本編
1
軽やかな歩調だった。
マルドゥック
そのため、目的の場所までの距離とそこへ到達するために必要な歩数も当然の如く知覚していた。
――52、51、50。
頭の中で無意識に歩数がカウントされる。カウントが0になると、ちょうど目的地の扉の前だった。街外れにある廃棄された
少女は与えられた能力でそれを操作することなく、ちゃんと
冷たい金属の取っ手に手をかけ重い扉を開いて、少女=ルーン・バロットはオフィスに入って行った。
2
「やあ、いらっしゃいバロット」
オフィスに入ると髪をまだらに染め、
《久しぶり、ドクター》
バロットの首に巻いてあるチョーカーのクリスタルが電子音を発する。
「すまないがまだ調律の準備ができてないんだ。君の人工皮膚は全身の98%にまで及んでいるうえに自律式に成長していく代謝繊維ときたもんだ。僕が執刀してきた中でも最高難度の調律だよ、まったく」
イースターはやれやれとジェスチャーをしたが、身振りとは裏腹にその顔は早く手術をしたくてしかたないというようだ。
「
突然、デスクにあるパソコンのスピーカーから渋い男の声が発せられた。イースターは驚いた様子もなく、いつものことのように返答する。
「無論、そんなことはわかっているさ。むしろ彼女の成長ぶりを確認しなければならないぐらいだ。そんな機会を僕が棄却すると思うかい?」
バロットは電子の枝を伸ばしてパソコンのスピーカーを操った者がどこにいるのか探った。イースターズ・オフィスへ来たときの、お決まりの遊び。ささやかな戯れ。バロットの〝電子攪拌〟能力があればそんなことはすぐにわかってしまうが、例え能力がなかったとしてもあるいは見つけられるのではないか。それほど、一人と一匹の絆は固いものだった。
バロットは応接用の丸テーブルに近づくと電子型の置時計を両掌で支えた。大事に。愛しむように。そのまま両手を顔まで持っていき、置時計にキスをする。
《久しぶり、ウフコック》
声を掛けた瞬間、置時計が
ウフコックはつぶらな赤い眼でバロットを見上げ、サスペンダーで吊るしたパンツからはみ出た尻尾を左右に揺らした。
「久しぶりだな、バロット。学校の方はどうだ」
ウフコックはバロットがこの秋から通っている高校=私立サン・アンダーソン学園について訊いた。
《同じことの繰り返し。話しかけると皆、私の声にびっくりする――
思い出したくないことを思い出したというように眉間に皺をよせて、バロットは首元のチョーカーに触れる/メイド・バイ・ウフコックのチョーカー/肌に触れている安心感。
半年前――バロットとウフコックの出逢ったオクトーバー社のマネーロンダリング事件。その洗浄役であったシェル=セプノティスに焼き殺され、全身に重度の火傷を負った彼女は、緊急法令「マルドゥック・スクランブル‐O9」のもと、生命保全プログラムによる禁じられた科学技術のおかげで一命を取り留めたが、その後遺症として声を失った。
「自分とは違う者を警戒するのはどの種族においても共通の本能だ。けれど君が学友と変わらないことを証明すれば、第一印象とのギャップにより友好的関係を築けるはずだ。君と言葉を交わして悪印象を持つ人間はいない、俺が保証しよう」
《理屈っぽい。最後の言葉だけでいいのに》
「ウフコックに女心への理解を求めるのは難しいぞ。嗅覚で感情を読み取れるからといって、適切な応対ができるかは別問題だ」
イースターが笑いながら言った。ウフコックはバロットを見つめ、
「確かに、俺は人間のコミュニケーションについてまだまだ学ぶべきことが多い。すまなかった、俺はただ、君を元気づけたかっただけなんだ」
《ううん、わかってる。貴方はやさしい》
バロットはもう一度ウフコックにそっとキスをした。ふたりは最近の出来事についてお互いに語り合った。空白の時間を埋めるように。
しばらくしてイースターが、「よし、お待たせ。準備できたよ」と呼びに来た。
バロットはイースターの後について、元は検屍室だった治療用プラントへ向かう。焼き殺された自分が、新しく生まれ変わった場所へ――。
自動ドアが開くとそこには手術台と、その脇に卵形のポッドが置かれていた。バロットのための
バロットはポッドの傍に寄って、つるりとした丸いフォルムを撫でた。
「今回の調律の目的はわかっているね?」イースターがバロットに訊いた。「君の体表面を覆っている人工皮膚は代謝性の金属繊維だ。だから君の精神的、肉体的な成長に合わせて繊維も成長していく」
バロットが頷く。覚えている。一番最初にそれを感じたのはエッグノッグ・ブルーの用心棒=アシュレイ・ハーヴェストとのブラックジャック戦でのことだった/己の生存を賭けたゲーム/シェルのジョーカー=記憶の埋め込まれた100万ドルチップ/それを手に入れるためのギャンブル。
そこでバロットは自身の能力を飛躍的に向上させた。その時、陽に焼けた肌が剥けていくようなむず痒い感覚と一緒に、全身の肌が銀の光る粉を吹いていることに気付いた。
「俺達のようなエンハンサーはエンハンスメントされた異物に対する
イースターの説明にウフコックが補足した。
「そのとおり。そこで僕の出番ってわけさ。君が最高の性能を発揮できるように完璧な調律を行うのが、君の修理担当としての僕の役目だからね」
イースターはお道化たように片目を瞑ってウインクをしてみせた。
バロットはイースターを見て、ついで掌のウフコックを見た。
ウフコックはバロットの感情を嗅ぎ取った。――不安と安堵の入り混じった匂いを。そこで、バロットに向かって
そんなウフコックの気遣いと、小さな親指の可愛らしさがなんだか可笑しくて、バロットはヒュッ、ヒュッと声にならない笑いを漏らした。
《ありがとう》
バロットはそういってからウフコックを傍にあったラックの上にそっと降ろし、更衣室でイースターから手渡された患者用の手術着に着替えた。
手術台に寝転がるとイースターが近寄って、調律に関する注意事項を説明し始めた。
「申し訳ないが、調律が完全に終わって人工皮膚の定着が安定するまで、そうだなあ、ざっと見て120時間は君と人工皮膚の神経接続を切らせてもらうよ。その間、君は体感覚の加速装置、立体知覚、電子的な操作といった〝
苦笑するイースター/言い訳への心理的運動/罪悪感の緩和。
しかしバロットはそれがイースターの優しさから来るものであることも知っていた。バロットを安心させるための演技ともいえる。そのためバロットは、その言い訳に不快感を覚えることはなかった。
《大丈夫。私の修理担当は貴方だから、気にしないで私を調律して》
そういってバロットは微笑んだ。
「まいったな、これじゃどっちが安心させられてるんだかわかったもんじゃない」
「その意気だバロット。バイタルが良好なうちに睡眠状態に入った方が良いだろう」
ウフコックに促され、バロットは麻酔の吸入器具を口に当てる。イースターが器具のスイッチを入れると、気体性の麻酔が噴霧された。
しばらくの間、バロットはウフコックと電子的な会話を続けていたが、次第に意識が朦朧としていき、目の前が暗くなって静かな寝息を立て始めた。
3
夢を見ていた。バロットは水の中にいた。静かに目を開く/視界にあるのは果てのない海/生命の源。流れに身を委ね、水中をゆらゆらと揺蕩う。やさしい温もりが全身を包んでくれている感覚。羊水のような。妙に懐かしく、心地好い気がする。
ふと、自分が何も身に着けておらず、生まれたままの姿でいることに気付いた。人工皮膚ではない、焦げ付く前の自分の肌だった。腕を撫でてみても、何の変哲もない。滑らかで艶めいているだけだ。
――
無意識のうちに声に出さず韻を踏んでいた。いつの頃からだろう。それはバロットの癖になっていた。韻を踏むことで精神が集中し、周りのペースに絆されることなく思考を整理することができるような気がした。
――
韻を踏んでいくうちに霧が晴れていくように思考がクリアになっていき、違和感の正体に近づいていった。
前の肌……前の私……。――嫌。前の生活……前の悲劇……。――嫌ッ!
ただの皮膚。ただの少女。あの頃に戻りたくない。もう二度と道具にはならない。
そう叫んだ途端、急に海の底が暗く深いものになり、バロットをその奈落へと引きずり込もうとしているように思えた。バロットは奈落から逃れようと水面へ向かって泳いだ。海底と反対の光が指す方へ。あと少しで光に――水面に手が届こうとしたとき、足首を何かに掴まれた。驚いて振り向いたバロットは相手の姿を見てさらに驚愕した。
(貴方は……誰?)
思わず、心の中で尋ねた。足首を捉えていたのは、バロットと同じ姿をしたもう一人の自分だった。彼女はバロットをじっと見つめたかと思うと、不敵に口許を歪めて微笑した。
――行かせない
もう一人のバロットが呟いた。すると、バロットの躰がぐんと下に引っ張られ、水面が遠のいていった。バロットは手をのばしてもがいたが、視界が狭くなっていき、そのうち真っ暗になった。
4
バロットは跳ね起きた。はあはあと息を荒げ、肩を上下させて呼吸する。あたりを見まわすと見慣れた景色が目に映り、イースターズ・オフィスの治療用プラントにいるのだとわかった。今は手術台ではなく、ベッドに寝かされていた。
(――夢……なの……?)
呼吸が落ち着いてくると、バロットはさっき見た夢について考え始めた。夢の内容なんてたいてい起きたときには忘れてしまうものだが、さっきの夢についてはやけにクリアに憶えていた。あれは本当に夢だったのか、そんな気さえする。どのくらい日が経ったのか知ろうと
(ほんとに能力が使えなくなってる……)自分の体を眺め見る。白く艶のある肌。外見上、人工皮膚に変化は見られない。(なんだか……私の躰じゃないみたい)
顔をしかめていると、自動ドアが開いてイースターが入ってきた。その肩にはウフコックも乗っている。「調子はどうだい?」と訊くイースターにバロットが口をパクパクと開閉してみせると、
「ああ、ごめんよ。ほら、これに書くといい」
紙とペンを手渡した。受け取ったバロットは夢での出来事を紙に書いて説明した。
「ふむ、興味深い内容だね。深層心理に
「よせ、ドクター。彼女は正常だ」ウフコックが嗜める。「バロットは一度臨死体験をしている。それが関係している可能性は?」
ウフコックの質問にイースターは頷いて、
「僕はドクターだけど精神科医ではないから、そっちのことに関してはトンと専門外だけど、有力な説ではあるだろう」といってバロットの頭をやさしく撫でた。「怖がることはない。調律によるストレスのせいで悪い夢を見ただけさ」
バロットは両手を差し出し、イースターの肩から飛び移るウフコックを迎えた。小さなネズミは温かく、ふわふわとしていて、逆立っていた気持ちが静まっていく。その温もりに甘えるように紙にペンを走らせ、
――ここに泊まっていっちゃ、ダメ?
「俺達は構わないが、これ以上ベル・ウィングを一人きりにさせるのも良くないだろう」
――わかってる、ちょっとごねてみただけ。
ウフコックにいわれ、バロットはすんなりと引き下がる。
グランマことベル・ウィング/元エグノッグ・ブルーのスピナー/バロットの保護者。二人はイーストリバーの小さいが瀟洒なアパートメントに同居している。全てが右回りに進むように。
「君が眠ってから32時間だ。夜も遅いし、僕がアパートまで車で送っていくよ」
そういって白衣のポケットから携帯電話を取り出し、声が出ないバロットの代わりにベルに電話をかける。「やあ、ごきげんようベル。いまお姫様が目を覚ましたとこだ。これから君ん家に送り届けるから。うん? 大丈夫だって、安全運転には自信があるんだ。うん。そうだね。それじゃ」
バロットが服を着替え終わるのを待っている間に、イースターが車を玄関まで乗り付けてくれたので、助手席に乗り込んだ。
中心街を走る中、歩道に等間隔に設置された街燈のオレンジ色の光が残像を残しながら過ぎ去っていくのを淡々と眺めていた。普段であれば体感覚の加速によって、集中すれば全てが止まっているかのようにはっきりと認識できる。その感覚の違いにバロットはむず痒さを覚えた。
真夜中になりかけた頃、一行はようやくアパートメントに到着した。ベルは車の音が聞こえたのか、玄関先で待ち構えていた。
「おかえり、バロット」
ベル・ウィングが出迎えると、バロットはイースターに貰った紙に、――ただいまグランマ。と返事をした。
「ドクターとミスターOもこの子をありがとう」
「どういたしましてベル。僕らは当たり前のことをしているだけさ」
「次の検診はいつだい?」ベル・ウィングが訊いた。
「彼女には学業もあるだろうし一応週末を予定しているけれど、あと三日もすれば人工皮膚が安定するからそれ以降なら好きな時に来てくれて構わないよ。もちろん、何か困ったことがあれば何時でもいい。僕らは君に僕らの有用性を如何なく発揮してみせよう」
イースターが茶化して応える。バロットを気遣っていることを気取らせまいとするイースターの優しさ。
――ありがとう、ドクター。
バロットは続けて、――週末に行くね。と書いた。
「何かあったらこいつを押してくれ。いつでも駆けつける」
そういってウフコックは掌に、小型の警報装置を反転して作り出した。
「お前の心配性も筋金入りときたもんだ」
「アフターフォローは万全にすべきだと思っているだけだ。ドクターと相対的に俺が心配性に見えたとして絶対的ではない」
ウフコックがムキになって反論する。その姿がおかしく、バロットは微笑んだ。それを見たイースターもふぅと息を一つ吐いて、
「じゃ、僕らは退散するとしますか」といってオフィスへ帰っていった。
イースター達を見送った後ベル・ウィングと一緒にアパートの中に入ったバロットは、いつも座るお気に入りのソファの上で膝を抱え、クッションに顔をうずめた。
「なんだい、あいつらがいなくなって急に心細くなったみたいじゃないか」ホットミルクを入れたマグカップを二つ持ってキッチンから戻ってきたベル・ウィングが、からかうように言った。「明日は学校だけど、行けそうかい?」
差し出されたマグカップを受け取って、首を横に振る。
――わからない。
バロットはベル・ウィングにハグをして寝室に向かった。毛布を頭まで被り、体を折り曲げるようにして眠った。
5
翌日、バロットはいそいそと身支度を整え、重い足取りで学園に通学した。ベル・ウィングは休んでもいいと言ってくれたが、心配をかけたくはなかった。
サン・アンダーソン学園の校舎が見えたところで、後ろから「おはよう」と声をかけられた。驚いて振り向くと学友の女子がそこにいた。バロットは挨拶を返そうとして、声が出ないことを思い出して躊躇した。女子生徒は不思議そうに首を傾げ、他の女子生徒と一緒にバロットを追い越して行き、バロットを横目に見ながら、ひそひそと内緒話をしていた。その眼や態度に見覚えがあった。
ウエストサイドの
バロットは俯き唇を噛んだ。
(戻っていく……)そう思った。感情を殺し、存在を希薄にしていたあの頃に。男の欲望のはけ口になっていたあの頃に……。
どす黒い感情が渦を巻いて溜まっていき、バロットは縛り付けられているような息苦しさを感じた。羽ばたくことも出来ず、どこへも飛べない。腐った卵の中で死にゆく雛鳥。
まるで世界から自分だけが隔絶されたかのような錯覚に陥る。
能力が失くなるだけでこんなにも自分の足元がおぼつかなくなるなんて――バロットは自分がどれほど電子攪拌という科学技術に支えられていたのかを痛感した。
それでも学校へは通い、授業を受けはしたが、授業の終わりを告げる鐘がなると同時にトイレの個室へ駆け込み、次の授業が始まるまでそこに籠った。
誰かに話しかけられることなく、他人に弱みを見せない。経験に則った処世術。
正午、昼食の時間になり、バロットは屋上に向かった。普段屋上のドアには鍵がかかっているため、生徒が来ることはない。バロットは立体知覚で鍵の構造を把握してたまにピッキングして屋上へ出ていた。その時の指の感覚を思い出しながら、ちょっと手こずったものの、開錠した。
縁際まで行き、柵に手をかける。風がバロットの長い髪をなびかせた。
眼下に広がるマルドゥック市の街並み。イースターズ・オフィスのある方角を眺める。
(ウフコックがいてくれたら……)
静かに小さく溜息を吐いた。恋人を想う女のように。制服のポケットから小さな丸い物を取り出して指でコロコロと転がす。ウフコックが反転して作り出した警報装置。
傍にいてほしい。そう思うと同時に、いてほしくないとも思った。
(こんな私を、見られたくない。もっと、強くありたい。――ちゃんと、貴方の相棒でいられるように……)
警報装置を握りしめ、胸に抱き、柵にもたれかかる。灰色に淀んだ雨雲が空を覆い、ポツポツと細かい雨が降り出し、バロットの頬を濡らした。
6
「おや、今日は随分と早いじゃないか」アパートに帰るとベル・ウィングがテレビを観るのを中断して言った。しばらくして、「言ってごらん、吐き出すことでさっぱりすることもあるもんだよ」バロットは目を見開いてベル・ウィングを見た。
バロットは調律の時に見た悪夢を打ち明けた。
「……ふむ、変わったこともあるもんだね」ベル・ウィングはバロットの話を読み終えてから言った。「あたしにも似たような経験があるよ」
――ほんと?
「随分昔のことさ。なあに、心配することはないよ。そいつは昔のあんただ。焦げ付いて燻っている、ね」
――昔の私……?
「ああ、トラウマといってもいいだろうね。あたしの場合はスピナーとしてスランプだった時のことだ。立て続けに客に大金を獲られちまってねえ、もう次はないって思い始めてから毎日のようにミスした自分が夢に出てきて囁くのさ。辞めればいい、逃げればいいってね」ベル・ウィングは嘲笑するように言った。「心が弱ったときにそいつはやってくる。あんたはその能力が使えなくなってしまうことに怯えていたんじゃないかい? 昔の自分に戻ってしまうんじゃないかって……」
ベル・ウィングに言われてバロットは頷いた。あの時、自分は確かに恐怖を感じていた。今回は一週間もないくらいだが、もし永遠に能力が使えなくなる日が来たら……能力がなくなった自分、ただの少女となった自分は前と同じ道/袋小路/泥沼に嵌ってしまうじゃないか。そんな未来を想像して怖くなったのだ。
――あれは、殻に籠っていた私……。
もう一人のバロットは言っていた。
(――行かせない)
その言葉の意味を誤解していた。地獄への誘いだと。そうではなかった。もう一人のバロットは前の境遇へと引きずり込もうとしていたわけじゃなかった。むしろ、前の境遇からバロットを守ろうとしていたのだ。傷つかないように。絶望しないように……。
――ありがとう、グランマ。
バロットは礼をいった。ベル・ウィングは首を振って、
「あたしは何もしちゃいないよ。全てはあんたの心の持ちようさ」
心の持ちよう――バロットの心は定まっていた。もう怯えることはない。己の中枢に確固たるものを見定めた今、不安や恐怖といった感情は霧散していた。
7
夢を見ていた。水中に停滞/羊水のように生温かい=母親の胎内/裸体を包み込む心地好い感覚/眼前=鏡写しに立つもう一人のバロット/腕を伸ばしたら触れる距離で向かい合う二人。
(また……貴方に会えた)バロットが手を伸ばすと、向こうも手を伸ばしてきた。両者の掌が合わさり、そのまま指を絡める。すると、
――行かせない。
さらに強く握られ、引きずりこもうとする意志が伝わってきた。己を守ってきた殻へ。
深く、さらに深く。底のない水底へと沈んでゆく感覚。バロットは抵抗しなかった。彼女の冷たくそして温かい心を感じていたかった。
バロットはもう片方の手を背中にまわして彼女を抱きしめた。引きずる力が急速に弱まっていく。
バロットは抱きしめながら、
『私を、守ってくれてありがとう』
いつの間にか、バロットの首元にはチョーカーが巻かれていた。
『でも、もう大丈夫。私はもう独りじゃないから』
ドクターやウフコック、グランマがいた。彼らは今やバロットにとってファミリーだった。それだけじゃない。学校にも友達が出来たし、オフィスには他にも仲間がいる。
体を離して目を合わせる。もう一人のバロットは何も言わない。しかし、その体が水に溶けるように徐々に輪郭を失くしていく。
替わりにバロットの皮膚が人工皮膚となってサラサラとした銀色の煌めきを零していた。
頭上の光が強くなり、あたりを鮮烈に照らしていく。
『この先、私の前に理不尽なことや辛いことがあって、心が死んでしまいそうになる時がくるかもしれない……けど、私は生き抜いてみせる』
全身が光に包まれる。その向こうで、最後に見えたもう一人のバロットは微笑んでいた。
バロットは消えゆく彼女に向かって独り語ちる――。
力強く――。
意志を込めて――。
『殺さない。殺されない。殺させない。それが私たちの
マルドゥック・オブジェクティヴ 暁樹 兎依 @wool_writer
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