第58話 一般的な意見では。
夢の中では、いつも通りの毎日が続いていた。
先輩と由利亜先輩といつも通りに適当に毎日を過ごす、そんな日々。
由利亜先輩の作ってくれた料理をみんなで食べて、馬鹿なこと言ってなんとなく笑って、ああ楽しいなあって、そんな風にただ過ぎるだけの毎日が、普通に楽しい、毎日。
否、だから夢の話であり、もちろん兄の持ってきた無理難題を引き受けてしまった後も、そのへんちくりんな日々は続いているのだが、そんな日常を夢にまで見てしまうことに、自分の深層心理が若干不安になったりして。
「ねえ太一君、私ね、君が本当にすごい人だって事は知ってるんだけどね、でもやっぱり今回の、あのお兄さんの、一樹さんの依頼は考え直した方が良いと思う、んだけど……」
「いや、俺そんなにすごくないですから… それに、今更無理ですよ~ 今からやっぱなしでなんて言ったら俺殺されちゃいますよ」
昨日、病院から帰って日常に戻り、今日また当然のように学校に来て、授業とか委員会とか学校祭の係とか、もう本当になんやかんやしてからの放課後。
考えたいことがあるとか、学校に来るのも難しいとか、そんな思わせぶりなことを言っていたのもやはり昨日の事で、寝て一日経ってしまうと昨日の出来事は夢の中のことのような気がしてしまい、真面目に考えることを放棄してしまいそうになる。というかもうほとんど放棄している。
考えたところでどうにかなることでもない、そういう風に、完全に。
部室で、最近では珍しく先輩と二人きり。
向かい合ういつもの形で座ると、当たり前に先輩の勉強風景を眺めて時間が過ぎるのを待つ。
静かで、平穏ないつも。
「でも、あれを治すなんて、無理だよ…?」
さっきから不安そうな、それでいて怒っているような表情で、先輩が言う。
俺は、そんな先輩の納得いかなさそうな顔を眺めながら、こちらも不本意なのだと言うことを表明するように、しかし、それでも全力は尽くす旨を、どうにか伝えるべく、
「夢だけでも見せてあげたいんですよ」
と言った。
我ながら何を言っているのかよく分からなかったが、先輩は少しほおけた後、クスリと笑って、
「分かった、じゃあ、私も協力する」
そう言うと、教科書の文字を追い始めた。
俺はその姿をお茶を飲みながら眺める。あくびを一つして、その眩しい先輩を、曇りがちな空から降りてきた俺の太陽のような人を。
目の錯覚とか、脳の異常とか、光彩の誤作動とか、そんなくだらない言葉が脳裏をかすめ、それら全てを振り払う。
俺の顔は今、少し微笑んでいるかもしれない。
前々から言っていたがどう頑張ったところで、今の俺に出来ることなど何もない。医療に関する経験など全くないし、知識すらもないに等しい。乏しい物だらけの俺が、それでもどうにかして誰かを病気から救おうとして、今から勉強するなんて事は無理難題だ。
そもそもの依頼が無理難題なのだから当然と言えば当然なのだが、それでも、もう時間がない以上俺が一から勉強するよりも、知識のある人間を有効活用するのが一番手っ取り早いだろう。
あの男、今回の依頼人であり俺の兄は、人に頼るという行為を身内にしかしない。引き受ける事はあっても外注をしたりはしないのだ。今時アウトソーシングなしで会社経営するとか、何考えてんだかよく分からないが、兎に角、隅から隅まで調べ上げるしかない。調べて、考えて、結果を出すしか、俺に道はない。
物思いに耽る、というよりはこれからの事を頭の中で整理しながら歩いていると、目的の場所にたどり着いた。
国立医療研究センター。
この国の医療の最先端、医学界の最高峰、とは言わないまでも、とりあえず検査機器は全てがそろっているそこに二人を運んでもらい検査することになった。
初めて奇病患者の病棟を訪れてから四日。九月も後半戦の第三土曜日。昨日の今日で全ての準備を完了させた兄の行動力のすごさに驚くも、患者二人をここに送る段になって、関係者の半分が魅了にやられたらしいことに対する恐ろしさの方が勝る。まさにくわばらくわばらだ。
最先端を自称する割には少し年期の入った建物に入ると、病院のようなアルコール臭さはなく、代わりに効き過ぎたエアコンの冷房が出迎えてくれる。
「寒っ……」
つい口から出てしまう。
「こちらをどうぞ」
キリリとした声とともに、横から伸ばされた手には薄手のパーカーが握られ、差し出される。
俺はそちらを見て、
「あ、ありがとうございます。ご自分の分はお持ちなんですか?」
感謝の言葉を述べ、しかし受け取る前に確認する。斉藤さんは顔を小さく横に振り、「いえ」と小声で答える。
「じゃあこれは斉藤さんが着てください。俺は多少なら大丈夫ですから」
「もし風邪を引いたらどうするんですか!」
「いや、馬鹿は風邪引きませんから…」
突然出された大声に、仰け反るように受け答える。
「ば…馬鹿……? あ、あなたが馬鹿なら…」
驚いた様子の斉藤さんは、何かを言いかけて辞めてしまう。
「山野太一さん、斉藤唯さんですね?」
会話が切れたそのタイミングで、前方から俺たちを呼ぶ声が聞こえた。
白衣を纏った五十代くらいの男性。おっさんと言うよりおじさんのイメージか。いや、見た目ね。
その白衣のおじさんは研究者なのだろうが、なんというか、もう本当に、斉藤さんの胸元に目が行きっぱなしで、同じ男として恥ずかしい限りだった。
「それではこちらです。山野先生は既にいらしてます」
気を取り直したのか、満足したのか、どっちかは分からないがおじさんは体を翻して歩き出した。どうやら案内役らしい。
「なんかほんとすみません」
俺は斉藤さんに男を代表して謝った。
「気にしないでください、慣れっこですから」
微笑みながらそう返してくれた斉藤さんに、涙が出そうになる。おっと、危ない、うっかり惚れるところだったぜ。
「ところでそれ、着た方が良いですよ?」
九月の終わりにさしかかっても外はカラッと暑く、斉藤さんは半袖のブラウスで、袖から出た二の腕に若干鳥肌が立っている。
俺に渡そうとしていたそれを渋々というように着る斉藤さん。タイトスカートにフード付きパーカー、意外とありだな。一枚羽織ることにより更に胸元が強調されている気もするが、うん、最高。
あほなことを考えていると、おじさんが前を向いたまま自己紹介を始めた。はじめたは良いのだが、余計な話が多くてなんの研究をしているのか聞く頃には、名前を忘れていた。
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