星の欠片

 私はひどく消沈した。港の海の色は変わらず青く、空は変わらず高く、彼女は変わらず私に優しくしてくれていた。しかし、私はどん底に突き落とされた。そこは私が自身を容認し得ないどん底だ。私は表向きいつも通りだが、その腹の中では彼女に失礼な気持ちを抱いているのだ。もしここで「はい、気持ち悪い。もう友達やめるね」と言ってくれるものなら、私はまだ何とか理知的な私を取り戻せるはずだが、残念ながら私は全てを吐き出して彼女にそう言わせる程の勇気を欠片も持たない臆病者であり、彼女はそれを聞いたところで何もかもを優しい言葉で濁すくらい綺麗に育ってきた。


 十一月の後半、町を往く人々が本格的に厚手のコートを着用するようになった頃。帰り道で、彼女から一緒に期末試験の勉強をしないか誘われた。

「もちろんだよ」

 私はとても自然な微笑を作った。

「私が手伝える範囲は何でも手伝ってあげるから」

 あの瞬間の拒否感と比べればどうということはないが、自分の言葉にいちいち反吐が出そうになるのはやはり辛い。しかし彼女の前では、抗えざる向心力が私に働き、どうしても彼女と距離を置くという選択肢が私の中で掻き消されてしまう。結局私は彼女を中心にぐるぐると回っているが、一歩進んで彼女に近づくこともできなければ、彼女から身を引くこともできなかった。

 次の日、初めて彼女の家を訪ねた。実家から歩いて五分くらいの集合住宅だった。長年そこに建っているのか、やはり何度も洗われたジーンズのように色が剥がれている。

「たぶんあなたからしたらボロボロだけんど、海が見えたりするに」

 彼女は少し恥ずかしそうに微笑んだ。そのハーフアップに結んだ柔らかな黒髪が、首を傾げた際にその肩に落ちるのを、私はスローモーションで動画を見るような心持ちで注視した。

 花崗岩模様の階段を上った後、四人ほどしか入らなさそうなエレベーターに乗って、五階へ。彼女の肩が腕に当たる感触。私はエレベーターの床から目を離さないで彼女と会話をしていた。腕のくっついた部分が熱い。髪が自分の肩にも掛かる。ようやく、エレベーターが開くギーという音がした。このとき初めて、私は床から視線を離した。

 家の扉を開けると、狭い玄関から暗いリビングが見えた。中に足を踏み入れ、質素なシンクがリビングの端に付いているのを見付ける。リビングのすぐ側には一つの部屋しかない。彼女はその中に入っていった。

「ほら、ボロボロだら?」

「そんなことないよ、私の東京の家よりも全っ然片付いてる」

 彼女は申し訳なさそうにてへへと笑った。笑い疲れないのか心配になるほど、彼女はいつも笑っている。

 私は自身を取り巻く暗く狭い空間を見回した。彼女の部屋は、私が想像していたものよりもずっとシンプルだった。というのも、ぬいぐるみ、ポスターや抱き枕でいっぱいの、いわゆる女の子らしい部屋ではなかった。逆に、机、椅子と本棚くらいしか見当たらない。お陰で私も心が落ち着いてきて、深呼吸をしてから、

「じゃあ勉強を始めようか」

 と参考書を開いた。

 彼女に一通り授業のポイントを説明した後、私は持ってきた問題集の中で最も簡単なものを彼女に解かせた。彼女の高卒止まりはもう覆せないだろうけれど、それでも彼女は学習に意欲的だった。私にとって勉強はあくまでも手段なので、彼女の姿勢を不思議に思ったが、この疑問を彼女にぶちまけることはなかった。

 彼女が真剣に連立方程式を解いている最中、私は頬杖をついて彼女の横顔を眺めた。笑うとえくぼができるふっくらとした頬。桜色の程よく潤った唇。仮にも学問に取り組んでいる彼女をこんな風に見るのは失礼だと分かっているのに、だからこその罪悪感が私の視線を彼女から離してくれない。彼女が計算につまずいたとき、自分はヒントを与えた。またせっせと式を立て直す健気な姿を眺めては、受験勉強なんかに時間を割くよりも、こちらの方が余程有意義に感じた。

 一時間くらい経ったとき、私が目を背けようとした事実がふいに彼女の口からこぼれた。

「そういえば、ここで過ごすのもあと半分だら」

 その予想外の言葉に、不意を突かれて胸を引き裂かれたような痛みを覚えた。しかし、私は全く変わらない表情で頷いた。

「何かやり残したこと、ない?」

 彼女は顔を上げた。ノートを注視していたその黒曜石のような瞳が、私の胸を貫く。この瞬間、どれだけ平然を装おうと全てが彼女にさらけ出されているような気持ちになる。私は口を開こうとした、「満足しているよ」と告げようとした、しかしそんな見え透いた嘘をついたところで事実私は満足なんてしていなかった。

 どう答えればいいのか判断が付かず、口をつぐむ。彼女は私の様子を見て、いつもの笑顔が消え去った真顔で、重々しく私に言うのだ。

「後悔だけはしんでほしい。だって今まで、ずっと……」

 後ろに続く言葉は海に溶けるように、無声となる。私にはどう応じるべきか見当が付かない。生まれて初めて、神からこの場での正解を告げてもらいたい、と思った。しかし私は同時に神がどうこうでは解決できないことを知っていた。ああ、後悔すべきは今までの人生だろう! どうして私はこのような場面に一度も遭遇したことがないのか、私の感性が正しいはずの道を塞ぐという状況に。

「……後悔しない代わりに、不幸せになるとしても?」

 彼女との沈黙を破ったのは、私の縋り付くような問い掛けだった。彼女には私の気持ちなんて分からない。そして、私の質問が意味することも。

「後悔してるだけで、幸せじゃないのだに」

 彼女は寂しそうに微笑んだ。その瞳の憂いが、暗めの照明に包まれた空間で当てもなく泳いでいる。彼女にも心当たりがあるのだろうか。その言葉の後押しを受けて、私は更に質問を重ねた。

「それは本気で言っているの?」

 心なしか、声が震えていたような気がする。

「うちは本気で言ってるの」

「本当に?」

「ほんと」

 彼女は必死に首を縦に振った。その純真で健気な瞳に捉えられると、脳髄からどくどくと全身に生温いものが伝わる。私は恐ろしい考えを抱いた。

 ――彼女になら許されるのではないか。

 その考えは私の背中を掴んで、だんだんと重みを増大させていく。

「そうか」

 私は呟いた。

「そうだとしたら、私は後悔しない道を選ぶよ」

 軽率にこんなことを吐き出していいものではない。しかし私の脆い理性が崩れていく。彼女の一語一句に打ち砕かれ、そして、目の前にいる純潔な少女への愛しい気持ちがとめどなく膨張していく。その後に、よかった、と咲く彼女の笑顔が見えた気がしたけれど、私はブレーキが掛からず道から外れていく自分への恐怖で、脳が真っ白になる。


 期末試験が終わり、肌を突き抜ける冬の寒さがいよいよ最高点に達した。しかし、小さな港町はこの寒冷に反して、控えめながらも盛り上がっていた。クリスマスイヴ。灰色だった商店街もビビットカラーのイルミネーションに照らされ、昭和時代のレトロなクリスマスマーケットなる様相を呈していた。

 黒い綿のジャケットを着た私は小さな紙袋を持って、彼女と待ち合わせをしていた。商店街の看板横、何人かの同級生が私を見付けて手を振りながら、そのままグループで過ぎ去っていく。私は袖の中の、合格祝いでもらった銀の腕時計を覗いた。まだ三十分前。「信じている宗教でもないのに」と大衆を小馬鹿にしていた自分はどこへ行ったのやら、熱に浮かされるようにすっかりと周囲の幸せな雰囲気に飲み込まれた。

「おまたせ!」

 正面のおもちゃ屋をぼんやりと眺めていると、突如背後を軽く叩かれて、側から彼女がひょっこりと顔を出した。彼女の装いは、純真でたおやかな姿に一点の色気を差す。髪型はハーフアップだが、いつものコンコルドではなく茶色の小さなリボンで留めている。服も、コートの下に純白のワンピースを着ているだけでなく、大人っぽいキャメルの厚底ブーツまで合わせている。

「か……格好がかわいいね」

 もっと素敵な言い方を思い付けなかった私は、やはりこういう分野に疎かった。

「ありがとう。ママにスペシャルなイベントあるもんで貸してって」

 顔面がぼっと赤に焼けた気がする。つまり、私との外出には少なからず特別な意味がある、という風に捉えていいのだろうか。

 私は彼女を連れて、クリスマスイヴの港町を回った。ああ、幼子のようにショーケースを見るたびはしゃいでは、華奢な手でぬいぐるみを頬に寄せ、愛おしそうにそれを撫でる姿から母性が溢れ、目まぐるしく変わりゆく彼女に目が眩むこの感覚は、あの夕焼けに覚えた恍惚に似る。うちは、と彼女は耳にいつまでも張り付く甘い声音で言葉を落としていく。うちは初めてクリスマスを過ごした気がする。

 片手に紙袋を持ちながら、もう片方の手で彼女の腕を軽く引っ張っていった先、そこは今にも凍り付きそうな大海原だった。重みで垂れ下がった層積雲に覆われた空の下、寂れた波止場に停泊する灰色の船。その更なる先に広がる、色の抜けそうな白縹の海。寂しい風景だった。しかし、彼女のコートは温かかった。もうすぐ、と私は不器用ながらも優しい声で言葉を届けていく。もうすぐ雪が降るよ。

 どれだけ時間が経ったのだろう。それとも瞬く間だったのかな。分からないけれど、彼女の袖と私の手は繋がっているまま。ふわりふわりと灰色の空から雪が舞い降りる。まるで、羽根が母なる海へ帰るように。いいえ、または、宇宙から降ってくる破れた星の欠片かな。


「もし――私が君のことが好きだと言ったら、気持ち悪い?」


 私はそっと手を彼女の袖から離した。そして静かに彼女を見た。

 星の欠片が、ぱらぱらと彼女の肩にこぼれ落ちる。きらきら、光の残滓。海風になびく彼女のセミロングの髪。砂金を載せた一本一本の細糸。そして、彼女の潤んで揺らぐ瞳。

「うちも好き」

 彼女は雪よりも透明で、綺麗で、鈴を転がすような、それでいて泡雪のように儚い声で返事した。世の中が、灰色の石になって、彼女だけが目の前で言葉を紡ぎ出す。

「だもんで、一ヶ月。一ヶ月だけ、一緒にいたい」

 私はこの瞬間、きっと誰よりも幸せだ。その自認と同時に私は彼女の言葉に困惑した。しかし、このか弱い懇願にすぐさま首を縦に振った。私は彼女が下ろしてくれた唯一の蜘蛛の糸を、自分から断ち切る真似ができなかった。

 ずっと手に持っていた紙袋から、何日も掛けて選んだプレゼントの、純白のマフラーを彼女の首に巻く。彼女はとても温かい。降り掛かる息もとても温かい。真っ白な息。真っ白な彼女。このマフラーから伝わる鼓動だけで、私は生きていけるんじゃないかな。一ヶ月だけ、でも、一ヶ月も一緒にいられる。あり得なかったはずの二人に、永遠を求める気は更々なかった。私は後悔する訳がない。彼女に許されたこと自体が、神がくれた奇跡だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る