第57話 白い床と、見知らぬエレベーター。
兄の嵌め手にはまり半ば脅されるような形で仕事を引き受けることになってしまった俺の次の行動は、一端家に帰ると言う、まあおおよそ考え得る行動の中でも最も平坦でありきたりなものだった。
正直、まさかこんなことになるとは思ってもいなかったから、これからのことをしっかりとまとめておきたかったのだ。何せ今回の依頼は今までのモノとは勝手が明らかに違う。何が違うのか、別に先輩の事を抜きにしても今までの依頼とは根本的に違う。
今までの依頼内容は、事務しごとの肩代わりだったり、兄個人の請け負った雑務処理だったり、とにかく雑用がメインだった。なのに、今回は病理解析ときた。何事だと。
そもそも、今まで医療関係の依頼はなかった。にもかかわらずである。
まあ、今までは断られるのが解っていたからだろうし、今回は断られない理由があったからだろうとは思うのだが。それにしても、一介の高校生に頼るにしては専門的過ぎる内容ではなかろうか。
どんなに頭をひねっても、俺から出てくるのはもっと検査すべきと言う、一般にも劣る意見だけだと言うのに。
流石に一般より劣るは言い過ぎか。
それでも、あまりまっとうなことが言えるかも怪しい。何せ自分の先輩の両親と、その本人の病気。治療しなければいつか先輩もああなる。それだけ言われ、動揺しないなんてそれこそ普通じゃない。俺の中での普通。それもまた、間違った考えかもしれないけれど。
兄との会話を終えて病室に戻ると、先輩は相変わらず静かに座っていた。話しかけても応答しない。肩を揺すっても無反応。
困り果てた俺は背負って帰ることにした。
いそいそと先輩を背負って病室を出ると、さっきまでの無反応が嘘のように先輩が動き出した。
「おろして!」
というので下ろして振り返ると、いつも通りの恐ろしい美人が、なんとなく、いつもよりも鮮明になったように見えた。
「もう大丈夫ですか?」
心を落ち着かせるために一呼吸置いて、質問する。
「う、うん。病室、久しぶりに入ってちょっとぼおっとしちゃってたね…」
あれをちょっとと表現するのは些か語弊がありそうだが。
「まあそうですね。ところで、お見舞いって、来てたりしました?」
「うん。たまにね」
先輩はそう答えると、エレベータに向かって歩き出す。俺もそれに続いた。
兄と斉藤さんは話があると先に車に向かった。まあ報酬にされた事に小言もあるだろう。大言もあるだろう……
「いつもはね、別室のモニターから見て、それで帰るの」
「たまに用事があるって言ってたのはその見舞いだったって事ですか」
言葉ではなくコクリと頷き肯定してくれる。
エレベータに乗り込むと、静寂が訪れる。機械音とモーター音、耳に張り付くその音が、せめてもの救いだった。
カツカツと響き渡る足音とともに、エレベータから降りて廊下を進む。
何を聞こうか迷っているうちに、結局何も聞けずにいる。
歩いているうちに、いつもの雰囲気に戻りつつあって、その雰囲気に安住しようとしている自分が当然のようにさまざまな質問を思考から排除していて、ああしょうもないなあと自分のろくでもなさに落胆する。
この人との生活に慣れすぎているんだろうと思う。今の俺は冷静じゃない。
いつも通りに戻りたいと、さっき見たものを何が何でも忘れようと躍起になっている。自分でもわかっていて、理解している。
どうにかしなければ、やらなければいけないのだと、それは使命感でもあり義務感でもあり、ただの恐怖感でもあった。今までの日常が、これに失敗したらなくなってしまうかもしれないという恐怖なのかもしれないし、ただ、人の命を懸けて何かするということが怖いだけなのかもしれない。
何が正解で、何が不正解なのかわからない、その恐怖感にすら飲み込まれそうなほどに今の俺はなにもかもに怯えている。そのことをわかっていて、それでも何もできないでただその恐怖感を客観的にみている自分がばかばかしいと思っていることに少しだけ安堵していて、目に見えないものを掴むことに躊躇しない勇気がほしいと思った。
それはつまり、人間の根幹を捨てることになるのかもしれないけれど。
そんなことを考えているうちに駐車場にたどり着き、口論する兄と斎藤さんを車に乗せると、来るときと同じように帰った。
家で待っている由利亜先輩が、今の先輩を見てなんというかが少し楽しみだった。
その後先輩とは、病院のことに触れる会話はなかった。
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