1-5:《劔》のクリスティナ - Christina the "Black silver"
《劔》のクリスティナ(1)
忌み名(witch name)とは、ク・リトル・リトル王国において魔女に与えられる称号である。
その歴史は古く、発祥は建国以前、はじまりの魔女の時代にまで遡る。
元来は呪いに対抗するために姓名(true name)を隠す実際的な意義を持っていたが、時代が下るに従って儀礼的な側面のみが残るようになった。
魔術の進歩により呪詛座標を指定することが容易になったこと、並びに呪詛への防衛手段の発達に伴って、真名隠匿による防衛法が陳腐化したためである。
現代においての忌み名は、魔女の名誉称号であると共に、その魔女が操る代表的な術理を讃えるものである。
一般的に、忌み名はその魔女の最も得意とする魔術にちなんで付けられるとされ、忌み名の由来となった魔術は
――
◆
〝オーゼイユ旧市街跡地〟は、大昔の戦争で騎士たちに焼き討ちされた古い街並みの残骸だ。
焼け焦げて朽ちた建物の残骸がそこらじゅうでうなだれる廃墟群からは力強い粒子の波がひっきりなしに立ち昇り、オーゼイユ近郊でも指折りの
《劔》のクリスティナとの、決闘の当日。
アリソンとわたしはその旧市街跡を二人で並んで歩いていて、空は突き抜けるように高く、嘘みたいに晴れ渡っていた。
三角帽子のつばが横長に切り取った六月六日の青い空には、細くかすれた雲が何かの拭き残しのように薄くひっついていた。
「――特に、こんなに天気の良い日はすごい波が来るんだから」
シナモンの香りの髪をハーフアップにしたアリソンはそういうふうに言っていて、けれど、彼女にしたって雑誌か何かの受け売りだ。
わたしより少しだけ誕生日の早いアリソンは、ときどきそうやってお姉さんぶることがあって、けれどわたしはそれがちっとも嫌ではなかった。いまとなってはわかるけれど、彼女は実際に人知れずわたしを良くないことから守ろうとしてくれていたように思う。
よくよく考えてみれば、誰かに嫌なことを言われるときは、決まってそこにアリソンはいなかったからだ。
決闘に反対していたのもその一環だったのだろうし、渋々ながら決闘の立会人になることを承諾してくれたのも、きっとそうだろう。わたしにしたって、大事な決闘に立ち会ってもらう人間を選べと言われたら、彼女以外には考えられなかった。
「ね、ニナ。その飛行用ローブ、すごく似合ってる。『マジック・オーソリティ』でしょう? いまのあなた、とってもクールで強そうに見えるわ」
常に公明正大なわたしの大事な友人は、左隣を歩くわたしに微笑みかける。
「本当に?」
「本当に。暗銀の魔女でも簡単にやっつけられそうなくらい。――ああ、でも、食べ物なんかは買えないわね……こぼして汚しちゃうと大変だから」
アリソンはそう言って残念そうに肩をすくめる。彼女の視線の先には、露店で切り売りされる豚の丸焼きがあった。
ぱりぱりの皮に、したたる肉汁。気前よくどっぷりとかけられた玉ねぎとソースの匂いは芳醇で、とても食欲をそそるものだった。
けれど、直後の決闘で行われるであろう激しい空中箒動を考えると、何か食べ物をお腹に入れることは賢明な選択とは言えない。わたしは苦笑いでアリソンに返事する。
「どちらにせよ、食べるのは良くない……かな。ええと、その……飛んでるときにお店を開くことになるかもしれないから」
「お店を開く?」
「全部吐き出しちゃうってこと」
鉱石テレビと
どこから聞きつけたのか、瓦礫の街のそこかしこには学校や仕事をほっぽり出して駆けつけた魔女やオーゼイユ市民が首から遠眼鏡をぶら下げうろうろしていて、それを狙った商魂たくましい露天商たちが出店を構えていた。
なんともばかばかしいことに、自分に関係のない他人の喧嘩というものは多くの人にとってエキサイティングなものなのだ。
まあ、それについてはいまも昔も変わらないのかもしれないけれど、それにしたって当時はひどかった。
彼らは色とりどりのマーケット・パラソルを好き勝手に地面に突き刺して、思い思いの品を売る。
串焼き、装飾品、よくわからない木彫りの工芸品。
その中でもだいたいの場合において一番盛況なのは
オーゼイユの街に限らず、ク・リトル・リトル王国の国民にとって賭け事はたしなみだ。賭けの大小は人によるけれど、基本的には何だって賭けるし、何にでも賭ける。
コインの裏表、明日の天気、それに後輩の出処進退。つまり、何でも何にでも。
わが国についての有名なジョークに、こういうものがある。
曰く、「ク・リトル・リトルがいまも女王のものなのは、単に女王がまだ賭けに一度も負けていないからだ」とかなんとか。
まあ、一言で言えばそういうお国柄というか、国民性なのだ。
もちろんその日も
「さあさ、張った張った! 張って悪いは親父の頭、負けて悪いは喧嘩に博打! 《劔》かニナか、掛け金総取り大一番だ!」
威勢の良いかけ声は賭け屋のマーケット・パラソルから遠く離れたわたしたちにもよく聞こえて、けれどそれとは裏腹に、その表情は途方にくれたものだった。木箱の上に立つ彼を取り囲む聴衆の人びとも、なんだか覇気がないように見える。
「どうしたのかしら? 盛り上がっていないように見えるけれど……」
アリソンが怪訝に首をひねる。
彼女は疑問に思ったようだけれど、わたしにはだいたいのことのあらましはわかっていた。黒板に申し訳なさそうに書かれたとんちきなオッズが目に入っていたからだ。
-
-
つまり、賭けが成立しないのだ。
我らがエルダー・シングスの代表箒手と、無名の落ちこぼれ。
汗水垂らして稼いだお金をどちらに賭けるべきかは火を見るよりも明らかで、それは誰が悪いというようなことではなかった。
強いて言えば悪いのは、賭けの対象にならないような勝負に出張ってくる
面白い賭けになるような勝負を探して、適正な
アリソンがそれを察したのは、はげ頭を真っ赤にしてがなりたてる賭け屋の声がだんだんと余裕のないものに変わる頃だった。
「誰かニナ・ヒールドに張ろうってやつはいないのか!」
わたしとアリソンは顔を見合わせる。
アリソンの顔はなんだかちょっと奇妙な表情を浮かべていて、あつあつのミートボールを間違ってまるごと飲み込んでしまったままどうにもならなくなった牧羊犬みたいな顔で、こちらを伺うようにわたしの目をじっと見つめていた。
同情、あるいは憐憫、あるいは彼女自身の悔しさを表に出さないように彼女は彼女自身を必死で押さえつけていて、でも、客観的にそれは成功しているとは言いがたかった。
だからわたしはアリソンに向かって、出来る限りの自信に満ちた微笑みを返すことにした。
上手くいったかどうかはわからないけれど、そもそも勝ち目が薄いことは承知のことだったし、そのほんのわずかな光でさえ、ただ口を開けて残り少ない学院生活を過ごすよりは遥かに分があったからだ。
「大丈夫」とわたしは言った。
「全然気にしないから」
アリソンは無言でうなずいて、少しぎこちなく笑い返した。
どちらともなくふたたび足を進める。
さっさとこんな場所は横切ってしまって向こうの屋台でレモネードでも買って二人で飲めば、ほんの少しだけ暗くなった気分も晴れるだろうと思った。
聞き覚えのある声が人だかりから聞こえてきたのは、ちょうど賭け屋の前を通り過ぎようとしたときだった。
「掛けが成立しないの? それは本当に残念。でも、仕方ないものね。《
〝
赤いブローチの三年生。
その日の彼女は大浴場で出会ったときとは違って、仕立てのいい飛行用ローブを身に着けていた。シクラメンの紋章が刻まれた彼女の飛行用ローブは、わたしのものと比べてよく使い込まれており、彼女の身体によく馴染んでいるように見えた。
彼女は同級生の魔女を幾人か引き連れていて、わたしたちには気づいていないようだった。よく教育された従者みたいに付き従う魔女たちの、追従するような笑い声に気をよくした彼女は、いっそう大きな声で〝ブービー〟を非難する。
――それでは次のニュースです。
「でも、どうして〝ブービー〟って〝ブービー〟なのに進級できたのかしら? そういえばコーシャーソルト先生とずいぶん仲が良いみたいだけれど、それと何か関係があるのかしら? 《柩》のナコトともそうだけれど、彼女って誰かと仲良くするのがとても上手なのね」
ひどくばかげた話だった。
ありていに言えば下衆の勘繰りでしかないそれは、そのことごとくが的外れでどうしようもないものだった。確かにわたしが進級できたのは、コーシャーソルト先生の粘り強い指導によるところが大きい。
けれど、わたしがわたしをつなぎ止めるための代償を――努力を支払い積み上げたのは他ならぬわたし自身で、それを否定されるのはすごく心外だった。
そもそもなんだってあの人は、自分と関係の無い人間の評判を落とすことにあんなに一生懸命になれるのだ?
「なんなの、あの子」と、わたしの隣でアリソンが言った。
「ありえない。わたし、文句言ってくる!」
顔を真っ赤にして肩を震わせたアリソンが、賭け屋の人だかりのほうに足を踏み出す。途中でわたしを振り返り、にっと笑って彼女は言う。
「ニナはそこで待っていて」
わたしはうなずきかけて、でも、これでいいのだろうか? と思った。
これでいいのか?
――それでは次のニュースです。
ニナ・ヒールドは、また誰かに助けてもらう模様です。彼女はいつだって誰かの陰に隠れて下を向いているようです。人生がくその詰まった靴下になってしまうまで。
「アリソン、待って」と、わたしは言った。
「わたしが行く」
わたしは足を踏み出して、アリソンの肩に手を置いて彼女を制止した。
わたしが訂正しなければならない、と思った。わたしに向けられた悪意や侮りはわたし自身のもので、わたしについての間違った風評はわたし自身が正さなければいけないものだからだ。
相手が強かろうが大勢だろうが、関係ない。
少なくともダレット先輩はそう言っていて、そのダレット先輩と決闘するのはわたしなのだ。こんなところで落ち込んで黙っていては、《劔》のクリスティナには絶対に勝てっこない。
うつむいて、下唇を噛んで。地べたを見つめているだけでは、自分の〝空のかたち〟なんて、いつまでたっても見えてくるわけがない。
汗ばむ拳を握りしめると、《ヘルター・スケルター》の武骨な感触がわたしを勇気づけてくれている気がした。
わたしは精いっぱいの大声で、叫ぶ。
「――あな、あな、あなたなんか、ダレット先輩に比べたら、ぜんっぜん恐くない!」
群衆が静まり返り、彼らの視線がわたしに集中する。
背後から声を掛けられた三年生の魔女は、面食らった表情でわたしのほうに向き直った。
それから器用にそのうろたえた表情を一瞬で消し去って、わたしとわたしの後ろにいるアリソンを交互に見比べてから、不遜な表情で言った。
「あら、ごきげんよう、ニナ・〝ブービー〟・ヒールド。立派なローブを着て友だちと一緒にいれば、ずいぶん強いのね、あなた」
彼女の背はわたしより少し高く、わたしを見下ろすような形だ。
でも、そんなのどうだってよかった。
わたしは彼女よりも遥かに強大な敵に立ち向かうために旧市街の瓦礫の街に立っているのだ。黙って下を向いてやり過ごすために旧市街くんだりまで来たわけではない。
わたしは彼女をぐっと睨み返して言った。
「……だったらなんなの。わたしは〝ブービー〟じゃないし、いんちきで二年生になったわけじゃない! あなたにとやかく言われるようなことなんて、ひとつもない! わかったら、もう黙ってそこでえらそうに見てろ! このっ……ええと……その、なんだ、このくそばか!」
三年生の彼女は、不快そうに眉根を寄せる。
取り巻きの魔女たちの悪意の視線が突き刺さる。
それは、罵倒の先触れだ。
あと一瞬ののちに、彼女たちは罵詈雑言のつぶてをわたしに投げつけるのだろう。
そう思ってわたしが身構えたとき、横合いから気の抜けた声が上がった。
「あいたっ」
声のほうに振り向くと、賭け屋がはげ頭を押さえてうずくまっている。
「なんなんだ、くそ」と、毒づいて立ち上がった彼の右手には革袋が握られていて、その形や大きさにはどうも見覚えがあった。
アリソンの財布だ。
どうやらそれをアリソンが掛け屋に放り投げたらしかった。
投げつけられた賭け屋としてはたまったものではなかっただろう。出店であれこれ買い食いするために、アリソンの財布には金貨や銀貨がたくさん詰まっていたからだ。
掛け屋を指差して、アリソンが叫ぶ。
「ニナ・ヒールドに全額! その財布に入ってるお金、全額よ!」
その言葉に観衆がどよめき、賭け屋はうろたえる。アリソンはそんなことお構いなしに、魔女たちに向き直って言った。
「いまニナをいじめたあなた。それにあなたとあなた」
順番に魔女たちを指差して、アリソンは宣言する。
「わたしが大金持ちになっても知らないんだから!」
どっと歓声が上がったのは、そのすぐあとだ。
「いいぞ嬢ちゃん! よく言った!」
「俺も〝ブービー〟に一口、いや五口だ!」
「じゃあ俺は《劔》だ! 《劔》に十口!」
「夢を見させてもらうわよ! 〝ブービー〟!」
群衆たちが口々に叫びながら、賭け屋に銀貨や金貨を投げつける。
容赦なく降り注ぐ金銀のつぶてに身を
「いたっ、痛い、痛い! 順番だ! 順番! わけがわからなくなる! 成立! 成立! 賭けは成立だ!」
呆けた顔でその騒ぎを見つめていたわたしの肩に、アリソンの手が置かれる。
アリソンは満面の笑顔で言った。
「ニナ、あの子たちを見てよ。あの後ろ姿。すごくかっこ悪い」
アリソンが指差した先には、すごすごと賭け屋をあとにする魔女たちの姿があった。
三年生の彼女の背中に小さく見えるシクラメンの紋章は、心なしか少しうなだれて見えた。
わたしもアリソンと同じように笑って、目の前に差し出された彼女の小さな拳に、わたしの拳をこつんとぶつける。
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二人で仰ぎ見た賭け屋の黒板には、
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