保健委員
九月一日。教室に入ると、空間を包んでいた喧騒が一瞬にして静まった。担任が濃紺の黒板に私の名前を書いた後、私は簡単な自己紹介と療養の旨を伝えた。
私の話が終わるのと同時に、後ろの窓側に座っている一人の女の子が手を挙げた。彼女が案内係の保健委員だと判断し、その空いたとなり席に移動する。歩く途中、クラス全員の注目を浴びて、少し気まずい感覚だった。
席につき、横に座っている保健委員の少女に挨拶しようとして、顔を上げた。彼女はちょうど小さな手で黒髪を耳に掛けていた。肌の色は健康的で明るく、引き締まった横顔のラインから整った顔立ちが窺える。滑らかなストレートの髪をハーフアップにして、オレンジのコンコルドで無造作に留めている。モデルのような「いわゆる美人」ではないが、その控えめな佇まいが清楚な雰囲気を醸し出していた。
私は驚いた。今までこの町で出会ってきた人間とはどこか違うような、妙な印象を受けた。しかし、同じ制服を着ているからか、彼女は同時に周りとよく調和している。彼女をこの港町の住人たらしめる要素――それが一体何であるか、私には分からなかった。
私は五秒くらい呆然としていたが、やっと挨拶することを思い出して、
「よろしくね」
と声を掛けた。彼女はにこにこした優しい笑顔を私に向けて、名前と、保健委員としてこれから私の世話をすることを伝えてくれた。彼女の声は少し小さいけれど、とても柔らかい。なるほど、これは保健委員になるだろうな、と心の中で思った。
「これからホームルーム活動の時間だに。うちっちは学校見て回らまい?」
そう言って、彼女は立ち上がる。私も続いて、彼女の側に立った。ドアまで歩くと、彼女は一度振り返って教室を見つめたが、今度は髪が邪魔をして、横顔が隠されてしまった。
彼女と古びた廊下をゆっくりと進んでいく。施設を一通り紹介してもらった後、彼女と共にエントランス前のベンチに腰掛けた。ここが東京からそこまで離れていないからか、言葉は大体標準語と似ているが、時々出てくる方言を聞いて、やはり東京ではないことを実感する。
「教室じゃまだ皆文化祭の準備してるもんで、しばらくここで話さまい?」
「私はいいけど、準備を手伝わなくて大丈夫なの?」
「うーん」
彼女は足をバタバタさせながら、灰色の天井を見上げた。
「行かなきゃかもね。でも、一足先に東京の話が聞けるチャンスだら?」
くすっと彼女は笑う。大人しそうな印象に反して、案外遊び心があるみたいだ。
「渋谷とか、交差点すごいんだって! 一回で三千人くらい通るら?」
「そうだったんだ。渋谷は行ったことあるけど、それは知らなかったよ」
「ええっ? ばっか有名な話だに!」
彼女は子どもみたいに目を輝かせながら、質問を次々と繰り出した。スカイツリー展望台からの眺望、隅田川の花火が混雑しすぎて見えないこと……その勢いに圧倒されつつも、私はもごもごと知っていることを話した。
「そうだ、そういえば学校どこ通ってたの?」
心臓がどきりとした。自慢ではないが、元いた学校は偏差値が非常に高い、有名な私立進学校だ。その名前を話して、彼女に嫌な気持ちをさせてしまわないか不安だったが、そんな不安も傲慢だと気づいて、素直に伝えることにした。
「……S学園に行っていたよ」
私は彼女の反応を窺った。軽く流されるか、称賛されるか、それとも嫌味に捉えられてしまうか。私は深く息を吸い込んだ。しかし、私の予想した反応のどれでもなく、彼女はぽかんとした顔だった。
「うーん、知らんなあ。どんなところだか?」
まさか、知らないとは考えもしなかった。彼女の表情から、嘘を感じない。彼女は確かに知らないのだろう。その大きな目をぱちぱちさせて、首を傾げている。
「そこは――うん、こことはそんな変わらない感じだよ」
「部活は? 何入ってたの?」
「えっと。英会話部、っていうところ。成り行きでね」
「……英会話部!」
彼女は大げさに手で口を覆った。ここの学校には英会話部なんて存在しないのだろう。自分は英語の資格を取るのに役立つからという理由で入ったが、そこには部活ならではの青春も熱情もなかった。ただ、検定合格には確かに役に立った。
「英語、話せるの?」
彼女から期待の視線を向けられる。
「少しだけなら。将来、留学に行きたくて」
「留学! え、えらい……」
心なしか、彼女が体を私からほんの少し遠ざけたような気がした。私は慌てて、ただの夢だから、と付け足す。彼女はそれでも、感嘆の声を上げた。
「うちなんか、ここ卒業したらすぐ働きに行かんと……。大学も、うち馬鹿だし、お金も足りん。奨学金取るのも、成績よくないといけんで」
苦笑しながら、当たり前のように「大学に行かない」と発言する彼女の姿が、いかに私に衝撃を与えたか。先程楽しく話していた彼女との間が、無形の壁で瞬時に隔たった気がした。奨学金を取れないのは努力しない人の責任だと考えていたが、目の前で生きている彼女に対しては、なぜか批判する気持ちにはなれなかった。
昼休みになり、叔母が作ってくれた弁当をさっさと胃の腑に流し込んだ後、私は早速問題集とノートを机いっぱいに広げた。元々私に話し掛けたそうにしていた同級生たちも、遠慮して自分たちのグループに戻った模様だ。半年しかいない学校で、貴重な休み時間は友達作りではなく受験勉強に役立てたい。そんな思いで、特定のグループには入らないことに決めた。
しかし、一問目を解こうとした矢先にだ。保健委員の彼女は机を前にしゃがみ込んで、私の顔を覗いてきた。
「皆と一緒に話さまい?」
私は右手で持ち上げたばかりのペンを下ろした。確かに迷惑と言えばそうだが、私をクラスになじませたいという、彼女の純粋な善意を無下にはできないと考えた。そうだね、と私は答えた。残念ながら、問題集はお預けになった。
彼女に腕を引っ張られたまま、女子のグループに連れて行かれた。同級生たちは皆待っていたと言わんばかりに、ぞろぞろと私の周囲に集まってくる。その集まりように焦りを覚えたが、彼らに質問を投げられては驚かれるたび、彼らが決して悪人ではないことを知った。基本的には彼女と同じく、純粋で素朴な人柄だ。
休み時間が終わると、またとなり同士の席に戻った。
「放課後一緒に帰らまい?」
彼女は優しく笑った。いつもにこにことして笑顔を絶やさないんだな、と思った。私が頷くと、彼女は軽く手を叩いて、
「やった! 色々案内するね!」
と弾んだ声で言う。何となくその姿を、かわいい、と感じた。私まで何だか放課後が楽しみになってきて、そんな浮かれた気分でいられる時期じゃない、と心の中で自分を戒めた。
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