1-4:〝ブービー〟、牙を研ぐ - "So, get your fangs out."

ニナ・ヒールド、夜鬼と踊る

「お代なんて要らないよ。もともとそいつは売り物じゃないんだ」と、アカンサは言った。


『マジック・オーソリティ』でナコト先輩にいろいろと買わせてしまった手前、自分で選んだ箒くらいは自分でお金を出したかったけれど、彼女のその決然たる態度はがちがちに閉まったあんずジャムの蓋よりも頑迷で強固だった。


「いいから持っていきな、油とブラシも付けとくから。――いいね、ちゃんと寝る前に手入れするんだよ。大事に乗らないと、エルダー・シングスまで飛んでってぶん殴ってやるからね」


 そう言って手入れ道具の入った袋を《ヘルター・スケルター》にくくりつけるアカンサの横顔は、大事な息子を送り出す母親のように見えた。




 買い物からの帰りの馬車の中で、ナコト先輩は言った。


「ごめんなさいね、本当はすぐにでも飛ばせてあげたいんだけれど。練習用のローブじゃ、きっとその子の性能には付いてこれそうにないから」


 そこに異論を挟む余地はまったくなかった。

 そもそも、その日の買い物のほとんどはナコト先輩持ちだった上に、《ヘルター・スケルター》に出会えたのだって、元を正せば彼女のおかげだったのだ。お礼を言いこそすれ(実際、たぶんその日だけで五十回くらいはお礼を言っていたと思う)、文句なんて出ようはずがなかった。


「けれど、ローブはすぐに届くと思うわ。彼は優秀な職人だし、仕事も速いから」


 実際、ウイルディア氏の手がけたローブはそれから二日と待たずに学院のわたしの部屋に届いた。宅配カラスが運んでくれた、小包を開けると、ぴかぴかの飛行用ファントムローブと一緒に一通のメッセージ・カードが入っていた。




 〝親愛なるレディ・ニナ 

 このたびは『マジック・オーソリティ』をご利用いただきありがとうございます。

 率直にお伝えしますと、この商品は決して安くはありません。それどころか、世の中のものと比べると非常に高価なものになります。

 それは我々の品質と技術に対するこだわりと自負の金額です。

 ですからもし、見返りなくこのローブを誰かにプレゼントする人物がおられるなら、それは、その方がその誰かを真に評価しているということだと、我々は考えます。

 商品について何かお気づきの点やお困りのことがございましたら、またお気軽にご来店ください。

 願いと感謝を込めて。

       魔道具店『マジック・オーソリティ』主席縫製師

         ネヴァラ=クータモ・ウイルディア〟




 わたしはそのメッセージ・カードをきっかり五回読み返してため息をつき、鍵のかかる引き出しに大事に仕舞った。

 小包を男の子からのプレゼントだと勘違いしてびん底眼鏡を光らせたビビにいろいろと問い詰められたのは、また別の話だ。




 それから決闘までのあいだ、わたしは毎晩のように生命の危機に瀕していた。

 大げさな話ではない。

 ナコト先輩による特訓は、恐ろしく実践的なものだった。

「痛くなければ覚えない」を信条に掲げ、夜毎に繰り返される模擬戦。〝矢〟の出力を抑えてくれているとはいえ、それはもうほとんど実戦に近いものだった。

 夜な夜な寮を抜け出して、わたしは〝慈悲の森〟に足を運び、その上空を飛んでは何度も小ばえのように簡単に叩き落とされた。


 とにかく衝撃的だったのは、『クリサンセマム箒店』の秘蔵っ子――あの親愛なる殺人箒――ヘルター・スケルター氏の実力だ。

 アカンサは《ヘルター・スケルター》のことを評して「最悪の乗り心地」と謳ったけれど、実際に乗ってみると、その表現はとても控えめで奥ゆかしいものだった。

 重く堅い紫檀の柄の、無遠慮で鋭いレスポンス。最高級の反射鉱石リフレクション・クリスタルの、過剰なまでの反射効率。

 一日目は振り落とされて死にかけることに使い、二日目は空中で夕食を全部吐き出してしまうことに使った。

 わたしがになんとかまたがって飛べるようになったのは結局六月一日の夜のことで、それをまともな訓練と呼べるようになったのは、その次の日。

 約束の期日を四日後に控えた、六月二日になってからのことだった。




   ◆




『――【Aktivigo.発理】』


 荒ぶる箒を抑えつけるわたしの胸元で山びこ石の首飾りエコー・タリスマンが震え、くぐもった音質でナコト先輩の声をわたしの耳に届ける。

 まだひとりで念話のできないわたしのために、ナコト先輩が『マジック・オーソリティ』で購入したものだ。

 彼女は何のこともないようにわたしにそれを渡したけれど、霊話器なんて当時は恐ろしく高価な代物で、軽くて持ち運びの容易な山びこ石エコーはそれ以上に貴重なものだった。


『【Pafita pafilon,鳥撃ち、 】【Kvar sago光のj de lumo.四矢。】 【Penetrado,穿て、】 【Penetrado,穿て、】 【Penetrado.穿て。】』


 夏の夜空に、青い燐光の〝矢〟が走る。

 音より早く空をひた駆ける三本の光矢は、わたしの目前で花火のようにはじけ、無数の光の棘となって襲いかかってくる。


「――こん、のお!」


 わたしは紫檀の箒の柄をって、光の散弾をぎりぎりのタイミングで回避する。

 ぐん、と揺さぶられる内臓。頬の肉が逆方向に引っ張られる。反射鉱石リフ・クリスタルが悲鳴を上げる。

 刷毛の内側、まるで赤ん坊の大合唱みたいな音。

《鴉羽》のアカンサ、その偏執的な職人技により磨き上げられた表面が、漂う粒子をつける。

 しなる余地のない重い柄が、荒い粒子の波、そのでこぼこを即時に伝えてくる。


 ――選べ。


 耳を打つ風の瀑布。

 けれど、《ヘルター・スケルター》の金切り声が、わたしに選択を迫る。

 鉱石リフの144ものカット面。そのどこをどう使うのか。

 わたしがをどう乗りこなすのか。

 切り刻んだ一秒の中を、紫檀の嵐が荒れ狂う。


 ――選べ選べ選べ選べ!


極端ピーキーすぎる!」


 右に旋回しながら、わたしは毒づく。

 ちょっとこの子は神経質すぎる。小さなさざ波にも過敏に反応しすぎるのだ。もっと堂々とどっしりと構えて――


『ニナ、大きく避けすぎよ。もっと速く、小さく。エッジを立てて』


 わたしの旋回半径のさらに内側、鋭く飛ぶナコト先輩の声を、山びこ石エコーが拾う。


「――そんなこと言われても!」


 わたしの返答を待たずに、右後方から黒い影が紫光の尾をひいて襲いかかる。

 濡れ羽の黒い髪、漆黒のローブ、そしてそれが駆る黒檀の箒――《フェイスレス貌なし・ヘルメス》。


 夜の闇に溶けるような、黒。

 その右手には《ねじれの杖》。

 夜鬼さながらに闇夜を裂く鉄棺の魔女に追い立てられながら、わたしは思考する。

 先の〝鳥撃ち〟。発理は四矢、激発は三回。


 ――つまり。


『【Penetrado穿て.】』


 追い抜きざまに、四矢の一。

 風切り音よりもはやく散弾がわたしに襲いかかり、焦りが選択を誤らせる。

 シャフトを大きく左に切り、そして切りすぎた。

 すんでのところで矢は避けたものの、神経質な《ヘルター・スケルター》は要求を過大に解釈する。


 ずるり、と箒の刷毛テールが波の上を滑った。

 ぐるりぐるりと横に二回転してコースを大きく踏み外したわたしは、そのまま横っ飛びに落下する。


「【Flap,血管、】」


 墜落を予期した胃の腑がきゅっと収縮して、わたしに危険を訴える。


「【Slat,神経、】」


 どうでもよかった。四日に渡る訓練の中で、とうに慣れていた。


「【Rudder!飛鼠の飛膜!】」


 怖くはない。墜ちることなんて、何もできないことに比べれば。


「――【Malfermo!展開ッ!】」


『マジック・オーソリティ』謹製の飛行用ローブがわたしの理力マナに呼応して、一瞬のタイムラグもなくこうもりの翼を広げる。上質な魔法の銀を惜しげもなく編み込んだ特別製のローブに、意匠化されたアネモネの刺繍が誇らしげに咲く。

 わたしは首を巡らせて、ナコト先輩の箒影きえいを探す。


「どこだ!」


『敵から視線を切らない。セイルは無闇に開かない。ただの的よ、いまのあなた』


 右斜め上方から、再び魔弾が降り注ぐ。わたしがをやらかしているうちに、詠唱は済んでいたらしい。


 けれど。


「【Fermi!閉じろ!】」


 ――見えているなら、避けられる。

 帆を閉じ自由落下に身を任せ、間一髪のところでそれを避ける。光の棘がわたしの身体をかすめるようにして後方にすっ飛んでいく。

 落下の瞬間、上空のナコト先輩と目が合う。

 冷ややかに光る金と銀の虹彩。その先の、瞳孔の虚ろ。そこにいつもの親しげな光はない。


「――構うな!」


 自分に喝を入れる。

 そのまま眼下に見える〝悪魔の焚き火〟に飛び移るようにして突っ込んで、箒の刷毛で粒子S.U.R.Pを掃き散らす。

《ヘルター・スケルター》の高性能な鉱石が、紫の大きな雷光を発してわたしの身体を持ち上げた。

 大気を切り裂き、バッタみたいに飛び上がる。


『そう、それが競技滑翔スカイ・クラッドの基本――』

「――高度を稼ぐ!」


 跳躍の最高点に到達すると、耳元でがなりたてていた風は嘘のように鳴りをひそめた。

 何もかもが死に絶えてしまったような、無音。

 わたしを縛り付ける重力さえも、つかの間に消える。青ざめた月の光だけが、そこにあった。


 数拍の後、身体が重さを取り戻す。

 わたしはシャフトを引き込み、背筋に力を入れ、体重を後ろにかける。


 ――後方宙返りバック・スウィープ一回転360°


 回転しながら、眼下に目線を巡らせる。

 夜の森の針葉が保護色になって探しにくい。

 航跡は見当たらない。

 帆を開いているのか?


 どこだ、どこだ、どこだ。


『残念、上よ』

「えっ」


 声に弾かれるように見上げると、いつの間にかわたしよりも高空に飛び上がっていた先輩がこちらに狙いを定めているのが見えた。

 月の逆光に、彼女の瞳だけが光って見える。


 わたしは動けない――いや、動かされた。回転を終えていない身体は、次に来るかわせない。


『【Aktivigo.発理。】【 Sago de 迅疾lumo altなるa rapido.光の矢】――』

「待って待って待って」

『――【Penetrado穿て.】』




   ◆




「十回目の被撃墜、おめでとう。けれど、だいぶ形になってきたじゃない」


 打ち捨てられた濡れぞうきんみたいに汗だくで地面にへばりつくわたしに、ナコト先輩は言った。

 もちろん「十回目の被撃墜」というのは、まともに飛んでまともに撃墜してもらえたのが十回目だという話だ。

 練習を始めた日から通算して、だいたいその倍の回数はほとんど自分から地面に突っ込んでいた。


 丘に立ってわたしを見下ろす鉄棺の魔女は、汗の一粒もかいていない。

 とはいえ、「何をやっても汗ひとつかかない完璧な天才魔女だから」というわけではないことをわたしは知っていて、それはつまり、ナコト先輩がわたしの相手をするために本気の片鱗すらも使っていないということに他ならない。


 わたしは息も絶え絶えで、声を出すのにも一苦労するありさまだった。

 代わりに全身の筋肉はご苦労なことにひっきりなしに悲鳴を上げている。わたしは背の低い草の生い茂る土の上に突っ伏したまま、「……ありがとうございます」とだけ言った。


「でも、一発も撃ち返せていないのは問題ね」


 言いながら、ナコト先輩はスカートを撫で付け、ふわりとわたしの頭のすぐ横に腰を下ろす。スカートから伸びた真っ白に光る太ももが、すぐ目の前にあった。


「……それは、わかっているんですけど」


 わたしはこわばってむくんだ筋肉に力を込めて、上体を起こす。


「なかなか上手くいかないんです。こう、何かをしてるときに、別の何かをするっていうことが」


 問題は、相変わらず理力マナのコントロールにあった。

 戦闘箒動せんとうきどうを保ちながら帆を開くことには慣れつつあったけれど、それはローブの高品質さに頼るところが大きい。『マジック・オーソリティ』の飛行用ファントムローブは、小さな理力、雑な伝導にも不平を言わず最適解を導き出した。


 わたしのほうはというと、箒とローブの操作に気を取られ、肝心の攻撃にてんで神経を割けないでいた。理力マナに初めて触れたのが他の子と比べて遅かった、という大きな問題と関連して、もうひとつの問題をわたしは抱えていた。

 わたしは当時から、集中力を適宜に割り振ることが絶望的に苦手だったのだ。

 湯を沸かす合間に読み物をすれば、決まってケトルが真っ赤になるまで放ったらかしてしまうし、戸締まりの最中に考え事をしてしまえば、鍵を閉めていたことを忘れてしまう。

「鍵を閉め忘れた」程度ならそれは良いほうで、ひどい時にはドアに一日中鍵が刺さりっぱなしで放置されていた、なんていうことまであった。

 日常生活ですらこうなのだから、つい最近ような理力ちからについては言わずもがなだ。


 とにかくそういうわけで、高速で戦闘箒動を行いながら精神を集中し、狙いをつけ、理力マナを引き出し、間違わずに呪文を詠唱するなんてことは、わたしにとって恐ろしく難しいことだったわけだ。


「話を総合すると」


 要領を得ない言い訳をするわたしに、ナコト先輩は言う。


「つまり、あなたはブルームセイルの操作で――空を飛ぶことだけで火がつくほど忙しくて、攻撃にまで手が回らないと言うこと? 私は上手く理解できているかしら、ニナの言うことを」


「たぶん」


 わたしはうなずく。


「なるほど」


 そう言いながら、ナコト先輩は小さな顎に指を当て、しばしのあいだ中空を見つめた。


「――たぶん、たぶんだけれど。あなたの集中力が足りない、という話ではないのよね。むしろ、ありすぎる。ひとつの物ごとに集中するあまり、他のことが見えなくなる」


 わたしは、少し迷ってうなずく。そういう言われ方をするのは初めてだったけれど、おおむね間違いではなかった。

 周りの人びとはよくわたしのことを「ぼうっとしている」と笑ったけれど、そんなことはないのだ。

 わたしだってちゃんと考えているんだぞ、ということがナコト先輩にわかってもらえていると思うと、胸が小さく弾んだ。


「つまり、ニナが飛びながら〝矢〟を撃つためには、まずは箒を手足のように――特段の集中をする必要がないくらい、上手く操れるようにならないといけない」


 人差し指を立て、宙でくるくると回して、ナコト先輩は続ける。


「そして、私たちに残された時間はあと三日。……だから――」


 細く白い人差し指が、わたしの鼻先でぴたりと止まった。

 わたしはのどに詰まったつばをと飲み込んで、彼女の次の言葉を天啓のように待った。


 ここにいたい、諦めたくない。

 そう思う気持ちと彼女の導きだけが、やせっぽちのわたしのよすがだった。


「諦めましょう」

「――えっ?」


「だから、諦めましょう」

「ええええええええええええーーーー!?」


 生まれて初めて出したくらいの大声は、静謐な〝慈悲の森〟いっぱいにこだました。


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