やっぱり私、ものすごい馬鹿になったなあ。

 優しい婚約者が同伴者として私とともにこの暗がりな水族館を歩いてくれる、もちろん高い真っ赤なピンヒールを履いた私の歩調に合わせてくれる。トトテン、トッテン、と水族館に私の立てる足音がキラキラ機械的に光るこの冷たい床に響いてもにこにこしている。彼は、私が綺麗でいれば、そしてベッドで私がだらしないほどに彼に感じさせられていれば、ただそれだけでいいのだ。ツンと突き抜けるほど、シンプルなひと。

 イケメン高身長高学歴高収入、大企業の将来有望な若者で、次男坊で独り暮らしで、他者や外界に強い興味をもたないつまらない私の婚約者、ああ、ああ、ほんとうにだいすき。だってあなたはそれでいてほんとうにシンプルオブベストな人間なの。そんなあなたは私の人生にとって最高の彩りになるもの、愛してる。いますぐキスをしたいくらい。

 けどここは水族館ですし、私たちはいまふたりで魚という下等生物を慈しんで微笑み見守る幸福な恋人どうしであるのだから、手をそっとつなぐだけに留めている。彼もだけど、私も理性がすごくよくできているなあ、さすが自分は人間だなあって、思います。


「ねえ、あゆむ」

 彼は私をとてもとても熱量をもったまなざしで見つめる。欲情しているときと優しいときの区別が難しい彼のひとみ。けどさすがに水族館で押し倒されはしないってことを私は知っている。私と彼は大学のふるきよきインカレサークルで出会って、いまもう四年めとなるのだから、さすがに私も彼がセックスにきちんとTPOを持ち込むひとなんだってことくらいはわかるわ。水族館で押し倒しはしない。そういうプレイもアダルトビデオならあり、野外ですることを好むひとは多いから。けどさすがに外でしたら警察が来てしまうし、私たちのセックスは選ばれし美女とイケメンカップルの見目麗しい特権的行為ということになっているから、犬の交尾みたいにそうやって晒したりする気はないのよね。

 それだから私は発情の瞳ではなく大人の女性としての控えめで思慮分別のある風な瞳になるよう、視線にぐっと力を込めた。目は適切な笑顔になるよう最適解で細めるのよ、もちろん。

「なあに? ケンちゃん」

 賢一だから、ケンちゃん。けっして頭のよくないあだ名だ。私たちはもともと高学歴で頭もよいものを持っているのだから、呼び名くらいこのくらい馬鹿にしておいたほうがバランスが取れるというものだ。

 ケンちゃんはにこにこしている。

「あゆむは、そんなに水族館が好きなの?」

「あら。どうしてそう思うの? ケンちゃん?」

「なんかさ、ここに来てから、あゆむすっごく楽しそうだから。きらきらしてるよ」

「やだ、きっと照明の関係ね。ここの水族館ったら夜みたいに暗くって、光がイルミネーションみたいじゃない?」

「はは、いまは夜だよ?」

「知ってる。私、ケンちゃんとなら永遠の夜に閉じ込められてもいいな」

「あゆむ」

 ケンちゃんの、優しさに似た発情の視線。にこやかな顔の裏側だけで私は思う、あ、やりすぎたなあ。発情させちゃった。

 私はさりげなくあたりを見回す。客の姿はない。

 そっと爪先立ちをして、私はケンちゃんの下唇だけ、チョッ、とわざと音を立てて吸っておいた。ケンちゃんはギュッと私を強く発情的に抱きしめた。下半身の固いモノがその温度までも伴って私の腹部をそっと押している。仕方ない。男のひとのこれは、仕方がないのだ。かわいそうだけどどうしようもない、と思う。そう、私は女だから。発情したところで身体の隆起はない、あえて言えばすこし窪んで締まるけど、それは身体をこうやって接触させたところで、わかりようがないのだ。

「続きは帰ってからたくさんしましょう。ね? ケンちゃん。なにせ永遠の夜は……永遠なのよ」

「うん、そうだな。あゆむはやはり理性的で理知的な女性だ」

 くすくす、と私たちは世界でもっとも幸福な共犯者のように笑いあった。

 じっさいこんな会話、あの子が聞いたら、「わー。下等生物みたいでおもしろーい」と目だけが笑っていない完璧な笑顔で言うに違いない。


 腕を組んで、私たちは歩き出す。

「あゆむ、水族館が好きなの?」

「んー、っていうかねえー、人クラゲと人魚が見たいのよ」

「あはは、わかるよ。現代における教養としてだいじだものね。僕もいまの会社に入ってからね、人犬ひといぬ人猫ひとねこのペットショップや、人牛じんぎゅうとか人馬じんばの牧場には行ったよ」

「やあだ、ケンちゃん、ペットがほしいのお? そんなのなにもヒューマン・アニマルじゃなくっていいじゃなあい、人間の言葉しゃべって口答えする動物なんて考えただけで生意気で、私、むかむかしちゃうわあ。殺してしまいそう」

「違う違う、僕のとこいちおうそれなりに大企業だろ、せっかくの社員旅行は、そういう現代の流れもリアルタイムで体感できるものにしようっていうだけ。時代の流れだろ。わざわざペットなんていらないさ、僕にはあゆむという最高の子猫ちゃんがいる」

「うふふっ」

 ああ、やっぱり私、ものすごい馬鹿になったなあ。



 ……まあ、賢くなるはてにあの子のような道があるのだとしたら、私はお馬鹿さんでいいのだけれど。ときにはこうやってわざとお馬鹿さんになること、それはいちばん賢いのかもしれないし。……私にそういう発想があの塗れ羽ガラスの制服の時代にあれば、私は、あそこまであの子に支配されることはなかった、のにな。

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