《柩》のナコト(2)
「ニナ・ヒールド。今日の放課後、僕の研究室に来るように」
つつがなく終わったはずの三限目の最後、ミスター・コーシャーソルトは言った。もしかして、何かへまをしたのだろうかとも思ったけれど、彼の表情からは何も読み取れなかった。
後ろからアリソンがわたしに耳打ちをする。
「ニナ、気をつけてね。あんまり気を許しちゃだめよ」
実のところ、コーシャーソルト先生の人気はあまりなかった。
一部の生徒からは男というだけで忌避され、一部の生徒からは珍獣扱いされていた。アリソンなんかは彼のことをほとんど蛮族だと見なしていて、本気で毛嫌いしているほどだった。
「きっと大した用事じゃないから大丈夫だよ」
わたしはコーシャーソルト氏に同情しつつ、アリソンにそう言った。
放課後、わたしは薬学部棟の四階にある研究室の前に立っていた。
重々しい雰囲気のドアに、小さな金の板が打ち付けられていて『フロイド・C・コーシャーソルト』と文字が刻まれている。
二年生になってから何度も開けたことがあるそのドアをノックすると、ややあって中から「どうぞ」という声がした。
わたしが扉を開けると、ミスター・コーシャーソルトは書類や魔導書の山の中に埋もれるように座っていた。もう夕方だというのに、寝癖や無精髭は先の授業のときのままだ。部屋にはもやが掛かったように大量の煙が漂っていて、わたしは思わず声に出して言ってしまう。
「くさい」
その発生源はコーシャーソルト氏ご本人で、もっと言えば彼の吸う煙草の臭いだった。かたわらの灰皿には山と積まれた吸い殻がそびえ立っていて、その標高を誇示していた。
「こんなだから、この先生は生徒たちに嫌われるのだ」と、わたしは思う。思春期の女の子は、臭くて不衛生で毛むくじゃらなものが普遍的に大嫌いなのだ。
わたしは研究室を大股でずんずん縦断し、換気のために窓を開ける。外の新鮮な空気を肺に吸い込んでから、もう一度言った。
「先生、くさいです」
「ひどいなきみは」
心外そうに、けれどまったく堪えていない様子で言葉を返すミスター・コーシャーソルトに、わたしは振り返る。
「他の子たちはもっとひどいこと思ってますよ、言わないだけです」
言いながら、わたしは本や資料で徹底的に散らかった室内を見渡す。研究室はほとんど物盗りに遭ったような状態だった。
生徒たちの口さがない罵詈雑言を本人に聞かせて年頃の女の子の無慈悲さを思い知らせてやろうかと思ったけれど、それは流石にあんまりだ。
結局、わたしは彼にやんわりと伝えることにした。
「『これだから男の魔女』は、って」
「ミス・ヒールド、〝男の魔女〟は差別的表現だ」
わたしの発言を、コーシャーソルト氏がわざとらしくしかめ面を作って咎める。わたしは少し考えてから、発言を訂正した。
「……ええと、『これだからコーシャーソルト先生は』」
「それでよろしい」
コーシャーソルト氏は満足そうな様子で次の煙草に火をつけ、口から大きな煙の輪っかを吐き出す。
個人的には、この喫煙習慣を除けば、コーシャーソルト氏は比較的いい先生だと思っていた。
授業でわからないところがあれば面倒くさそうな顔をしながらも丁寧に教えてくれたし、自分の立場を無闇に振りかざすこともしなかった。暇があるときに研究室に行けば、気まぐれに様々な興味深い話をしてくれた。彼は特に魔法生物に詳しくて、機嫌が良ければ紅茶まで出してくれた。
わたしはその大雑把な淹れかたをした紅茶を飲みながら彼の話を聞くのが結構好きで、アリソンたちが言うほど悪い先生ではないのではないかと常々思っていた。もしかしたら、わたしが幼少期を男兄弟と過ごしていたことが多少の免疫として機能していたのかもしれない。
「さて、ミス・ヒールド。呼び出してすまなかったね。まあ座って」
座ることを促された椅子にはやっぱり書類の束が先客として乗っかっていて、わたしはそれらの書類をどこかに避けさせることから始めなければならなかった。
少し迷って、彼らには床に座ってもらうことにする。席を取られた紙束が、不服そうにわたしを見つめている気がした。
わたしが座ったのを確認すると、コーシャーソルト氏は神妙な顔をして話を始めた。
あまりいい話ではなさそうだ、とわたしは思った。
「三限目の前の昼休み、ランチに行こうと歩いていたら、ミス・ロウマイヤーと鉢合わせたんだ。彼女、深刻そうな顔をしててね、まあ、彼女はいつだって深刻そうな顔をしているんだけれど……今日は様子が少し違った」
そこまで言って、彼はまた煙を吐き出した。コーシャーソルト氏が吐いた煙が粘土のように自在に形を変え、中空に小さな人影を形作る。箒に乗った魔女だ。
「それで少し話を聞いてみたんだけれど、きみ、ミス・ロウマイヤーの授業で派手にやらかしたそうじゃないか」
煙で出来た魔女が不意にバランスを崩したかと思うと、墜落して消える。
――なるほど、そうきたか。
二限目の事故は、わたしが思っていたよりも大ごとだったのかもしれない。わたしは反省と羞恥で小さくなりながら答える。
「ええと……はい。そうです」
「ロウマイヤー先生はいたく落ち込んでいてね。『あのとき何もできなかった私に教師の資格はない』なんてことを言っていた。彼女を慰めているうちに……話はきみのことに移った。きみたちは誤解しているかもしれないけれど、彼女はあれで愛情深い教師だよ」
わたしはうなずきながら、あのときわたしを抱きしめながら泣いていたミス・ロウマイヤーの顔を思い浮かべる。
きっと、あのことがなければミスター・コーシャーソルトの言葉は信じがたいものだっただろう。
彼女の厳しさや、偏屈とも取れる細かさは、ひとえに生徒の安全を
「だいぶきみのことを目にかけているみたいだったよ、彼女。受け持ちの生徒の中でも一番の努力家だと。それには僕も同感。けれど――」
寝ぐせ頭をぼりぼり掻きながら、ミスター・コーシャーソルトは次の煙草にマッチで火をつける。言葉を選んでいるようだった。
それからややあって、言いにくそうに口を開いた。これまでの話は前置きで、いまから言うことが本題なのだ。
言いにくそうにする彼の様子から、「あまりいい話ではなさそうだ」というのは間違いで、実際のところは「とても悪い話」だということがわかった。
重々しく開かれたミスター・コーシャーソルトの口から思いがけない単語が聞こえて、わたしは言葉を失ってしまう。
「――けれど、きみには実力が決定的に足りていない。彼女の見立てではね。それで、ミス・ロウマイヤーは、きみを破門すべきかもしれないと考えている。きみがもっと危ない目に遭う前に」
その言葉に、わたしは全身から体温が急激に失われていくような感覚を覚えた。見えない傷から見えない血がどくどくと流れて、絶えず失血していくような気がした。
頭がくらくらして、眼前の景色が歪む。
そのときわたしの頭をよぎったのは、入学直前のこと――〝
年に一回紋章官が町に来て、しるしを探すために女の子たちの服を脱がせ、身体をすみずみまで調べる。
十四歳のわたしにとって、その年は魔女になる最後のチャンスで、かといって期待はしていなかった。女の子なら誰でも一度は魔女になることを夢見るものだけれど、十二歳までにしるしが顕れなければ、だいたいは諦める。ご多分に漏れずわたしもそのうちのひとりで、だから思いがけずしるしが見つかったときは本当に驚いたし、飛び上がって喜んだ。
それ以上に喜んだのは母親だ。
彼女は報告を聞いたその足で市場まで飛んでいって、冬の朝みたいにしゃきしゃきの野菜や、新鮮で高価な肉を買い込んだ。
その日の
ちびでもじゃもじゃでやせっぽちのわたしにだって、誰かを喜ばせることができて、いつかは何者かになれるのだと、そのとき初めてそう思えたのだ。
わたしは、からからに渇いた喉を何とか動かして、声を出す。
「努力が……努力が、足りなかったんだと、思います……だから」
――他の誰かが一生をかけて研鑽を積んでも得ることの出来ない才能が、あなたにはあるの。
ナコト先輩の言葉が、頭の中で響く。
彼女だってそう言ってくれた。だから、時間さえかければ、努力さえすれば、きっと――、
「もっと努力しますから。もっと上手くちからを扱えるように――」
すがるようにまくしたてるわたしに、ミスター・コーシャーソルトは「ふむ」と静かにうめくように返事をして、吸っていた煙草を捻り消す。
それから小さくかぶりを振って、諭すようにわたしに声を掛けた。
「……努力というのは、来るかどうかもわからない手紙を待つことに似ている。便りがいつ来るのかは、誰にもわからない。それでも毎日、雨の日も風の日も雪の日もポストを開けて中身を確認すること――それを努力という。そういう意味で、僕はきみに努力が足りないとは思わない」
ミスター・コーシャーソルトは大きく息をつき、ずり落ちた眼鏡を中指の腹で持ち上げてから、話を続ける。
「けれど、大事なのは便りそのものだ。ポストを開けることじゃない。ミス・ヒールド、わかるかい? 努力だけでは、だめなんだ」
王国に存在するすべての魔術学校の校則の第一条には、ある文言が書かれている。
『すべての才あるものに、学びの門は開かれる』
それは裏返すと、才のないものには学びの門は閉ざされる、ということだ。
それからどうやって部屋に帰ったかは覚えていないけれど、その夜わたしは眠ることもできずに、ただひたすらに寮のベッドでぼうっとしていた。
布団の中から生えてきたたくさんの黒ずんだ手に身体を縛られて、脳みそを吸い取られている気分だった。
破門。
それは、言うなれば『才能なし』と刻まれた鉄の焼きごてだ。
魔導の探求には危険がつきもので、実際に生命に関わるような失敗をする者もいた。そういう才能のない者、あるいは教えに背いた者に対して、学院は容赦なく破門を突きつける。それがその生徒の命や学院そのものを守ることにつながるからだ。
正直なところ、ミス・ロウマイヤーの決断に関しては納得するところもあった。
一年生の時点から、なんとなく限界のようなものを感じていたのだ。わたしは明らかに魔女には向いていなくて、それでもだましだましずっとやってきていた。
足繁く図書室に通って自習してみたり、誰でも簡単にできることを夜通し練習してみたり。そうやって、送り出してくれた両親に対する義務感というか、責任感に背中を押されてずっと走り続けていた。
突き詰めて言えば、別に魔女でなくたってよかったのだ。
わたしはわたしの周りの誰かを喜ばせられる何者かになれさえすれば、それでよかった。
だから、それまでのわたしであれば、コーシャーソルト氏に告げられた言葉も「これが限界であれば仕方ない」と飲み込めていたかもしれなかった。
けれど。
――私はあなたと飛んでみたい。私には、あなたが本当に必要なの。
ナコト先輩の言葉が、虚しく頭の中で繰り返す。
わたしを強く求めてくれる、学院に入学して初めてのその言葉が、同じ日に告げられたものでなかったら。
なぜだか先輩がとてつもなく残酷な人のように思えて、涙が滲んでくる。
あの言葉がなければ、こんなに悔しい思いをすることはなかったのに、と。
「……先輩のうそつき」
窓を叩く小さな音が耳に入ったのは、泣きそうになりながらそうつぶやいたときだった。
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