《文具屋》のニナ(2)

 助走にともなって箒体きたいがわずかに浮かび上がり、走るわたしのお尻に食い込んでくる。

 篝火かがりびがはじけるような、ぱちぱちという音を耳が拾う。反射鉱石と大気中の粒子S.U.R.P.のこすれあう音だ。


 魔女が使う箒の刷毛の内側には、こぶし大の鉱石が仕込まれている。

 わたしたちが反射鉱石リフレクション・クリスタルと呼ぶこの鉱石は、空気中に漂う目に見えない小さな粒子にことで反発する性質を持つ。けれど、助走による加速だけでは人間の身体を浮き上がらせるほどの反発力を生み出すことはできない。

 粒子の濃い波を見つけて、それに勢いをつけて飛び乗ることで初めて、わたしたちは自分の体重を浮き上がらせる上昇力を得ることができるのだ。


 わたしは助走体勢のまま波を探す。

 サーフS.U.R.P.粒子は、少しだけ、ほんの少しだけ光を捻じ曲げる。

 だから注意深く見れば、粒子の濃い場所は見えない悪魔が焚き火をしているかのように、もやもやとゆらめいて見える。


 波の濃い場所、つまり〝悪魔の焚き火ダスト・デビル〟は、大きな街や墓地、耕されたばかりの畑、古戦場――そういった、人がたくさんいる場所か、たくさんいたことのある場所を好む。けれど、〝慈悲の森〟においてはそれらをことさらに探す必要はなかった。

 なぜなら眼下に広がる〝慈悲の森〟はサーフS.U.R.P.粒子の一大密集地帯で、それはここがエルダー・シングス魔術学院の飛行実習場に選ばれた理由でもある。


 要するに、いい波を見つけるのに不慣れな魔女のたまごたちでも、それなりに飛ぶことのできる場所だということだ。

 実際、ゴーグルごしに見下ろす森には、至る所で何かのお祭りのようにもやがゆらめいていた。

 わたしはそのゆらめきのひとつに当たりをつけ、跳躍する。


「いあぁ」


 一瞬の自由落下。

 内臓が喉のあたりまでせり上がってきて、それと一緒に間抜けな掛け声が勝手に出てくる。柄を握った両腕を引き込み、刷毛テール側に体重をかけると、透明なばねに押し返されるように身体が浮かぶ。

 跳躍によって重力加速を伴ったわたしの体重が粒子の波に強くブルームを押し込み、その反発力が箒体を押し上げたのだ。


 森の濃密な波は、どんどんわたしを上昇させる。わたしは握り込んだ柄を操り、波の上で箒体を安定させる。それから首を巡らせて、次の波のきざしを探すために眼を凝らす。

 箒体の沈んでいく力が、箒が波から受け取る上昇力を上回る前に、次の波に飛び乗る必要あるからだ。


 少しのあいだきょろきょろとあたりを見回せば、大きく上に伸びる〝悪魔の焚き火ダスト・デビル〟を見つけることができた。前方、右斜め下。


 実のところわたしは箒の操縦において、この〝滑空〟のステップを一番の苦手としていた。何より理力マナを操作する力が求められるからだ。


 わたしの右のお尻の付け根に魔女のが顕れたのは十四歳の頃で、それは魔女の兆候が顕れるタイミングとしてはずいぶんと遅いものだった。

 だいたいにおいて魔女の素質がある子どもは、遅くとも十二歳までには自分の身体のどこかにを持っているのが普通だ。二年という時間の壁は厚く、わたしは他の子よりも理力マナの扱いがぎこちなかったのだ。


 ――だから、ここからが、勝負。

 箒体の上昇力が底をつき、だんだんと重力に引かれていくのがわかる。けれど、慌ててはだめだ。


 わたしは深く呼吸して、精神を集中する。

 それからお腹の下のほうに力を込めて、息を止める。

 下腹で小さく渦巻く理力マナを慎重に制御し、引っぱり出す。

 思い描くのは、飛行用ローブのてっぺんから裾まで、自分の血管が走っているイメージ。


「【Malfermo展開!!】」


 発した呪文に呼応して、術理スクリプトが激発される。

 空想の血管に、血液ちからが流れ込む。

 飛行用ローブに織り込まれた魔法の銀ミスリル・アマルガムが、浸透した術理を読み込んで形を変える。黒いローブが象るのは、こうもりの羽根だ。


 ぱん、と洗濯物を鳴らすみたいに、小気味いい音を立ててローブが広がる。


「――よし!」


 こうもり羽根のセイルが風を受けてはためき、箒体の落下を押しとどめる。

 空中を滑るように飛ぶ箒の上で身体をひねり、次の波に鼻先を向け、箒首を下げてスピードを上げていく。びゅうびゅうという音とともに、眼下の森が後方に流れていくのが目に映った。


 わたしは波を真下に捉えて、箒体を水平に戻す。

 ローブに「畳めFermi」と命令すると、編み込まれた魔法の銀に流れる理力マナが遮断されて、こうもりの翼は元通りただの外套に姿を変える。


 翼を畳み、重力に身を任せて新たな波に着水すると、粒子の炎が燃え上がり、火の粉を弾くようなぱちぱちという音がふたたび聞こえだす。

 後ろを振り返ると、最後尾の組を送り出した老教諭が自らも飛び上がろうと助走をつける姿が、藤色の航跡の向こうに見えた。


 頬を叩く初夏の風と、紫色の光の波が箒体を押し上げてくる感覚が心地よかった。

 波に乗って飛び上がり、次の波を探して滑り降りる。

 アップス・アンド・ダウンス。絶え間ない上昇と下降の繰り返しで、わたしたちは飛ぶ。




 残すところ300ヨルドの距離まで〝長老杉〟に近づくと、青黒い波濤のように生い茂る鋭くとがった葉や、節のひとつひとつが巨石のような荒々しい樹皮の様子が輪郭を帯びてくる。

 思い思いに紫の軌跡を描いてわたしの前を飛ぶ魔女のたまごたちは小鳥のようで、ずっと見ていると遠近感を狂わされてしまう気がした。


 わたしは振り返り、自分の航跡を確認する。

 ブルームの生み出す紫炎は弱々しいものになっていた。溜め込んだ上昇力をすべて吐き出しかけている証拠だ。

 つまりそれは、そろそろ波の乗り換えどきだということを表している。


 それなりに――あくまでわたしなりにだけれど――上出来だと思った。

 およそ700ヨルドもの距離を、無事に飛んでいられたのだから。

 気分をよくしたわたしは、ふたたび滑空のステップに入る。飛行用ローブに理力マナを流し込み、術理を激発する。


「【Malfermo展開!!】」


 けれどローブは、ぴくり、と痙攣するように一度震えただけで、すぐに沈黙する。

 わたしはため息をつき、いつものやつだ、と思う。上手く理力マナを流し込むことが出来なかったのだと。

 押しも押されもせぬ劣等生のわたしのこと、そういうことは幾度かの飛行実習で何度も経験していた。

 言うことを聞いてくれないかび臭いローブが、わたしのことをせせら笑ってはためく。


 わたしは心を落ち着けて、もう一度自分の翼をイメージする。

 血管、神経、飛鼠の飛膜。

 命令するように、屈服させるように呪文を唱える。


「――【Malfermo開けっ!!】」


 百科事典を床に叩きつけたような、ばちん! というふてくされた音を立ててローブが翼を広げる。

 得意になって「最初からそうすればいいのよ」と、鼻を鳴らしたわたしは、広げた翼に走る違和感に全く気づかなかった。


 わたしは体重を左側にかけ、箒体を傾斜させる。

 ゆっくりと左向きに旋回し、ゆるやかにバンクした回廊を滑って高度を上げていく。




 空を飛ぶことに限らず、人生というものはおよそ〝浮き沈み〟アップス・アンド・ダウンスのあるように出来ている。だから問題はすぐに起こったし、違和感の正体もすぐにわかった。


 ちょうど〝長老杉〟の周りを旋回しているとき――その日幾度目かの滑空に入ろうとしたときだ。

 ローブの開く小気味良い音の代わりに、老人が咳き込むような乾いた音が背後から聞こえてきて、箒体の安定が大きく崩れた。

 身体の右側だけが急に重くなったみたいに、あるいは左腕を思い切り上から引っ張られたみたいに、わたしの身体は大きく右に傾く。


 嫌な予感に全身の体温が一気に下がって、冷たい汗が背中から吹き出てくる。


 わたしが背後を振り返ると、右側の翼がくしゃくしゃの紙袋のように、あらぬ方向に捻じ曲がっていた。

 想定よりもひどい光景に、ひゅっと空気が肺から漏れて、身の毛がよだった。頭の皮がぎゅっと縮んで、髪の毛の根っこを締めつける。


 ――動作不良マルファンクション


 もともと使い古されてへたっていたローブに乱暴に理力マナを通したことで、銀の繊維が焼き切れたのだ。

 これから起こるの想像が、一瞬で頭を駆けめぐる。数分前の調子に乗っていた自分を、呪い殺してやりたかった。


 焦ったわたしは再度ローブに命じる。


「【Malfermo展開!!】」


 流された理力マナに抵抗するように、ローブがと痙攣し、今度は逆側にねじれる。


 わたしは叫ぶように何度も呪文を唱える。


「【Malfermo展開!!】 【Malfermo展開!!】 【 Fxxxingああ、もう! Malfermu!開け!】 ――【Malfermo開いてよ!!】」


 ひとつの命令が終わらぬうちに二度三度と命令を上書きしてしまう。結果から言えば、これが一番まずかった。

 同時進行的に、複数の「展開」を並行して行うローブは、わたしが呪文を唱えるたびに、くしゃり、くしゃりと音を立てて、めちゃくちゃな形に変形する。


 岩が坂を転がるように、状況は悪化していた。

 完全に体勢を崩したわたしは、もみくちゃにされながら重力に引かれていく。


 それからはあっという間だった。

 金管楽器のパイプのようにぐるぐる回りながら、わたしの脳みそは自分が落下しているということを理解する。

 大きな獣に首根っこを掴まれて、振り回されている気分だった。

 黒い針葉樹林と真っ青な空が交互に見えて、すごい勢いで目の前を通り過ぎていく。

 死の予感が虫のように身体を這い上がってきて、口から朝食べたポリッジが飛び出そうになった。


 人が避けようのない死に瀕した時、人間の脳みそはその人の人生を紙芝居みたいに脳裏に浮かべるように出来ているらしい。

 わたしの場合も例外ではなかった。

 家の近くを流れる川のせせらぎだとか、我が家に染み付いたインクの匂いだとか、初めて家族で行ったキャンプだとか。そういった温かく善なるものたちがものすごいスピードで目の前を駆け巡り、頭の中を埋め尽くそうとした。


 なんというか、たぶん、みんなそういうふうに出来ているのだ。穏やかな死を迎えるために、死の苦痛を紛らわせるために。


 美しき十五年の半生が脳裏をよぎる中、でも、とわたしは思う。

 でも、それって。


 ――でもそれって、山積みになった夏休みの宿題を目の前にして、どうやっても終わりそうにないから読書でもして現実逃避しましょう、みたいなことじゃないの?


 わたしは違う。と強く強く、強く思った。

 だってわたしはまだ何も成し遂げていなかった。

 ちゃんとした魔女にもなれていないし、父や母や兄弟たちに何もしてあげていなかった。男の子の手だって握ったことすらなかった。誰かの役に立って、褒められてみたかった。

 こんなちびでやせっぽちなまま死んでいい理由は、どこを探したってなかった。


 ――わたしは、違う。


 生きることをさっそく諦めて思い出にふけっている役立たずの脳みそは放っておくべきだ。記憶の中の温かく美しい景色に耽溺するよりも、すべきことがある。


 だからまず、わたしはただ視ることにした。

 ぐるんぐるりと回転する視界から、わたしは情報を拾う。

 生きるための、糸口を探すために。


 ――わたしは違う。わたしは最後まで最適解を探し続けてやろう。


 そう心に決めると、全身の血液が煮えたぎって、恐怖で冷えてこわばった筋肉が熱を取り戻していく気がする。

 何度も乱回転をしているうちに、周りの景色は嫌と言うほど見えていた。ひときわ大きな〝長老杉めじるし〟が、自分がいまどのあたりにいてどの方向に流されているかを教えてくれる。


 一番確実そうなのは、周囲に漂う濃い波のどれかに乗ることだと思った。

 最悪、上手く波に乗れずとも、粒子の波に刷毛を引っかけさえすれば落下スピードを大幅に殺せるだろう。

 幸い下は鬱蒼と茂る森。ある程度は枝葉が衝撃を吸収してくれるはず。骨折程度は覚悟しなければいけないけれど、その程度で済めば御の字だ。


 要するに、死にさえしなければいいのだ。

 ここにきて妙に前向きな自分に気づいて、少し愉快な気持ちになる。目玉が飛び出しそうなくらいに目を見開いて、わたしは周囲を見渡す。

 周りに何があるのか、何が使えて何が使えないのか。


 〝焚き火〟、方位は北西、上方。楼閣型、上向きの波。

 ――違う。

 位置が高い。いまのわたしに上昇する手立てはない。


 遠くで何か叫んでいるミス・ロウマイヤー。方位北、やや下方。

 速度を上げてこちらに向かってきている。

 ――違う。

 遠すぎた。彼女は間に合わない。


 こちらを見ている同級生。方位南、ほぼ同高度。

 人数、三人。こわばった表情。

 ――違う。

 そもそも彼女たちに頼るのは無理な相談だ。


 〝焚き火〟、方位西北西、下方。屋根型。下向き。

 ――違う。

 波が弱すぎて速度を殺せない。


 〝焚き火〟、方位南東、下方。回廊型。上向き。

 ――これなら。


 見つけ出した活路は、けれど遠かった。

 言うことを聞かないローブがぐにゃぐにゃと形を変え、行き当たりばったりに風を受け続けて姿勢の制御を邪魔していたからだ。

 飛行用ローブをまとっている限り、波に跳びつこうにも飛びつけない。

 いっそのこと脱げればとも思ったけれど、両手で箒を握り続けている状態では、それも不可能なことだった。かといって、箒がなければどうにもならない。

 箒を手放してしまえば、潰れたカエルか百舌のが関の山だ。


 この案は手詰まりかもしれない。望みは薄いけれど、別の方法を探すべきか。

 声が聞こえたのは、そう思ったときだった。

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