第56話 目も当てられないほど美しい


 不承不承である。


 兄の頼み事を受けるときの俺の心情の話だ。いつもそんな感じで受け入れ、多分毎回損をしている。


 七つ程歳の離れた兄弟である俺と兄が普通に会話をしながらも、あまり仲が良くなく、しかも互いが互いを敬遠し合っているにもかかわらず関わりが続いているのは、俺が中学二年の時、奇妙に思える出来事を兄が俺に聞かせたことが原因だ。


 何事もない平日だったと思う。


 いつも通りに学校に行き、ながら作業で授業を終えて、喧噪の中を一人で歩いて帰宅すると、その当時世界を股にかけている男が野生の絶滅危惧種並の珍しさで家にいた。


『昨日はスロバキアにいたんだ。』


 リビングのソファに腰掛けながら、扉を開け立ち止まる俺にそう声をかけてきた。


 お帰りの一言もなく、ただいまの挨拶もないその会話の向かう先はよく分からなかったが、当時の俺は兄の武勇伝が聞けると思い意気揚々と向かい側に腰掛け続きを促した。


 それを受け、兄はどのようにして自分がスロバキアから今に至るまでの道中を通ったのか、その前にはどこにいたのか、土地の人間との出会い、助けてくれた人々の優しさや、内戦地での人助けの惨さなど、兎に角経験したいろいろな事を全てなんじゃないかと思うくらいに話してくれた。


 そしてそれら全てが前置きだったことに、その時の俺は気付いていなかった。


 それから語られた内容も、興味津々を通り越して前のめりながら聞いた。今になってはもうほとんど内容は覚えていないけれど、あの時発した一言と、その一言を聞いたときの兄の衝撃を受けたような顔は、兄が俺に頼み事をしてくるときにいつも決まって思い出す。








「じゃあ、兄さんの病院から受けた依頼は、この二人の病気の解明とその回復の二つって事?」


「そう。でもまあ俺に分かる事なんてのは、あの患者の患っている奇病が今までの医学の歴史の中で、研究されたことのないものだって事くらいだな」


 難病、どころか未知の病。


 正直それだけの事ならテレビ番組のドキュメンタリーでよく見る題材で、大して面白みもないような企画だが、今、それを知らされると言うことに、俺はかつてないほどにおののいていた。


 それはつまり、その依頼を受けたこの男が、第二セクターとして俺にその病気の解明を依頼する流れであるような気がしたからで、しかも多分、否、確実にそうなるだろうことがもう明明白白とわかりきった事だったからで……


「で、太一に依頼したい事って言うのが」


「あの病気が何なのかを考えろとかだったら、マジ却下な」


「あー」


 そんなやりとりが、すでに三回ほど行われているのは美しすぎる病室の外。


 先輩を一人残したまま、汚す人間が退出した完璧な状態の病室からは、物音一つしない。


 自分の両親と、つまり家族水入らず。


 波紋は消え、静寂だけがこだまする病室で、先輩は何を見ているのだろう。


「でも、お前がどうにかしないとあの女の子はずっとああだぞ」


 数度目の押し問答になるかと思った次の台詞は、兄の予想外の言葉によって俺の予想を外れる。


 俺は何も言わない。


「何かをしないお前の立ち位置に、文句は言わない」


 俺の立ち位置。そんなこと気にしたこともなかったが。


「なにもしない、事なかれ主義。それも理解しよう」


 日和見主義なだけだ、それがなんなのだと。


 俺は怪訝さを隠すこともなく、顔に出しながら首を傾げる。


「でも今回だけはお前がなんとかしないといけない。お前にしかどうにも出来ないことで、お前にはどうにかする理由がある。その方法を考えて、実行して、あの少女を救う、それは優しいお前にとって、唯一の活躍の舞台だろ」


「兄さんの受けた依頼で、確かに先輩の親なら俺にも無関係じゃないけどさ、でもあの人たちには俺との接点もない、それで俺に何か義務が発生するの?」


「そんな思ってもいない事をいってる暇はもうないぞ」


「俺にどうしてもやらせたいなら金を積んでもらう」


 これもまた、思ってもいないことだ。何気ない表情の移り変わりが、兄の心証を表しているのが分かる。


「もちろん金は払う、バイト、そういったろ」


「金だけじゃ足りないな」


「俺に出来るのは金を払うことくらいだが?」


「じゃあ、斉藤さんをもらおうかな」


 指さされ、突然報酬にされた本人は驚きの顔で俺を見る。


「……うん、わかった」


「一樹さん!」


 少し迷い、逡巡したあげく結局了承の意思を示した兄に、くってかかったのは当然その権利のある斉藤さんだが、驚きのあまりだろうか、先生と呼んでいたはずの二人称が変わっていた。


 病院で出す音量ではなかったが、ここに起きて困る人間はいない。別棟に迷惑にならない程度なら問題はなかった。


「今回の依頼の達成には太一の協力は不可欠なんだ。その太一が報酬をよこせというなら、俺にはそれを渡すことしか依頼を達成させる方法がない」


 いつも通りの声質で、しかし有無は言わせない強い意志を目に込めて兄は言う。


 言葉を重ねようとしていた斉藤さんは息を呑み、その声が発せられる事はなかった。


 兄に文句が言えないとみると、俺の方に目を向けてくる。しかし、俺にも少しばっかり考えがある。今の時点でこの条件を取り下げることは出来ないので無視して置いた。


「じゃあ、依頼は受けてもらえるって事で良いんだな?」


「…否、まだだ」


 少し、考える。


 ない頭を使って、必要以上に入念に。


「何か、まだ欲しいものでもあるのか?」


「報酬の問題じゃなくて、この依頼が、本当に達成可能かどうか、それが問題だろ…」


 この天才が、自分には不可能だと考えて、俺に手伝いを依頼してきた。それ自体はよくあることの、日常風景の一部だ。が、だからこそ、今回こそは、いつも以上に何度が高いんじゃないかと。いつも、俺に何かを頼むときは電話越しだった。直接会いに来ることなどなかった。そのことが、俺を著しく警戒させる。


 先輩を使って、俺の協力を無理にでも取り付けようとしているのは明らかだ。


 でも、やり方はいつも通りなのに、なぜ、なんで今回に限って、先輩を使ったのだろう。と。疑わずにはいられない。




 そしてふと、さっきの先輩の、長谷川真琴の横顔が脳裏をよぎった。




 ああ、これか、これが目的だったのかと。


 絶対に不可能だと、断定出来たときにこそ、あの横顔が、あの美しさが俺を襲う。


 心が溶けて、流れ出て、どこかに消えてしまいそうな。そんなうすらぼんやりとしたイメージと、三人の作り上げる光景の壮絶さが、俺のまぶたを焦がしていく。


 あの病気、あれは多分現代では治らない。


 医療がもっと進歩して、科学がもっと発達して、世界がもっと豊かになって、そうして進んだ未来でなければ絶対にあれは治らない。解明さえ、出来ないだろう。


 そう、思った途端、俺は美しさの呪いを受けたのだ。


 あの美しさ、あれも、あの病的な美しさはきっと、本当に病気なのだ。病的、ではなく病状としての美しさ。


 何もかもを魅了する、誰でも彼でも魅了する。そういう病気。


 美しさが体を蝕み、美しさによって寿命を削り、そのあまりある美しさの光によって自らをも焦がし尽くしてベットに倒れ、しかし光を放つことは止められず、光を放ち終えたとき、きっとこの人達の命の炎は消えるのだろう。


 美しさという、病によって。




 それはだめだと、思ってしまったのだ。


 それだけは許されないと。


 なんとかしなければ、と。

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