《文具屋》のニナ(3)

『帆を畳むの、そういう時は』


 その声は風鳴りの中でやけに明瞭に聞こえた。薄いグラスの縁をそっと叩いたような、透明な声だった。

 ミス・ロウマイヤーの声でも、知っている誰の声でもなかった。

 そもそも、鼓膜を叩き続ける風の轟音の中で、わたしに声を届けられる距離には誰もいないはずだった。


 不意に、誰かに視られている気がした。森の奥深く、〝長老杉〟のその根元。

 視線を感じた次の瞬間、吐き気を伴う寒気が背中を走る。

 霜でできた無数の小さな手がローブの下を這い、理力マナで編み上げた血管を寸刻みにする感覚。こわばっていた魔法の銀ミスリル・アマルガムが急速に力を失い、セイルがしおれていく。

 ぞっとするような感触が引くと、狂ったこまのように回転していた身体に、少しだけ自由が戻ってくる。


 わたしの思考は全然追いついていなかったけれど、「誰かが何かをして、そのおかげで身体の自由が戻った」ということだけはわかった。

 そして、いまはそれで十分だということも。


 目の前に問題が積み上げられている時、考えても仕方のないことは考えない。

 わたしはたくさんのことを一度にこなせるほど器用ではないから、ひとつひとつのことを順番に片付けていくしかない。


 大事なのはその順番だ。


 わたしは頭を振り、脚をばたつかせて体勢を立て直す。

 握ったブルームの柄に力を込めて、先ほど視界に捉えた〝悪魔の焚き火ダスト・デビル〟に振り向ける。

 じたばたと脚や上半身を動かし、落ちる方向を不格好に調整して、わたしは溺れるように泳ぐ。

 ローブの翼がないいま、風を受ける帆となるのは自分の身体と箒だけだった。


 眼下の〝焚き火〟に箒の鼻先を向ける。

 勝負は、一回限り。

 セイルを閉じての自由落下で、もはやわたしの速度はピストルの弾のそれだった。


 頭に血がのぼって、視界の端がじわじわと薄紅色に染まってゆく。呼吸することすらままならない暴風が頬を叩く。


 恐怖と酸欠で勝手に浅く早くなる呼吸を無視して、体重を寸刻みに調整する。

 慎重に、細かく。


 接近するにつれて〝悪魔の焚き火〟はわたしの視界の中でどんどん大きくなってゆく。不可視の悪魔が群がって、焚き火に薪をくべているかのように。

 箒を握る手が、じっとりと湿っているのが不快だった。


 猛スピードで降下するなか、粒子S.U.R.P.の作り出す透明な炎の帯が、視界の中をゆっくりと斜め上方向に移動してゆく。


 ――いや、違う。


 慌てて上半身を起こして箒体を動かそうとしたけれど、間に合わない。すでに粒子の波はわたしの横をすり抜けていこうとしていた。


 波に向かって手を伸ばす。


 狙いが逸れていたのはたった腕一本ぶんの距離で、その距離が無限に遠く感じた。

 伸ばした手は無様に空を切る。

 とどいたところで掴めるわけがないのだから、その行動に意味なんてなかったけれど、それでも手を伸ばさずにはいられなかった。


「とどけ、とどけ、とどけ!」


 わたしは叫ぶ。

 わたしのお尻のアネモネのは、ばかみたいに落っこちて、ばかみたいに死ぬために咲いたものじゃない。


 それから先は、無意識の行動だった。

 めちゃくちゃに叫びながら、伸ばした右手で箒の柄を包むように握り込む。そのまま腕に力を入れて身体を箒首ノーズ側に引き込んだ。


 わたしが死にものぐるいの悪あがきで思いついたそれは、奇しくも競技滑翔スカイ・クラッドの基礎技術のひとつと似た形を取っていた。


「とどけぇーーーーーーっ!」


 ――片手前乗りノーズライディング・ハング・ファイブ

 そのトリックは本来、重心を前に傾けて速力を稼ぐ乗り方だ。それをわたしはを稼ぐために使った。

 そのまま背筋と腹筋にあらん限りの力を込めて、箒ごと前方に宙返りフロント・スイープする。

 回廊状に立ち昇る波のへりに、腕ひとつぶんの距離を稼いだ刷毛テールを叩きつける。


 離陸時の比にならない衝撃と音と光。


 終端速度に達したわたしの全体重を預けた反射鉱石が、〝悪魔の焚き火〟と反発して紫色の火柱を立ち昇らせる。


 粒子の波が鳴き人参よりもひどい金切り声を上げながら、わたしの身体を抱きとめようとする。内臓が跳ね上がって、背骨の軋む音すら聞こえそうだった。


 それでも波は、落下の衝撃を殺しきれずにわたしを取り落とした。いや、わたしが波に乗り切れなかったというべきか。

 裏返しのまま横っ飛びに吹き飛ばされたわたしは、ちょうど水切り遊びの小石のように、限りなく水平に近い形で森に落下する。


 ばきばきばき、という、木々の叫び声だけが聞こえて、視界は全身をめちゃくちゃに叩く青黒い針葉に覆われて何も見えなかった。

 太い枝に何度も頭を殴打され、わたしの意識はそこで途切れた。







 目を覚ますと、わたしは湿って苔むした杉床の上に大の字になって伸びていた。

 空を遮って伸びる枝々から落ちる光が、黒土に不規則なまだら模様を描いている。

 わたしの身体はたくさんの小さな擦り傷と泥にまみれていて、あちこち痛む身体を起こすと、くせっ毛に引っかかった杉の葉がぱらぱらとローブの上に落ちた。


 何分、あるいは何時間。どのくらいの時間気を失っていたのだろうかと、わたしは思う。

 木々の隙間から見える太陽の高さからすると、さして時間は経っていないような気がした。実際にあとから聞いたところ、気絶していたのはものの数分だったらしい。


 わたしは自分の身体のあちこちを触って点検する。

 全身痛いところだらけだったけれど、骨が折れたりはしていないようだった。近年稀に見る大墜落と言っていいくらいには派手な落ち方をした自信はあったから、その程度の怪我で済んでいる自分の頑丈さにはいささか呆れた。


 わたしがそのまま髪や顔や身体をぺたぺた触って生を実感していると、不意に背中のほうで声がした。


「あなた、えらいわね」


 振り向いた先には、背の高い女の子が立っていた。

 真っ黒なローブよりもさらに暗い色をした長くて真っ直ぐな髪が、白くきめ細かい肌を空間から切り取ったように引き立たせていた。

 切れ長の瞳は左右で色が違っていて、左の金と右の銀が薄暗い森のなかで輝いて見えた。彼女がまばたきをすると長いまつげが揺れて、そのたびに彼女の瞳は万華鏡のように色を変える。

 ライラックの薄紫と翡翠の緑がまたたいて、次の瞬間には深い赤色と海のような青に変わる。


 なんだか想像上の材料をかき集めて組み上げた、自動人形みたいな美人だった。笑みは柔和だったけれど、触れるとこちらが傷ついてしまいそうな、そういった種類の美しさ。


 彼女はわたしの足もとを指差して、言葉を続ける。

 形の良い爪の延長線上にあるのは、刷毛がへし折れて柄だけになった箒の死骸だった。


「落ちるまで箒を離さなかった。大事なことよ」


 透明な声は、風鳴りの中で聞いた声と同じものだった。それから彼女は「それに、とっても目がいいのね、あなた」と、言葉を続けた。


 落下の衝撃と、思いがけない人物との邂逅にわたしの頭は狂騒状態で、けれど詰まりながらも彼女に言葉を返す。

 何故かそうするべきだと思ったからだ。

 彼女と、なにか、話をしなければ。


「ええと、あなたが、助けてくれたんですか? その、わたしのセイルを……」


 彼女は答える代わりに、上品に首を傾げて微笑む。


「杖を持っていてよかった。手ぶらだったら、きっと届かなかったから」


 柔らかい笑顔を崩さずに、右腰に吊り下げた杖帯ホルスターを白くて細い指で撫でる。杖帯には、ねじれて尖った尺骨のような杖が収められていた。


「散歩していたら、落ちてくるあなたが見えたの。余計なお節介だったかしら」


 わたしはぶんぶんと首を横に振る。


「いいえ! あの、おかげさまで……とっても助かった、です! 助かりました!」


 しどろもどろになりながら、なんとか彼女にお礼を告げることができたけれど、言い回しがおかしかったのか、彼女は口元に手を当ててくすくすと笑う。


「それでも最後は自分でなんとかしたじゃない。すごくかっこよかったわよ、あなたの……その……は」


 それからまた、彼女は静かに笑った。今度は自分で自分の言い回しに笑ってしまったようだった。よくわからないけれど、それはずばり彼女の琴線に触れたようで、身体を折ってしばらく笑っていた。


 わたしはたぶんすごく呆けた顔で彼女を見ていたと思う。

 絵画に出てくるようなとんでもない美人が少女のように微笑む姿は、見る人をそういう顔にさせるものだ。たとえばそれが仮に上空100ヨルドから落ちてきて、九死に一生を得たあとだったとしても。


 ひとしきり笑いがおさまると、彼女は姿勢を正して空を指差した。つられて見上げるわたしに、彼女は言う。


「お迎えが来たみたい。あまりひどく叱られないといいのだけれど」


 頭上でミス・ロウマイヤーの声がしていた。とても取り乱した様子でわたしの名前を叫んでいる。

 それから、彼女は言い忘れたことを思い出したような顔をして、ぐい、と顔を寄せてくる。息づかいまで感じ取れる距離で彼女は目を細め、長いまつげごしにわたしを見る。わたしは勝手に頬が熱くなるのを感じた。


「わたしがここにいたこと、彼女には内緒にしてもらえるかしら? 実のところ、授業をさぼってここにいるの」


 そう言って彼女が唇に人差し指をつけ、ルビーのように光る赤い左目をつぶってウィンクすると、まるでそこには最初から赤い瞳なんてなかったかのように別の色に変わってしまう。


 なんだかもったいないな、とわたしは思った。

 彼女の虹彩が示すとりどりの色はおしなべてこの世のものとは思えないほど美しくて、そしてそのすべてがとても短命だったからだ。


「それじゃ、また」


 彼女はわたしの返事を待たずに、背を向けて歩きだす。わたしはとても大事なことを聞き忘れているのに気がついて、彼女の背中に声をかけた。


「あの、名前を――」


 彼女がこちらを振り返る。

 絹のような笑みのまま、左手でローブの裾をつまんで、右手で構えた箒は天をつく。万華鏡の両目を伏せ、ゆっくりと頭を下げる。目深にかぶった三角帽子に琥珀色のブローチが留められているのが見えた。


 木漏れ日が照らすなか、真っ黒な天使みたいな彼女は言った。


「ナコト・ヴィルヘルミナ・フォン・ユンツト。我が身、我が業、我が忌み名は鉄棺――《ひつぎ》のナコト。どうか、お見知り置きを」


 それは、魔女のお辞儀だった。

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