〝ブービー〟、牙を研ぐ(2)
その日の〝慈悲の森〟の夜は、濃いインクを溶かしたようなうっそうとした青色だった。
呼吸をするだけで肺の中が真っ青になってしまいそうな青黒い森の中、鉄棺の魔女の白い肌は針葉の隙間から漏れる月の光に照らされて、普段よりもなお病的に美しく見えた。
クリスティナ・ダレットに勝つための、ナコト先輩の〝とっておき〟の策。その特訓の合間のことだ。
「ねえ、ニナ。《文具屋》のニナ。あなたはどう思う? 戦いに勝つために最も必要な物ごとって、何だと思う?」
林立する杉の木の一本を背もたれに、不意にナコト先輩が言った。
少し考えて、わたしは答える。
「……高く飛ぶこと、ですか? うんと高く、誰よりも」
選ぶために、力を得るために、わたしたちは誰よりも高く飛ばなければならない。
それは他ならぬナコト先輩が教えてくれたことだった。
ナコト先輩は表情を変えずにうなずく。わたしの答えは彼女が予想していた範囲内のものであるらしかった。
「そうね、それもひとつの回答ではある。けれど……もっと大局的な意味での話よ。高く飛ぶこと、速く飛ぶこと、それらは状況を作るための手段でしかない」
ナコト先輩はうつむく。どう説明すれば上手く相手に伝わるのか、そういうふうなことを思案しているようだった。彼女は壊れそうに白い手のひらで細い顎を撫でてから、顔を上げて言葉を続ける。
「突き詰めて言えば、勝負に勝つために最も必要なことは、自分の強みを押し付けることなの」
「……強みを押し付ける?」
わたしは彼女の言葉をそのまま繰り返した。
「そう。主導権を握る、と言い換えてもいいわ。自分にとって有利な状況を作り出し、自分の優位性を押し付ける。相手の選択肢を削り取ることによって、戦いの流れを掴ませない――つまり、『自分はやりたいことをやる。相手のやりたいことはさせない』――結局のところ、それが
ナコト先輩は、《ねじれの杖》をくるくると振りながら続ける。
「クリスはその典型ね。ロング・ブルームの最高速度と最大運用高度を活かした
ナコト先輩の話を聞きながら、わたしはダレット先輩が長箒に乗って空を飛ぶところを想像した。彼女はあの深緑色の瞳で獲物に狙いを定め、急降下して、わたしを箒ごとばらばらにする。それは言うなれば、猛禽の狩り。
実にぞっとしない想像だ。
「もちろん強みを押し付けるためには、技量で相手を上回らなければならない。気を悪くしないでほしいのだけれど、現状のあなたとクリスとの実力差は圧倒的……天と地ほどの差よ。彼女はやりたいことをやりたい放題にできるし、こちらはほとんど何もさせてもらえない。つまりあなたはほぼ常に、クリスに上を取られ続けることになる。必ずそういう戦いを強いられる……本来であれば」
ナコト先輩は《ねじれの杖》を弄ぶ手を止めて、そこで句読点を打つように言葉を切った。
それから小さく息をついて、彼女は続く言葉を紡ぐ。
「けれど、彼女には彼女の強みがあるように、ニナにはニナの強みがある。なんだかわかる?」
そう言うとナコト先輩は唇を真っ直ぐに結んで、わたしを見つめた。
彼女の視線を感じながら、わたしはしばらくのあいだ考え込む。
――わたしの、強み。
ダレット先輩と自分を比較して考えれば考えるほど、自分という存在がどんどん縮んで小さくなっていくような気がした。
――お前の内側には、何があるんだ?
わたしの中のどこかに、ダレット先輩より優れた〝強み〟なんてものが、ひとかけらでも存在するのだろうか? いくら考えてみても、そんなものはどこにも見当たらなかった。
自分自身の力すら信用できていないのに、どうしてダレット先輩と戦おうなどという大それたことを考えたのだろう? ナコト先輩が勝てると言ったからか? 彼女の言葉をただ鵜呑みにして舞い上がって、自分で決めたような気分になっていただけなのか?
次第にろくでもない思考がぐるぐると頭の中で渦巻きだして、その場でうずくまってしまいたい衝動に駆られた。悲観のうねりはとても強く、わたしをあっという間にどこかに運び去ろうとしていた。
自分ではもはやどうにも止められないその濁流を断ち切ったのは、ナコト先輩が両手を打ち鳴らす乾いた大きな音だった。
「はい、おしまい」胸の前で両手を合わせたまま微笑んで、ナコト先輩は言った。
「謙虚なのはあなたの美点のひとつかもしれないけれど、行きすぎるとただ卑屈なだけよ。卑屈は思考の停止を生む。思考の停止が生むものは――言わなくたってわかるでしょう?」
穏やかな、しかしきっぱりとした声だった。
「でも……全然、見当がつかないんです。本当に、わたしにあるんでしょうか? その、ダレット先輩に対抗できるような何かが」
わたしは正直に答えた。
「わたしは、勝てるんでしょうか。……その、ダレット先輩に」
戦う覚悟がなかったわけではない。勝ちたいという気持ちもあった。けれどその勝ち筋だけは、濃い霧に包まれたように輪郭すらあやふやだった。どうしても、彼女に勝てる気がしなかったのだ。
「どうして?」
「……どうしてって?」
「どうして、そう思うのかしら。どうして、あなたは自分がクリスに勝てないと?」
勝てる理由を探すほうが難しかった。
圧倒的な実力差。
踏んだ場数。
費やした時間。
何よりも――
「わたしには、なにも、ないから」
わたしには、ダレット先輩の持つよすがとなるような部分がなかった。
高みへの渇望。空への推進力。空を飛ぶための、大事な部品。
朝の大浴場で投げかけられたダレット先輩の言葉が、まるで農夫の分厚い手のひらみたいにわたしの肩をがっしりと掴んで離さなかった。唇を噛んでうつむくわたしを見つめて、ナコト先輩は小さくため息をつく。
「卑屈はだめって言ったじゃない」
「でも……!」
「……でも、足りないものがある。彼女にはあって、自分にはないものが」
わたしの言葉を遮って、ナコト先輩は言う。
この世のありとあらゆる色を示す彼女の瞳はひとかけらの曇りも濁りもなくて、心の内をすべて見透かされているような気がした。
そのときのわたしは、きっと何かにすがるような顔をしていたと思う。彼女なら初めて出逢った日のように、わたしの中に何かを見出してくれるに違いない、そういう期待があった。
ナコト先輩は「ふむ」と一言だけ言って、目を伏せ顎に手を当て押し黙る。
それから、向かい合ったわたしと彼女のあいだのちょうど真ん中あたりに両手を伸ばして、「あなたも手を出して」と言った。
わたしが言われるままに両手を差し出すと、彼女は冷たくて滑らかな手のひらで優しく握った。
「……ねえ、ニナ。
優しく包み込むその手のひらと同じ声色で、ナコト先輩は言葉を紡ぐ。
煙るような長いまつげのあいだから、わたしをじっと見つめていた。鮮やかな瞳の奥にはわたしの姿が映っていて、彼女の瞳に魂ごと吸い込まれた自分自身の姿のように見えた。
「元来、魔女が空を飛ぶということは、死者への祈りなの。空気中に漂う死を掃いて、私たちはそれを鎮魂に充てる。どうか、安らかな眠りでありますように。どうか、あるべき場所に辿り着けますように」
ナコト先輩は、言う。
風は死んだように凪いでいて、けれど、〝慈悲の森〟の針葉樹の梢がざわざわと、何かをささやくように鳴っていた。
「私たち魔女は、その〝祈り〟を通して自らの空のかたちを知る」
ナコト先輩は握ったわたしの手を離して、大切な壊れやすいものを扱うように、わたしの頬に両手を這わせる。月明かりの中で見る彼女の白い指は、なにか繊細で特別な植物のつるを思わせた。わたしは息を止め、つばを飲み込む。くせっ毛に染み込んだ練習の汗が、彼女の手を汚してしまいそうで怖かった。
「だから、ごめんなさい。私には、あなたの空のかたちを教えてあげることだけは出来ない。それはあなた自身が見つけるもの、ニナだけのものだから。……けれど、でも。あなたのそれは、必ずあなたの中のどこかにあって、開花すべき時を待っている。咲かせることができるかは、あなた次第」
ささやく彼女の美しい佇まいに見とれながら、わたしはわたし自身を恥じていた。心のどこかで、「ナコト先輩ならきっとわたしが抱える何もかもを簡単に解決してくれるだろう」と思っていた自分の存在に気がついたからだ。
わたしの中の、空のつぼみ。
わたしはそれを、探さなければならない。
死者の魂が揺蕩う空で、自分だけの空のつぼみを。
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