第55話 自分勝手な幸せと、自己満足な不幸せ。
俺がここに来た理由。
それが一体何だったのか、病室に入ることで一目瞭然となった。
百聞は一見にしかず、なんて昔の人の言うことはつくづく含蓄がある。含蓄があるから現代にまで伝わっているのだろうが、今はそんなことはどうでも良かった。ただ、思考を適当な方向に飛ばしておかなければ、理性が飲み込まれてしまいそうだったのだ。
恐ろしく、美しい物に。
カツカツと無機質な足音が響く廊下を四人で歩く。
一人は意気揚々と、一人は粛々と、一人は思い詰めたように、最後の一人の俺は連れられるままに。
白一色のその廊下は、病院という場所の特徴を加味しても明らかにおかしい場所だった。
ただ歩くだけでも奇妙さを感じられるこの空間。何がおかしいのかはエレベーターを降りたところで気付いていた。何もないのだ。ただ、一本の廊下しかない。
正直、訳がわからなかった。ここは一体どういう所なんだろうと、そればかりを考えすぎて、隣で一人下唇を噛む先輩の心境など慮る事もしないでいた。
歩いて行けば真正面に病室なのだろう扉が一つ。
それ以外には何も見当たらないこの空間で、俺はただ、やはり真っ白なその扉を前にしてもにこやかな表情を崩さない兄に、あえて聞くことさえせずに、引き戸を開け入っていくのに続いた。
見たままの状況としては、成人のやせ細った男女がベットに寝かされた状態で呼吸器の力を借りて辛うじて生きている。栄養剤の点滴と、心電図。その三つだけ。
どう見ても、これほど厳重に隔離されている病人の受ける処置とは思えないほどの軽装。
何か、やはり、何か理由があるのだろう。
でなければ、この兄が俺を頼ったりはしない。
かなり衰弱したその寝姿に、何か重なる物を既視感的に感じたが、それがなんなのかはよく分からなかった。
ふと兄を見れば、変わらぬ表情でベットを眺め、パイプ椅子を開こうとしていた。斉藤さんはなるべく見ないようにしているようで、先輩は……
「…せん、ぱい?」
病院に入ってから一言も発していなかった先輩が、どう見てもおかしいくらい顔を真っ青に染めてベットの上の病人二人を見ている。何かを思い出しでもしたかのように、何か、いったい、何かとは、何なんだろうか。
「先輩、この人達のこと、知ってるんですか?」
何故だろう、これは兄に聞いてはいけないことで、このことは、先輩にこそ聞くべきだと、なんとなくそう思った。
「……」
ただ黙ったままの先輩の肩は、震えていた。唇には紫が浮かび、白目は赤く滲んでいるのに瞳孔が分かるほど開いていて、どう見てもまともではなかった。
体の震えを抑えるように自分の体を抱く先輩に、質問に答えてもらうことは不可能だろう。
仕方ない。
その言葉で妥協できるくらい、俺は大人になったのだ。
だから聞け、あの男に、これは何なのだと。
お前は一体何がしたい、と。
俺は、何故か震える唇を開き、聞いた。
「一体ここは何なんです……教えてください! 先輩!!」
怒鳴りつけるように。
妥協など、大人になど、全くなれてなどいなかった。
ただ、相手が苦しんでいることを知りながら、それでも自分の感覚を優先する。
(それが俺という人間か…)
自分で自分に落胆しながら先輩を見る。俺の言葉に震えていた肩を跳ねさせ驚いた先輩を、おびえるような目をした先輩を。
「…ここは、この病院の特別隔離病棟。病気未満の奇異患者を隔離しておく研究所、みたいなところだよ……」
研究所…?
先輩は説明することで正気を取り戻そうとしているようで、喋りながらベットから一番遠い位置に椅子を開いて座った。
「それでね、そこに寝てる…二人、その人達が……私の両親…」
……は?
「え…、両親て、その、……親?」
戸惑って、滅茶苦茶な質問をしてしまった俺の言葉にも、先輩は縦に一つ頷いて、膝の上で絡めた指を眺めて固まる。
これが、先輩の、両親…?
それ以前に、ラボって何だ?
病気未満?
奇異患者って、なんだ?
窓もなく、ただ二つのベットが並んだ病室内で、明らかにその黄金比を崩している部外者は、先輩を除いた三人だ。
何だろう。なんなんだろう。
先輩の説明も、兄のもくろみも、この病室の異質さも、今感じているこの違和感も、これは一体なんなんだろう。
先輩の顔から表情が消えていく。
その動作が、病室の完璧さをより密度の濃いものに変えていく。
何でだろう。
なぜ、この病室は、こんなにも綺麗に見えるのだろう………
人の不幸は笑えない。
その対象が、憎い者であったとしても。
親しい人間の不幸など、尚更だ。
俺は時折考えていた。先輩は何故あんなにも美しいのか。
あの病的なまでの美人さを、俺は足りない頭で何故と、解のないままに問い続けていた。どんなに問うても答えをくれる人間などいなかったが、誰も知らないその答えを、確かに俺は求めていた。
美人であることは幸せなことだろうと、この人に出会う前までは思っていた。
家が金持ちであることは幸せなことだろうと、由利亜先輩に出会うまでは思っていた。
俺の考えていることなど、本当に的を射ない、何の頼りにもならない、当てにならない。 だからきっと、今のこの思考でさえ、なんの意味もなんの役にも立たない無駄なのだろうけれど、ただ、考えて、思ったことは、やはり、人の不幸は笑えない。それに尽きるだろう。
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