための勉強をしています。戦争での怪我で軍を辞めた人も多かったそうですから、直ぐに教官になれるとは思います。朝、見送る彼の背中は、どことなく父を思い出させます。

 私は縁側に座り、お茶を飲んでいます。風に舞う桜の花びらが、庭を桃色に染めていきます。

 綺麗です。

 綺麗ですが、掃除をしなければなりません。やりたくはないのですが、仕方ありません。

 世間は、すっかり元通りです。ただのお祭りだったのでしょうか。

 空を眺めれば、雲が所々にかかっています。戦争が起こったことなど、忘れてしまいそうな、のんびりした日々です。私はお茶を飲んで、空で見ているであろう父に、礼を言いました。

「お父さん、有難う」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白い服の人【修正版】 凍った鍋敷き @Dead_cat_bounce

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ