ヘルター・スケルター(1)
オーゼイユ行きの駅馬車の窓からは、山の上に建つエルダー・シングスの校舎が見えていた。
いくつかの大きな尖塔と堅牢な石の城壁で構成された巨大な校舎は、そこかしこに小さな損傷の跡を残している。大昔の戦争で、城塞として建てられたときの名残だ。
がたごとと揺れる四頭立て馬車の向かいの席には、ナコト先輩が座っていた。
ナコト先輩は、飾り気のない白いブラウスの上に、灰色のサマー・カーディガンを羽織っていた。えんじ色のスカートを穿いた膝の上に、ちょっとした物をいくつか入れたらそれだけで一杯になりそうな上品で小さなバッグを乗せている。
「なんだか、意外です」
子ども服みたいな青い水玉模様のワンピースの裾をいじりながら、わたしは言った。
「意外って?」
だってわたしはてっきり、ナコト先輩は街のアパートメントかどこかで独り暮らししているものだと思っていた。実際、お金持ちの親を持つ生徒や、もともと近くに住んでいた生徒たちはみんなそうしていたからだ。
けれど仮にそうであったなら、彼女が一緒の馬車に乗っているわけはなくて、つまりナコト先輩はエルダー・シングスの敷地内にある学生寮のどれかに住んでいるということになる。
まさか仮にも侯爵家のご令嬢が、あんなに埃っぽくて狭い寮に住んでいるとは夢にも思っていなかったから、ナコト先輩が学院前の停留所を待ち合わせ場所に指定したときはずいぶんと驚いた。
そのことをナコト先輩に告げると、彼女は得心がいったという感じに笑った。わたしたち以外は馬車に誰も乗っていないのに、いたずらっぽく小声で耳打ちをする。
「私ね、実はとても朝が弱いのよ。だから街なんかに住んでたら、毎日だって遅刻しちゃうわ」とナコト先輩は言った。
「実は私って、けっこう不良なの」
そういえば、とわたしは思う。
わたしたちが出会った日にナコト先輩が〝慈悲の森〟にいたのは、彼女が授業をさぼっていたからだった。
言ってみれば、わたしはナコト先輩の不真面目さに命を救われた形になる。
ナコト先輩と知り合ってから数日のあいだに、わたしはわたしの中のナコト先輩の印象がわずかに変化しつつあることに気づく。とても変な話なのだけれど、彼女が実像を伴ったひとりの人間であるということを、わたしはその頃になってようやく認識しだしていたのだ。
確かに、彼女はアリソンが言うように特別だった。
わたしなんかとは全然違って、箒に乗せればとんでもなく上手く空を飛んだし、理屈のよくわからない魔法でわたしの命を救ってみせた。おまけに神さまみたいに美人だった。彼女に微笑みかけられただけで自分まで選ばれし者のように思えてきて、見つめられただけで自分の身体が少しだけ宙に浮かんでいるような気になる。
ナコト・ヴィルヘルミナ・フォン・ユンツトは、間違いなく特別な人間だった。
けれど、それらはあくまで彼女の一部の側面で、もっと言えばわたしたちが彼女に期待し、求めるものでしかなかった。
当の本人はそんなことお構いなしに人並みに寝坊するし、気分が乗らなければ授業をさぼる(逆に気分が乗れば、いきなりわたしの名前でダレット先輩に喧嘩を売るのだ!)。
ナコト先輩は、ただ特別なだけの、不完全な人間なのだ。
そう思うと、少しだけ先輩に親近感のようなものが沸いてきて、彼女の秘密を自分も共有しているような気分になった。わたしはそれが嬉しくて、自然と口元が上がってしまう。
にやにやと笑うわたしを見て、ナコト先輩は「変なニナ」と言った。
三十分ほど馬車に揺られていると、わたしたちはオーゼイユの街に到着する。
オーゼイユは緑豊かな美しい自然の都だ。
エルダー・シングスの校舎が睥睨する、なだらかな傾斜を持つ丘の麓にその街はある。気温は年間を通して温かく、冬に雪が降ることはあまりなかった。
街の真ん中を突っ切るように流れる運河に沿うように敷かれた街路には、四季折々に表情を変える豊かな緑がバランスよく配置され、季節ごとの彩りを添えていた。
活気あふれる雑踏の往来にはのっぽの街灯が等間隔に配置され、石造りの家屋や商店が肩を寄せ合うように整然と軒を連ねている。
その当時はまだ
当時の霊油車は前輪荷重が大きすぎて旋回が困難だったし、小さな衝撃ですぐ爆発を起こした。だから世間から霊油車は奇特な新しもの好きのための乗り物だとみなされていて、オーゼイユ街の整備された石畳の往来を行き交うのは、かぽかぽと蹄鉄を鳴らす質実剛健な駅馬車がほとんどだった。
わたしたちは馬車から降りて、御者のおじさんに運賃を払う。ひとりぶんの運賃は銀貨一枚で、それはつまりわたしの慎ましやかな昼食代三日ぶんに相当する値段だった。わたしは抱えたトランクを開けて、全財産の入った財布から銀貨を取り出す。
そんなわたしの様子をしげしげと眺めて、ナコト先輩が言った。
「ニナ、あなたってすごく大きな財布を持ってるのね?」
ナコト先輩の視線は、わたしの持つなめし革の袋に集中しているようだった。確かに大量の硬貨が詰まったわたしの財布は、中くらいの猫ほどの大きさと、それ以上の重量があった。
なんだか恥ずかしくなったわたしはおずおずと答える。
「わたし、
「あなたを勧誘したのは私なのだから、今日は全部私が出そうと思っているのだけれど」
さもそれが当たり前、というような顔で、ナコト先輩は言う。
「それは、いくらなんでも」
「いいの。機嫌が良いのよ、いまの私は。でも、そうね……だったら、今日のお昼ごはんはニナにご馳走してもらおうかしら」
そう言って、先輩はわたしの返事を待たずに歩きだす。
「ほら、行きましょう? まずは新しいローブを作らないとね」
石畳を鳴らすナコト先輩の足は長く颯爽としていて、重たいトランクを抱えたわたしは、よたよたとその背中を追いかけなければならなかった。
大通りに面して店を構える
有名な建築家にデザインさせたらしい瀟洒な店構えが有名で、取り揃える品物には気の利いた意匠のものが多い。当然、値段もそれなりに張るので、『マジック・オーソリティ』の品物を持つことは、若い魔女たちのあいだではちょっとしたステータスと言えた。
わたしたちはエントランスの石段を登り、ぴかぴかのドアを開けて店内に入る。
店内はとても天井が高く、ゴージャスなシャンデリアが気前よくいくつもぶら下がっていた。
わたしとビビの住む部屋が六つは入るくらいの広い店内には、計算しつくされた間隔でガラスの商品棚が配置されていて、様々な魔術用品が美術品みたいに展示されている。重厚なウォルナットの床は、掃除が行き届いていて埃ひとつ見つけることができなかった。
店は繁盛しているようで、幾人かの身なりのいい少女たちが商品を手に取り、手にした品物の感想だろう何ごとかを静かにささやきあって笑っていた。たぶんエルダー・シングスの生徒であろう少女たちは、みな一様に洗練された洋服を着こなしていて、笑顔は柑橘みたいにみずみずしかった。
わたしは自分がここにいることがひどく場違いなように思えて、店の入り口に突っ立ってトランクの柄を握りしめる。しめやかな葬儀にわたしだけ道化師の格好で乱入したような気分だった。
巨大な鞄を持った、水玉柄の道化師。
普段からもう少し真面目に〝メイガス〟を読んでおくべきだったと後悔したけれど、そんなことはもう後の祭りだった。気後れするわたしを、前を行くナコト先輩が振り返る。
「何してるの、ニナ。こっちよ」
そう言ってわたしの空いているほうの手をぎゅっと握り、そのまま歩きだす。
わたしの手を引いて颯爽と歩く先輩の背中をよたよたと追いかけていると、客の少女たちの視線がわたしたちに集中するのを感じた。
たぶん、学内の有名人である《柩》のナコトがいることに気づいたのだろう。ひそひそとささやきあう声が、少しだけ大きくなった気がした。ナコト先輩はそのままわたしの手を引いてカウンターまで行き、自分の名前を告げる。
受付には女性がひとり姿勢良く立っていて、白くて整った歯並びを見せびらかすように、模範的に微笑んでいた。
「いらっしゃいませ、ご用件をお伺いいたします」
ナコト先輩は彼女に尋ねる。
「ミスター・ウイルディアはいらっしゃるかしら? 最近、彼にローブを仕立ててもらったのだけれど、またお願いしたいの」
営業用の感じのいい微笑みを浮かべたまま、受付の女性は「かしこまりました、ミス・ユンツト。少々お待ちください」と言って、奥に引っ込む。
ウイルディア氏を待つあいだ、わたしは店内からの視線に耐える必要があった。少女たちの視線は、ナコト先輩からわたしに移りつつあったからだ。
《柩》にくっついているあの水玉は何だ? とでも言うような視線。虫眼鏡で炙られているようだった。
二十秒ほどあとで、受付の彼女は背の高い金髪の青年を伴って戻ってきた。
ウイルディア氏は、切れ長の目をした端整な顔立ちの青年だった。丈の短いメス・ジャケットをかっちり着こなして、すねの中ほどまでの長さの、こなれた革エプロンを腰に巻き付けていた。短く刈り込まれた金色の髪は清潔で、ガーベラの花びらみたいに長く尖った耳をしていた。
「ごきげんよう、ナコト・ヴィルヘルミナ・フォン・ユンツト様。またお会いできて光栄です」
うやうやしくお辞儀をしながら、ミスター・ウイルディアは感じよく微笑んで言った。彼の笑顔も、一流店のスタッフとしてのキャリアで磨かれたであろう、完璧な笑顔だった。
「新しく
「いいえ」と、ナコト先輩は首を振る。
「逆なの。ミスター・ウイルディア。このお店のローブがとてもよかったから、彼女にも一着作ってもらいたくて」
「……こちらのレディに?」
彼は笑顔を崩さないまま、なんだか痩せた犬を見るような目でわたしを観察した。やってみるとわかるけれど、笑顔を崩さずに怪訝な顔をするのは結構難しいことだ。その点、やはり彼はプロフェッショナルだと言えた。
「そう。できる限り良いものを」
ナコト先輩の言葉に、ウイルディア氏は少しだけ考えを巡らせるようなそぶりをしてから、鷹揚にうなずく。
「……かしこまりました。――失礼ですが、レディ、お名前は?」
「ニナ・ヒールドです」
「ではレディ・ニナ。採寸をいたしますのでこちらに」
レディなんて呼ばれたのは初めてのことで、わたしはちょっとくすぐったい気持ちになる。
フィッティングルームに通されたわたしは、まず身体のあちこちを採寸された。
ウイルディア氏の仕事は速くて正確だった。
わたしの全身にてきぱきと巻き尺を当てながら、都度その数値を紙に書きつけていく。
こんなに仔細に身体の長さを測られたのは初めてのことだったので、どこか変な所がないか気になって仕方がなかった(腕が人よりも長いだとか、脚が人よりも短いだとか、そういったことだ)。
思い切って聞いてみると、ウイルディア氏は一瞬だけ驚いたような顔をして、それから小さく微笑んで言った。
「何も心配ありませんよ、レディ。強いて言えば……標準より、多少耳が丸く見えますが」
わたしの身体の寸法を測り終えたミスター・ウイルディアは、巻き尺を丁寧に丸めてからポケットに収め「レディ、エルフを見るのは初めてですか?」と言った。
「あっ、すみません。わたし、じろじろ見ちゃっていましたか?」
慌てて謝るわたしに、ミスター・ウイルディアは言った。
「お気になさらず。そういった目線には慣れておりますので。確かに、この国ではエルフは珍しいですから」
「そういうものなんですか?」
「私どもエルフ――ああ、より正確に言えば、私は
「ふうん」
わたしは海の向こうの巨大な大陸を想像しようとして、すぐにやめた。
十五歳のわたしにとって、世界は茫漠としていて、広すぎた。海の向こうの都市の街並みや、そこに住む人びとの表情を上手く想像することができなかったのだ。
「さて、レディ・ニナ。飛行用ローブについて細かいご要望をお伺いしたいのですが、なにか特段のご注文はございますか?」彼は言った。「ポケットの数や位置ですとか、ボタンの材質などです」
なんだか難しい質問が飛んできて、わたしは困ってしまう。助けを求めようにも近くにナコト先輩はいなかった。
わたしは少し迷ってから、「普通のやつでお願いします」と答えた。
「かしこまりました」
ウイルディア氏は質問を続ける。
「刺繍はどうされますか? レディのおしるしは?」
わたしはそこで、彼の無遠慮な質問に少しだけむっとした。
なんだってそんな情報が必要なのだろう。わたしはまだしも、人に言うにはちょっと恥ずかしいところにしるしが顕れる子もいるのだ。返事をする声が、にじみ出る不機嫌で少し低くなってしまう。
「右のお尻の付け根です」
ウイルディア氏の顔に、一瞬だけ呆けたような表情が浮かんだ。それから彼は眉を少ししかめ、とても申し訳なさそうに首を横に振った。
「……失礼いたしました。刺繍を施すにあたって、しるしの象形をお伺いしたいのです」
三秒ほど時間をかけて、わたしはミスター・ウイルディアの質問の意図を理解する。羞恥心が溶けた鉛みたいに身体を這い上がってきて、顔が熱くなった。
「……あ、あああ、アネモネ、アネモネです!」
「かしこまりました。それでは刺繍はアネモネの象形で承ります。刺繍に使う糸は――」
ほとんど叫ぶみたいに返答するわたしに、ミスター・ウイルディアは涼やかな声で言った。
それから、採寸が終わるまでウイルディア氏はわたしにいくつかの質問をした。何事もなかったかのような表情で回答を紙に書きつけていく彼の肩は、確かに小刻みに震えていた。それでも笑いださなかったのは、彼のプロフェッショナルとしての意地だったのだろうと思う。
フィッティング・ルームから出ると、ナコト先輩はカウンターで小切手に金額を入れているところだった。カウンターには店のロゴが入った袋が置かれていて、わたしの採寸のあいだにいくつか品物を買ったであろうことが見て取れた。先輩がわたしのほうに気づいて、小さくひらひらと手を振る。
「お疲れさま。……顔が赤いようだけれど、大丈夫?」
わたしはただただ無言でうなずくことしかできなかった。
「変なニナ」と、彼女は言った。
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