《烟霧》のコーシャーソルト

  ◆




 これはあとで聞いた話だ。

 わたしの叫びが〝慈悲の森〟に響き渡る数時間前のこと。


 飛行実習担当教諭、ミス・〝へんくつ〟・ロウマイヤーは、肩を怒らせ薬学部棟の廊下を大股で歩いていた。

 彼女の怒りの矛先は、あるひとりの男の魔女ヘクサー――いけない、これは『差別的表現』だった――あるひとりのに向いていた。

 エルダー・シングス魔術学院薬学部薬草学科主任、煙の魔術師、《烟霧》のフロイド・コーシャーソルトその人に。


 ミス・ロウマイヤーは校舎内をずんずんと歩く。

 ひどく入り組んだ校舎の作りは、エルダー・シングスが外敵の侵入を阻む城塞であった頃の名残だ。

 彼女は複雑に折れ曲がった廊下をひとつも減速せずにきびきびと曲がり、階段を一段飛ばしで駆け上がる。


 それからコーシャーソルト研究室の前に立った彼女は、怒りの拳でもってドアをノックする。

 どんどんどん、と几帳面なリズムで三度。

 息継ぎのようなつかの間の休止の後、ふたたび均等なリズムで三度。

「……どうぞ」という、とても嫌そうな声が部屋の中から返ってきたのは、扉に打ち付けられた「フロイド・C・コーシャーソルト」の名札がだいたい四十五度まで傾いたあたりだった。


 ミス・ロウマイヤーはこれまた乱暴に扉を開けて部屋に乗り込み、すぐに顔をしかめた。

 煙草の煙のせいだ。

 彼女はわなわなと両手で口元を覆い、震える声でつぶやく。


「なんてこと……なんて、くさいの」


「ひどい。僕は傷つきましたよ、ロウマイヤー先生」


 書類に埋もれる寝ぐせ頭の黒髪をぼりぼりと掻いて、ミスター・コーシャーソルトは言った。

 ロウマイヤー女史は、まったく堪えた様子のない彼の呑気な顔にさらなる怒りを燃やしながら、頭の端っこのほうで火事を心配した。山積する紙束と、四六時中煙を吐き出す歩く火種のような男の魔女ヘクサー


「……はるばる飛行学部棟から、よくおいでで。何か御用でしょうか? ああ、遠慮なさらず座ってください、コーヒーを淹れましょう。いや、紅茶がいいかな?」


 老教諭はかぶりを振ってため息をつく。


「結構です。このような煙の中では……とても茶葉の香りは楽しめないでしょうから」


「なるほど。紅茶ですね、わかりました」


 こめかみの血管が切れないよう、ロウマイヤー女史は彼の振る舞いを最大限好意的に解釈しようとした。

 彼女が思うに、男というものはおしなべて分厚い鋼鉄の無神経さを持ち合わせていて、フロイド・コーシャーソルトのそれは特別なものではない。彼は彼なりに自分に気を使っていて、彼にできる限りのもてなしをしようとしてくれているのだろう。席を占領する紙束を脇へやり、椅子に座って落ち着くべきだ。

 鼻歌を歌いながらティーセットを用意するミスター・コーシャーソルトの背中を眺めながら、彼女はそう結論づけた。


 コーシャーソルト氏は、長机の上の書類をどさどさと床に叩き落としてスペースを作り、戸棚から出したカップとソーサーを置く。スプーンも使わずとティーポットに茶葉を入れ、小さなケトルに水差しから二人ぶんの水を注ぐ。実験用の霊油エーテルランプの火にケトルをかけ、湯が沸騰するかしないかのうちにそれを外した。

 まあ、だいたい、そのあたりらしい。

 ちっとも沸いていない湯の代わりに、ミス・〝へんくつ〟・ロウマイヤーが煮えたぎったすずの怒りを爆発させたのは。


「あなたは、紅茶の淹れかたも知らずにどうやって生きてきたのですか」


 ミス・ロウマイヤーは怒り心頭といった面持ちで、ティーカップに紅茶を注いだ。

 彼女が実演してみせた正しい紅茶の淹れかたは、素晴らしく模範的なものだった。

 カップをしっかりと温め、きっかり三分沸騰させた湯をポットに注ぐ。十分に蒸らした茶葉はティーポットの中で踊るようにジャンプして、注がれた紅色を豊かな香りで彩った。


「人生の糧というものは人それぞれですよ、ロウマイヤー先生。僕はお茶よりもコーヒーのほうが好みなんです」


 そう言ってミスター・コーシャーソルトはお茶を一口すすると、「すごくおいしい」と言ってチャーミングに微笑んだ。ちなみに、彼はコーヒーの淹れかたも恐ろしくいいかげんだった。


「さて」と、ミスター・コーシャーソルトは言い、新しい煙草に火を付ける。


「そろそろ本題に入りましょう、ロウマイヤー先生」


 ミス・ロウマイヤーは思う。それはこちらの台詞だ、と。

 けれど、それをそのまま言い返すことはしなかった。

 彼女のこめかみにはすでに無数の青筋が葉脈のように浮かんで波打っていたけれど、文句を言ったところでまた飄々たる彼のペースに飲み込まれるのがわかっていたからだ。彼女は努めて冷静に、けれど静かな怒りを込めて、テーブルに一通の封筒を置く。

 真っ赤な封筒だった。


「ミスター・コーシャーソルト……この封筒に入っているものがなんだかわかりますか?」


 コーシャーソルト氏はその封筒を手に取って、何度かひらひらと裏返したり、明かりに透かしてみたりした。


「デートのお誘いですか」


「……ミスター・コーシャーソルト。あなたがそのくだらない冗談に、どのくらいの代償を支払えるのか試してもいいのですよ」


 ミス・ロウマイヤーは言った。怒りに震える手でコーシャーソルト氏から封筒をひったくる。それから封筒を開け、一通の書類を取り出してテーブルの上に置く。一連の動作のあいだ、ミス・ロウマイヤーはまばたきもせずに煙の魔術師をじっと睨みつけていた。

 ミスター・コーシャーソルトは観念した、というふうに肩をすくめて答える。


「決闘届け。ニナ・ヒールド対クリスティナ・ダレット」


「そう。ミス・ヒールドの担当教諭……つまりあなたの承認サイン付きの決闘届けです」


 彼女は大きくため息をついて、道理のわからない子どもを諭すように彼に尋ねる。


「……どうして、こんな無謀を許したのですか」


「飛行学部のエースの相手が、僕の弟子アプレンティスではご不満だと」


「《忌み名》を持つ者と持たない者の隔たりがどれだけの厚みを持つのか、あなたが知らないはずはないでしょう! 大けがで済めば儲けもの――最悪、死んでしまうかもしれないのですよ! ……即刻取り下げさせるべきです、彼女の未来のために」


 今度は、ミスター・コーシャーソルトがため息をつく番だった。

 彼の大げさなため息はミス・ロウマイヤーをさらに苛立たせることになったけれど、それは感嘆のため息だ。

 彼が見る限り、ミス・ロウマイヤーは本心からニナ・ヒールドのことを心配している。直接の弟子アプレンティスではない、他学部の落ちこぼれに過ぎない彼女のことを。教育者としてのロウマイヤー女史の美しさは本物だと、彼はそう思った。


 ままならないのは、そういった意図というものは必ずしも相手に正しく伝わるものではないということだ。

 ミス・ロウマイヤーは大きく燃え上がった怒りを机にと叩きつけて、コーシャーソルト氏を問い詰める。


「そもそも、あの引っ込み思案のニナ・ヒールドが、自分からこのような大それたことをするはずがないのです。彼女に何を吹き込んだのですか! 白状なさい、ミスター・コーシャーソルト!」


 コーシャーソルト氏は降参したように両手を上げ、苦笑いで答える。


「ちょっと発破は掛けましたがね、僕も流石にここまで開き直ったことをするとは。少々お灸が効きすぎましたかね?」


 そう。

 そういうことだ。

 つまりわたしは、この男の魔女ヘクサーに担がれたのだ。


 よく考えればわかる。

 学校という組織において、いち教諭の判断のみでひとりの生徒を退学にすることなど、できるわけがない。そういった重大な判断を下す場合、その生徒に関わるあらゆる職員の判断を勘案し、吟味して、ことに及ぶ。学校に限らず、組織とは得てしてそういうものだ。

 その時の、子どもだったわたしは知らなかったけれど。


 さらに言えば、この男の狡猾なところは――


「でも、嘘は言っていないですよ」


 嘘を言っていないのだ。

 確かに、わたしが墜落したときミス・ロウマイヤーの頭のすみには『ニナ・ヒールドを諦めさせ、辞めさせるべきではないか』という考えがよぎった。

 確かに、そのことをミスター・コーシャーソルトに相談もした。


 ――ミス・ロウマイヤーは、きみを破門すべきかもしれないと考えている。きみがもっと危ない目に遭う前に。


 彼はそれを差し迫ったのような言いかたでわたしに伝えただけなのだ。


「どうして、そんなことを」


 頭を抱えてロウマイヤー女史は言った。何を考えているのだ、この男は。

 コーシャーソルト氏は吸い終わった煙草をもみ消して、それからすぐに新しい煙草に火を付ける。


「どん底に落ちてからしか、僕たちは生まれ変われない」


 コーシャーソルト氏の言い草に、ミス・ロウマイヤーはたまらず立ち上がった。勢いで跳ねた紅茶のしずくがテーブルの表面に落ちる。

 ミス・ロウマイヤーは叫んだ。


「何をばかなことを!」


「現に彼女は変わりつつある!」


 ミスター・コーシャーソルトも立ち上がり、叫んだ。咥えていた煙草から灰が落ちて、長机を汚した。

 それから彼は椅子に座り直すと、額を手で覆った。


「お願いですよ、ロウマイヤー先生。これは彼女に必要なことだ。僕が見てきた一年と一ヶ月のあいだ、ずっと燻ったままだった彼女が、初めて自分から意思を示したんです。やりたいようにさせるべきだ」


 ミス・ロウマイヤーは声なく唸った。

 懇願するように言う彼の言葉に、三分の一ほどの共感を覚えている自分がいることに気がついたからだった。

 確かに彼女も、ニナ・ヒールドがそういった意思表示をするところを見たことはなかった。けれど、だからこそ、ミス・ロウマイヤーには彼の言うことが危険なことのように思えてならなかったのだ。

 ミス・ロウマイヤーはため息をつき、椅子に座り、それからまた深いため息をついた。ミスター・コーシャーソルトの目を見つめて、言葉を選ぶように、言い聞かせるように言葉を紡いだ。


「自発的なことだからこそ、そこで失敗してしまえば彼女を致命的に傷つけるかもしれない。それでもやらせるべきだと言うのですか。彼女が折れてしまったら、あるいは最悪の結果を招いてしまったら、あなたはどう責任を取るのです」


 ミスター・コーシャーソルトは腕を組んで考え込んだ。

 彼女の抗議に、真摯に答える必要があると思ったからだろう。憮然とぼんやりの中間みたいな顔で天井を仰ぎ、煙を吐く。

 二人のあいだに、まっさらなフライパンにと油をひいたときのような沈黙がしばらく流れた。


 咥えた煙草の灰が全部落ちてしまう頃、ミスター・コーシャーソルトが口を開く。

 灰皿で煙草を静かにねじり消してから、「ロウマイヤー先生。さっきそのカップからしずくが何滴飛び散ったか、わかりますか?」と言った。


 ミス・ロウマイヤーは首を傾げた。

 彼の言わんとすることがよくわからなかった。

 それから彼女は、自分が先ほど立ち上がった時に紅茶がこぼれてしまったことに思い至る。長机に落ちた紅茶の染みを見つめても、彼女には彼の言葉の意図がよくわからなかった。


「何を――」


。彼女の眼なら、もっと速いもの――たとえば〝矢〟だってはっきりと見て取れる」


 ミスター・コーシャーソルトは言った。


「あなたは、いったい何を言っているのです」


 ミス・ロウマイヤーの質問を無視して、彼は続ける。

 自分の背後にある窓を親指で指差して、ミスター・コーシャーソルトは言った。


「その窓から、温室コンサバトリーが見えますね。距離にして20ヨルドほど。あの温室のベラドンナがいくつ実を付けているか、あなたに数えることができますか? んです。彼女になら1,000ヨルド先のものだってはっきりと見て取れるはずだ」


 ミスター・コーシャーソルトはミス・ロウマイヤーの顔を真っ直ぐ見つめ、彼女の瞳を深く覗き込むようにして言った。


「ニナ・ヒールドはただでは負けない。やらせるべきです。仮にニナ・ヒールドという人間がそこで焼き尽くされて、失われてしまったとしてもです」


 彼は決然として言った。


「僕の職責を賭けてもいい」




  ◆




「そうは言っても、諦めるのが最上の策なのよ」と、ナコト先輩は言った。


「いまのニナの実力では、箒を飛ばしながら魔法を撃つことは難しい。仮にいまから練習して、なんとか撃てるようになったとしても、集中を欠いた魔法では威力は出ないし、当たるかどうかもわからない」


 不安顔のわたしを前にして、鉄棺の魔女は歌うように言う。白い指がメトロノームのように、彼女の顔の前を行ったり来たりした。


「だからまず、〝矢〟でクリスを撃ち落とすのは諦めましょう。――これから先は、苦手を補うよりも得意分野を伸ばすことに使います。絶対そのほうが合理的だもの」


 ナコト先輩は腰に手を当て胸を張る。

 わたしはおずおずと手を挙げて、彼女に質問をした。 


「……でも、攻撃を当てなきゃ勝てないんじゃ――」


「そう、その通り」


 ぴしり、とわたしを指差して、ナコト先輩は答える。

 それからそのままずいずいと前に出てきて、私の頬をその指でつつく。

 彼女は魅力的にウィンクして、ひそやかな声でささやいた。


「――だから、私のとっておきの作戦、教えてあげる」

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