1-2:《柩》のナコト - Pnakot the "Iron coffin"
アリソン・セラエノ・シュリュズベリー
乳ばちの中の哀れなイモリの黒焼きは、その体をこじりまわされてすぐにばらばらになった。
そのまま乳棒で根気よくすりつぶし続けると、イモリは跡形もなく真っ黒な粉になる。
昼食を食べ損なったわたしとアリソンは、その空腹の八つ当たりのように、炭化したイモリを一心不乱に挽き続けていた。
三限目は中級魔法薬学の授業で、コーシャーソルト先生の受け持ちだった。
彼は
ごく稀だけれど、男性の中にも魔女のしるしが顕れる者はいて、王国ではしるしが顕れれば誰だって魔術について学ぶことができた。
『すべて才あるものに、学びの門は開かれる』。王国に存在するすべての魔術学校の校則の第一条には、この文言がもれなく書き込まれている。
フロイド・クラーク・コーシャーソルトという人物は、身なりというものをあまり重要なものだと考えていないようだった。
だいたいいつもベッドから直接這い出て来たみたいな寝ぐせ頭で、古着屋で買ってきたようなよれよれの
「黒焼きは丁寧にすりつぶすこと。細かければ細かいほどいい。上手く挽けたら次の手順だ。激しく反応するから、注意深くね」
教壇から発せられるコーシャーソルト氏の指示通りに、わたしはかつてイモリだった粉末を
それはわたしが成績の遅れを取り戻そうと必死で頑張った成果で、アリソンよりもいい得点を取ったことだって何度かあった。
アリソンは薬学部の同級生で、わたしの友人だ。
学部のなかでも成績が飛び抜けて優秀で、先の授業でも、ずっと先頭を飛んでいたのは彼女だった。
律儀な性格で他の生徒からの信頼も厚かった。小さな頃からずっと伸ばしているさらさらの金色の髪の毛がとても綺麗で、いつだってシナモンの匂いがした。地元の大きな商家の生まれで、しぐさや立ち振る舞いは同年代の誰よりも洗練されていたし、かといってそれを鼻に掛けるようなことはしなかった。
彼女がどうしてわたしなんかと友人関係を育んでくれているのか当時はよくわからなかったけれど、誰とでも分け隔てなく接する彼女のありようはとても美しいものに見えた。
「ね、ニナ。それで……ナコト先輩にはどう返事をするつもりなの?」
わたしが致死の毒薬の煙を得意になって眺めていると、向かいの席からアリソンが煙ごしに小声で尋ねてきた。
その声からは何らかの緊張感みたいなものが読み取れて、思わず身構えてしまったわたしは、返答に詰まってしまう。
◆
話は前後する。
あの記念碑的な墜落のあと、苔と枝と泥まみれのわたしを見つけたミス・ロウマイヤーは、大声で泣きながらわたしを強く抱きしめた。
大目玉を食らうだろうと身構えていたところに突っ込んできて、枯れ枝みたいな両手のどこにそんな力があるのかというくらい強く強くわたしを抱きしめるものだから、打ち身と擦り傷だらけの身体がちぎれそうに痛んで、わたしまで涙目になってしまった。
――ああ、生きてるな。
そのとき、改めてそう思った。
遅れてやってきた保健医のミス・バックランドがわたしの身体を触診し、自分が乗ってきた黒山羊の背に乗せてくれた。
ミス・ロウマイヤーといくつかの言葉を交わしたバックランド保健医は、わたしに「舌を噛むんじゃないぞ」と念を押して黒山羊を走らせる。
はじめて乗った黒山羊は、風のように速かった。
そうやって運び込まれた医務室ですごく変な臭いのする軟膏を身体中に塗りたくられ、身体の色んな所を包帯でぐるぐる巻きにされた。一連の作業は迅速かつ正確で、じゃがいもの出荷作業に似ていた。
「しばらくは激しい運動を控えるように」とだけ言って、無口なミス・バックランドは医務室を出てどこかに行ってしまう。取り残されたわたしは、医務室の無機質なベッドで二限目の終わりを告げる鐘の音を聞きながらぼうっとしていた。
ひとりベッドの上でじっとしていることに飽きたわたしは、のそりと起き上がってベッド脇に立てられた姿見の前に立つ。
ずたぼろの
鏡に映し出された全体的に貧相な身体が、あちこちに巻かれた包帯のせいで余計に目立って見える。
母とそっくりな栗色のくせっ毛にはまだ杉の葉が引っかかっていて、それがまたみすぼらしさを助長していた。
右のお尻の付け根に咲いた、魔女のしるしを撫でてみる。姿見ごしに見るアネモネを象ったしるしは、花弁の半分を下着からひょっこり出してこちらを申し訳なく伺っている。
そんなしるしをじっと見つめていると、なんだか腹が立ってくる。
だって、魔女のしるしは魔女の才能がある人間に顕れるものなのだ。言うなれば神さまがわたしのお尻に太鼓判を押してくれたわけで、だからわたしは故郷から離れて魔術学院に入学したのだ。
それが蓋を開けてみれば空もまともに飛べないなんて、ちょっとした詐欺にあった気分だった。
ため息をついて頭をがしがしと掻くと、針のような杉の葉が床の上でぱらぱらと音を立てた。床に落ちた墜落の残滓を眺めていると、脳裏に浮かんだ不安が口をついて出た。
「単位、大丈夫かな」
ぽつり、とつぶやいたわたしの声に言葉を返してくれる誰かは、もちろんそこにはいなかったけれど。
そうこうしていると、かちゃり、と入り口のドアが開き、そこからアリソンの顔がおずおずと出てくる。
「ねえ、ニナ。具合はどう?」と、アリソンは言った。
彼女の脇には綺麗に畳まれた制服と、普段使いのローブが挟まれていた。わざわざ替えの制服を、寮のわたしの部屋まで取りに行ってくれたらしかった。
アリソンの声があまりにも心配そうだったので、わたしは慣れない冗談を言う。
「強いて言うなら、お腹が減ったかな」
「もう、ニナったら」
アリソンは青い目を細めて困ったように笑う。
「でも、心配してたらわたしもお腹が減っちゃった。ほら、早く一緒にお昼ごはん食べに行こう」
「そうだね」とわたしはうなずいて、受け取った制服に袖を通そうとする。
その途中でアリソンが言った。硬くこわばった、か細い声だった。
「――ねえニナ。わたし、ニナが死んじゃったかと思ったよ。すごくひどい墜落で、わたしは何も出来なくて。だからすごく怖かった」
アリソンは今にも泣きだしそうにつぶやく。事実、伏せた目には涙が滲んでいた。
「でも、良かったよ。ニナが無事で、本当に良かった」
涙目をごまかすように笑うアリソンに、胸がちくりと痛んだ。
わたしみたいな落ちこぼれのために泣かないでほしいと思った。アリソンみたいな立派な女の子が、わたしなんかのために泣く必要なんてひとつもないのに。
結局それは上手く言葉にならなくて、わたしは「ええと、うん。ありがとう、心配させてごめん」とだけ言った。
わたしはなんとか話題を変えたくて、墜落したときに出会った女の子の話をアリソンにしてみようと思った。ミス・ロウマイヤーに対しては口止めされていたけれど、アリソンに話すぶんには大丈夫だろう。
「ねえ、アリソン。ナコトさんって知ってる?」
わたしは彼女の三角帽子に飾られた琥珀色のブローチを思い出しながら言う。それは彼女が学院の四年生であることを示すものだった。
「たぶん四年生の先輩で……葬儀屋さんかなにかみたいなことを言っていたんだけれど――」
今日の墜落のときに起こった出来事を、わたしはアリソンに細かく説明した。
ローブの帆が閉じなかったこと。ぐるぐると回る空に、声が聞こえたこと。堕ちた先にこの世のものとは思えない美人がいたこと。
そして、おそらくわたしが助かったのは彼女のおかげだということ。
貧弱な語彙で説明を続けるわたしを見て、アリソンの顔はだんだんと曇っていく。なんというか、呆れたような表情だった。
「ニナ、それってもしかして《柩》のナコトのことを言っているの?」
アリソンが言うには、《柩》のナコトこと、ナコト・ヴィルヘルミナ・フォン・ユンツト先輩はとても有名な人らしかった。
「エルダー・シングス校
アリソンはこともなげに、とても長く覚えづらいナコト先輩のフルネームをすらすらと暗誦した。
これは寮生活を始めてからわかったことなのだけれど、都会にはたまに名前の長い人がいる。アリソンにしても、〝アリソン・セラエノ・シュリュズベリー〟という長くて発音しづらい名前を持っていて、わたしはその理由について「たぶん都会は人が多いからだろう」と思っていた。
わたしの産まれた田舎の小さな町のように『文具屋のニナ』とか『まずいほうの食堂のスミス』といった呼び方をしていたら、ここでは誰が誰かわからなくなる。都会には文房具屋なんかいくらでもあって、スミス氏も星の数ほどいるのだと、そんなふうにわたしは考えていたのだ。
すでにこの時、エルダー・シングスに入学して一年と二ヶ月弱の月日が経っていたけれど、未だにわたしは都会の人の名前を覚えるのが苦手だった。
もしかしたらナコト先輩の名前も聞いたことがあって、わたしがただ忘れているだけなのかとも思ったけれど、頭の中のどこをどう探しても彼女の名前に心当たりはなかった。
「初めて聞いた名前だけど、すごい人なんだね」
みっともない墜落を見せてしまったのが、遅ればせながら恥ずかしくなってくる。
そんなわたしの心中を知ってか知らずか、アリソンはまくし立てるように言う。
「すごいなんてものじゃないわ。ユンツト侯爵家のご令嬢で、呪文学部ではずっと一番の成績。そのうえとんでもない美人で、
ひどい言われようだ。
「メイガスのモデルをやったこともあるんだから」と、アリソンはまるで自分のことのように誇らしげに胸を張って言う。
〝メイガス〟はティーン向けの月刊誌で、おしゃれ好きの若い魔女向けの特集が組まれている雑誌だ。
わたしはおしゃれにあまり興味がなかったし、毎月の仕送りとして送られてくるお小遣いがもったいなかったから、買ってまで読むことはなかった。せいぜいがアリソンやビビが買ったものを横から覗き込んで一緒に見るくらいだ(というか、そもそもわたしたちは春も夏も秋も冬も真っ黒な三角帽子と真っ黒なローブを着込んでいるのに、どうやっておしゃれをするというのだろう?)。
「ねえ、ニナ。ナコト先輩とどんなことを話したの? やっぱり美人だった? あなた、連絡先なんかは聞いていないの?」
「いや、ええと、話したと言っても、ほんのちょっとだけだったから――」
だんだん興奮してきたアリソンのあまりの勢いにたじろいでいると、入り口のドアのほうから声がかけられた。
「あんまり褒められると、流石に私も照れるのだけれど」
「えっ」
声のほうに同時に振り返ったわたしとアリソンは、全く同じタイミングで石像のようにぴしりと固まる。そこに立っていたのがうわさの張本人だったからだ。
ドアのそばに立つナコト先輩は、少しばつが悪そうに両手を後ろで組んで立っていた。
「ところで、いいかげん服を着ないと風邪を引くわよ」
鉄棺の魔女は、やれやれといった調子でそう言った。
わたしは自分がまだ下着姿のままだったことに気づいて、耳まで真っ赤になる。
袖を通した自分のローブは借り物の飛行用ローブと違って、わたしの身体によく馴染んだ。嫌なかびの臭いもしない。
着替えるあいだ、わたしは湧き上がってくる羞恥心と壮絶な格闘をしていた。
さっき出会ったばかりの人間に着替えのすべてをつぶさに観察されるのは、同性とはいえ結構堪えるものがある。
「そのぶんだと、思っていたよりも元気そうね」
そう言うナコト先輩は、保健医用のデスクに座って頬杖をついていた。
アリソンはゆでだこみたいな顔色で、ベッド脇の丸椅子に座って置物のように固まっている。先ほどまで褒め称えていた張本人にその一部始終を聞かれていたのだから、それもしょうがないことだった。
わたしは身なりを整えて、ナコト先輩におずおずと声を掛ける。
「さっきは本当にありがとうございました。それで、ナコト先輩は……どうしてここに?」
「あら」
ナコト先輩は心外そうに頬を膨らませる。
「またねって言ったじゃない」
「それは、その。そうですけど……」
端整な顔を崩して小さな女の子のようにむくれる表情がとても魅力的で、びっくりしたわたしは返事に困ってしまう。そんなわたしを見て、ナコト先輩は「気にしないで、いまのはからかっただけ」と笑った。
それからわたしに向き直ったナコト先輩は、膝の上でその細い指を組んで、言葉を続ける。
「あなたにいくつか聞きたいことがあって。そうね、さしあたってまず――あなた、お名前は?」
その言葉で、わたしは彼女に自分の名前を名乗っていなかったことにようやく気づいた。
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