《劔》のクリスティナ(3)

「――滑翔、初め!」


 ミス・ロウマイヤーの号令と同時に、わたしたちは高台のへりに向けて駆け出す。 

 猟犬のように、弾丸のように。

 分厚い飛行用ブーツの底で勢いよく地面を蹴りつけ、疾駆する。相手より一瞬でも早く空に上がり、高度優勢を取るために。


 競技滑翔スカイ・クラッドの基本は、相手よりも高く飛ぶことだ。

 その理由はふたつある。


 ひとつは、高く飛べば飛ぶほど〝焚き火ダスト・デビル〟の選択肢が増えること。

 〝悪魔の焚き火ダスト・デビル〟――ク・リトル・リトルの魔女の空、三次元的に遍在するサーフS.U.R.P.粒子の吹きだまり。

 有機的に、多層的に絡み合う、その粒子ダストの波を掃くことによって得られる反発力で、わたしたちは空を飛ぶ。

 高く飛べば飛ぶほどより上層の〝焚き火〟を利用することができるし、その戦場に存在する〝焚き火〟の位置を俯瞰的に見ることにつながる。

 あらゆる方角、あらゆる高さに存在する推進力の塊を、より多く確保できたほうが有利なのは自明のことだ。


 もうひとつは、高度を上げることが〝速度を溜め込む〟ことにつながるからだ。

 箒に限らず空を飛ぶものすべてには「運動をすると速度が落ちる」という鉄の足かせが嵌められている。

 帆を開けば当然に速度は落ちるし、波の上で旋回ターンを打つだけでも速度が落ちる。空中で行う箒動はすべて、〝悪魔の焚き火〟で得た運動エネルギーを消費して行うからだ。

 では、〝焚き火〟が周囲になく、それに頼れない場合。

 低下した運動エネルギーを――すなわち、落ちた速度を回復させるためにはどうするか。

 答えは単純、急降下することで重力の支援を受けて高度を速度へ変換するのだ。

 位置エネルギーと運動エネルギーの交換。つまり、〝高さ〟を取ることが、その魔女が持つ〝速さ〟――機動力に直結する。


 簡単に言えば、高く飛べば飛ぶほど、より俯瞰的に戦場を掌握することができるし、速力に変換するための位置エネルギーをより多く確保することができるということだ。

 高さこそが、選択を生む。高さこそが、速力ちからを生む。

 ゆえにわたしたち魔女は、すべからく高みを目指さなければならない。




『おい、ニナ・ヒールド。……のニナ』


 走るわたしの首元で山びこ石が震え、ダレット先輩の声を伝える。


『こういうの、知ってるか? ほんの手遊てすさびみてえなもんだが』


 ダレット先輩は地面を蹴って飛び上がる。

 本来であればその跳躍は、離陸に足る反発力を生み出せるような段階にはなかった。

 踏み切り台の高台のへりはまだ遠く、あたりをとりまく粒子S.U.R.P.の波も、それだけで離陸できるほど濃いものではない。

 ダレット先輩が素人であれば――彼女がエルダー・シングスを代表する箒乗りでなければ――それは離陸を焦るあまりに間違ったタイミングで踏み切った、ただそれだけのことだっただろう。


 けれど、そんな愚を犯す暗銀の魔女ではない。

 対敵より早く空に舞い上がることが、競技滑翔スカイ・クラッドの定石。であれば、それを可能にする技術トリックもまた、競技滑翔スカイ・クラッドには存在するのだ。


競技滑翔スカイ・クラッドには! こういう品玉も! あるんだよ!』


 ダレット先輩は、空中で勢いよく前方宙返りフロント・スイープを打つ。

 遠心力を乗せた長箒の刷毛が空気を引っ掻き、紫色の火花が弧を描く。

 回転の勢いをそのままに、中空に剣を突き立てるように刷毛テールを薙ぐ。


『――〝刺し乗りソード・フィッシュ〟だっ!』


 死者の魂の残滓が悲鳴を上げ、ひときわ大きな火花とともに長箒が宙に浮かび上がる。

 それはわたしがはじめてナコト先輩の手を取ったあの夜、〝慈悲の森〟で一度見た競技滑翔スカイ・クラッドの技術。

 常ならば助走で貯めるはずの粒子との摩擦を前方宙返りの遠心力で補い、いち早く離陸するためのトリック


 不格好な始祖鳥みたいに助走を続けるわたしを尻目に離陸したダレット先輩は、〝焚き火〟を次々と乗り継いでぐんぐんと上昇していく。

 放たれた矢のように飛ぶ彼女の背中、飛行用ファントムローブに咲いたリンドウの象形しょうけいが誇らしげにはためく。


 ――構うものか。


 はなからわかっていたことだ。

 あのナコト先輩と並び立つ彼女が、わたしよりも一枚も二枚も上手なのは最初からわかっていたことなのだ。


 わたしはナコト先輩と過ごした二週間を頭の中で反芻する。

 勝負に勝つために最も必要なことは、自分の〝強み〟を押し付けること。

 高く飛ぶこと、速く飛ぶこと、それらはそのための手段でしかない。

 ただの手段に拘泥はしない。不要な思考は切り捨てる。出来の悪いわたしの脳みそは、ただ勝つための思索にだけ使う。

 わたしには、わたしにできることをひとつひとつやることしか出来ないから。


「かまう、ものか!」


 たどり着いた高台のへりから踏み切り、わたしは宙へ飛び上がる。

 自由落下。

 心臓の一拍ほどの刹那の後、地獄の釜の蓋を開けたような金切り声とともに、紫電が爆ぜる。

 骨から肉が剥がれ落ちそうな、《ヘルター・スケルター》の自壊すら厭わない殺人的な加速が、全身を襲う。


 六月の空を、紫色の稲妻が切り裂く。

 ひと飛びでダレット先輩の隣を抜け、上へ、上へ、上へ。

 血が、臓物が、わたしの身体を突き破りそうな勢いで逆方向に流れていく。

 既存のあらゆる飛行箒を凌駕する、規格外の加速性能と運動性能。

 それは《鴉羽》が産み落とした、異端の紫檀。

 わたしだけが持つ、わたしだけの相棒。

 それこそが――


『――バッタかよ!』


「《ヘルター・スケルター》だっ!」




   ◆




 ナコト先輩は、わたしの返答に小さくうなずく。

 魔女の決闘、その前日。最後の特訓の夜のこと。青暗い〝慈悲の森〟、杉の木の古株に彼女は腰掛けていて、絵画みたいに微笑んでいた。


「そう、あなたの〝強み〟のひとつは、その化け物箒、《ヘルター・スケルター》の性能。その子の持つ加速性能なら、ニナがクリスの上を取れるような状況を作り出せるかもしれない。例えば、離陸の直後なんかにね」


 飛行箒のうち、加速性能と旋回性能を重視したもの――ショート・ブルームという枠組みにあってなお、《ヘルター・スケルター》のそれは奇形的とも言えるほど突出している。

《鴉羽》のアカンサの技術力の賜物だと言えば聞こえはいいけれど、それは彼女の長い長い箒作りの探求の途上においてうっかり発露した狂気みたいなものだ。およそ人間が乗ることを考慮に入れていないその性能の特異性は、ほとんど素人のわたしでも十分に理解できるくらいには骨身に染みていた。加速よりも最高速度を重視したロング・ブルームと比べれば、なおさらのことだ。

 ダレット先輩の長箒――《デイジー・カッター》の性能がどのようなものであれ、彼女の箒を設計した人物が正気を保ったまともな人間ならば、こと離陸戦に限って言えば競り負けることはありえない。


「さらに付け加えるならば……ニナの優位性は、《ヘルター・スケルター》を含めたあなた自身の情報よ。あなたはクリスがどう動くのかをある程度予想することができる。彼女は有名人だし、何よりあなたには私がついているから。……けれどクリスにとって、あなたの実力は全くの未知。何をしてくるかわからない存在なのよ」


「……なるほど」


 わたしはうなずく。

 言ってしまえば、場代を支払い席に着き、配られた手札をわたしだけが伏せている状況だ。さらに言えば、ダレット先輩のほうは一撃でももらえば即座に破産バスト

 わたしと彼女の実力に大きな差があるといえど、条件としてはわたしの圧倒的優位、法外に有利な状況だと言えた。


 伏せられた切り札と、開示された相手の手札。

 それがわたしたちの作戦の根幹をなす最大の〝強み〟だというわけだ。

 ナコト先輩は、確認するようにもう一度うなずいてから言った。


「だからまずは、彼女の戦いのを潰す。決闘開始直後、大勢が決してしまわぬうちに、彼女があなたを理解しきってしまわぬうちに」


 理屈はなんとなくわかる。

 ダレット先輩にペースを完全に掴まれないように、出鼻をくじく必要があるのだろう。ナコト先輩の説明をわたしはそういうふうに理解して、けれどそうするためにはひとつの大きな問題があった。先の訓練でナコト先輩自身が言い放った言葉とも、矛盾するように思えた。

 悩んだあげく、わたしはおずおずと手を挙げて言う。


「……でも、わたしは〝矢〟を――」


「そう、撃てない。あなたの集中力が、ブルームセイルの制御にこそぎ取られているから。そうよね?」


 わたしは恥を忍んでこくりとうなずく。いくら状況が優位でも、わたしの手札には役がない。戦いの端緒、枕を叩くための手段をわたしは持ち合わせていなかったし、それを最初から諦めるべきだと言ったのはナコト先輩だ。

 そんなわたしの戸惑いを楽しむように、鉄棺の魔女はにやりと笑う。


「――逆に言えば、〝矢〟の激発に集中することさえできれば、撃てる」


「それは、そうですけど」


「だったら、それで十分。ねえニナ、のよ。箒を操作する必要がなく、帆を開く必要もないタイミングが。……ほんの一瞬だけれど」


 得意気に、少女が秘密を打ち明けるように、魔女はささやく。


「ねえニナ、いつだと思う? それは――」




   ◆




 殺人箒が絶叫とともにわたしを空へと打ち上げる。

 風を裂き、死者の魂を掃き散らして、全速力で。

 ダレット先輩を置き去りに、耳を打ち頬を叩く空気の壁を突き破って、《ヘルター・スケルター》は半狂乱で上昇し、


 そして、


 それは、ジャンプの、到達点。

 運動エネルギーのゼロ地点。

 本来からすれば、最も無防備になる瞬間だ。


 箒は波から宙に浮き、足場を失う。

 上昇も落下も死に絶え、帆は受けるべき風を失う。

 操舵も帆走も不可能な、刹那の空白。

 翻せばそれは、箒を操作する必要がなく帆を開く必要もない、ごく一瞬の間隙。


 つかの間の無重力の中、わたしは《尾羽根》を杖帯ホルスターから抜き打ち、呪文を詠唱する。


「【Uterino alから Koro心臓へ!】」


 想像するのは、流体となった理力ちからが身体を走る感覚。


「【Koro心臓 alから Fingroj!指先へ!】」 


 のんびり狙っている暇はない。発理と激発にのみ集中する。


「【Fingroj指先 alから Vagon!御杖へ!】」


 多次元的に織り込まれた術理スクリプトの塊が皮下を這い、杖先に青白く光る棘子を形成する。


「【Aktivigo!発理!】【 La sago光の de Lumo!単矢!】」


 わたしは上体を反らし、振り向きざまに〝矢〟を射掛ける。

 直下を飛ぶダレット先輩に向けて。


「――【Fajro!射抜けえっ!】」


 激発の呪文とともに、小さな理力マナの光弾が空をつんざき走る。

 狙いはでたらめで、威力も貧弱。


『当たるもんかよ! そんな体勢で撃った〝矢〟が!』


 案の定、めくら撃ちの矢は暗銀の魔女から大きく外れた位置に飛んでいく。

 けれど、それでいい。

 仕留める必要はないし、わたしには彼女を仕留められる技量もなかった。

 ただ、撃てると思わせることが重要だった。


 戦いのを叩き、初動での有利を握る。

 わたしが戦闘中に〝矢〟を撃てると思わせ、彼女の警戒を引き出す。

 しかるべき順番で、しかるべき手札を切っていく。わたしの強みを彼女にしていく。

 わたしに出来ることは、それだけだ。


 重力がわたしのローブの裾を引き、思い出したように身体が落下を始める。

 わたしはそのまま落下に身を任せ、次に乗るべき〝焚き火ダスト・デビル〟を目で拾う。


 楼閣型、上向きの波。

 帆は開かずに、体重の移動と反射鉱石リフ・クリスタルのエッジの切り返しを駆使してそれを目指す。

 奪い取った高度と速度の優勢を、帆走による減速で取り返されないように。


 着水。

 ふたたび粒子の波に噛みついた《ヘルター・スケルター》が吠えたてる。

 切り裂かれた粒子が、紫の波の穂を翼のように広げて飛沫しぶく。


 迅速に、過不足のないように。暴れ狂う野馬の手綱を引くように。

 わたしは《ヘルター・スケルター》の神経質な要求に、全力で答える。シャフトり、なだめ、すかし、抑制する。


 更なる跳躍。

 背と腹に力を込め、空を切り裂き飛び上がる。噛み締めた奥歯がぎりりと鳴った。

 跳躍の最高点で、もう一度術理スクリプトを展開する。

 腹から心臓へ、心臓から指先へ、指先から御杖へ。

 理力を廻し、こね上げ、制御し、流す。


「【Aktivigo!発理!】 【sago de光の】――」


 〝矢〟を形成し、振り返り、そして、驚愕に目を開く。


 ――どこにもいない。


 振り返った眼下にいるはずの、ダレット先輩の姿がそこにはなかった。

 行き場を失った理力マナが霧散する。


『……まずはお見事、ってところだな』


 風切り音のなか、山びこ石エコーがダレット先輩の声を拾う。

 高度優勢を取られたはずの彼女の声色に焦りはなかった。むしろその逆、状況を楽しんでいるような喜色を孕んだ声。


 それはまるで、取るに足らないお使いの最中に、思いがけず大金を拾った時のような。


 否、それよりも。

 わたしは混乱した頭を立て直す。


 ――ダレット先輩は、どこだ?


 牽制の矢に対して予測回避の箒動を取ったダレット先輩の上昇スピードは鈍ったはずで、そうであるならば、少なくともわたしより下にはいるはずだ。

 上を取ったわたしが振り返りさえすれば、彼女はそこにいる。そうでないとおかしいのだ。


『けどな、ひとつ教えておいてやる……牽制ってのは、こうやるんだ』


 わたしは首を巡らせて、眼下の箒影を探す。

 地表を彩るマーケットパラソルの、とりどりの色彩が索敵の邪魔をする。

 嫌な予感が、足もとから蟻のように這い上がってくる。


 ――どこだ、どこだ、どこだ。


 幾度眼下を見渡せど、そこにあるはずのリンドウの箒影は見当たらず、広がるのは朽ちた建造物の群れ。

 あとは屋台のマーケットパラソルと、その合間に見える群衆ばかりで、彼らはみな申し合わせたように視線を一点に注いでいた。


『【Aktivigo,発理、】 【Forta Lanc峻烈のo de Lumo.単槍】』 


 視線を、一点に。

 旧市街大聖堂、そのに。


『――【Rivereto!奔れ!】』


 次の瞬間、くわぁぁぁぁぁぁん、という盛大な金属音とともに。

 廃聖堂の鐘楼、その大鐘が、飛んだ。


 悲鳴を上げる暇はなかった。

 わたしは反射的に帆を展開し、急制動をかける。

 同時に身体を左にひねり込み、から軸をずらす。

 大人の身長をゆうに超える大きさの青銅製の鐘が紫炎を上げ、一瞬後にわたしがいるはずだった場所めがけてすっ飛んでくる。


 ――つまり、彼女は。


 無理な制動のお釣りをもらって崩れた体勢を立て直しながら、わたしは思考する。

 つまり彼女は、わたしの〝矢〟に対して回避箒動を取りながら聖堂の陰に隠れるように飛び、魔法の〝槍〟で大鐘をのだ。


 冗談にもほどがある。やっていることがめちゃくちゃだ。

 直撃すればぺちゃんこのヒキガエルになるようなそれを、どこの世界の誰が〝牽制〟なんて呼ぶ?


 呆れに似た驚愕、避けられたことへの安堵。

 けれどその一瞬が、思考の空白を作った。


『【Aktivigo.発理】 【Pafita p鳥撃afilon, ち、】【La sago 光のde Lumo.単矢】――』


 ぐわんぐわんと鈍く風を切りながら、を上げて飛ぶ、大鐘。


「……航跡!」


 青銅の大質量。

 巨大なシルエットが作る、その死角。

 ぴったりと張り付くようにして、ダレット先輩が。

 首筋の皮膚が、瞬時にあわだつ。


『――【Rivereto!奔れ!】』

「――【Fermi!閉じろ!】」


 出来る限りの最短速度で帆を畳み、急加速。

 目いっぱいの力で箒の柄を押し込む。

 ぐん、と高度を下げた直後、左肩に衝撃が走る。


『牽制ってのは! 本命を! 当てるためのもんなんだよ!』


 大きな金槌で力いっぱいに殴られたような痛み。

 訓練とは違う、本物の攻性魔術。

 理力の散弾が、わたしの肩口に食い込む。


「……ぐううっ!」


 飛び出そうになる悲鳴を、唇を噛んで押し殺す。

 すんでのところで直撃は避けたものの、バランスを崩して一気に高度を落としたわたしのすぐ横を、ダレット先輩の長箒が通り抜ける。


『さあさあさあ、これからが本番だ! とくと御覧じろ――』

 空の階を駆け上がるリンドウの影は、太陽の逆光のなか、高らかに咆吼する。


『――これが! あたしの《デイジー・カッター雑草狩り》だ!』

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