第2話 亡霊

 三日目にして、ようやく生活環境が整ってきた。パソコンを完備し、お気に入りの漫画を本棚に並べる。近くの日用品ショップで購入した木目の丸い卓袱台が、今後の食事場兼勉強机になりそうだ。


 不必要になったダンボールをたたみ、何重にも折り重なったそれらを紐で結ぶ。十字結びがうまくギュッとできずに悪戦苦闘したが、力に物言わせてなんとかできるようになった。

 これをゴミ置き場に出し、ついでに昼食も買ってこようと思い立った。時間を見ればすでに十一時半を回っていて、腹時計の正確さは侮れないものだと知ることができた。


 ジーンズのポケットに財布を突っ込み、ダンボールの束を脇に抱えて、部屋から出る。ここの周りは木々に囲まれ、空き家や更地の宝庫になっているのだ。

 しかし、三十秒ほど歩を進めると何の変哲もない住宅街が広がり、近くの小さな公園では小さな子供が遊具ではしゃいでいた。東京という日本の中心地であるのにも関わらず緑の利いた街は住み場として最高だ。

 また、田舎とは比べ物にならならないほど電車網が張り巡らされ、どこにいようと若者の街に遊び行けるのはもう驚きでしかなかった。この便利さを利用する他ないだろう。


 平和だな、と僕は思った。そして、昨日の不気味な現象のことに意識が繋がれ思い出された。


 どら焼きを食ったのは自分、それを忘れていただけ。または、無意識のうちに。

 そう解釈もできるだろう。いや、そうとしか思えない。ほかに、どう論理的に説明しろというのか。そもそも、「無意識」というのが論理的なのかも微妙であるし。


 どっかからかネズミが湧いてきたんだろう。そう信じ、考えるのをやめた。一方で、現れるんなら危害がないようにしろ――そう願いうる自分もいた。



     ×   ×   ×



 近くのコンビニでカップ麺やら菓子パンやらを大量に購入し、家に引きこもって作業できる状況を作り上げる。

 近所を散歩だとかそういう行動的な行為はしたくない。まだ知らない場所に足を踏み入れようとする根気がないのだ。アパートから駅に向かう道筋さえ覚えておけばそれでいい。


 詰め詰めにしたコンビニ袋を手に、棲みかへ帰還した。鍵をポケットから出し、ドアの穴に指そうとした。


 そのとき、ちょっとした違和感を感じた。


 それも気のせいだろうと勝手に思い、ドアノブを回す。

 気のせいなんていうものではなく、中から明らかな生活音が入ってきた。自分の家だよなここと『102』の番号を確認し、さすがに警戒しながら玄関で靴を脱いだ。


 進むにつれ、バリバリというものをかじる音が聞こえる。本当にネズミが来たのか? それにしてはやけにうるさい。


 そして、絶対に自分の卓袱台であるその傍らに、人間のような生き物がいた。うつぶせの状態で、漫画にいそしみながら片手でポテトチップスを口に放りこんでいる。


 こちらから声を発する前に、向こうが僕の存在に気付いた。女だった。まだ若い。赤と白のボーダーシャツに、ジーンズという服装。髪は肩よりも短く、愛嬌がありそうな顔だ。


 一瞬だけ目が合ったあと、彼女は微笑みながら「よおっ」と手を挙げて挨拶した。



「誰だ」


「ちょっとさあ」

 

彼女がいきなり不満顔になった。「なんでポテチがコンソメ味なのよ」


「ダメか?」


「普通のり塩でしょ?」


「いや、コンソメ味こそ僕の趣向にピッタリな味である」


「いやいやいや、のり塩が一番おいしいに決まってんじゃん今後はコンソメ禁止ね」


「勝手に決められてもねえ……」僕は重いコンビニ袋を床に降ろした。「で、君はどこの誰」


「亡霊」



「ボーレイ? 幽霊じゃなくて?」


「まあ、どっちでもいいけどね」


「七年前に自殺したっていう女子大生?」


「その通り。存じてくれていて光栄」


 本当か? 僕は疑う。普通、亡霊とか幽霊ていうものは空とかに浮遊しているか墓に埋葬されて眠っているのどちらではないのか。

それに比べちゃあ、この幽霊は妙に人間くさい。ていうか、大事な漫画をコンソメで汚すんじゃねえ。


 疑いが晴れないので、「ちょっと失礼」と彼女の肩に手を乗せた。貫通するわけでもなく、硬さや温かさがある。


「……普通の人間では?」


「こういう幽霊もいるってことなの」


「どこかのニートが金と食料を強奪するために闖入ちんにゅうしてきたってことなのかな」


「それも違う」


 ふうん。こういうタイプの人とは、とても関わるのが大変そうだ。ならば、無視しておこう。放っておけば墓地にでも帰るだろう。

 そう判断し、僕は彼女の反対側でパソコンを起動させた。


「なに、ここに幽霊がいるっていうのに君は怖くないの?」

 

 彼女が漫画から顔を上げ、ニヤついた顔でこちらに向いてくる。


「僕はそういういの信じないし、興味がないし、そもそも君が幽霊だという百パーセントな根拠はどこにもない」


「ふうん。ま、いずれわかることだけどね」


「で、君の名前は何ていうの」


「知らない」


「知らない?」思わず訊き返していた。


「うん。両親や友達の顔も自分がどこでどうやって生きていたのかも。覚えているのは、ここのアパートで自殺したってことぐらい」


「ああ……そう」自称幽霊と話をしたことがないので、どういう反応をすればいいのだろうか。


「アキでいいよ」


「はい?」

「あたしの名前、この漫画のヒロイン」彼女はこちらから目にうつるように漫画を持ち上げた。


「その漫画は僕が持っているコレクションの中でも純粋な類いのものだから、君はいいのを引き当てたよ。」


「そうだろうね。だって、この漫画の主人公に似てるもん」


「誰が?」


「君」


僕はその主人公と自分の顔面を頭の中で見比べた。


「似てないんじゃないの?」


「どっちも丸顔じゃん」


「それはそうだが、僕は眼鏡をかけていない」

彼女はじっと僕の顔を観察した「絶対眼鏡かけたほうがいいって。そのほうが断然いい」


「かけるほど視力は悪くない」


「伊達眼鏡でもいいじゃん」


「いずれね」


「絶対だよ絶対」


はいはい、と適当に返事をして僕はパソコンを操作する。突如の居候が出現したのにも関わらず、淡々と話ができるのは幽霊とも思えない彼女の行動からだろう。


「ちょっと質問していい?」僕から話を促した。


「どうぞー」


「幽霊なのに食べ物飲み物を摂取しなきゃいけないの?」


「そうだよ。ポテチおいしい」


散々コンソメに難癖つけてきたくせに、結局、味は関係ないんだろ。


「僕がここに来る前は?」


「いろんな家に入っては冷蔵庫から盗んでたべていました」


「罪の告白かい?」


「じゃないと死んじゃうもん。侵入には苦労しないし、家中漁れるからやりたい放題」


「よくそれで住人にバレなかったね」


彼女はあっけからんとした表情で口を開いた。


「だって、あたしのこと見えるのは君だけだもん」


「えっ」さすがに驚いた。「僕に霊感はないはずだよ」


「ふーん」


それきり会話は止まってしまった。妙なわだかまりが胸に残ったままだが、あまりそれを気にしてもどうにかなるわけじゃない。


こうして、部屋に住みついた幽霊との同居生活が始まったのである。
























































































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