《劔》のクリスティナ(2)

 決闘の時間が近づくにつれ、お祭り騒ぎの雑踏は密度を増してゆく。

 太陽は空高く昇り、そろそろてっぺんに届こうかというような頃合いだった。

 六月の空は夏の盛りにはまだ遠かったけれど、汗がじわりとにじむ程度には暖かかった。


「本当にごめんなさい……絶対に、すぐに返すから」


 串焼き屋台のマーケット・パラソルの下、恥じ入るように小さくなったアリソンは、レモネードのグラスを両手で包み込むようにしてそう言った。

 後先考えずに賭け屋に全財産を投げつけたアリソンはもはや無一文で、レモネードのたった一杯すらもわたしにお金を借りないと買えないありさまだった。


「本当に、レモネードの一杯くらいなんでもないのに」と、わたしは言った。

 彼女が賭けた金額に比べれば、飲み物のひとつやふたつ、安いものだ。わたしとしてはレモネードくらいご馳走しようと思ったけれど、頑固なアリソンはわたしの申し出を丁重に断っていた。


「いいの。友だちとは絶対にイーブンな関係でいたいし……なにより、このあとすぐに大金持ちになる予定だから」


 アリソンはそう言ってかぶりを振り、にしし、とチャーミングに笑う。

 綺麗に揃った白い歯と金色の髪が、マーケット・パラソルの作る日陰の下でなお輝いて見えた。

 レモネードの精霊のようだと思った。本当にそんなものがいるのかどうかはわからないけれど、世の中にはたくさんの精霊が実際に存在するのだから、たぶんレモネードの精霊もいるのだと思ったし、いたとしたらきっとアリソンのような存在だろう。


 日陰の下、折りたたみ椅子に座って眺める旧市街の雑踏は、とても明るく見えた。

 木で出来たお面をかぶった少年が、老婆の手を引いていた。

 身なりよく髪をなでつけた紳士が、装飾品の出店の前で店主と何事かを話していた。どうやら女性に贈るブローチを選んでいるようだった。

 何人かの少女たちのグループが、ひとつの包みに入ったお菓子を分けあって食べながら、遠眼鏡の調子を点検するように顔に近づけたり離したりしていた。


 そんなふうに愛すべきろくでなしの国民たちは思い思いにそのお祭りを楽しんでいて、彼らにとってはその日が平日かどうかなんてことは全然知ったことではないようだった。

《魔女の決闘》なんて血なまぐさい言葉がまったくもって似つかわしくない、ひどく平和で、のん気で、空々しいくらいに牧歌的な、天気のいい日だった。


 アリソンの横顔に視線を戻して、わたしは言う。


「でも、本当にびっくりした。アリソンがあんなことをするなんて。だって、最初は決闘に反対していたのに」


 アリソンは首を回し、わたしの顔を真っ直ぐ見てかすかに微笑んだ。


「もちろん、いまも無茶なことはしてほしくないと思ってる。けど、わたしはニナに約束したわ。『あなたのことを応援する』って。勝ちとか負けとか損とか得とか、そういうのは本当にどうでもいいのよ」


 レモネードをほんのちょっぴり、とても大事そうに飲んでから、アリソンは続ける。


「だから仮に、もし仮にニナが負けたとしても、あのお金は全然惜しいものじゃあないの。わたしはもっと大事なものに、お金を払ったんだと思ってる。わたしは何があってもあなたの味方よ、ニナ」


 嬉しくて、胸が震えた。

 曇りのないアリソンの表情が嬉しくて、わたしは踊りだしたくなってしまう。許されるのであれば、「これがわたしの友だちです!」と書いた看板を掲げてオーゼイユの街を彼女と練り歩いてもいいと思った。


 アリソンはナコト先輩のようにわたしに何かの才能を見出したわけではなかったし、きっと理性ではわたしがダレット先輩に勝つとは思っていなかったのだろうと思う。

 けれど、わたしは嬉しかったのだ。

 彼女は何があってもわたしの側に立ってくれると、そう言ってくれたし、それを行動で示してくれた。

 あなたはここにいてもいいのだと、そう言われている気がした。


 わたしはアリソンに感謝の気持ちを伝えたくて、言葉を探した。ただの「ありがとう」では、その気持ちを十分に伝えられる気がしなかったからだ。

 ほっぺたにキスして抱きしめようか、そんなふうにも考えたけれど、冴えた答えは結局レモネードを飲み終えてしまっても出てこなかった。




 オーゼイユ旧市街跡の高台には、かつて聖堂だった廃墟があった。

 旧市街の瓦礫の街並みを見下ろすように建てられたその聖堂の残骸は、戦争の傷と時間の経過がもたらす摩耗のせいですっかりくたびれ果てていた。

 建てられた頃は立派で荘厳なものだったのだろうけれど、てっぺんの鐘楼からはいつ青錆びた大鐘が落ちてくるかひやひやしたし、壁面に施された精緻な彫刻はもうほとんど判別のつかないものになっていた。

 構造自体のつくりの頑丈さのおかげで建物としての骨組みはそこにしっかりと残っていたけれど、聖堂としての尊厳や意味はとっくの昔に雨に洗い落とされて、土に溶けて消えてなくなってしまっているようだった。


 高台からは新市街の時計塔がよく見えて、あと五分程度でちょうど正午を指すくらいの時間だった。眼下に見下ろす旧市街は、色とりどりのパラソルと人波で花畑のように見えた。


「遅いですね、彼女たちは」と、審判を務めるミス・ロウマイヤーは言った。

 正規の手続きを踏んだ学生同士の決闘の場合、審判員の資格を持った学校職員が立ち会うことになっていた。

 彼女らを抜きにして決闘を行った場合、だいたいにおいて手段や結果が過剰なものになりすぎるためだ。魔女の決闘なんて大仰な言葉で飾り立てたところで、突き詰めて言えばそれは結局のところ私闘だ。

 私的ないさかいを無理やりに力尽くで解決する手段なのだから、ルール無用でやってしまえば当然に当然の結果が吐き出される。最低限そういった不幸な結果を招かないためにも、我々学生には、正規の手続きを踏み審判員を立てることが義務付けられていた。


「まあ、彼女たちが時間にルーズなのは、いまに始まったことではありませんが」


 ミス・ロウマイヤーは嘆き顔で、とても長いため息を吐いた。肺ごとこぼれ落ちそうなため息からは、彼女が日常的に二人に振り回されていることが察せられた。


 わたしとアリソンは顔を見合わせる。

 聖堂が作る影の下、アリソンは少し不安そうな顔をしていた。わたしの顔も、たぶん似たようなものだったのだろうと思う。


 その時だった。

 不意に、じわり、と。

 眼下に見える旧市街の人波が、ひとりでに割れたのは。


 海を割る偉大な預言者のように――いや、これはあまり正確な表現ではない。

 より正確を期すのであれば、彼女たちは津波そのものだった。彼女たちは彼女たちの意思とは無関係に、進む先の形あるものすべてを片っ端から押し流し、なぎ倒し、巻き上げ、引きちぎる。

 通ったあとに残るのは、なべて均したように平坦な荒野だけだ。だから彼女たちの周りには、水を張ったバケツにインクを落としたような、ぽっかりとした空間が自然に出来上がる。

 人びとと彼女たちの物理的な距離は、そのまま畏怖と崇敬そのものの質量だった。


 彼女たちは高台の坂道を、こちらに向かってゆっくりと登ってくる。

 口々に、ひそやかに。観衆たちは《柩》、《劔》、と静かに囀る。


「私もニナに一口賭ければよかったかしら」


 決して大きな声ではなかった。

 けれど、彼女の玲瓏な声は、直接耳元でささやかれたように聞こえてくる。

 長くて真っ直ぐな、奇妙なくらいに深い漆黒の髪の毛。

 不自然なくらいに空虚で白い、陶磁器の肌。

 長いまつげの向こう側、まばたきのたびに色を変え、すべてを見渡す澄んだ瞳。


 ――鉄棺、《柩》。ナコト・ヴィルヘルミナ・フォン・ユンツト。


「賭けちゃだめだろ。お前、一応あたしの立会人なんだぞ」


 そのかたわら、ピンクブロンドの魔女が言った。

 繊細で女性的な丸みを帯びた、小さな体躯。

 彼女の肩には、不釣り合いに長大な箒が騎士の大剣のように担がれている。

 腰に巻かれた杖帯には、鈍色の輝きを持つ杖が。

 猫のように釣り上がった眼窩には、すべてを敵対的に睨めつける肉食獣の翠眼が。

 

――暗銀、《劔》。クリスティナ・ダレット。


「しょうがないじゃない、あなた友達がいないんだから」


「お前にだけは言われたくねえよ……」


 軽口をたたき合いながら、彼女たちはわたしたちのほうに歩いてくる。

《柩》はひらひらとこちらに手を振り、《劔》はへらへらと笑いながら、緊張を全く感じさせない足取りで。

 恐ろしく間抜けな話だけれど、わたしは彼女たちと相対するそのときまで忘れていたのだ。


 あの異常な賭け率オッズの意味を。

 彼女たち二人が、弱冠十七歳にして《忌み名》を拝領するほどの、雲の上の存在だったということを。

《忌み名》持ちとそうでないものとのあいだの、圧倒的な隔絶を。


 ミス・ロウマイヤーを挟んで、《劔》と《柩》はわたしたちの前に立つ。

 歯の根が合わなかった。全身の汗腺から、冷や汗が吹き出していた。


「《劔》の……クリスティナ……!」


 わたしが彼女のを口にしたのは、ほとんど本能からくる防衛行動だった。

 飛行用ローブを着込み、箒を手にした臨戦態勢のダレット先輩の、底知れない恐ろしさに完全にていた。


「おっ、いいね。やる気満々ってわけだ」


ダレット先輩は、笑う。


「いま、お前――あたしをと呼んだな?」


 細められたダレット先輩の瞳が、刺々しい深緑の光を帯びる。


「遅いですよ、二人とも。あと三分で失格でした」


 今にも飛びかかってきそうな獰猛さを制したのは、ミス・ロウマイヤーだった。


「間に合ったんだからいいだろ」


 ダレット先輩は不服そうに言う。

 ミス・ロウマイヤーは心底嫌そうな顔をして、月まで届く長いため息を吐いた。

 彼女はしわの寄った眉間を揉みほぐしてから、「……いいでしょう。それでは、ルールを確認いたします」と言った。


「ルールは飛行箒フライング・ブルームによる一騎討ちジョスト。敵箒の撃墜か、敵箒の降参が勝利条件となります。降参する場合は、信煙弾を打ち上げること」


 ミス・ロウマイヤーは錆びついたミシンの声でルールを説明する。

 わたしの対面にはダレット先輩がいて、その後ろには彼女の立会人であるナコト先輩が立っていた。

 決闘を前にして、二人はずいぶんとリラックスしているように見えた。

 ダレット先輩は、威嚇と喜悦が入り交ざったような顔で笑っていた。唇の隙間からのぞく鋭い犬歯が、わたしの首を簡単に噛み砕いてしまいそうに獰猛に光っていた。

 ナコト先輩は、そのとなりでただ黙ってわたしを見つめていた。彼女の表情からはあまり多くのことは読み取れなかったけれど、彼女の万華鏡の瞳は、わたしを試すように見つめていた。


 ――お前の価値を、空のかたちを、見せつけてみろ。


 そういうふうに言われているような気がした。

 わたしは汗がじっとりとにじむ両手を握りしめて、彼女の両目を見つめ返した。

 ゆっくりと、部屋の換気をするように、わたしは息を吐く。身体の中に渦巻く彼女たちへの畏怖を振り払う必要があったからだ。

 わたしは一度目を閉じ大きく息を吸い込んで、なんでも食べてしまう大きなアナグマを想像した。彼はわたしの身体の中心の深いところに住んでいて、わたしの心の中のろくでもないものを残らず捕まえて綺麗に食べてしまうのだ。


 ――なんでも食べるアナグマ、なんでも食べるアナグマ、なんでも食べるアナグマ。


 そうやって心の中で三度唱え、その巣穴にネガティブな感情をすべて放り込んで蓋をした。

 綺麗さっぱり恐怖が消えたかといえば、それは嘘になるけれど。そうすることでわたしは自分の心のポジションを、あるべき位置に上手く戻そうと努力した。

 わたしは目を開き、もう一度ナコト先輩を見つめる。物言わぬナコト先輩は、変わらずただわたしを見つめていた。一瞬だけ笑みに細められた彼女の瞳からは、そのとき彼女が何を思っていたのかを計り知ることは出来なかった。


 ミス・ロウマイヤーは説明を続ける。


「それでは、発射筒を渡します。ミス・ダレットが赤の信煙弾、ミス・ヒールドが緑の信煙弾です」


 ミス・ロウマイヤーのローブの内側から取り出された二丁の信煙弾の発射筒は、一般的なピストルよりも短く、先端がのようになった大きな銃口を備えていた。ちょうど警察ヤードが腰にぶら下げているピストルを、間抜けな太っちょにしたような見た目だ。

 フレームの鉄の感触は鈍く、ひんやりと重かった。

 ダレット先輩は発射筒をひととおり点検したあと、杖帯ホルスターのベルトの、杖とは反対側にくっついた雑嚢ざつのうにしまいこむ。わたしもダレット先輩にならって、発射筒を雑嚢に突っ込んだ。らっぱの銃口が邪魔をしてなかなか上手く入らず、ぎゅうぎゅうと押し込んでから雑嚢のフラップを閉める。

 決闘中に落っことしてしまうことが不安で、わたしはフラップが閉まっているかどうかを何度も確かめた。

 わたしが発射筒をしまいこんだのを確認してから、ミス・ロウマイヤーは言った。


「……降伏は恥ではありません。生命の危険を感じたら、すぐに撃つこと。いいですね?」


 彼女はそれからわたしの目をじっと見て、「いいですね?」と念を押すようにもう一度言った。

 あまりいい気分はしなかった。まるで降参するのがわたしだと、はなから決めてかかっているような態度に思えたからだ。

 けれど、今さらそれについて何か口に出したりすることはしなかった。わたしは器用な人間ではないから、目の前のものをひとつずつ片付けて積み上げることしかできない。ナコト先輩と出会う前から、エルダー・シングスに入学する前から、産まれたときからずっとそうだった。

 そして、いま片付けるべきものは、《劔》のクリスティナだけなのだ。

 とにかく、それ以外のことに心を動かされたくなかった。


 決闘に負ければ、シクラメンの三年生に笑いものにされるかもしれない。

 ミス・ロウマイヤーはそれ見たことかとため息をつくかもしれない。

 わたしがいま手にしているものがすべて失われてしまうかもしれない。


 でもそんなものはいまここに至って、全部些末なことだと思うように努力した。

 終わったあとでまた考えれば良いことだ。

 ナコト先輩やアリソンは、わたしの価値を、わたしの存在を、認めてくれている。

 それだけでいい。

 あとはわたしがわたし自身に賭け金を支払うベットするだけだ。


 わたしはミス・ロウマイヤーに向かって「わかりました」とだけ短く答えた。

 ミス・ロウマイヤーはうなずき、最後のルールを説明する。


「また、特別条件として、ミス・ヒールドによる有効打が一発でも認められた場合、ミス・ヒールドの勝利となります。ミス・ダレット、異存は無いですね?」


「異存はないし、二言もない。いいからさっさと始めようぜ」


 ミス・ロウマイヤーの言葉に被せるように、ダレット先輩は即答した。

 そのあけすけな物言いに、ロウマイヤー先生は渋い顔でダレット先輩を睨みつける。彼女はその威を全く意に介していないようで、待ちきれないとばかりに身体を揺らしていた。

 ミス・ロウマイヤーは諦めたようにため息をつき、決闘の開始を声高く告げる。


「わかりました、これより決闘を開始します。立会人は下がるように――では双方、対敵に敬意を払い、名乗りを」


 高台の下の観衆が、廃屋の聖堂が、アリソンが、そして、ナコト先輩が。

 みなが見つめるなか、わたしたちは開戦の名乗りを上げる。


 わたしは、叫ぶ。

 左手で箒を地面に突き立てるように掲げ、右手で抜いた《尾羽根の杖》を・ダレットの眉間に突きつけるようにして。


「――エルダー・シングス魔術学院、薬学部二年生! ニナ・ヒールド! のニナ!」


 ダレット先輩は、笑う。

 戦いの歓喜に酔うように。長箒を担いだまま、《鎧通しの杖》をわたしの喉元に突き刺すように。


「――我が身、我が研鑽、我が忌み名は暗銀。我こそは《劔》のクリスティナ。誇りを賭けて――いざ、いざ! いざいざいざ! 尋常に!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る