後夜祭

 転校から二週間くらい経った。たった半年にも関わらず、彼女は保健委員という口実で、登校前に家に迎えに来てくれたり、放課後一緒に寄り道をしたりした。最初はまっすぐ家に帰って勉強しようと意気込んだ私だが、町の中でも比較的に賑わった地域に実家があるお陰で、放課後は彼女と海沿いの商店街を回るようになった。

 彼女の家は私の実家の近くにあるという。母子家庭で、母親がパートの仕事をしているため、学校から帰ったところで誰もいないらしい。家の事情を話していたときの彼女はとても寂しそうだった。そんな彼女と一緒に放課後ぶらぶらしているだけでも、彼女の寂しい気持ちを紛らわせることができるかもしれない。私はこうして、彼女と寄り道することを正当化したのだった。

 同時に私は、どうして友達ができて嬉しいのかを考えるようになった。こんな疑問を持つことは初めてだ。なぜなら、そもそも人生に必要なのは人脈であって友達ではない、と割り切っていたからだ。しかし、彼女のような素直で心優しい存在と出会って、私の感情的な部分が揺すぶられたような気がする。私にはその生き方がとても眩しく見えた。それは私には到底できない生き方だ。私が最も軽蔑している生き方であるはずなのに、彼女と「友達」になって初めて、私は胸の中に形容し難い憧れの念を垣間見た。彼女の未来が嵐に襲われた帆船のようなものであっても、彼女は常に明るく、優しく、のんびりで、楽しそうに笑っている。私は、そうして彼女は社会人になった瞬間に落ちぶれてしまうだろう、と意地悪な予測をした。しかし、こんな負け惜しみのような予測をしたところで、彼女の存在は私の心で日に増し大きくなっていくばかりだ。

 そんな思いが募る中、学校はあと一週間で文化祭を迎える。どうやら今回の出し物は縁日で、転校生の私も、簡単な仕事をいくつか割り振られた。放課後、板を切り抜いている私に、彼女から声が掛かった。

「買い出しの仕事が下りてきたけんど、一緒に行かまい?」

 彼女は渡されたメモを私に見せた。おそらく男子による雑な字で、賞品用のお菓子の個数を指定している。それにしても、メモを握る彼女の手は本当に小さい。身長が私より少し低いだけなのに、こんなに変わるものなのか。

「……聞いてるー?」

 ぼうと彼女の手を見ていると、返事をしていないことをすっかりと忘れてしまった。私は慌てて、何度も頷いた。私の反応を見た彼女は、いつもの笑顔になって、文化祭担当の男子に買い出しに行くことを伝えた。


 学校から少し歩くと、港の商店街が視界に入る。絵の具をそのままこぼしたような真っ青な海が太陽の強い光を受けてきらきらと反射し、白い船が何艘か海岸に沿ってゆらゆらしながら泊まっている。私が来たあの日は雨が降っていたからか、全てが陰鬱で荒廃している風に見えたが、意外にも沿岸の方は賑やかで活気があり、商店街から販促の声や笑い声がしきりに響いてくる。

 澄み通った秋空の下、潮風に吹かれてなびく彼女のセミロングの髪。髪が崩れたと言って、鮮やかなオレンジのコンコルドを外したときの、その髪の解放されて風に広がる模様、渺々と何処へも繋がる背中の海と何艘かの小舟と共に、一枚の絵画となるよう。見惚れた私を気にも留めず、真珠色の手すりに指を滑らせながら、ぐるぐる回り出しそうな軽やかなステップで小坂を下りていく。強い風を受けて、目を細めた先に、染み一つない純白のセーラー服を纏った少女が、振り返って私の名を呼ぶ。

 彼女に追いつこうとして、久しぶりに小走りをし出したが、空気を吸い込むと、胸いっぱいに爽やかな風が流れ込んだ。彼女が手を振っている。下り坂から海に飛び込む勢いで、彼女の肩を目掛けて足が大きく動き出した。

「タッチ!」

 と思わず大きな声を出したのは、手が彼女の襟に届いた瞬間だった。

 意外にも、久しぶりに走ったのにも関わらず息は乱れなかった。豊富な空気、というと変かもしれないが、一口吸うだけでもたっぷりと肺を満たすこの感覚を、東京では味わったことがない。肩を並べて歩く彼女の笑顔が、燦爛たる海のように輝いている。ああ、これだ。こんな風に、まだよく知らないはずの人を友達だと思えた原因は、この笑顔なのではないか。他人であるはずの彼女と友達になったことで、私は未だかつて手にしたことのない躍動感に心を任せている。常に理性的であるべき私が、こんな開放感に包まれていいのだろうか。受験のことを思い浮べようとしても、この瞬間の私には一気に現実味がなくなっている。今視界に入っているのは、どこまでも広がる海と、私を連れ歩く港町の白い少女だ。


 ――鈴ヶ浜商店街。

 商店街の入り口に、ポップ体で書かれた古風な看板が立てられている。その横をすり抜け、彼女はスーパーマーケットの扉を引っ張った。

 店内の照明は少し暗かった。冷房もほとんど効いていない。「ミカンの季節が始まります!」という張り紙の側に、扁平なフォルムのミカンが積み上げられている。彼女はそれらを見て、

「おいしそー!」

 と身を乗り出して選別し始めた。その微笑ましい姿を眺めつつも、

「賞品はミカンじゃないよ」

 と彼女に言い、目当てのおやつコーナーに歩いていく。

「だってどれも甘そうだもん!」

 彼女はほっぺたを膨らませた。その仕草がいじらしくて、何だか胸の奥に温かいものがどくどくと注がれるような、妙な気持ちになる。私は彼女から目を逸らした。何だか逸らさなきゃいけない気がした。

「ほら、こっちにスナック菓子がある。チョコ味とか枝豆味とか。どうする?」

「特に指定ないもんで、うちっち決めてもよさそうだに」

「了解。じゃ、何が好き?」

 私は振り向いて、後ろに立っている彼女に目をやる。うーん……と彼女は首を傾げて、考え込んだ。彼女は一度口を開こうとしたが、やめやめ、と呟いて、またもや考え込む。彼女の真顔を見て、そんなに迷うものなのか、と不思議に思った。

「うん、うん。うち全部好き。むしろ来たばっかりだもんで、あなたが決めていいに」

「私が?」

 お菓子が好きそうな彼女に判断を委ねられるとは思わなかったので、声が少し上ずった。

「私は特に好き嫌いがないから、本当、君の好きなものでいいよ」

 彼女はぽかんとした表情で私を見上げた。そして、何かを堪えるように目を固く閉じた後、またバッチリと開けて、クッキーの袋を手に取った。東京では見たことがない包装だった。

「ほんとにうちが決めていいら? じゃあ、これのはちみつ味にする!」

 私はその袋を渡してもらい、買い物かごに入れた。その瞬間、重大な事実に気づいて、不覚にも「あっ!」と高い声を上げてしまった。幸い店内にはほとんど人がいないので、周囲に揃って一瞥されるという恥ずかしい状況にはならなかった。

「あのさ、これ、買ったところで賞品に出されるんだから、私たちが食べることはないんだよね」

「っ! ほんとだ……」

 彼女は息を呑んで、三秒くらい固まった。そして、ひどく落胆した様子で、かごの中の袋をじっと見つめた。悲しませてしまった私は慌てて、

「賞品が残れば食べられるかもしれないよ」

 と可能性を提示したが、彼女は首をゆっくりと横に振った。

「当日はいつも人えらい来るもんで、難しいら」

「そうか……」

 しんみりとクッキーの袋に視線を定める彼女は、どうやら本当にこのフレーバーが好きみたいだ。最初に私が決めていいと言ったのは、私への配慮だろう。そう考えると、何だか申し訳ない気持ちになってきた。同時に、たかがお菓子を見つめているに過ぎないのに、睫が底知れない瞳を覆う彼女のアンニュイな横顔に、心を打たれるところがあった。

 彼女の気づかないうちに、そっとポテトチップスを適当に一個かごに入れた。そして、目立たないようにメモで指定された個数と同じ数のお菓子をかごに放り込んだ。そのままかごを持って、レジに進む。彼女は割り切った風に見せたいのか、いつもの笑顔を私に見せては、

「どれもいいねー」

 と明るいトーンで言う。私はバレるかドキドキした。しかし幸い、彼女は特にお菓子の数を確認しなかった。レジのおばさんがかごの中から袋を次々と取り出す。ついに、はちみつクッキーの番が回ってきた。

「あの、これは別払いでお願いします」

 私は緊張した甲高い声で、おばさんに告げる。となりに立っている彼女は、驚きを越して、信じられないと言わんばかりの表情で私を見た。ドクン、ドクンと、心臓が喉から跳ね上がりそうだ。おばさんは「分かりました」と答え、淡々とバーコードを読み取る。

 ああ、たかが二百円、されどこれ以上に価値があるものはなし。商店街の石階段に座って、クッキーを次々と取り出す彼女の幸せそうな姿をじっくりと見つめながら、そう思わざるを得なかった。サクサクした音が灰色を基調とした商店街で明るく響く。彼女は一切れを取り出して、曇りなき笑顔で私の口の側に寄せた。

「君が食べればいいよ」

 私はまたもや目を逸らした。

「食べたいときにまた来るからさ」

 突然、彼女との距離の取り方が分からなくなってきた。何だか当たり前にとなりに座っていることが変に思えてきて、心の中でそわそわし始めた。私はほんの少し、彼女から身を引いた。それも、彼女が気づかないように会話しながら、そっとだ。

 彼女がクッキーを食べ終わると、私たちは商店街を出た。帰り道の上り坂を共に歩きながら、海と空の間がほんわりと橙色に染まっていくのを眺めた。綺麗だね、と彼女は独り言のように言った。静かで柔らかい声音だった。彼女のつややかな髪も、オレンジの光に照らされて、優しい夕色が掛かっている。それを軽く揺らしながら、一歩一歩と坂を進む姿。目の前でゆっくりと変化していく風景が、瞳に焼き付いて、じんわりと脳裏に染み込んでいく。ああ、この柔らかくも強烈な印象が心に残っている限り、私は、この町、この彼女に対する恍惚の念をいつでも思い出せるだろう。綺麗だね、と私も呟いた。


 文化祭当日は、学校を見違えるほどに快活で賑やかな雰囲気だ。音楽部が用意された舞台で軽やかな背景音楽を奏で、その音の隙間を埋めるように客を呼び込む大声が各所を響き渡る。彼女と一緒に回ることができれば楽しそうなものだが、クラスと委員会の仕事で忙しいみたいなので、そんな期待は叶いそうにもない。少し落ち込んだ気分になった私は、仕方なく図書室で問題集を解くことにした。

 終了を告げるベルが鳴っても、彼女はまだ教室に戻っていなかった。同級生から聞いた話によると、六時まで彼女は仕事漬けだという。縁日の片付けを手伝った後、同級生たちが次から次へと帰っていき、そしてとうとう私しかいなくなった。オレンジ色だった空も、海の青と溶け合わさったような黒みを帯びた紫を経て、いつの間にか深海のような濃紺色に変わり果てた。一時間前はまだはっきりと外の景色を観察できた教室の窓も、室内の明かりに反射して鏡のようになっている。私は自分が少し馬鹿らしくなった。しかし、今すぐ立ち上がって帰りの支度をする気分にもなれなかった。

 そんなとき、クラスのドアがガチャンと開けられて、目の前の窓ガラスから、疲労を一身に纏ったような彼女の姿を読み取った。私は振り返る。いつもの元気がなくなっていることは一目瞭然だが、それでも彼女は柔らかい笑みを口元に浮かべるのを忘れない。

「待っててくれてありがとう」

 彼女は嬉しそうだった。私も、教室に居座っていたかいがあって、先程感じていた馬鹿らしさが瞬く間に一掃された。にっと笑う。

「お疲れ様」

 さっさとカバンを片付けて、二人で校門を出た。木々はもはや炭がごとき黒に染まり、残るは一面の星空。燦々たる星空。私たちの間は、しばらく静寂で満たされていた。しかし突然、彼女はカバンの奥から何かを取り出して、私に渡した。

「ミサンガだに。この間クッキー買ってくれたお礼、まだできてなかったもんで」

 掌に載った小さなそれは、青とピンクで交互に編み込まれたミサンガだった。初めて人からもらって、どうしたらいいか戸惑っていると、彼女はそれを手に取って、私の左手首に結び始める。彼女の体が近づいて、節度なく高鳴る鼓動。私は息を呑んで、ミサンガが彼女の繊細で器用な手によって私の手首に結ばれるのをただじっと見つめた。しっかりと手首に巻き付くと、彼女の温もりがそっと離れていった。代わりに、視線を上げた先に、彼女の不敵な笑みが心臓に直撃する。ああ、脳が痺れるような多幸感とはこの感覚を指すのか。周囲の暗闇が、彼女の整った輪郭をひときわ引き立てる。その既視感と愛らしさに飲み込まれ、私は震えた手でミサンガを握り締めたのです。私はようやく悟った。そしてそれはひどく愚かな現実だった。刹那、どうして友達ができて嬉しいのか、なんていう愚問を捨てざるを得なかった。私のこれは、不幸にもずっとタチが悪いのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る