《柩》のナコト(3)

 硬質な棒かなにかで、控えめにガラスを叩く音。

 わたしが怪訝に思っていると、それは時間の経過とともに大きな音に変わり、最終的には窓枠全体をがたがたと揺らす音になっていた。

 結構な騒音だったけれど、驚くべきことにビビはまったく目を覚まさなかった。


 なんというか、ある意味で才能だ。

 若干彼女を羨ましく思いながら、騒音の主についてわたしは考える。妖精ピクシーの仕業だろうか。

 だって、学生寮の二階の窓をこんなふうに叩くことができるのは、身長1ヨルド半くらいの巨体を持つ人物か、背中に羽の生えた生き物のどちらかしかいないからだ。


 〝慈悲の森〟を始めとしたク・リトル・リトルの自然にはたくさんの生き物が住んでいて、妖精ピクシーたちもその住人の一部だ。やつらはいたずら好きで怒りっぽく、人間の嫌がる顔が大好きで、ときおり人の生活圏にやってきては意味のないいたずらをして森へと帰っていく。

 たとえば窓の外に干した下着に泥をぶつけて汚してみたり、小鳥の餌を横取りしてみたり、あるいは夜中にこうして騒音を鳴らしてみたり。

 言うなれば彼らは空飛ぶ月経で、わたしたちの生活に忍び寄っては防ぎようのないタイミングで不快感をばらまいていく迷惑な存在だった。


 わたしは真っ暗な部屋に響く断続的な音を聞きながら、とてもひどい気分になってしまう。

 なんだってこんな日に、こんないたずらに付き合ってやらなければいけないのだろうか。

 わたしは傷つき落胆していて、汚泥のように疲れているのに。窓を鳴らす音が、とてつもなく侮辱的な笑い声のように聞こえた。


 無視を決め込んでやろうかとも思ったけれど、なんだかとてもとげとげしい気持ちが胃袋から上がってきて、わたしは夏用の毛布を蹴り脱いだ。枕元においてある自分の杖を手探りでひっつかんで起き上がる。


 ――やっつけてやる。


 闇の中で、慣れ親しんだ自分の杖の感触を確かめる。

 肩慣らしに杖を振ると、しなやかで軽い感触が手のひらに返ってくる。先端にあしらわれた鷹の尾羽根が風を切って、小さく甲高く鳴った。


 あらゆる魔女が魔術を学ぶときに一番初めにやることが、自分の杖を自分で作ることだ。

 だから、わたしたちの顔が一人ひとり違うように、ひとつとして同じ杖は存在しない。杖は魔女の分身で、その魔女自身の想い出そのものを材料に作られるからだ。

 わたしの杖にしてもその例に漏れず、〝尾羽根の杖〟は父の店で一番上等な羽根ペンを杖に加工したものだった。

 高価すぎて何年も売れず、ヒールド文具店のぬしのようにカウンターの上に君臨していたそれを、父はわたしがエルダー・シングスに入学する際にプレゼントしてくれたのだ。


 無口で無表情な父は何を考えているのかわかりづらい人だったけれど、この杖を握ると、彼のわたしに対する愛情というか、誇らしさのようなものを感じ取ることができる気がした。

 それと同時に、どうやらその期待に応えることができそうにないという事実が首をもたげてきたけれど、それは見ないようにする。


 気を取り直して杖を構えたわたしは、頭の中でへそ下から杖の先に熱量を移動させるイメージを描く。


 はらから心臓へ、心臓から指先へ、指先から御杖みつえへ。


「【Aktivigo発理、,】 【Lumo光あれ.】」


 〝灯り〟の呪文を唱えると、杖の先端に燐光が灯る。

 魔術を学ぶものなら誰でも使える初歩中の初歩の技術だ。

わたしは青白い光に照らし出された室内をそろそろと歩く。ビビが壁際に貼ったなんとかいう男の子のポスターが淡い光に照らされて、その白い歯をきらきらと輝かせていた。

 わたしは窓際の壁に張り付くと、くそ妖精を追い払うために次の呪文を口にする。


「【Transforすがたをm al Sag変えよ、o de Lumo.光の矢】」


 呪文に呼応して、球状の燐光が小さく鋭い光の矢じりに形を変える。

 わたしの〝矢〟は、他の魔女たちが作るものに比べれば小さく狙いも不確かなものだったけれど、妖精を追い払う程度ならこの程度で十分だった。

 窓を開けて矢を打ち込めば、当たらずとも驚いて森に逃げ帰るだろう。


 ――やっつけてやる。わたしにだって、それくらいは出来るんだ。


 息を細く吐いて、術理の激発に備える。窓枠に手を掛け、猟犬みたいに全身にぐっと力を入れる。

 向こう側から声がしたのは、窓を開け放たんとしたその時だった。


「ねえ、ニナ。この窓、壊れてるわよ。全然開かないもの」

「うわぁ」


 輝く万華鏡の目を持つ女の子が、驚いて尻餅をつくわたしを、こうもりみたいに逆さまに覗き込んでいた。







 〝慈悲の森〟には月の光が薄い膜のように降りていて、木々を静謐な眠りで包み込んでいた。

 初夏とはいえ、ときおりこちらに吹きつけてくる夜風はほのかな冷たさをはらんでいる。わたしは寝間着の上から羽織ったローブの襟元をかき抱くように胸元に寄せ、ナコト先輩の後ろをついて歩いた。


 彼女はところどころに金色の刺繍が入った立派な競技用ローブを着ていて、右手には箒を持っていた。質の良さそうな黒檀で出来た箒の柄には黒革のサドルが据え付けられていて、これもやはり競技用のものだということが見て取れた。


「いい夜ね、ニナ」


 針葉樹の天蓋を見上げて、ナコト先輩が言う。

 彼女には聞きたいことがいくつかあった。


 たとえば、落下するわたしに声をどうやって届けて、どうやって助けたのか。

 たとえば、どうやって数ある学生寮のなかの数ある部屋から、わたしの部屋を見つけ出したのか。


 けれど、その時わたしの頭の中で一番大きくなっていたのは別の疑問で、だからまずそれについての疑問が口をついて出た。


「どうして、こんな夜更けに、こんなところに?」


 昼と夜とでは印象は大きく違っていたけれど、わたしたちが歩く林道は丘につながっていた。ちょうど日中にわたしたちが飛び立ったあの丘だ。

 夜中に窓から忍び込み、寮監の監視の目を慎重かつ大胆にかいくぐって抜け出して、万が一誰かに見つかってしまえば手ひどくどやされる。そんな夜の散歩の終着点が、授業で使うなんのへんてつもない丘だなんて。

 彼女はいったい、わたしに何を見せたいのだろうか。


 ナコト先輩はわたしの疑問に「もう少しで着くから、ついてきて」とだけ答えて、歩を進める。

 わたしは「はあ」と返事をしながら、なんだかつかみどころのない人だなと思った。彼女の真っ黒でつややかな髪は夜の闇のなかに溶けることなくそこにあって、ゆったりとした歩みに合わせて小さく揺れていた。




 丘の頂上に到着すると、ナコト先輩は「さて」と胸の前で手を合わせる。

 彼女はわたしに向き直り、話を切り出した。


「私、考えてみたの。どうしたらあなたが私と飛びたいと思ってくれるか」


 ナコト先輩は細い指で競技用の箒の柄を撫でながら言う。


「それで私、あなたに競技滑翔スカイ・クラッドを見せてみようと思った。飛んでいるところを見れば、きっと気に入るはずだから。そう思ったらいても立ってもいられなくって、明日が待てなかったの」


 少しだけばつが悪そうに、いたずらっぽく出した舌には、クロユリを象った魔女のしるしが刻まれていた。


「返事は待つと言ったけれど、どうしても見せたくて。だから、こんな時間に呼び出してごめんなさいね」


「あの、そのお話なんですけど――」


 彼女の屈託のない笑顔が眩しくて、少し迷ったけれど、わたしはナコト先輩に正直に話した。


 ミス・ロウマイヤーがわたしの破門を検討していること。彼女の懸念に、自分自身がある程度納得していること。先輩の期待はわたしにとってすごく嬉しいことで、でも、それには応えられそうにないこと。


 口下手なわたしが一生懸命話しているうちに、ナコト先輩の眉間にゆっくりとしわが寄っていく。一瞬怒っているのかとも思ったけれど、それはどちらかというと「相手が何を言っているのかいまいちよくわからない」といった表情だった。


 彼女は首をかしげて腕を組み、わたしに尋ねる。


「それが、なにか問題なの?」


 ナコト先輩の発言に、わたしは面食らってしまう。

 学院にいられないのであればナコト先輩の誘いに応えられないのは当たり前のことで、だから先輩は当然納得してくれるものだと思っていたからだ。


 この人はなにを言っているのだろう。そうわたしは思ったけれど、ナコト先輩も同じことを考えていたようだった。とてつもなく覚えの悪い生徒を前にした教師みたいに困った顔をして、ナコト先輩は言う。


「ニナ、何度でも言うけれど、あなたには才能があるの。あれを見てロウマイヤー先生がそう判断したのなら、見当違いもいいところだわ。彼女が節穴なだけよ」


 なんのてらいもなく、そう言ってのけた。教師であるミス・ロウマイヤーの目こそが節穴だ、と。本来ならば傲慢極まりないその返答は、けれど真に迫っていた。彼女は彼女自身を寸分も疑っておらず、もし世間と自分の意見が違ったとしても、それは世界が間違っていると考えているようだった。


「まだ破門が決まったわけではないのでしょう? それなら、実力があるところを見せつければ彼女の考えを変えられる。じゃあ、見せてあげればいいだけの話じゃない。あなたの力を。才能を」


 そう言ってナコト先輩は、くるりと踵を返して足を踏み出す。彼女の歩みの先には丘のへりがあって、その眼下には眠る針葉樹の森があった。


「こんなふうに」


 先輩はわたしを振り返り、にっこりと微笑んで、助走もなしに身を投げ出す。

 自由落下に身を任せたナコト先輩の姿は丘の向こうに消えてしまう。


 優美で荒々しい春風のように、箒に乗った先輩の姿が視界に戻ってきたのは、わたしが息を呑むのと同時だった。


 垂直に飛び上がったナコト先輩の箒が、夜の帳を切り裂くように空に紫炎の航跡を描いた。そのまま小さく横にスピンすると、ローブの幌も開かずに次の波に着水する。紫色の輪が余韻を残して散り散りに消え、ナコト先輩はつばめのように水平にすっ飛びながら夜空に螺旋を描いていく。


 速く、鋭く、柔らかに。

 ナコト先輩の身体はあっという間に、わたしがどうやったって手の届かない場所まで飛んでいく。


 黒檀の箒は縦横無尽に夜の森の上空を泳ぎ、好き勝手に航跡の絵画を描いた。箒が残す光芒が、複雑な模様を描いては消えていく。そこには鉱石テレビで見た競技滑翔スカイ・クラッドの試合から受けた危なっかしい印象はどこにもなくて、ただただ自由で美しい羽ばたきだけがあった。


 鉄棺の魔女は飛ぶ。

 優雅に、軽やかに、美しく。たったひとつの縫い目もないドレスのように。

 激しく、原始的に、獰猛に。猛々しいのように。


 言葉はおろか、驚嘆のため息すら出なかった。呼吸のしかたを忘れてしまっていた。「吸って、吐く」ということを、うっかり寮のベッドに置き忘れてきてしまったようだった。


 息も出来ないまま、驚きは確信に変わりつつあった。わかりはじめていた。多くの魔女たちが競技滑翔に熱狂する理由が。

 彼女たちが心の震えを託していたものは、なのだと。


 ひときわ大きな粒子S.U.R.P.の波に乗ったナコト先輩が、高く高く上昇していく。

 粒子の波の頂点で後方に宙返りした先輩は、身体をひねり込むようにして真下を向き、今度は重力に引かれるままに自由落下を始める。真っ逆さまに落ちてゆくナコト先輩の身体は、重力に引かれてみるみるうちに加速してゆく。


 なにか致命的なミスを犯したのだ、と思ったのは、ほんの一瞬だった。わたしはすぐに彼女の意図に気づく。これは、昼間の墜落の再演だ。


 ナコト先輩は、矢のような速度で、空を縦に切り裂くように降下する。

 宙返りを打つ。

 十分に速度が乗った箒の刷毛が波を捉え、巨大な運動エネルギーを受け止めた粒子が悲鳴を上げながら爆ぜる。

 空中に咲いた大輪の花を背に、箒を鋭く切り返してナコト先輩は次の技に移る。


 いつの間にかわたしは両手をぎゅっと握りしめていた。手のひらに食い込んだ自分の爪が痛くなってしまうほどに。

 この人は、空を飛ぶことを通してわたしに伝えているのだと、そう理解した。

 あなたにだって、こんなふうに飛ぶことが出来るのだ、と。




 飛行を終えて地上に降り立った先輩は、きらきら光る魔法の宝石の目でわたしを見て、童話の世界に出てくる小さな女の子のように微笑んだ。薄い桜色に上気した頬が、月の光で輝いて見えた。


「ね、結構すごいものでしょう? 最初の離陸は〝刺し乗りソード・フィッシュ〟っていって――」


 柔らかな月光を受けたナコト先輩の白い首筋に汗が光っていて、わたしは少しだけ驚く。変な話だけれど、目の前の完璧な存在がわたしたちと同じように当たり前に汗をかくことが、わたしにとってはとても意外なことだったのだ。熱に浮かされた気分で彼女の首筋をじっと見つめていると、ナコト先輩は怪訝そうに言った。


「ねえ、ニナ。聞いてる?」


 見とれていたことを悟られないようにうつむいたわたしの肩に、ナコト先輩のしなやかな手がそっと置かれる。顔を上げると、わたしを見つめる彼女の目には心なしか得意げな色が灯って見えた。


「それで、どうだったかしら? 少しは自信があるのだけれど」


 わたしを見据えるナコト先輩の瞳から目をそらさずにわたしは少しだけ考えて、正直な感想を口にした。


「……悔しかった、です」


「悔しかった?」


 先輩は首を傾げる。

 わたし自身、自分の口をついて出た突飛な感想に少し驚きながら言葉を続けた。


「……上手く、言えないんですけれど。ナコト先輩の飛ぶ姿が、すごく綺麗で。そんな先輩が、わたしに才能があるって言ってくれて。でも、わたし、このままじゃ学院にただいることすらできなくて。そう思うと、悔しくてたまらなくなってきて――ごめんなさい。何が言いたいのか、わかりませんよね」


 なぜだか後半は上手く声にできなくて、なかば嗚咽を漏らすような形になった。

 驚いたように釣り上がるナコト先輩の眉と、温かい液体が頬を伝う感覚で、自分がどうやら泣いているらしいことに気づいた。

 一度流れ出した涙がこぼれてしまうと、あとはもうとめどがなかった。締め付けるような心の震えが内臓を絞り上げて、その水分が全部目から流れ出ているようだった。

 まとまりのない言葉の塊が涙と一緒に押し流されてきて、自分自身ひどく混乱した。

 ぐずぐずと水分を含んだ脳みそからこぼれ出るあいまいで脈絡のない言葉をまとめようと努力したけれど、堰を切った濁流は、簡単にわたしを押し流してしまう。


「お父さんとお母さんの期待とか、本当はきっと関係なくて、本当は、本当は、わたしにだって出来ることがあるって思いたくて、だから――」


 ナコト先輩はただ黙ってわたしを見つめていた。わたしの口から吐き出された言葉の断片が、意味の輪郭をかたち作るのを待っているようだった。


 ミス・ロウマイヤーが思っているように、わたしには才能がないのかもしれない。

 事実、そうなのだろう。彼女から見たひとつの側面において、それは紛れもない真実ではあるのだろう。

 エルダー・シングスに入学して、わたしはそれほど大したものを手に入れたわけではなかった。

 一年とちょっとのあいだにわたしがやったことといえば、わたし以外のできる生徒にとっては取るに足らないがらくたを必死でかき集めることだった。

 わたしはわたしなりに手を尽くし、そういったがらくたを組み合わせては、なんとか折り合いをつけてここまできていた。


 そうやって積み上げてきたものは、見る人からすれば無意味なものだろう。でも、だからといって、荷物をまとめて窓を開け、何もかもを放り出せというのか?

 そんなことを宣告する権利が、いったい誰にあるというのだ?


「――このまま、なにも出来ないまま、終わりたくない」


 だってわたしは、まだ何も成し遂げていなかった。

 本当に納得なんて出来ているはずがなかった。

 少なくとも、「やれることをやりきった」と思えるまであがいたわけではなかった。いまを諦めてしまえば、捨ててしまえば、この先の人生でどんなに幸せなことがあったとしても、きっと後悔してしまう気がした。


 だから。


「――わたしも、先輩みたいに飛べますか?」


「飛べる」


 見上げるような形でナコト先輩に問いかけるわたしに、先輩は穏やかに、けれど力強く言った。汗に濡れた髪の毛の香りがわかるくらいに、ナコト先輩の顔が近づく。細くて柔らかい指が、わたしの頬を優しく撫でた。


「絶対に。誰よりも、高く」


 それはひとつの確信に満ちた表情だった。

 少なくともその瞬間、彼女は世界中の誰よりもわたしを信じてくれていたように思う。他でもないわたし自身よりも強く、ナコト先輩はわたしを信頼していた。


「だから――、私と一緒に飛びましょう」


 ナコト先輩の右手が、わたしの左手を絡め取るように握った。わたしは何度も何度もうなずいて、うんうんと唸った。


 だって、そうするより他になかったのだ。

 わたしの顔は涙と鼻水でくしゃくしゃで、上手く返事が出来なかった。

 わたしはなんだかよくわからない声を上げながら、冷たくて柔らかな先輩の白い手を強く強く握ることしか、出来なかったのだ。


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