《柩》のナコト(1)
どうもわたしは自分で思っていたより気が動転していたのかもしれない。
事故の直後で混乱していたとはいえ、命を助けてくれた恩人の名前を聞くだけ聞いて、自分は名乗りもしなかったなんて。
しかも相手はアリソン曰く、とんでもない有名人の先輩なのだ。
わたしは慌てて魔女のお辞儀で名前を名乗る。
両手でローブの裾をつまみ、頭を下げる。
「薬学部二年生、ニナ・ヒールドです。ええっと、文具屋のニナ、です」
冷や汗をかいて名乗るわたしに、ナコト先輩は怒るそぶりを全く見せず、首を傾げながら尋ねる。
「《文具屋》の――、初めて聞いた忌み名だけれど、拝名したのは最近?」
わたしは慌てて訂正する。
「いえ、そうじゃなくて、お父さんが文具屋で、だから、ええと、ただのニナです」
わたしみたいな落ちこぼれが〝忌み名〟をもらうだなんて、夢でだってありえない。
ナコト先輩は、くすりと笑って右手を差し出し、「ニナ・ヒールド。ただのニナ。いい名前ね」と言った。
わたしは彼女の右手を取って握手を交わす。自分の手が汗で湿っていないか、少しだけ気になった。
それからわたしは、椅子に座ってずっと固まったままでいるアリソンを紹介する。
「それと、こっちの金髪の子は、わたしの友達の――」
「え、えと! 薬学部二年生、アリソン・セラエノ・シュリュズベリー、です! あの、あの! お会いできて光栄です、ナコト先輩!」
水を向けられたアリソンが床を蹴るようにして椅子から飛び上がり、なんだかとっちらかった調子で自己紹介をする。とはいえ、これはアリソンが悪いわけではない。
たぶん、ナコト先輩を初めて目にすると、誰もかれもがこういうふうになってしまうのだ。わたしはナコト先輩と初めて出会った森でのことを思い出しながら、なんとなく納得していた。
「よろしく、アリソン」
ナコト先輩はにこにこしながら、アリソンとも握手をする。
握手が終わってからしばらくしても、アリソンは
自己紹介が一段落すると、鉄棺の魔女はデスクに座りなおす。無垢の杉材で出来た椅子がわずかに軋む音さえも、なんだか洗練された音のように聞こえた。
彼女は制服のスカートから伸びるすらりとした白い脚を組んで、万華鏡の眼でわたしを見る。
出会ってからずっと湛えられている微笑みとは裏腹に、彼女の瞳の温度が少しだけ下がった気がした。
「さて、ここからが本題なのだけれど」
机の上に置かれたペーパーナイフを手に取り、弄びながらナコト先輩は口を開く。
「もうひとつあなたに確認したいの。さっきの墜落の最後、波に乗ったときのことを」
彼女の言葉に、わたしはうなずく。ナコト先輩は言葉を続けた。
「あなたは墜落の時、体勢を立て直してすぐに〝
ナコト先輩の細い指が器用に動いて、ペーパーナイフをくるくると回した。彼女の瞳はわたしを見据えたままだ。
「ねえ、どうしてあそこに濃い
わたしはナコト先輩の質問に上手く答えられるように、言葉を探した。
少しのあいだをおいて、口を開く。
あの時、わたしは――、
「落ちながら、〝長老杉〟が見えたんです。だからそれを目印にして、自分の身体がどこにあって、周りのものがどこにあるのか覚えていただけっていうか……。ロウマイヤー先生はあそこ。〝
わたしのつたない説明を咀嚼するように、ナコト先輩は質問を重ねる。
「つまり、あなたはあんなふうにめちゃくちゃになって落ちながら、長老杉を基準点にして――なにがどの方角にあるのか、それを正確に把握した。だから、体勢を立て直してすぐに〝
「かっこよく言うと……そんな感じです」
わたしは自分のくせっ毛を人差し指で掻きながら言う。ペーパーナイフは回転を止め、いつの間にかデスクの上に置かれていた。
「だから、たまたまなんです。長老杉が見えたのも、上手く粒子の波に引っかかったのも。たまたま――」
「たまたま、ですって?」
ナコト先輩の形のいい目が細められる。
貼り付けられた笑顔が裂けるように歪む。
噛み締められた奥歯が軋る音が、聞こえた気がした。
「ねえ、ニナ。《文具屋》のニナ・ヒールド。あなたはそんな、暴れる雄牛に乗ったまま、誰かのドレスの縫い目をすべて数えるようなことが、誰にでもできると……本気でそう思っているの?」
――それにあなた、とっても目がいいのね。
落ちてきたわたしに、ナコト先輩がかけてくれた言葉だ。
鉄棺の魔女は、突き上げてくる興奮を押さえつけるように奥歯を噛み締めたままいびつな顔で微笑む。
わたしはなぜだかその時、両親に内緒で子犬を拾ったときのことを思い出した。自然に頬が釣り上がるほど幸福で、だけど絶対に誰にも悟られたくない、そんな笑顔。
ナコト先輩は言う。ひそやかに、けれど、はっきりと。
「もしそうだとしたら――私と一緒に飛ぶべきよ」
ナコト先輩は、押し殺した歓喜の表情でそう言って、ひやりとした指でわたしの両手を包み込むように握った。
「ニナ。あなた、
一瞬、彼女が何を言っているのかが理解できなかった。
だってわたしが彼女に見せたのは、優雅で軽やかな飛行ではなくて、ただの墜落だったからだ。『あなたの先ほどの墜落はとても素晴らしいものでした、ぜひとも我がチームに!』なんてことを言うスカウトマンが、いったいどこの世界にいるというのだろう。
そういった疑念がわたしの顔に出ていたのかもしれない。
それを察したように先輩は顔から笑みを消し、わたしの両手を手放す。言葉通りの意味で瞬く間に色を変える瞳が、わたしの顔を真摯に見据えていた。
「ねえ、信じて。あなたはぴんと来ていないのかもしれないけれど、他の誰かが一生をかけて研鑽を積んでも得ることの出来ない才能が、あなたにはあるの。あとからついてくる技術なんか私がいくらでも教えてあげる。だから――」
「えっと……わたし……」
わたしが返答に窮していると、ナコト先輩は小さく息を吐いてから、なだめるように言った。
「ごめんなさい、急に言われても悩むわよね。いま返事する必要はないから」
それから彼女は立ち上がると、出口のドアへと向かった。部屋を出る前、ドアに手をかけた先輩はわたしを振り返って言う。
「ねえニナ、ひとつだけ覚えておいて。私はあなたと飛んでみたい。私には、あなたが本当に必要なの」
「それじゃあね」という言葉とともに、扉が彼女の背中を隠すように閉じた。
ドアが閉じる静かな音を聞きながら、アリソンと目を見合わせる。アリソンの顔は白昼夢を見たような表情で、わたしも全く一緒の顔をしていたに違いない。
――いまの、冗談でしょ?
そう言おうとして、けれど喉は枯れた井戸のようで、ひとつも音は出てこなかった。
本当に悪い冗談みたいだ。
だって先輩は、わたしが無様に墜落する一部始終を見ていたのに。どう考えても彼女はわたしを買いかぶり過ぎだ。けれど、努めて冷静に分析しようとするわたしの脳みそとは裏腹に、心臓は早鐘のように鳴っていた。
だって、はじめてのことだったのだ。
ナコト先輩は、わたしがこの学院に入学してからはじめて、わたしに才能があると言ってくれたひとだった。
◆
――
毒薬を作る手を止めて、わたしは考える。
当時のわたしが競技滑翔について知っていることはそう多くはなかった。
競技用の箒とローブで飛び回りながら、ときにその速さを競い、ときに魔法の〝矢〟や〝槍〟を撃ち合う。
わたしが競技滑翔について知っていることといえばその程度で、実際に目にしたのもビビの鉱石テレビに映し出されていたものを見たのが初めてだった。
画面の中を縦横無尽に飛び回り、紫の航跡や青白い
実際に、その頃の競技滑翔というものはひどく危険なスポーツだった。
競技と言えば聞こえはいいけれど、怪我人が出るのは日常茶飯事だったし、巡り合わせの悪いときには死人まで出た。人間は高いところから落ちれば死ぬ。これは誰にもどうすることも出来ない普遍的な事実だ。
飛びながらばかすか魔法なんか撃ち合えばそうなることは誰にだってわかるのに、どうして彼女たちがそんな危険な行為に熱狂するのか、当時のわたしは全く理解できないでいた。
けれど、ナコト先輩は言ったのだ。
わたしには才能があると。
彼女と共に飛ぶべきだと。
正直なところ半信半疑だったし、彼女の見込み違いかもしれないとも思っていた。
でも、わたしにとって誰かに強く必要とされるのは本当に初めての経験で、それは心を強く揺さぶるものだった。
競技滑翔がどういうものかわたしにはわからないけれど、わたしに本当に才能なんてものがあるのなら、それを試してみたいという気持ちもあった。
わたしはしばらく考えて、正面に座るわたしの聡明な友人が、とびきり冴えたアドバイスをしてくれることを期待して尋ねた。
「アリソンはどう思うの?」
アリソンは浮かない顔で顎に手を当て、ひとしきり考えるそぶりをしたあと、小さく口を開いた。
「ニナが決めることよ。だって、自分のことじゃない」
あまりの正論に、わたしは思わず閉口してしまう。
それからアリソンはわたしから目をそらして、注意していないと聞き落としそうな、か細い声で言葉を紡いだ。
「けど、わたしの……わたしの気持ちとしては、ニナにはあまり危ないことはしてほしくない、かな。競技滑翔の選手なんて、とても名誉なことだとは思うけど……それでもわたしは今日みたいな気持ちにはなりたくない。ニナが死んじゃうんじゃないか、そんなふうに心配したくないよ」
語尾が消え入りそうな調子でそう言ったあと、また少し考え込むような沈黙を挟んで、アリソンは言葉を続ける。
「でも、最終的にはやっぱりニナが決めるべきだと思う。もしニナがやりたいんだったら、わたし、怖いけど応援するよ。代表箒手の友達なんだって、みんなに自慢しちゃうかも」
ああ、嘘だ。
きっとこの子はわたしのことを本当に心配していて、けれどわたしに負い目を感じさせたくなくてそう言っている。その証拠にアリソンの顔にはこわばった笑いが貼り付いていて、なんだか痛そうに見えた。
「……そっか。うん、そうだね。ありがとう、アリソン」
「どういたしまして、ニナ」
わたしはできるだけ彼女の気遣いに気づいていない風を装って答える。それが彼女の友情に対する礼儀だと思ったからだ。
わたしは、煙の向こうで輝くはちみつ色の髪の女の子が、わたしの友人でいてくれていることに心から感謝した。
それから、少しだけ浮かれてしまっていた自分を恥じる。もう少しだけ、ナコト先輩からの誘いについて、よく考えるべきだと思った。場合によっては、先輩の顔に泥を塗ったとしても、断るべきかもしれない。
その時、ナコト先輩はどんな顔をするのだろうか。
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