1-3:ヘルター・スケルター - The "Helter Skelter"
毒の庭
ミスリル・アマルガム(mithril-amalgam)とは、ミスリル銀と他の金属との合金の総称であり、広義の意味ではミスリル銀と他の物質との混合物一般を指す。
物性における特筆すべき点として、理力伝導性(M.a.N.A conductivity)が非常に高く、浸透させた術理及び理力価に応じて硬度・靱性・形状を自在に変化させることが挙げられる。
ミスリル銀の主要原産国であるク・リトル・リトル王国においては魔術触媒として古来より用いられており、魔術、ひいては生活の根幹を支える重要な資源として珍重される。[要出典]
また、製法は同国政府の厳重な管理の下に秘匿されており、国際的な流通はごく少数の例外を除いて禁じられている。
――
◆
「だめに決まってんだろ、そんなもん」
肩のあたりで二つにまとめた絹糸のようなピンク・ブロンドをわしゃわしゃと掻いて、ダレット先輩は言った。
重く、静かで、けれど断定的な剣呑さをはらんだ声だった。
五月二十三日。
彼女と初めて会ったのは、その日の昼休みのことだ。ナコト先輩がわたしをもうひとりの代表箒手に引き会わせると言うので、昼休みを利用して顔合わせをしようとしたのが発端だった。
わたしはナコト先輩に連れられて、学院の敷地内にある
四方をガラスで囲まれた温室には、魔術的に価値の高い種々の植物がめいめいに咲き誇り、混ざりあった甘い匂いが鼻腔をくすぐった。けれどその芳香とは裏腹に、それら草花のうちのだいたい半数がその気になれば人間なんていつでも簡単に殺せてしまうような毒性を持っている。
ベラドンナ、ドクゼリ、トウアズキ。
言うなれば毒の庭園だ。
庭園の真ん中には、飲食や休憩ができるガーデン・テーブルが何セットか備え付けられていて、わたしたち三人はそのうちのひとつに座っていた。
まずは〝暗銀の魔女〟こと、クリスティナ・ダレットの話をしよう。
彼女はナコト先輩と同じくエルダー・シングス校の四年生で、飛行学部の生徒だった。
身長は二年生のわたしよりも小さく、全体的な印象はあどけないものだったけれど、同年代の女の子と比べるといくぶん女性的な身体つきをしていた。彼女の胸やお尻はゆったりとしたローブの上からでもわかるくらいに豊かなカーブを描いていて、肩のあたりで二つに結ばれた薄桃色の髪と相まって、曲線的な柔らかさを形作っていた。
そういった全体の印象とは対照的に、どこか肉食獣のような獰猛で鋭い光を
ダレット先輩は当時としてはいささか特殊な生徒だった。
貞淑さと繊細さが求められる魔女の学校にあって、彼女の振る舞いは悪く言えばかなり乱暴だった。
声は大きかったし、男の子みたいな口調で喋った。制服はいつも着崩していて、いつだって大股で歩いた。わたしより小さな体躯のダレット先輩が廊下の真ん中をずんずんと歩くと、海を割るように人が避けて通った。
それから、彼女は誰かが彼女を『クリスティナ』と呼ぶのを極端に嫌がった。実はそこに大きな理由は特になくて、「何ていうか、大仰だろ? 〝クリスティナ〟って響きがさ。なんだか深窓の令嬢みたいで嫌なんだ」という彼女の弁を聞いたのは、ずいぶんあとになってからのことだ。
「絶対に、だめだ」
ダレット先輩はナコト先輩を指差して、念を押すように言った。
しっかりとナコト先輩を見据える深緑の双眸には、圧搾された怒りを抑制しているような光があった。
ナコト先輩はそういったとげとげしさを微塵も気にしていない様子で言う。
「あら、歓迎してくれるものだと思ったのだけれど。ニナが代表箒手になることがそんなに不満なの? どうしてだめなのかしら?」
そう言って紅茶を一口飲んでから、心底不思議そうに首を傾げる。
そんなナコト先輩の様子に、ダレット先輩は不愉快さを隠そうともせず眉根を寄せる。眉間にしわが寄る音が、テーブルを挟んだこちらまで聞こえてきそうだった。
「どうしてもこうしても無いだろ。いいか?
一通りまくし立てたあと、ダレット先輩は盛大に舌打ちをする。綺麗な歯で下唇を噛み、苦々しい顔で腕を組む。
それからため息をひとつついて、今度はわたしに目を向けた。
「それに、お前……なんだっけ、ニナっていったか。ニナな、お前もお前でな、ナコトなんかに乗せられてんじゃねえよ。天才だけど、ばかなんだぞ、こいつは」
ダレット先輩は、眉間に寄ったしわを揉みほぐして、「何も考えてねえんだ、こいつ。天才だから」と付け加えた。
なんだか疲れて見えるその表情から、彼女が普段からナコト先輩に振り回されているのがなんとなく見て取れて、気の毒になってくる。
わたしは「はあ」とあいまいな返事をしながら、おそらくこの人は悪い人ではないのだろうと思った。
だって、ダレット先輩はここにはいない誰かのために怒っているのだ。
知らない誰かのために怒るということは思ったよりエネルギーが要ることで、それをなんのてらいもなくやってのけるダレット先輩の言動は尊敬すべきものだと思った。
「そうだとしても、メンバーの選考権は私にあるのよ? 私が自由に決めて良いはずだわ」
ナコト先輩は、その年の
ヘッド・ライナーというのは、五年生と一年生を除いた生徒の中から毎年ひとりだけ選ばれる代表箒手の旗頭みたいなもので、要するに『学内で一番箒に乗るのが上手い人』のことだ。
選出されたヘッド・ライナーには、年に一度の競技滑翔学生大会――《
ヘッド・ライナー自身を除いた残り二人の代表箒手を選考する権利もそのひとつだった。
「だったらあたしは降りさせてもらうぞ。選考権はお前にあるかもしれないけど、参加を決めるのは箒手自身だ。あたしは私情で選手を決めるようなヘッド・ライナーについていくのはごめんだね」
「それは困るわ。クリスの力も必要だもの」
「だったら筋を通せよ」
何か言うタイミングを失ったわたしは、会話にどう参加しようか迷った末に、黙って昼食のサンドウィッチにかじりつくことにした。
こういうふうに雲行きが怪しくなってきたときに口を挟むのは得策ではないとわたしは知っていたし、なによりお腹が減っていた。
ちなみに魚のフライとホース・ラディッシュのサンドウィッチはエルダー・シングス校のちょっとした名物で、銅貨三枚で買えた。
頑として意見を譲らないダレット先輩との押し問答がしばらく続いたあと、ナコト先輩が言った。
「それじゃあこうしましょう。決闘で決めるの。〝魔女の決闘〟。負けたほうが勝ったほうの言うことを聞く。シンプルでしょう? ――あなたが負けたらニナを代表箒手に。あなたが勝ったら私たちは引き下がりましょう」
あまりにも唐突な言葉に、わたしはサンドウィッチにかじりついたまま固まってしまう。表情ひとつ変えずに、近所に買い物に出かける感覚で、ナコト先輩は同じ代表箒手であるところのダレット先輩にいきなり宣戦を布告したのだ。
一瞬遅れて、ダレット先輩の表情が変わる。先刻から押し殺されていた怒りが、みしりと音を立てて噴出したようだった。
「……本気で言ってんのか」
声音からにじみ出る獰猛さに、わたしは背筋が自然と伸びてしまう。ただでさえ暖かい温室の空気がさらに熱を帯びて、首筋のうぶ毛をちりちりと焼こうとしている気がした。
「もちろん」
剣呑な面持ちのダレット先輩とは対照的に、ナコト先輩の態度はひどく超然としていた。
なんと言えばいいのか、すべてを見下ろしている、といった印象だった。そこには侮辱や軽視といった感情は無い。ただ単に、なんというか、中立的に見下ろしているのだ。
それはたとえば、夜の丘から街の風景を眺めることや、アブラムシを捕食するテントウムシを観察することに似ている。ナコト先輩のくるくると色を変える瞳には、そういった種類の色のない光がいつもどこかに宿っていた。
「……いいよ、やろう。
「《
「あんまり調子に乗りすぎると地べたに這いつくばるのはお前のほうだぞ、ナコト」
吐き捨てたダレット先輩を見下ろしながら、ナコト先輩は首を傾げる。
「――クリス、勘違いしないで。あなたとやるのはニナよ」
こともなげに言うナコト先輩に、「は?」と声を発したのは、わたしとダレット先輩の両方だった。
何を言っているのだ、この人は。
箒に乗り始めたばかりの二年生と、代表箒手の四年生。そんなもの、勝負が成立するわけがない。
わたしの頭の中で、ダレット先輩の言葉が反響する。
――天才だけど、ばかなんだぞ、こいつは。
困惑するわたしとは別に、ダレット先輩の怒りは、そこで頂点に達したようだった。
「……あたしをなめてんのか? ふざけんなよ、ナコト・ヴィルヘルミナ・フォン・ユンツト」
ことここに至って、もはやダレット先輩の声は、ほとんど地獄の底から響いてくる唸りのようになっていた。
火口から身を乗り出して、溶けた岩盤の煮え滾るさまを覗き見ている気分だった。
彼女は身震いすら許してくれそうにない怒気を全身から発散させて、食いしばった鋭い犬歯を威嚇するように覗かせていた。
困惑するわたしと激怒する暗銀の魔女を見下ろして、鉄棺の魔女は女王のように優雅に二本の指を立てて言う。
「――二週間。二週間あればニナ・ヒールドは、エルダー・シングス魔術学院
そこから先はもう、ほとんど一瞬の出来事と言ってよかった。
椅子を蹴り飛ばすようにして立ち上がったダレット先輩が
時計の秒針よりも素早くナコト先輩の眉間にぴたりと突きつけられた杖は、
《鎧通しの杖》。先端の尖った十字架のようなシルエットは、杖というよりは騎士の扱う
威嚇の段階はとうに通り過ぎて、あとは飛びかかるだけ。獣が唸るのは争いを避けるためで、獲物に襲いかかる段になってまで唸るような真似はしない。
「もう一度言う。あたしをなめてんのかって聞いてんだ。どうなんだ? おい。鉄棺の魔女、《柩》のナコト」
「まさか」
ダレット先輩の燃え上がる怒りを真正面に受け止めてなお、ナコト先輩はそよ風のように平静だった。いっそのこと、それを楽しんでいるようですらある。
「それじゃあ、逆に聞くけれど。私がクリスと戦って、それでニナが代表箒手になれたとして、あなた以外の誰が彼女を認めるの?」
沈黙がしばらく続いた。
殺気に塗りつぶされた無表情のダレット先輩と、《鎧通し》を眉間に突きつけられたまま笑顔を崩さないナコト先輩。
一触即発の雰囲気に、わたしは頭から冷や水をかけられたみたいにすくんでしまう。両手に持ったサンドウィッチがぼとりと落ちて、わたしのスカートを汚した。けれどそれでも動けなかったのは、「動いたらたぶんわたしが死ぬ」という未来予知に似た直感のせいだ。
ほとんど永遠に思えるような重い沈黙を先に破ったのは、ダレット先輩のほうだった。
「……一発だ」
そうつぶやいて、《鎧通し》を杖帯に仕舞う。訓練を重ねた、洗練された動きだった。
「一発でもあたしの身体に当てることができれば、勝ちにしてやるよ」
諦観と呆れが共存したような表情で、ダレット先輩は言う。
「あら」
怪訝そうにナコト先輩が首をかしげる。
「それでいいの? 本当に勝ってしまうかもしれないわよ?」
面白くなさそうに後頭部を乱暴に掻いたダレット先輩は、ため息をついてから首を短く一度だけ振った。
「ナコト・ヴィルヘルミナ・フォン・ユンツト。わかったからそのくそ安っぽい挑発をやめろ。素人の二年坊と対等の条件で決闘だなんて恥ずかしいこと、できるわけないだろうが。代表箒手の看板背負ってんだぞ、こっちは」
「あら怖い」
にこやかなナコト先輩に、ダレット先輩は舌打ちをする。どすんと椅子に腰を落とし、背もたれに身体を預けて腕を組んだ。
「どうせあたしが挑発に乗ることも折り込み済みなんだろうが、くそが」
それからダレット先輩は、わたしのほうに首を巡らせる。
「おい、ニナ。……まあ、そういう条件なら、あたしも受けて立つけど――お前の口からはっきり言えよ。やるのか、やらないのか」
わたしを見据え、ダレット先輩は言った。
細められた深緑色の視線に気圧されて、わたしはつばを飲む。「一撃当てるだけ」という条件を加味しても、とんでもなく分の悪い勝負だということは目の前に座るダレット先輩を見ているだけで十二分にわかった。
問題は、それでもわたしは
破門を避けるためには何かしらの形で実力を示さなければならない。くすぶり続けていた学院生活のなかで、ようやくわたしはわたしの存在を強く求めてくれるひとに出会えたのだ。
何もしないまま追い出されるのはごめんだった。
正確には、それは理由と呼べるような大層なものではないのかもしれない。そういったわたしのそれは、義務や責任といった重たいものとは遠くかけ離れたものだ。けれど、わたしは何がなんでも学院に残るということをすでに決めていて、そのためにはできる限りのことをしたかった。
わたしはダレット先輩の目を見つめ返す。精いっぱいの虚勢を込めて。
「やります。……やらせてください」
汗だくの手のひらを握りしめて、わたしはダレット先輩に宣戦布告した。
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