私の行き先

 二月になると、私と彼女は友達に戻った。彼女はいつも通りオレンジのコンコルドを付けているが、朝に迎えに来ることはなくなった。放課後は寄り道せずに帰るようになった。期末試験の勉強を一緒にしなかった。あって然るべき距離を保とうとする彼女の努力を、敢えて無下にすることはしなかった。

 二月末、私を送る会なるものが開かれた。同級生たちは地元のお菓子とミカンをそれぞれ持参し、小さなパーティーを開いて東京への旅立ちを祝福してくれた。私ははちみつクッキーを何袋か買ってきて、皆と分け合った。彼女にはあの日のように、まるごと一袋を渡した。

「お世話になったからね」

 彼女は嬉しそうに微笑んだ。しかし寂しそうな目をしていた。もしくは、私が寂しいのか。

 三月、叔母は私にお土産の袋を渡した。私は何度も叔母に感謝の念を伝えた。

 中旬に入ったばかりの土曜日、午後三時、私はいよいよ駅に向かった。


 駅にまっすぐ進むのは何だかもったいないので、学校にまで寄り道した。小坂から眺める海がいつも通り青いのを確認して、安心した。人の気配がしない学校の中に入って、エントランス前のベンチに腰掛けてみた。空いたとなり席に、もごもごと東京を語るように去年のクリスマスイヴを語った。

 そうして私はきらきらと太陽の強い光を受けて反射する真っ青な海を背後にした。周囲の景色がどんどん寂れていく。

 駅に着くと、改札口の側にセーラー服の彼女が佇んでいた。

「やっぱり来てくれたんだね」

 私は友達として適度な距離を取って、彼女の横に並んで立った。

「もうすぐミサンガが切れそうだ。後悔がないように、最後の質問に答えてくれる?」

 彼女はいつも通りの笑顔を浮かべたまま、「もちろん」と頷いた。その柔らかな髪が肩に落ちるのを見つめながら、私は最後の質問をした。

「もし――私がまだ君のことが好きだと言ったら、一緒にいてくれる?」

 彼女の笑顔は硬直した。そして、しばらく笑顔を保とうとするのに必死だったが、やがて目尻に夕日の朱が広がり出して、その繊細で頼りない手足がビクビクと震え出した。駅の床にねずみ色の染みがポタポタとできていく。彼女は腕で一生懸命顔を拭いた。

「バカ言わんで!」

 彼女は初めてこれほど強気な語気で私を罵った。

「一緒にいるって! 意味も分からずに言わんで!」

 彼女は崩れて泣きじゃくる。まるで赤子が庇護を求めるように、その体は小さく小さく丸まって、床に膝をついた。喉から不本意にこぼれていく声ならぬ声を交えながら、彼女は一変して柔弱な声音で吐き出した。

「うちが好きでも、あなたはすぐにどこか……どこか遠い世界に、見捨てて行くら?」

 私は彼女を憐れに思った。しかし同じくらい、彼女の言葉に怒りを覚えた。彼女が私を信じてくれないことに怒りを覚えた。私は屈んで、彼女の顔をまっすぐ見て叫んだ。

「私は見捨てない! 離れたって連絡はできるし、私が優秀になったら君を迎えることだってできる!」

 嗚咽する儚き少女は、私の一心の弁解を聞いたところで心を改める様子がまるでなかった。しかし、私は彼女に信じてもらいたかった。私と彼女が、ずっと続くということを。

「あなたは東京のいい大学に入って、将来は外に留学して、いいお仕事に就けるの。うちは高校を卒業したら、この町でまたママの人生を繰り返すの。でもうちはこれでいい、うちはこのちっちゃい町が好き。あなたに似合ってる外が怖い。えらい怖い」

 ああ、彼女の小さな肩が震えている。黒く無機質な駅の中で、更に無力さが目立った。

「それだけじゃない、うちは女だもんで、すぐにあなたの邪魔になる。あなたにはほんとにうちを背負える?」

 私は返事できなかった。なぜなら、私が人生を掛けて目指してきた理想的な自己を捨てられると断言する自信がないからだ。私は彼女を慰めることができない自分が悔しい、たまらなく悔しい! ああ、彼女はまだ泣いている。その透明の涙は留まることを知らず床に落とされていく。私は、全てを他人に評価してもらいたいところが駄目なのかな。彼女への愛は、果たして他人からの軽蔑に打ち勝つのだろうか。

 せめて今の彼女が少しでも楽になれるようにしたくて、私は口を開く。

「ねぇ、一瞬だけ恋人に戻ってもいい?」

 彼女は視線の先にどんな顔をした私を見たのか。ゆっくりと首を縦に振る彼女を、私はぎゅうっと抱き締めた。思えば一月には恋人らしいことをまともにしてこなかった。彼女といられるだけで精いっぱいで、他に何かをする余裕もなかった。

 腕の中の、虚しく泣き声を抑える純白の彼女。私は欠けた真珠のような彼女の隙間を仮初めの体温で埋め合わせようとした。時間が経つのが嫌だ。列車が来るのも嫌だ。彼女の息が落ち着いてくる。しかし私が無遠慮にその唇を奪うことは到底許されない。これ以上傷跡を、何よりも綺麗な彼女に付けてはいけないから。

「ミサンガに、あなたの勉強が順調でありますようにって願ったに」

 彼女は私の胸に張り付いた顔を上げて、優しく笑った。これが彼女の最後の笑顔だった。


 ガタンゴトン、ガタンゴトン。

 列車の窓の外、目に溜まった水で変にぼやけた世界から、彼女の髪留めの色を見付けた。もうすぐ私が置き去りにしていく海。あるべき場所に沈む夕日の光。

 こうして私は東京に帰って、勉強して、有名な大学に入るだろう。留学して、いい職に就いて、社会階層の上に立つだろう。私はそうやって、他人に評価される優秀な自分になるのだろう。

 ねぇ、神様、どうして優秀な私でいなければいけないのだろうか。私は知ってしまったのに。あのちっちゃな世界は、きっと、私が戻る大きな世界よりも美しい。

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港の夕日を追って K @KKKK2727

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