《劔》のクリスティナ(5)
十分か、十五分か、それとも一時間か。
どのくらいの時間、そうしていたかはよくわからなかった。瞬間瞬間を無限に分割する集中のなか、それは永遠にも思える時間だった。
けれど、どんなものにも永遠なんて無いように、綱渡りの舞踊にも終わりは来る。
『しかし、ナコトのやつも短期間でよくここまで仕込んだもんだな……あたしが焦れるのを待って旋回戦にでも引きずりこむつもりだったか? まあ、そうはいかなかったけどさ』
限界はわたしのすぐ後ろにまで手を伸ばしてきていた。
『……もういい。投了しろよ。お前、よく頑張ったよ』
対敵であるはずのダレット先輩がそう言い放ったときには、わたしの高度はずいぶんと落ちていた。
完全に頭を押さえられたまま動かされて、溜め込んだ位置エネルギーのほとんどを使い果たしてしまっていたのだ。
飛び上がって位置エネルギーを再度回収しようにも、ダレット先輩は不用意な上昇を見逃してくれるような相手でもない。無理に上に上がろうとすれば、即座に叩き落とされるであろうことは火を見るよりも明らかだった。
空を縦横無尽に往復する《デイジー・カッター》は、じわじわと臓腑を蝕む毒のようにわたしの機動力を奪っていく。
全身を伝う汗は滑翔の風にさらされてなお乾くことを知らず、真っ先に魔弾を打ち込まれた右腕はぱんぱんに膨れ上がって、指先にはしびれたような感覚があるだけだった。背骨は氷を詰め込まれたように冷たく重く、血管にはへどろが流れるような疲労があった。
――けれど。
けれど、毒はこちらも撃ち込んでいた。
それが希望的観測でなければ、ダレット先輩の声にも若干の疲労の色が見えた。
いかに忌み名持ち、《劔》のクリスティナといえども、わたしと同じ人間だ。
人間の理力総量には限界がある。魔法の〝矢〟や〝槍〟を大量に撃てば、疲弊するのは当たり前のこと。
とりわけ飛行中、ましてや相手がいつ撃ち返して来るかもわからない極限の緊張の中では。
断続的に降り注ぐ魔弾の合間に、彼女の声を乗せた
『……理力切れを狙ってんのなら、無駄だぞ。我慢比べなら、お前がバテるのが先だ』
事実だ。
暗銀の魔女の理力量にも限度がある。
けれど、それは天井が存在しないわけではない、というだけの話だ。わたしなどと比べればその差は歴然、ほぼ無尽蔵に近いと言っていいだろう。
――愚策。
理力切れを待つことは、不可能だ。
そんなことは決闘を始める前から織り込み済みのことだったし、何よりそれは勝つための方策じゃない。
負けないための策ではなく、勝つための策を。わたしは、そのために動かなければならない。
彼女の言葉に沈黙を返し、襲い来る雑草刈りの鎌を躱すことに全神経を集中する。
容赦なく飛んでくる魔法の〝矢〟や〝槍〟を、わたしは避け続ける。
なしうる限りの最大の運動効率――最小のエネルギー損失で。
『いいからもう投了しろ。マジで叩き落とすぞ』
レフトサイド・スイープ
降り注ぐ矢を回避する。
頭がくらくらしていた。
繰り返す急停止と急旋回で、血の流れがでたらめになっているせいだ。
『何をそんなにむきになってんだよ、お前。……別にいいんだろうが、
フロント・スイープ
空を裂く槍を回避する。
脳みそが悲鳴を上げていた。
足りない空気を求めて横隔膜がせわしなく肺を上下させる中、わたしは必死で口を開く。
「……なんか……しない」
『あぁ?』
「……絶対に、降参なんか、しない」
――想像しろ。
降伏の信号弾を打ち上げ、負けを認め、へとへとのぼろ雑巾になって、地面に降り立ったその先を。
――三ヶ月洗ってないパパのパンツとか、ずっと続くひどい肩こりとか。何でも良いからそういう〝最低〟なことを想像しろ。
素人なりによく頑張った。今回は残念だったけれど、お前にはまた次がある。
そうやって、勝者であるダレット先輩と握手をして健闘を称えあう。
では、その先は? その先には何がある?
なにもない。ただ元の生活に戻るだけだ。
黙りこくってがらくたの努力を積み上げ、学院を追い出されるのをただ待つ日々に戻るだけの、くその詰まった靴下。
その選択は、正しいのだろうか?
――正しいと思ったことをすること、自分の正しさを信じること。あたしはそれを〝誇り〟と呼んでる。
空気に溺れるように、わたしは叫ぶ。
「相手が強かろうが、関係ない! 強ければ! ……強ければ、それが正しいとでも思ってるんですか!」
『あ?』
違う。
――いつだってえらいのは自分の正しさに誇りを持ってるやつだ。
どれだけ暗銀の魔女が強かろうと、どれだけ彼女との実力に開きがあろうと、両手を挙げて降伏する選択肢なんてわたしには最初から用意されていなかった。
初めてわたしの存在を強く求めてくれるひとに出会ったときから、ナコト先輩がわたしを見つけてくれたあの日から、そこから降りるという選択肢は綺麗に無くなってしまっていたのだ。
「……わたしは、正しい! わたしは、わたしとナコト先輩の正しさを信じてる! だから……勝つんだ! わたしは、絶対に降参なんかしないぞ、《劔》のクリスティナ!」
一瞬遅れて、絹のスカートが静かにこすれるような声が、山びこ石の向こう側から聞こえてくる。
それがダレット先輩の笑い声だということにわたしが気づくには、さらに数秒の時間が必要だった。
『なるほど、なるほど。あの時の意趣返し、ってところか……喧嘩の売り方、上手くなったじゃねえか』
くつくつと笑いながら、ダレット先輩は言う。ひどく嬉しそうな、笑い声。
ことここに至って初めて対敵を見つけたように、深緑の目がらんと光る。
『――よくぞ吠えた、ニナ・ヒールド! その様子じゃ、見つかったみてえだな! お前の飛ぶ理由が! 空に懸けるものが!』
飛ぶ理由。空に懸けるもの。
膚の下、心の中の空のかたち。
わたしにはない、大切な部品。
わたしは大きく息を吸い込み、彼女の問いに、答える。
「そんなもの、あるもんか!」
『……はぁ?』
面食らって目を白黒させるダレット先輩に、わたしは叫ぶ。
「〝誇り〟がなんだ! 〝恋〟が、〝祈り〟がなんだ! 空のかたちなんて、知るもんか!」
わたしは、叫ぶ。
「わたしには、なにも……なんにもないけど!」
わたしには、なにもない。
大浴場での問いかけからの数日間。どこをどう探したって、皮膚の下にあるのは、血と肉と骨、それだけだった。
だって、わたしはただ選びたかっただけなのだ。
自らの存在を叫ぶことを。「わたしはここにいる」と、力の限り叫ぶことを、ただ選びたかっただけなのだ。
誇りが、祈りが、恋が。
寄って立つものがなければ、信念がなければ、人は自己の存在を主張してはならないのか?
――否だ。断じて、否だ。
花は咲く。鳥は飛ぶ。
生きるために、「ここにいる」と叫ぶために。
自己の存在を証明する――その本能を非難する権利が、いったい誰にあるというのだろうか?
――断じて、ない。
そんなもの、あっていいはずがない。
だから、わたしは吠えたてる。
「……いても、いいんだ! ナコト先輩が、そう言ってくれた! だから……だから! 絶対に、この想いが、間違いのはずが、ないんだ!」
答えなんて、とっくのとうに出ていたのだ。
ナコト先輩がわたしを見つけてくれたときから。
《ヘルター・スケルター》に出会ったときから。
わたしは、わたしを求めてくれるひとが存在する限り、自己の存在を証明し続ける。
わたしは、自分がただ腐りゆく有機物ではないということを主張し続ける。
「……わたしは、わたしたちは正しい! いいから黙ってかかってこい! 暗銀の魔女!」
遙か高空、暗銀の魔女の喉元に、わたしは杖を突きつける。
ク・リトル・リトルの魔女の空、そのかたちに未だ答えは出せないけれど。
「わたしは! ここで、生き残るんだ!」
半分べそをかいたような声でひとしきり叫んだあと、一瞬の沈黙が流れた。
吹きすさぶ風のなかで、奇妙にしんとした沈黙だった。
堅く冷たいなにかの気体が、山びこ石からにじみ出てくるような、そういった静けさ。
『そいつは……合理だな。実に正しい。――我、
彼女は初めて肌を見せる処女のように頬を桜色に上気させて、猛禽の眼でわたしを睨めつける。含み笑いは次第に音を変え、恍惚の哄笑へと形を変える。
あは、あはは、あははははは。
『……けどな、けどなあ! そいつをテーブルに載せられたら、もう素人扱いはできねえ! あたしには、あたしの信じるものがあるからだ!』
打って変わってびりびりと震える山びこ石は、風切りの中にあってなおうるさいくらいに、彼女の声を伝えてくる。
『はいそうですかと退いてやることはできねえ! 殺すつもりでやるしかねえ! 仕方ない、仕方ないよなあ! お前が悪いんだぞ、ニナ・ヒールド!』
激しくも怜悧な、鈍色の声。
獲物に飛びかかる寸前の捕食者のうなり声。
――来る。
暗銀の魔女に対する、どこか信頼にも似た奇妙な感情があった。
こうなってしまえば、ことここに至ってしまえば。
ニナ・ヒールドがどんなに弱い存在であろうとも、あらゆる警戒を払い、その上でさらに全霊でもってねじ伏せに来るだろうと。
『現時点をもって、あたしはお前を必ず打倒すべき敵だと認識した! ……暗銀の魔女の全霊を尽くし、お相手つかまつる!』
苛烈さと高潔さを同時に内包した彼女の声を、震える山びこ石がわたしに伝え、ダレット先輩の箒影がひときわ高く上昇する。
『――【Ĉi tio est
遥か高空で、《劔》の魔女は彼女だけの祝詞を謳う。
『【U
リンドウの飛行用ローブが、彼女の
それは、暗銀の魔女だけが成し得る絶技。《劔》の
暗銀――
有機的にねじれ、折り畳まれ、引き伸ばされ、《鎧通し》を掲げる彼女の右腕に絡みついて渦巻く。
魔法の銀は、理力伝導により形を自在に変える。
鋼よりも硬く、水銀よりも柔らかく、羽のように軽い。
近代からいまに至るまでの
その魔法金属を自在に制御することは、魔女の専売特許のひとつと言えるだろう。
とはいえ、それは地に足を着け、椅子に座っての話だ。
魔法の銀の操作は、それだけで過大な集中力を要求する。
たとえば編み物が得意だからといって、全力疾走しながらマフラーを編むなんてことは普通はやらないし、できることではない。
ゆえに飛行用ローブには、最初からあらかじめ〝展開〟と〝畳帆〟の術理が刻まれている。
つまりわたしたちは飛行中においては、あらかじめローブに登録された術理を撃発することによって、金属繊維に刻まれた出来合いの形状記憶を引っぱり出しているに過ぎない。
『――【
では、合理をあえて捨て、それを
理論上は可能だ。
自らの脳みそをケーキのように自在に切り分け、同時多発的にすべての変形を完璧に演算管理できるのであれば。
普通はやらないし、できることではない。
けれど、合理の外の
自らの〝誇り〟を貫くために、不断の研鑽に立脚して。
展開。屈曲。積層。捻回。硬化。
精緻な理力制御によって形作られたそれは――巨大な紡錘、騎士の騎乗槍、一角獣の衝角。
そのどれにも見えて、そのどれとも違った。
『【Cent d
それは、《劔》。
『【
太陽の逆光に照らされた暗銀の魔女が掲げるは、超鋼貫徹の轢殺機巧。
『――
然してそれは、長大な《劔》だった。
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