《鴉羽》のアカンサ

 昔々、ずっとずっと昔のことだ。


 この国で大きな戦争があった。

 大陸のほうから軍艦が何隻もやってきて、白銀の鎧に身を包んだ騎士の大軍がク・リトル・リトルの国土を蹂躙した。


 そのとき、のちに辻風の魔女、《鴉羽》の忌み名で呼ばれることになるひとりの魔女、アカンサ・クリサンセマムは十六歳だった。


 彼女はひとつの大きな夢を持っていた。国で一番の箒乗りブルーム・ライダーになることだ。

 実際に、彼女は優れた箒乗りだった。十分な実力と知識、そして何より人一倍度胸があった。

 同時に、それが彼女にとっては不運なことだった。


 十八歳で軍隊に志願したアカンサは、箒乗りとしての頭角をとんでもないスピードで現した。

 彼女が特に得意だったのは急降下爆撃だ。

 特別製の毒薬が入った大きなびんを抱えて、地獄の鴉みたいに騎士たちの上に舞い降り、美しい湖にコインを投げ入れるようにそっと毒びんを落とした。

 誰かの兜に当たったびんは粉々にはじけて手当たり次第に劇毒をまき散らし、白銀の鎧ごと文字通り骨の髄まで溶かした。

 彼女の三角帽子のはたくさんの勲章で垂れ下がり、「重くてうっとうしいのでもう勲章は要らない」という彼女の言葉は上官を大いに困らせた。

 彼女の武功の輝かしさは自分ですら直視できないくらいにまぶしかったけれど、それとは逆に、彼女の夢は彼女にはどうしようもないところで、いつの間にかあっけなく潰えていた。


 だって彼女は毎日のように、人が触れればたちどころにまだら色のになるような劇毒を扱っていたのだ。直接触れずとも、アカンサが無事で済むわけはなかった。

 長い長い戦争が終わる頃には、舌はしびれて何を食べても砂の味しかしなかったし、肺からはのふいごのような音が常に聞こえていた。

 何よりも箒乗りとして致命的だったのは、気化した毒にじわじわと焼かれてほとんど見えなくなってしまった両目だった。


 さりとて、自分ひとりだけ不平を言えるような状況ではなかった。

 戦争に勝って騎士たちを追い返したとはいえ、アカンサと同じような代償を払ったものはごまんといたし、それより大きな出血を強いられたものはもっと大勢いた。

 それでも彼女にとって空を諦めることはとても難しいことだった。

 当時の上官のはからいで、飛行技術の講師を務めるあいだも、その気持ちはのようにずっとくすぶり続けていた。


 彼女はそれを〝恋〟と呼んだ。

 自分は、空に恋をしているのだと。


 彼女は生徒たちに飛行技術を教えるかたわら、独学で箒を作るようになる。それは、アカンサの胸のくすぶりをいくらか慰めてくれるものだった。

 資料として取り寄せた飛行箒学の本の最初の一ページ目には、ある文言が書かれていた。



 ――最高の箒とは、なにか。



 霊油エーテルランプの灯りの下、曇った瞳で苦労して読み取ったそれに、アカンサは「速くて、よく曲がる」と小さな声で答えた。


 それから、彼女の上を数え切れないほどの朝焼けと夕暮れが通り過ぎた。

 最初の箒はさんざんな出来だったが、何十本と作るうちにだんだんと実用的なものが作れるようになった。

 箒作りはアカンサのライフ・ワークになり、教官を退職したあと、彼女は街外れのため池の近くに小さな箒店を開いた。


 彼女の作る箒は実際に速くてよく曲がったから、必然的に『クリサンセマム箒店』の評判はオーゼイユの街に知れ渡った。

 店にはひっきりなしに客が来て、箒は何本も飛ぶように売れた。


 彼女がなにより嬉しかったのは、客の魔女たちの満足そうな笑顔だった。若い魔女たちのみずみずしい笑顔は、曇ってしまった目にも不思議とはっきり見えた。

 店の経営が軌道に乗った頃、アカンサはひとつの区切りとして、を作ることにした。

 それまでの儲けを全部つぎ込んだ、この世で最も速くて最も鋭く曲がる箒を。


 それからアカンサはほうぼうを走り回って、国じゅうから最高の材料を揃えた。

 三千年生きた紫檀から木材を切り出し、最高純度の反射鉱石を取り寄せた。

 刷毛をまとめる細い縄の一本すら、偏執的な態度で最高のものを吟味した。

 そうしてそれらの材料を集めたあと、自らが持てる技術と魂のすべてをつぎこんで出来上がった箒は、確かに速く、よく曲がった。


 でも、それだけだったのだ。

 速すぎて、鋭すぎた。


 最初の試運転でその箒に乗った魔女は、箒の反応速度についてゆけずに振り落とされた。


 不運な事故だった。

 アカンサはそう思った。


 次の魔女も、次の次の魔女も振り落とされた。

 大けがをする魔女が増えるのと比例して、店の客足はだんだん遠のいていった。若く美しい魔女たちの、濁りのない笑顔も。

 アカンサは苦悩した。朝も昼も夜も自問自答した。


 ――なにがいけなかったのだろう?


 千日に及ぶ苦悩の後、アカンサは一筋の光を見出した。

「前提条件が間違っているのだ」と。


 ――最高の箒とは、なにか。


 狂った馬が鳴らす蹄のように、ずっと頭の中で問いかけ続ける声にアカンサは答える。


「最悪の箒なら、知ってる」


 誰にともなく、答える。


「誰にも乗りこなせない箒だ」


 それからのアカンサは、箒を作る際には必ず誰かの顔を思い浮かべるようにした。箒を売る際には必ず試しにまたがらせるようにした。ぴったりの相性の魔女が乗ると、彼女の箒は、刷毛に埋め込まれた鉱石からぱちぱちと小さな火花を放った。

 店のカウンターには、速すぎて曲がりすぎる独りよがりな箒を飾った。

 そうしてようやく、彼女はひとつの結論に至った。最高の箒とは、誰かと心を重ねられる箒だと。







「だから、そいつは失敗作。あたしの戒めなのさ」とアカンサは話を締めくくった。

 いつの間にか日は傾いていて、窓から差した夕焼けが店の中をオレンジ色に染めていた。

 わたしもナコト先輩も、彼女の話に聞き入っていた。

 アカンサは、わたしに抱かれた《ヘルター・スケルター》を指差す。


「たぶん、そいつは気位が高すぎたんだ。なまじ自分が早く飛べるものだから、そこらの魔女が背中に乗るのを認めなかった。女王陛下でも乗りこなせるか怪しいもんだが、気になったんなら試しにでもまたがってみな」


 ずっしりとした紫檀で出来たの身体を両手に抱き抱えながら、わたしは何か釈然としないものを感じていた。

 重大な齟齬があるように思えてならなかったのだ。


 アカンサの言うように、重ね合わせる〝心〟を箒自体が持つというのであれば。


 ――彼は、本当に誰も認めなかったのだろうか?


 わたしは、わたしが彼を手に取るまでの長い時間のうちに、彼の上を通り過ぎていった人びとのことを思う。

 魔女たちは、彼の持つ何かに惹かれて彼を手に取り、またがったはずだ。

 誰だって最初は「彼と飛びたい」と思って、彼を手に取る。彼と飛びたい、あるいはそこまで確信的な想いではないにしろ、良きパートナーになれるかもしれない、そういうふうな期待を抱いていたはずだ。


 けれど、そうはならなかった。彼女たちは彼の持つ力を上手く制御できず、大けがを負い、諦め、落胆し、沈黙する。

 そして彼女たちは去っていく。

 たぶん、それはとても辛いことだ。彼の中には、まだ確かに彼女たちの手の温もりや、彼女たちが口ずさんだ唄が、漂う残り香のように残っていて、けれど、彼女らは決して彼のことを必要としない。

 そのことを考えると、胸が痛んだ。


 ――そんなことを望む〝心〟が、どこにあるというのだろうか?


「本当に、そうなんでしょうか」とわたしは言った。正確に表現するなら、言葉が口から勝手に漏れだしていた。


「飛ぶために産まれたものが、〝誰とも飛びたくない〟と思うことなんて、本当にあるんですか」


「どうだろうね」と、アカンサは言った。


「事実、そいつに上手く乗れる魔女はひとりもいなかった。どんな箒乗りをかき集めたって、そいつは誰も認めなかった。それだけが事実だ」


 そうじゃない、そんなはずはないのだ。

 ただ、何をやっても上手くいかないだけなのだ。


「……そんなのって。そんなのって、ない。だって、この子は」


 だって、彼はたぶんわたしと似ている。

 誰がどう手を差し伸べたって、不器用なせいでなにひとつ上手くいかない。

 店の隅っこで、まわりの箒が飛んでいくのをただ見ているだけ。


「……認めなかったのは、諦めてたのはアカンサのほうじゃないんですか?」


 見当違いの暴言を吐いてしまったときには、わたしはもうほとんどけんか腰になっていた。


「そうじゃなかったら……本当に《ヘルター・スケルター》が誰とも心を通わせられないと思っているのなら! なんで『乗ってみろ』だなんて言ったんですか! あなただって、本当は……本当は、諦めきれないんじゃないんですか? この子が飛ぶのを!」


 唐突に怒り狂った十五の小娘を目の前にしたアカンサは、舌を引っこ抜かれた猫みたいな表情できょとんとしていて、そのすぐ隣ではナコト先輩が必死で笑いをこらえている。

 けれど、だめだった。

 止まらなかった。

 自分でもわからない身体のどこかから言葉がとめどなくあふれてきて、どうにも止めようがなかったのだ。


 だって必要なのは、わたしをほんの少しでも認めてくれる誰かなのだ。どんなに不器用でも、どんなに上手く行かなくても、そこにひとかけらの存在価値を見つけ出る誰かがいてくれさえすれば、わたしたちはどこにだって踏み出すことができるはずなのだ。

 だからわたしは、爪が真っ白になるくらいに紫檀の柄を握りしめる。

 応えろ、応えろ、応えろ。


 ――もし君が、いまでも誰かと飛びたいと思っているのなら。


 じり、という音とともに、夕焼けの店内に一瞬だけ別の色が混じる。

 応えろ、応えろ、応えろ。


 ――君は、わたしと一緒に飛ぶべきなんだ。




「だから、飛びたいなら、応えてよ! 《ヘルター・スケルター》!」




 抱きしめた腕の中で、ぶるりと彼の身体が震え、紫の火花が小さく飛んだ。

 アカンサの霧の目が、大きく見開かれる。

 励起した鉱石が生み出した火花は瞬く間に大きくなって、嵐の激しさで店を紫一色に染め変える。震えるシャフトが何万匹の野鳥のさえずりみたいに甲高い音を立てながら、わたしの手の内でめちゃくちゃに暴れた。


「――おお……! おお……!」


 驚きとも嗚咽ともとれない声で、アカンサが唸る。

 アカンサの言葉を借りれば、彼が長年のあいだ身体の内側で暖めてきたものは、きっと恋だ。


 身を焦がすような、嵐のような、空への渇望。

《ヘルター・スケルター》。

 最悪の箒。

 しっちゃかめっちゃかの、紫檀の嵐。

 それは、わたしの初めての相棒との出会いだった。

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