《うわさ好き》のエレノーラ

 それから決闘までのあいだ、わたしは毎朝ジョギングに励んでいた。

 体力トレーニングの一環だ。

 意外に思うかもしれないけれど、ブルームでの飛行は結構体力を使う。それが競技用に高性能化された箒ならなおさらのことだ。


 朝はいつもより二時間ほど早く起きて、早朝の学院の敷地内を走る。夜には寮を抜け出して〝慈悲の森〟を飛び、眠る前には飛行箒学の教科書を片手に箒の手入れをする。

 ナコト先輩との買い物から帰って以来、これらはほぼ欠かすことのないわたしの新しい日課になった。


 わたしはナコト先輩ほど朝が弱いわけではなかったから、早起きはそんなに苦にならなかった。それに身体を動かすことは別に嫌いではなかったし、やってみるとこれが結構楽しかったのだ。

 朝の空気は比較的涼しくて、なにより静かで澄んでいた。耳に聞こえてくるのは自分の足音と呼吸音、それ以外には野鳥の囀りくらい。寮棟も教室棟も、学院の敷地内のほとんどが静かに眠っている。

 城壁に沿って庭園を抜けると、朝露に濡れた草花が薄明るい空の下でおぼろげに光っていて、水滴の重みで頭を垂れる彼らもまた眠っているように見えた。

 みなが眠るなか、わたしだけがこの景色を独り占めしていると思うと、なんだか少し悪いことをしているみたいで、それが楽しかった。




 六月三日。

 その日もわたしは、ちょうど春と夏の境目の、なんとも言えない色合いの空の下を走っていた。

 ひとしきり走ってひと息ついたあと、わたしは大浴場へと向かう。

 早朝とはいえ早起きの子は起きてきている時間だったけれど、運が良い日なら広い大浴場をわたしひとりで独占できたりなんかして、だからこれもわたしの密かな楽しみのひとつとして日課の一部になっていた。


 早起きの鳥は多くの虫を捕まえる、早く起きればそれだけで何か良いことがある。

 母は昔からよくそう言っていて、それはある側面からの真理だった。少なくとも我が家では、早く起きさえすればお尻をひっぱたかれて悲鳴と共に起きる羽目にはならなかったからだ。


 汗にまみれて重くなった服を脱衣かごに入れ、すっぽんぽんになったわたしは、浴布タオルを片手に意気揚々と大浴室に向かう。

 脱衣所にはわたしの他にいくらかの生徒がいて、残念ながら貸し切りとはいかなかったけれど、どちらにせよ朝っぱらから温かいお湯に浸かることが出来るのはこの上ない贅沢だった。


「ね、あなた〝ブービー〟じゃない?」


 そう声を掛けられたのは、浴場の扉に手を掛けたときだった。

 〝ブービー〟という呼び名は初めて聞くものだったけれど、間違いなくわたしに投げかけられた言葉だろうということはすぐにわかった。

 声はわたしが手を掛けた扉のすぐ右隣、身支度用の鏡台に座った魔女からのものだった。


「やっぱり、あなたニナ・ヒールドでしょう? 栗毛のくせっ毛、黒い瞳のやせっぽち! ニナ・ヒールドよね?」


 知らない魔女だった。

 とはいえ、数日前まで《柩》の魔女すら知らなかったわたしだから、まずもってほとんどの魔女が『知らない魔女』だったわけだけれど。

 お風呂から上がって着替えたところだったのだろうか、彼女の髪にはまだ水気が残っている。鏡台に置かれた三角帽子のブローチの赤い色から、彼女が上級生であることが見て取れた。


「そう、ですけど」


 おずおずとわたしは答える。


「やっぱり! ニナ・〝ブービーびりっけつ〟・ヒールド!」


 そのまま戦火の真っ只中に放り込んでも聞き取れるような、伸びやかで素晴らしくよく通る声だった。特に声を絞ろうとする様子もなかったから、当然彼女の声は脱衣所じゅうに響き渡って、まばらにいた他の生徒たちにも聞こえたようだった。

 彼女たちは服を着たり脱いだりする手を止めて、何ごとかと視線をこちらに向ける。好奇の目が、むき出しの皮膚に直接刺さってくるような気がした。


「〝ブービー〟?」と、わたしは聞き返す。


「みんなそう呼んでるのよ。ひどい人たちよね? ……同情するわ。でも、あなた有名人なのよ! だってあなた、あのクリスティナ・ダレットと決闘するんでしょう? 本当のことなの? ああ! それと、あなたが《柩》のナコトと買い物をするのを見た人がいるんですって! あなたみたいな……ただの……そう、が、どうやってあんなすごい人と知り合えたの?」


 彼女はひと息でまくし立てた。

 あんまり早口で喋るものだから、彼女の周りの空気がどんどん無くなっていくような気がして、わたしまで息苦しくなってしまう。


 正直に言うと、息苦しさはそのせいだけではなかった。

 お腹いっぱいにたまった嫌な気分が内臓を支配して、横隔膜を勝手にせり上げていた。

 誰かに面と向かって侮辱されたり詰問されたりするのは、結構堪えることだ。とりわけそのとき自分だけ真っ裸で、相手は服を着ていたりすると、それはそれは最悪の気分になる。自分が道理も何もわからない、毛むくじゃらの野生動物のように思えてくるのだ。


 そんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、あるいはそんなことどうだっていいのか、その三年生の魔女は矢継ぎ早に質問を繰り返す。

 多くのがそうであるように、彼女はわたしに質問をぶつけることそれ自体が目的で、大して答えを必要としていないようだった。彼女が真に望んでいることは、わたしがそのことについて口を開いたという事実だけだった。


   ねえ、聞いた? 決闘の話。

   〝ブービー〟とダレット先輩の?

   そう。あなた、どっちが勝つと思う? 聞くまでもないけれど。

   まったくよ。身の程知らずも良いところだわ。

   でも、ニナ・ヒールドはこう言っていたのよ? 

   ……ねえ、これから言うことは皆には内緒よ?


 こんな具合に。

 要するに、彼女たちはディテールが欲しいだけなのだ。絶対に、何も答えてはいけないし、何もするべきではない。

 わたしは下唇を噛んで、そう心に強く刻んだ。なにか答えれば、なにかすれば、それはとして吹聴されてしまう。

 でも、それもあまり意味のあることでは無いのかもしれなかった。もう話はすでに独り歩きしているようだったから。

 だってわたしの成績は、〝ブービー〟じゃない。下から数えたほうが早いとはいえ、座学の成績は人並みより良いくらいなのに。


 わたしはうつむき拳を握って、自分自身がここから消えることを願った。

 日なたに放り出された氷のように、溶けて小さくなって、そのまま彼女たちの前から消えてなくなってしまうことを。

 けれど、そういうわけにはいかなかった。わたしは日なたの氷ではなかったし、ましてや毛むくじゃらの野生動物でもなかったからだ。残念ながらわたしは考える脳みその付いた人間なのだ。仮に素っ裸のままそこから走って逃げたとしても、もう頭の中に滑り込んできてしまっている侮りの影からはどうやったって逃げることはできない。

 結局どうしていいのかわからなかったから、わたしはただ下を向いて、何とかその時間をやり過ごすことに集中する。息を止め、目を細め、ここは海底なのだと思うことにした。わたしは投げかけられる彼女の声が鼓膜に届かないように、重く分厚い水の壁を想像しようとした。


 不意に横合いから声がしたのは、その時だった。


「楽しいか? それ」


 顔を上げると、わたしの隣でひとりの女の子が均整のとれた裸体を惜しげも無く披露しながら仁王立ちになっていた。

 長く豊かな、薄桃色に輝く絹糸の髪。翠玉の瞳は肉食獣のような光を湛えていた。

 赤いブローチの魔女の口から、彼女の名前が漏れ出る。

 それは、暗銀の魔女。


「《つるぎ》のクリスティナ――」


っつったか、いま」


 ダレット先輩の形の良い眉が歪む。

 猛獣の翠玉に睨めつけられて、今度下を向いて黙るのは、赤いブローチの魔女のほうだった。

 ちっ、とダレット先輩は舌打ちをすると、あたりをぐるりと見渡して、大きく息を吸い込んだ。膨らんだ胸郭に持ち上げられて、豊かな胸が微かに上を向く。


「――みな聞け!Listen up!


 その声は、先の魔女の声が霞む、戦火そのもののような声だった。

 部屋自体がびりりと震えるような大声に、周りの魔女たちはいっぺんに静まり返る。

 それからダレット先輩は、わたしのお尻を思いっきりひっぱたいて宣言する。

 わたしのぎゃっという悲鳴は、被せられるようにして放たれた、稲妻のように高らかな口上にかき消された。


「此なるはニナ・ヒールド! 此度の我が決闘、その対敵なり! 我が身、我が誇り、我が全霊を以て討ち果たす者なり! に拠りて、此の者への侮蔑は、すなわち暗銀――《劔》の魔女への侮辱と知れ!」


 早起きの鳥は多くの虫を捕まえる。早く起きればそれだけで何か良いことがある。

 母は昔からよくそう言っていて、それはある側面からの真理だった。けれど、どれだけ朝早く起きようが、よくないことは起きるときは起きる。

 何もしていないのにお尻をひっぱたかれることだって、長い人生のうちには何度だって起こり得るのだ。

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