ヘルター・スケルター(2)

 最後の買い物の店は、街外れのため池のすぐそばにあった。


 オーゼイユ街の中心部から外れていくにしたがって、建物の数はだんだんとまばらになり、その代わりに木々の緑が増えていく。それに伴って変化していく空気が土や木の匂いを運んできて、わたしの鼻腔をくすぐった。

 舗装が行き届いていないむき出しの土の馬車道はひどくでこぼこしていて、馬車がときおり大きな段差を踏んではしたたかに跳ね、そのせいでお尻が痛かった。


 三面三体の魔女像がにらみを利かせる三つ辻で、わたしたちは馬車から降りる。あたりに植わったぶなの木が、昼過ぎの日差しを浴びてそよいでいた。

 ナコト先輩は身体全体で日光を浴びるように伸びをしたあと、お尻をさすりながら「ずいぶん揺れたわね」と言った。


 ナコト先輩ほどの人でも、お尻を何回も打ち付ければ人並みに痛くなるのだ。そういった事実をアリソンやビビはきっと知らなくて、わたしだけが知っている。馬鹿げた話だと思うかもしれないけれど、当時のわたしには本当にそのように感じられて、そのことが誇らしかった。


「ほら、ニナ、あそこよ。あのお店」


 ナコト先輩は、三叉路に面した小ぢんまりとした赤煉瓦の小屋を指差す。

 ちょうど古民家から廃屋への過渡期みたいな印象の、色あせた建物だった。最低でも三年は手入れしていなさそうな庭には誘精灯ピクシー・トラップがまばらに吊されていて、罠にひっかかった哀れな妖精の死骸がオブジェのように干からびていた。


 わたしは、ナコト先輩に買ってもらった品々が入った『マジック・オーソリティ』の手提げ袋とその煉瓦の小屋を交互に見比べる。

 滑らかで繊細な絹の買い物袋と、ひび割れた赤煉瓦の落差。

 なんだか微妙に不安になってきたわたしの表情を読み取ったのか、「ちょっと陰気な外観だけれど、およそこの街で最高の箒職人のお店よ」とナコト先輩は付け加え、店の玄関へと足を踏み出す。


 わたしは彼女のあとをついて、店の門をくぐった。雑草だらけの庭を突っ切った先、剥がれかかった金色の文字で『クリサンセマム箒店』と書かれた扉を、ナコト先輩がノックする。小菊を象ったドアノッカーがさび付いた音を立てた。

 ドアが開かれるまでのあいだ、わたしは壁の赤煉瓦を眺めていた。ほとんど崩れたような煉瓦の壁を這う蔦はもう玄関のすぐ横にまで迫っていて、「近い将来この扉は永久に閉ざされることになるのではないだろうか」と、意味もなく心配になる。


 ほどなくして、ドアが開く。どこかしらの建て付けが致命的に悪くなっているらしく、ぎ、ぎいと、ところどころ引っかかるようにして開いた扉の内側には、魔女のローブを着た背の低い老婆が立っていて、「そろそろ来る頃だと思ってたよ」としわがれた声で言った。


 彼女の身長は老人特有の常になにか重いものを背負っているような立ちかたのせいで、実際よりもさらに小さく見えた。皮膚に刻まれたしわは深く、両目にはなにかしらの疾患があるようで、瞳孔には乳白色の霧がかかっていた。


「けれどね、ヴィルヘルミナ……あたしに連絡をつけるのに、いちいちあの薄気味の悪い人形を寄越すのはお止し」


 老魔女は、肺に穴が空いたような声でひっひと笑い、腰に下げた杖を杖帯ホルスターの上から叩いた。久しぶりに戸棚の奥から引っ張り出してきたような、親密な笑顔で言葉を続ける。


「あんまり驚いたものだから、三発くらいぶち込んじまったよ」


 どうやらナコト先輩は、事前に使い魔ファミリアーを使って彼女に連絡を取り付けているようだった。

 一般的に魔女が使い魔として使役するのは黒猫やカラスといった比較的頭のいい動物で、それはもともとある程度の知性を持っているもののほうが使役しやすく、合理的だからだ。だから、無機物の使い魔――〝薄気味の悪い人形〟というのは、ちょっと聞いたことがなかった。

 わたしは夜更けにひとりでに歩きだす陶器人形ビスク・ドールを想像してみる。それはあまり気分の良いものではなかったし、驚いて魔法の矢を撃ち込んでしまってもそれはそれで不可抗力なのかもしれない。


 ナコト先輩のほうはというと、そのことについて悪びれた様子はまったく無くて、特段の弁解は必要ないと考えているようだった。


「こんにちは、《鴉羽》のおばさま」


 ナコト先輩はそう言って、魔女のお辞儀をする。わたしもナコト先輩にならって挨拶をした。ナコト先輩と比べてしまうと、多少ぎこちなかったかもしれない。

 わたしたちのお辞儀に老魔女も礼で返し、自らの名前を名乗った。


 アカンサ・クリサンセマム。

 辻風の魔女、《鴉羽》のアカンサ。

 彼女のお辞儀は、はっとするほど瀟洒な所作で、非の打ち所のない模範的なものだった。

 右手を横に伸ばして手のひらを空に向け、左手はローブの裾をつまむ。たったそれだけのことなのに、丸まっていたはずの背中や、枯れ木のような腕が威厳をはらんで伸び、しわがれた声は玲瓏に響いた。

 それは、彼女が受けた高度な魔術教育の轍だ。


 ある種の所作は、それだけでその人が歩んできた道のりの証左となる。わたしはそのことを、そのとき初めて学んだのだと思う。

 そのくらい、文句の付け所のない流麗なお辞儀だったのだ。


 老魔女は「ようこそ『クリサンセマム箒店』へ」と言った。


「あんたが例の子だね、話は聞いているよ」


「は、はい。ニナ・ヒールドといいます。……よろしくお願いします、ミス――」


「ミスとかマダムはやめな。他人行儀なのは嫌いなんだ。アカンサでいい」と、辻風の魔女はわたしの言葉を遮る。


「さあ、二人ともお入り、紅茶を入れてある」




 アカンサの案内で、わたしたちは店内に足を踏み入れる。

 小ぢんまりとした店内は薄暗く、空気は重く淀んでいた。

 床板はすり減って軋んでいたし、会計のためのカウンターはとても古くて傷だらけで、天板は反り返って波打っていた。


 けれど、そこに陳列された様々な長さの競技箒だけは、完璧に手入れが行き届いている。壁に取り付けられた素朴な造りのラックにそれらの箒は並べられていて、そのどれを取ってもしみひとつなく丁寧に磨き上げられていた。様々な種類の木材で作られた流線型の箒のシャフトは、素人目にも高度な技術で削りだされたことがありありとわかる。


 部屋のすみには簡素なティーテーブルが備え付けられていて、わたしたちは一旦そこに座る。

 ティーテーブルの上に置かれていた紅茶はまったく冷めておらず、どういうわけだか本当にわたしたちが来るのを見計らって淹れたような温かさだった。


 アカンサはゆっくりと紅茶を口に運び、わたしを改めて観察した。テーブルごしにわたしをじっくりと観察するあいだ、彼女はまばたきを一度だってしなかった。


「……細すぎるね、鍛え方が足りない。こんなんで箒乗り名乗ろうってのかね? ええ? こんな細っこい腕して、箒から振り落とされたいのかい?」


 アカンサの物言いは直截的で、あけすけなものだった。

 けれど不思議とそこに悪意は感じられなかったし、言い分はおおむね的を射ていた。確かにわたしはやせっぽちのひょろひょろだったし、振り落とされたとは言えないまでも、すでに一度の大墜落を経験していた。


 〝慈悲の森〟に盛大に突っ込んだことについては黙っておくことにしようと心に決めて、わたしは紅茶を一口飲む。紅茶はほのかにの味がした。


「私、ニナがたくましいだなんて一言も言っていないわ」とナコト先輩が言った。


「けれど、とっても目がいいの、彼女」


「あんたよりもかい?」アカンサが聞き返す。

 アカンサの質問を受けて、ナコト先輩は少しのあいだ息を止めて考え込んだ。幾度かまばたきのたびに、彼女の瞳はとりどりの色を宿した。紅茶を一口飲んで、そしてハンカチで口を拭った。それから、辻風の魔女の霧の瞳を見つめ返し「あるいは、いつかは」とだけ言った。


「こりゃ面白い」とアカンサは言った。本当に心の底から面白いものを見たようで、実に楽しそうに、ひっひっと笑った。


「高慢ちきのヴィルヘルミナにそこまで言わせるとはね! ……だったら、資格十分にお釣りが来ると見て間違いないだろう」


「ええ」


 よどみないナコト先輩の返答に、アカンサは満足そうにうなずく。

 二人の会話には、お互いの能力への確かな信頼感のようなものがあった。

 年齢や社会的序列といった経歴を飛び越えた、純粋な能力への評価だ。それは目に見えないものだったけれど、確かに存在していた。そうでなければ、この老練の魔女がわたしみたいなやせっぽちの素人を簡単に信用することはなかっただろうから。


 アカンサは椅子から立ち上がる。足腰が弱っているらしく、その動作はゆっくりとしたものだったけれど、霧がかった瞳にはある種のモチベーションのようなものが宿っているように見えた。


「それじゃあ、あたしがニナに一番ぴったりの箒を選んでやらないとね。一泡吹かせるんだろう? メラニー・ロウマイヤーに」


 思わぬところでミス・ロウマイヤーの名前が出たことで、ちょっと面食らってしまうわたしに、ナコト先輩が耳打ちをした。


「ミス・ロウマイヤーは、《鴉羽》のおばさまの教え子アプレンティスだったのよ」


 その時すでに、ミス・ロウマイヤーは結構なお年を召していたはずで、だったら、いったいこの老婆はいつからどのくらいの期間を老婆として過ごしているのだろう? 棚を物色するアカンサの小さな背中を眺めながら、わたしはそう思う。

 そんなことを考えていると、アカンサはラックにかけられた箒のうちからひとつを手に取って戻ってくる。

 薄褐色の流麗なデザインの箒だった。

 学院の備品の箒よりは少し短く、とても軽そうで、真っ赤ななめし革のサドルシャフトに組み付けられていた。


「銘は《プリム・ローズ》、材質はスイート・チェスナット。全長2.5ファウナスのショート・ブルーム。鉱石リフのカットは58。やや脆いところがあるが、素直な子だ。またがってみな」


「ここで、ですか」とわたしは言った。

「早くおし」と辻風の魔女は言って、わたしに箒を押し付ける。


「そら、立った立った」


 わたしは言われるがままにその場に立つ。

 握らされた箒の手触りは、アカンサの節くれだった古木のような手からそれが生み出されたことが上手く想像できないくらいに滑らかだった。


「最近の、メーカー品ばかり使っている若いのにはわからんだろうがね、箒ってのは、またがって初めて合うかどうかがわかるもんなのさ。男のあれと一緒でね」


 それからまた、アカンサはひっひっひ、と笑った。

 わたしも合わせてははは、と笑う。


「ははは」


 彼女はあまりジョークは得意なほうではないようだった。

 仕方のないことだ。誰にでも得手不得手はある。わたしだって魔女のくせに魔法が苦手なのだから、おあいこだ。


 わたしは気を取り直して、ライトブラウンの柄にくくりつけられた真っ赤な鞍に恐る恐る腰を下ろす。

 渡された箒にわたしが乗るか乗らないかのうちに、「だめだね。さっさとそいつを返しな」とアカンサは言った。


「次。《スリム・シェイディ》、トネリコ、4ファウナスの長箒ロング、カット58。かなり硬め――、あんたいつまで乗ってんだい!」


 やにわにアカンサがわたしの股ぐらから箒を力任せに引っこ抜いた。《プリム・ローズ》の深紅の鞍がお尻を強打し、うずくまりそうになる。

 アカンサはそんなのお構いなしに次の箒を差し出してきて、わたしにまたがるように指示する。

 そういった調子で、アカンサは次から次に自慢の箒を持ってきては、わたしにまたがらせる。彼女が何を求めてこんなことをしているのかはよくわからなかったけれど、わたしは素直に従った。


《カーペット・スネイク》。

 ダッチエルム、2.3ファウナス。短箒ショート。カット82。

 速さは中庸、運動性は折り紙つき。

 わたしがまたがる。

 アカンサはため息をつく。

 引っこ抜く。


《スノウ・ピアサー》。

 マホガニー、2.7ファウナス。短箒ショート。カット58。

 剛性と最高速度に優れる。

 またがる。

 アカンサは首をかしげる。

 引っこ抜く。


 そういったやり取りがしばらく続いて、試し終わった箒がだんだんと山のように積み重なってゆく。


「なんなんだい、あんた。大人しい顔して相当気難しいじゃないか」


 店じゅうの箒を片っ端から持ってくるのは結構な重労働だったようで、アカンサは肩で息をしながら言う。かく言うわたしのお尻もほぼ限界を迎えていた。

 ナコト先輩はというと、最初のほうこそ私たちのやり取りを眺めていたものの、途中で飽きてしまったようだった。気の無い様子で艶やかな黒髪の毛先をいじっていた。


 誰が言うともなく、わたしたちは椅子に座って休憩する。味の紅茶も、慣れてしまえばそれはそれで結構飲めないことはなかった。


 椅子に背中を預けて、ふと目線を上げると、カウンターの奥に展示してある一本の箒が目に入った。その箒は年代もののようで、乗りやすさや見た目の優美さを追求した造りとは相反した、全体として直線的で武骨な作りのものだった。一応の手入れはされているものの、亜麻仁油で仕上げただけの節くれだった表面の風合いは、煤けた老犬を連想させる。

 一言で言ってしまえば時代遅れのデザインで、なにより気になったのはその展示のしかただった。


 本来であれば、カウンターというのはそのお店の顔そのもので、そこにはその店で一番自信のあるものを誇らしげに飾る場所だ。少なくとも、ヒールド文具店ではそうだった。けれど、その箒については、なんというか、だけなのだ。

 カウンターの奥に作り付けられたラックの上に置かれているその簡素で古い箒からは、気負いや押し付けがましさのようなものは少しも感じ取れなかった。ただ、そこに置かなければならないから、置いている。そういう印象の展示のしかただった。


「戒めだよ」とクリサンセマムの女主人が言った。

「戒め?」わたしは聞き返す。


 アカンサは霧に濁った瞳でわたしの顔をじっと見つめた。

 三十秒くらいのあいだだったように思う。

 それから、ため息をつく。

 いつ終わるのかともしれない、深く長いため息のあと、彼女はわたしにひとつの質問をした。


「あんた、『最も優れた箒』がどんなものか、わかるかい?」


 言いながら、アカンサはカウンターの裏側に回って、その古びた箒を手に取る。箒が置いてあるラックは彼女の身長よりもほんの少しだけ高い場所にあって、年老いた彼女にはその作業はひどく大儀そうだった。

 わたしは少しだけ考えて、彼女の背中に答えを返した。


「……速くて、よく曲がる?」


「ふむ」アカンサは言った。


「じゃあ、『最悪の箒』は?」


 いったい何の謎掛けなのだろう? わたしは助けが欲しくなって、ナコト先輩を見る。

 ナコト先輩は頬杖をついて、物言わずただわたしを見つめていた。窓から差す光のせいで彼女がどんな表情をしているのかはわからなかった。ただ、わたしを見つめる紫と薄青の眼だけが、逆光の中で薄ぼんやりと浮き上がって見えた。


「遅くて、曲がらない」わたしは答える。

「あんたは、そう思うかい」アカンサは言う。


 古傷を眺めるときのような苦々しさと誇らしさが入り混じった表情で、わたしにその箒を手渡した。


「材は紫檀。2.5ファウナス。鉱石リフのカットは144。


「銘は?」


「そんなもん、ありゃしないよ。大昔に作った、ただの試作品だ」


 複雑なしかめ面をしたまま、アカンサは言う。


「けれど――強いて言うなら、そうだね……《ヘルターしっちゃかスケルターめっちゃか》ってところかね」

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