〝ブービー〟、牙を研ぐ(1) 

 予想通り、というかなんというか。

 ダレット先輩はとてもせっかちな人だった。


 彼女は浴室に入るや否や、ざばりと手桶で湯を汲んで、頭のてっぺんでそれをひっくり返す。そうやって手早く湯を浴びると、水に濡れた子犬みたいに身体を震わせ、「よし」とかなんとかつぶやいて洗い場までのしのし歩いてゆく。

 陶器の壺に入った洗髪剤を手のひらですくい取り、野菜かなにかでも洗うようなぞんざいな手付きで髪の毛を洗う。親の仇のように目いっぱいの力を込めて頭や身体を洗うものだから、泡はあたりに飛び散りまくったし、胸元にくっついた白くて豊満な乳房は鞠みたいに揺れた。


 それから彼女はひととおり身体を綺麗にし終わると、泡を落とすために手桶で湯を浴びる。それがまた乱暴な手付きで、すぐ隣で身体を洗うわたしにざばざば掛かってくるのだ。正直ちょっと閉口したけれど、「とても気持ちよさそうにお風呂に入る人だなあ」とも思った。

 ダレット先輩は浴布タオルで濡れ髪を包み込むように巻きながら、鼻歌を歌う。タイトルは忘れたけれど、ずいぶん昔にヒットした有名なラブソングだった。


   僕は君に夢中だよ

   膚の下、心のずっと奥底に君がいる

   君はもう僕の一部なんだ


 そんな感じの歌だ。

 失礼な話だけれど、ダレット先輩はそういう真っ直ぐな愛を口ずさむような人には見えなかったから、多少なりともわたしはそれに驚いて、だからよく覚えている。


「あんま気にすんなよな、ああいう手合いはさ。連中、他人のシャツの背中にトカゲのおもちゃを入れるのがとびきり高尚なジョークだと思ってやがんだ。やることなすこと幼稚なんだよな」


 わたしの隣で湯船に浸かりながら、ダレット先輩は言った。それから全身の疲労を吐き出すように大きく息をついて、肩を揉む。こきこきと肩を鳴らしてと伸びをすると、余分な脂肪が付いていない彼女のしなやかな身体に鳥かごみたいな肋骨のシルエットが浮かんだ。ハーブ湯の薬効で上気した乳房の左下に、汗の粒とともにリンドウを象った魔女のが刻まれている。


「あたしなら、犬のを入れるね」


 彼女は器用に全身の骨をぽきぽきと鳴らす。首、背骨、肘、手首、それと両手の指の全部。それから首まで湯船に浸かり、気持ち良さそうにおじさんみたいなうめき声を上げた。


「おもちゃじゃなくて、湿った本物のを」


 ――ダレット先輩は怒らせないようにしよう。


 わたしが心の中でそう独りごちるよりも早く、ダレット先輩の矛先はわたしに向いた。


「でもよ、お前もお前で言われっぱなしのまま黙ってんじゃねえよ。そういうの、本当にイライラすんだよ」


 眉間にしわを寄せて、ダレット先輩は低く吐き捨てる。

 ついさっき彼女に叩かれたお尻と練習の打ち身に薬湯が染みて、ひりひりと痛んだ。彼女の迫力に押されて、わたしは思わず謝ってしまう。


「……すみません」


 蚊の鳴くような声での謝罪は、ダレット先輩をいっそう苛立たせたようだった。

 彼女は「納得いかない」とでも言いたそうに眉根を寄せて首を鳴らす。長い髪が薬湯に浸からないよう、頭に巻いた浴布タオルが重そうだった。


「お前さ、人生がの詰まった靴下みたいな味になるまで、そうやってずっと下向いて黙ってるつもりなのか? 純粋に疑問なんだけど」


の詰まった靴下?」


「とにかく最低サイテーってこと」


 わたしは腕を組み、〝くその詰まった靴下〟について想像する。

 けれど、その試みは残念ながら上手く行かなかった。だって、まともな人間は、靴下にを詰めない。

 だから、わたしは彼女の言葉を反芻する。そうするしかなかった。

 正直なところ、このことについてはわたしに非は無いと思う。だって、世界のどこに靴下にを詰める人間がいる?


「くその詰まった靴下」


「……話のポイントはそこじゃない。考えてみろ、ニナ・ヒールド。三ヶ月洗ってないパパのパンツとか、死ぬまでずっと続くひどい肩こりとか……何でも良いからそういう最低サイテーなことを想像しろ。そういうのを黙って我慢するのはだめだ。言いたいことは言え、気に入らないやつはやっつけろ」


 ひどい言い草だと思った。

 だってそれは、強者の理論だ。


 ――もしかしてこの人は、わたしが好きで言われっぱなしになっていたのだと、そう考えているのだろうか?

 そう思うと、返す声色もなんだか恨みがましくなってしまう。


「……あなたは、強いから」


「違うね、〝誇りプライド〟があるからだ」


 間髪を入れず返ってきたダレット先輩の反論は、確信に満ちた音を持っていた。


「正しいと思ったことをすること、その正しさを信じること。あたしはそれを〝誇り〟と呼んでる。相手が強かろうが大勢だろうが、関係ない。お前、強いやつがえらいと思ってんのか? 違うね、いつだってえらいのは自分の正しさに誇りを持ってるやつだ」


 ダレット先輩は、言う。

 どこかで誰かが手桶を置いたのか、こぉんという音が大浴場に響いた。

 彼女はわたしの目を翠玉の双眸で見つめ、言葉を続ける。


「――あたしはどんな時だって誇りを抱えて飛んでる。それがあるから、あたしは誰よりも真っ直ぐ飛べると、そう思ってる。お前はどうなんだ、ニナ・ヒールド。お前は何のために飛ぶんだ? 何のためにあたしと決闘するんだ?」


「それは、ナコト先輩がわたしを見つけてくれたから――」


「〝境遇〟の話はしてない」


 ぴしゃりとダレット先輩は言う。


「……そうじゃなくて、お前のには、何があるんだ?」


「内側?」


「そう、内側。中身の話だ。お前、たぶんさ、そんなに好きじゃないだろ、空飛ぶの。……あたしには、どうしてお前がそこまでして代表箒手になりたいのか、ちょっとわかんないんだよな」


 わたしには彼女に返す言葉がなかった。


 ――あなたには才能がある。

 ――私と一緒に飛ぶべきよ。


 確かにナコト先輩はそう言った。

 けれどそれは、すべて与えられた言葉だ。わたしの内側から湧き出るものではない。わたしの、わたしの内側から、ナコト先輩というたったひとつのよすがを除いてしまえば、わたしには何もなかった。だって、わたしの存在、わたしの価値は、ナコト先輩の言葉によってのみ保証されていた。


「あたしは、自分が代表箒手であることに 誇りを持ってる。ナコトは……あいつは何考えてるかよくわかんねえけど、それでもわかるんだよ、を持ってるって。あんな危ねえ競技を好き好んでやるやつってのはさ、内側に何かひとつ、大事なものを持ってんだよ」


 確かに彼女たちは、彼女たちの身体の中心に根付いた熱く硬い芯のようなものを抱いているように見えた。

 高みへの渇望。空への推進力。

 背中を押されるままに空へと飛び立とうとするわたしにはないもの。

 じゃあ、わたしはそれ抜きで、どうやって闘うのだろう? 


 黙ったまま手足の指がふやけて白くなる頃、ダレット先輩はため息をついて立ち上がる。大きな乳房の谷間から、風呂の湯が滝みたいに流れ落ちた。


「――何も無いんだな?」


 念を押すような口調だった。

 本当に何も無いんだな? それでいいのか? なにか言うべきことがあるんじゃないか? お前はナコトに乗せられるがまま、ここまでたどり着いたのか?


「わたしは――」


 ――学院を追い出されたくなかった。

 でも、何故? どうして、わたしはここにいたいのだろうか。


 ――自分には出来ることがあると、そう思いたいから。

 確かに、ひとつの理由ではある。

 けれど、わたしのは、彼女たちの――箒乗りブルーム・ライダーたちのとはどこか違うものだと思った。


 クリスティナ・ダレットは、を〝誇り〟と呼んだ。

 アカンサ・クリサンセマムは、を〝恋〟と呼んだ。


 それが、わたしには、ないのだ。

 わたしの中のどこをどう探したって、その大事な部品が見当たらなかったのだ。

 考えにふけるわたしを、じっとダレット先輩の深緑色の目が見ていた。

 それでもわたしにはその答えは出せなかった。


 ダレット先輩は黙って肩をすくめ、湯船をざばりと跨ぎ、ほどいた浴布タオルを自らの肩に勢いよく叩きつけた。湿った布が小気味いい音を立てる。

 それから彼女は振り返り、わたしの目を見据えてきっぱりとした声で言った。


「お前と話せてよかったよ、ニナ。これで心置きなくお前をこてんぱんにできる」


 狙いを付けるように人差し指でわたしを指差して、にやりと笑う。鋭い犬歯をむき出しにしたそれは、ひどく攻撃的な笑みだった。


「せいぜい牙を研いどけよ、ニナ・ヒールド! 獲物はでかいぞ!」


 言うが早いが、ダレット先輩はずんずんと浴室の出口へと足を進める。浴室を出る彼女の足取りは、自信と誇りに満ちあふれていた。

 彼女の背中を見送りながら、わたしは誰にともなくつぶやく。


「……わたしには、何も、なんにも無い」


 おでこから流れた汗が目に入って、少し滲みた。

 静寂が戻った大浴場に、ふたたび誰かの手桶の音が響いた。


 彼女の言葉は、それからの長い間、わたしの中で大きな命題となる。


 ――わたしのには、膚の下には、何がある? 

 ――わたしは、何のために飛ぶ?


 割れそうに噛み締めた奥歯が、ぎりりと悲鳴を上げた。

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