港の夕日を追って

K

港の町

 列車の窓ガラスは、透明の雨粒で埋め尽くされていた。忌々しい層積雲に覆われた空の下、雑草と木が乱雑に生い茂っている。それらの隙間から、ねずみ色の海が覗く。

『――鈴ヶ浜、鈴ヶ浜』

 私は紺色のリュックサックに腕を通した。窓の外、先程の眺めから一転して黒の壁が視界を遮った。駅に到着したのだ。

 ガタンゴトン、ガタンゴトン、ギー。耳障りな摩擦音が静まり、立ち上がる。改めて見渡しても、列車の中は空に近いほど人がいない。半分落ちた広告の貼られた扉が、まるで老人が腰を上げるように、重々しく開いた。私も鉛のような足を引きずって、列車を降りた。


 母の故郷だと信じられないくらい、荒れた町だ。リュックサックの中から黒の折りたたみ傘を取り出しながら、改札口の前に広がる荒野を見て、そんな感想を抱かざるを得なかった。母は大学時代に上京し、東京の国立大学を卒業した後、米国の大学院で同じく留学生だった父親と出会ったという。私は日本で生まれ育ったが、米国にいた頃の華やかな思い出話をよく聞かされた。まさか、上京するまでこんな場所で生活していたなんて。

 深くため息をついて、湿った地面に足を踏み出した。ぐちゅっと音がした。そのまま、早足で泥臭い道を突き進む。

 実家は今、叔母に属している。叔母とはそれほど顔を合わせたことがないが、私が喘息の療養のために半年ほど東京から離れる必要があると聞いて、しばらく彼女の家にいることを快諾してくれた。先程からこの町を批判していたが、私はこんなことを言っている立場ではないのだ。

 五分程度歩くと、どんどん周りに建物が現れた。寂れた印象こそ拭えないが、最初の荒野よりは遥かにましだ。更に進むと、住所と合致する一軒家が見えてきた。東京ではあり得ないくらいに大きな建物だ。薄墨色の、ところどころ破けた壁が古めかしさを醸し出す。私はドアの隣にあるインターホンのボタンを思い切り押した。しばらくすると、鉄製のドアがガチャンと音を立てて開いた。

「よく来てくれたね」

 叔母の顔がドアの隙間から覗く。

「よろしくお願いします」

 深くお辞儀をして、私は指示された通り玄関に入った。

 叔母に案内された客室にリュックサックを下ろし、早速渡された着替えを持って浴室に向かった。洗濯カゴの中にTシャツを置き、服を脱ぎ捨ててシャワールームに入る。

 天井から降ってくる爽やかな水玉たちに打たれながら、これからのビジョンを思い描く。今日は八月の後半。九月にここの公立高校に転入し、三月に東京に戻る。それまでの間、自力で参考書と問題集を解いて、元いた進学校に追いつくように努力をしなければならない。私はもう高校二年生だ。そろそろ受験生となるような時期に学校を離れるのは、不幸としか言いようがない。

 私は東京の中でも群を抜いて有名な国立大学の法学部を目指している。そこは母の母校であり、自分が関心を寄せている憲法学の第一人者が集まっている大学だ。何よりもその知名度は、私が世間で評価されるような職業に就くのを保証してくれる。時期が迫ってくるのにつれて、受験生としての自覚がどんどん強まっていく。先行きが見えない将来の社会、人工知能に多くの職業の座を奪われるとも言われている。私は、親が私に掛けてきた教育費を無駄にせず、これからの社会に対応していけるような人材にならなければいけない。そして、社会階層の上に立たなければいけない。そうしなければ、今まで親の力で送ってきた豊かな生活を、維持できなくなってしまうのだから。


 シャワーを浴びて、Tシャツに着替えて、何となくすっきりした気分で浴室を出ていった。叔母は牛乳を入れてくれた後、私に東京での暮らしについて尋ねてきた。

「東京はこの時期でも暑いです」

 私は答えた。

「そして空気が淀んでいます。ここはちゃんと秋の気温になっていますね」

「そうね、さすがに東京みたいな大都会よりも涼しいわね」

 叔母は両袖をめくりながら、天井を見上げて言う。

「上京したばかりのあなたの母さんも、いつも暑い暑い言ってたわ。その後留学行くと、お互い忙しいもんで碌に連絡取れなかったけんど……」

「叔母さんは、ずっとこの町なんですか?」

「ええ。姉さんはこんなちっちゃい世界じゃ満足に息できないような人間だったけんど、自分はここの小ささが居心地いいのね」

 小ささが居心地いい、という表現の意味がよく分からなかった。一生この世界に閉じこもっていたら、人生は無意味なものになってしまうだろうと心の中で考えた。東京は便利なだけじゃない。学問も経済も、そこに集中して、変化している。そこはまさに、優秀な私でいるためには最適な都市だ。

「そうなのですね」

 私は無難な返答をした。しかし、胸の中ではその考えを見下す節があった。私はこの町を出ていくことに決めた母を誇らしく思うし、富裕層に属する両親にも一種のプライドがあった。といっても、私の過ごしてきた生活が決して私の力によるものではないことは、重々承知している。だからこそ、私は努力して学歴を積み上げようとしている。そうではない人々がどうして努力しないのか、なかなか理解できなかった。

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