港の夕日を追って

『二学期の授業ノート』

 感情のない文字列がスマートフォンの画面に映し出される。下には、写真にアクセスするリンク。

 進学校の頃の同級生からだ。どうやら全教科の授業ノートを見せてくれるらしい。

『ありがとう』

 私はたったそれだけ送信した。そして、リンクをクリックもせずに部屋を出ていった。


 大晦日が過ぎたばかりの冬休み、彼女を食事に誘った。

 ――この町にいるのもあと少しだから。

 この決まり文句で大体のことは許してくれた。私はお小遣いで彼女の食事代を払う。彼女には外食に掛けるお金がないと知っているから。

 ファミリーレストランの外で、セーラー服姿の彼女が私を待っていた。真っ白なマフラーを巻いて、厳しい寒さに縮こまりながら。

「お待たせ」

 私は試しに彼女の頭をわしゃわしゃしてみた。そしてこんな私らしくないことをするのが、一気に恥ずかしくなった。

「ごめん」

「どうして?」

 彼女は私の恥ずかしさに気づかない。それどころか、無垢の視線で私を見上げて、更に顔から火が噴き出そうになる。私はすぐ彼女から目を逸らした。もう逸らす必要がないのに、と思いながら。

 ソファ席に座り、二人分のパスタを頼んだ。店員が去ると、彼女は私にぴったりと体をくっつけてきた。ハーフアップの髪を結んでいるのは茶色のリボン。さすがの彼女も下にうつむいて、明らかに照れている。

「ずっと聞きたかったけんどさ、何でうちが……その、好き、なの?」

 私は高鳴る心臓に静まれ静まれと念じるのに精一杯で、彼女の質問には上の空で答えた。

「理由はないよ」

 答えてから、まずかったかな、と焦り出して、彼女を見た。最初はぽかんとした表情だったが、すぐに納得せずに頬をぷっくりと膨らませた。

「ううん、いや、だって。こういうの一番嫌いそうだら?」

「私は別に、嫌じゃない」

「でも、こういうの、人から色々言われちゃうに」

 私は彼女との未来を想像してみた。一ヶ月だけではなく、ずっと二人の関係が続くような未来だ。私は東京の大学生となり、彼女は港町で社会人として働く。そして私が留学に行ってから、彼女を迎える。笑えるくらいに現実味のない話だ。しかし、もし本当に叶った際に周りからどう軽蔑の目で見られるのか。背筋がゾッとする。たとえ私が順調に航路を進んだとしても、彼女といることで、自分が憧れるような理想的な勝者ではなくなるだろう。理知的な私というものを捨てたつもりでいたのに、私の中にそれが残した遺産があまりにも大きいことに、今更気付いた。

「そんなの、言わせとけばいいよ」

 私は心にもないことを、明るい笑顔で彼女に話す。彼女があまりにも、不安そうな色を浮かべていたから。

「……うん、そうだね」

 彼女は安堵したように、息を吐き出した。そして、一ヶ月だもんで、と呟いた。


 家に帰って、昔の同級生に送られたリンクを開いた。写真に記された練習問題を一問解くだけでも十分くらい掛かることに驚きを隠せなかった。私はこんなに落ちぶれたのか、と思った。まずい、とも感じた。忘れていた感情がいきなり呼び覚まされて、私を苛立てる。やめてほしい、私には一ヶ月しかないというのに。私は理知的な自分に対して願った。あと一ヶ月は待ってほしい、と。


 一月下旬の休日、彼女は「自転車で海沿いを走らまい」とデートに誘ってくれた。校門前、初めて見る彼女のジーンズ姿。そのしおらしくも芯のある佇まいは、まるで港に咲く一輪の白百合のよう。

 私を後ろに乗せて、彼女は友達に借りたという自転車を漕ぎ出した。冬風を正面に受けながら、か細い車体は力強く突き進む。商店街に繋がる緩やかな坂を加速しながら下りていくと、どんどん強まる風で彼女のサラサラとした黒髪が私に向かって広がる。坂からの眺望、昼の海は磨き立てられたかのように生き生きと輝きを放ち、晴れ渡った空から目の奥へ射し込んでくる眩しい日差し。一瞬にしてその風景が切り替わり、右手側の商店街を勢いよく通り抜けると、彼女はかつてない快活な笑い声を上げた。

「気持ちいいら!」

 彼女は振り返らずに私に叫んだ。

「気持ちいい!」

 と私は大声で返した。

 三十分くらい経って、完全に賑やかな地域を離れてしまうと、彼女は一旦休憩することを提案した。

「次は私が漕ぐよ」

 水筒を彼女に差し出して、申し出た。彼女は私の喘息を心配したが、何故かこの町であれば大丈夫だと確信できた。

 私の番となる。顔の真正面を打つ冷たい空気の振動に心を揺すぶられながら、久しぶりに自転車を漕いでいく感覚に興奮して、どんどんどんどん速く足を動かしていく。この瞬間の私は自由だ。彼女はがっしりと私の腰を掴んで、その温い体を私の背中に密着させている。一生懸命ペダルを踏んだ。

 午後の二時くらいになると、二人とも疲れ果てて、道端の荒野に転がった。

「そういえば、ミサンガ切れないね」

 私よりも遥かに多く漕いだ彼女は辛そうに息を吸ったり吐いたりしながら、私に話し掛ける。

「願いの力を貯めているんだよ、きっと」

 もうあまり必要ないけど、と私は笑って付け加えた。

「でもね、うち、他の願いも中に込めてるもんでさ」

「それは何?」

「……秘密だに」

「どうしても言えない?」

「大したもんじゃないに」

 彼女は起き上がった。そしてまだ聞こうとする私を遮るように言った。

「そろそろ戻らまい?」

 私は頷いた。彼女が作ってくれた小さなミサンガが、少し緩んだ気がした。


 商店街に戻ったとき、既に四時過ぎとなっていた。ダイヤモンドのようにきらきら輝いた海も、夕日の光を浴びて淡い朱を纏っている。自転車の取手を握りながら、ゆっくりと上り坂へと向かった。出会ったときに見惚れた彼女の横顔が、少しでもこの地に留まりたい太陽の寂しい残光を浮かべていた。

「もう終わりだね」

 彼女はぽつりと呟いた。そして突然、その目元から破れた水晶玉のような透明の涙がこぼれ落ちる。まるでクリスマスイヴの、儚い細雪のように。

 私は呆然として突っ立った。彼女はただ声を殺して泣き続けた。その内、胸の奥深くから衝動が喉に向かって、最後の足掻きのようにほとばしるのを感じた。私は自転車の向きをぐいと逆方向に変えた。乗った。

「乗って!」

 乗るように彼女に叫んだ。

 今にも砕けそうな彼女の脆弱な手が胃の上に置かれたのを確認すると、私は全ての理不尽に対して反旗を翻すように力いっぱいにペダルを踏み締めた。私は東京の反対方向に向かっていっぱいいっぱいペダルを回した。自転車は狂ったようにひたすら夕焼けの中を突き抜けた。商店街を一瞬にして置き去りにし、どこをも目指さずただただ走った。私は息が苦しくなった。しかし込み上げてくる衝動に任せてただただ走った。海の彼方の、鮮やかなオレンジの卵が今にもあるべき場所に帰ろうとしている。あの日彼女が店で手に取ったミカン、いつも付けているコンコルドの色。織布がバラバラにちぎれるように、呼吸のリズムが互いに外れて矛盾する。それでもただただペダルを踏んで走った。目の前が暗くなっていく。それはきっと日が沈んでいるからだ。結局はあるべき場所に戻るしかない、その宿命に従って。

「もうやめて!」

 彼女は身を乗り出して、そして自転車が転倒した。膝に鋭い痛みが走り、そして私はようやく肺が持ちそうにないことを発見した。私は喘ぎながら、真上にある彼女の少し不細工だけれど綺麗な泣き顔を、目を細めて眺めた。残照が私たちを照らした。

「私は夕日を追いたかったのだと思う」

 脳を経ずに出た言葉がこれだった。努力して次の息に繋げようとすると、掠れた咳が止まらなくなる。またこれか。咳を吐き出す欲求を我慢しながら、辛うじて言葉を紡ぎ出した。

「心配しないで」

 彼女は私の背中を撫でた。私は震える喉に必死に抗った。気管支の病気を鎮めるために来たのに、激しい運動をするような馬鹿な自分が面白い。でも、馬鹿になれてよかった。私は彼女に出会えてよかった。

 やっと呼吸を整えられたとき、海は残り僅かなオレンジに染まり、周囲を暗闇が覆い始めた。

「ねえ、二月からもずっと一緒にいるのは駄目?」

 私は海の向こうをじっと見た。彼女の表情を知るのが怖いから。

「……ごめんなさい」

 彼女は泣き止んだばかりの弱々しい声で答えてくれた。

「だよね」

 私はにっと笑った。取り残された僅かな残照さえも、海底に沈んでいった。

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