どこかへ消えれば香りも冷める

蓮見 悠都

第1話 引っ越し

「では、お探しの物件はほんっとうにこちらでよろしいのでしょうか?」


 不動産のオヤジが「本当に」を強調して僕に確認する。顔が疑念とも困惑ともいえる曖昧な表情だ。


「ええ、もちろん」


「あの、言っておきますけどね、何かトラブ

ルのようなものが起こっても我々は対応しかねますので……」


「ああ、特に心配なさらずに」


 保険をかけたオヤジの言い方に多少イラッときたものの、一応大人の態度を見せた。

 外見からして、確かにこのアパートは事故物件として世から隔離されていることは分かる気がする。都会の一角、閑散な路地裏に立地があるこのアパート。


 静かで暮らしやすい。僕はそう雰囲気を感じるこの部屋を気に入った。外から漏れるのは木々の揺らぎだけで、あとは自分の生活音だけのものであろう。訊けば、二階建て全部で八つの部屋があるのだが、今の住民は僕、ただ一人である。

 賃貸激安。1DKという好条件なのにも関わらず、なぜ住人が一人もいないのか。


 以前、ここの201号室でリストカットをした女性がいたそうだ。




「自殺ですか?」


 僕は訊いた。怖いもの見たさではなく、単純な雑談としてである。


「そうですよ。もう七年前以上になるのかな。女子大生が自殺ってことでもう大騒ぎ」


「自殺の原因は」


 オヤジはかぶりを振った。「分かりません。遺書のようなものはあったと訊いたけど、警察は見せてくれなかったから」


 そりゃそうだろう。ただの民間人にホイホイ漏洩ろうえいするような警察はたまったもんじゃない。


「で、その時には五つ六つぐらい部屋が埋まってたんだけど、怖くて全員引っ越しちゃったんですよね。聞いた話では、201号室のほうから物音がするとか、女性の声が毎晩聞こえるとか、そういう心霊現象みたいなものもあったらしいんですよ。

 だからもう、借り手が付かなくて当たり前の物件だと思ってたんですけど――」


 んで、幽霊やオカルトにまったく信じず物怖じせずの僕が舞い込んできたと。だから奇異な目で見られるのか。


津原つはらくんは、長野県出身なんだよね?」


「はい」


「高校はこっちにしたんだ?」


「まあ、東京生活に憧れていましたし。ここからだと附属高校と大学にどちらも行ける距離なのでいいかなと」


 憧れ、という言葉を使ったがそれが本心かどうかは分からない。つまらない地元よりかは新鮮な東京を選びたかったのも、若気の至りであろうか。


「ま、何か不便があったら相談してくださいね。若い人を怪我させるわけにはいかんから」


 ハッハッハッ、とオヤジに肩を叩かれて、僕も苦笑いを返した。「怪我」って冗談ですか――? というビビリな質問はするわけにはいかない。



     ×   ×   ×



 晴れて102号室に城を構え、悠々自適な生活を送れるかなとは思っていたがそうは問屋が卸さずに、引っ越しの荷物やらをダンボールから出しに出し、必要な生活用品を買いに行かなければならなかった。

 中学で運動部に入っていたもののそう体力に自信があるわけでもなく、毎日夕暮れを見る頃にはヘナヘナになる始末だった。

 今になって上京時の自分を恨む。無駄な洋服を詰め込みすぎだ。現地で買えばいいものを。せいぜい数枚のお気に入りのものだけを持っていくだけで十分だったじゃないか。足りなくなったら、実家から親に送ってもらえばいい。

 おまけに家のWi-Fi環境も最悪だ。現代の学生にとってネットを使えないということは、死ねと告げられるのと同じようなものなのだ。


 そういう不満が多々ありつつも、静かな雰囲気で朝昼晩を過ごせるのはとてつもなく快適である。回復不可能だと諦めていた畳や壁の汚れも、掃除をして白さが戻ってきた。今のところ幽霊やらの非現実的な現象も感じていない。


 なあんだ楽勝じゃん、と沸騰したサーバーを見つめる。アルミ製で注ぎ口が細いのが特徴。コーヒーを淹れるのに不可欠な道具だ。

 コーヒーの水温は90度が目安。数秒間だけ間を空け、ならした粉コーヒーの山にゆっくりと注いだ。まずは少しだけお湯を加え、三十秒間の蒸らしタイム。後は二、三回に分けて適切な量のお湯を注いでいく。

 お湯が少なすぎると濃すぎ、多すぎると水っぽくなりすぎ。微妙な配分を見分けるのは知識と経験の両方が必要だ。

 はかりで慎重に計測したタイミングでドリップ、つまり抽出作業をやめる。そして、試飲。ブラックこそが豆本来の味を楽しめる。ミルクや砂糖を入れるのは、脳に糖分がほしいときだけだ。

 一口液体を含み、そうだ甘いものと合わせよう。と、後ろを振り向いて小さい冷蔵庫を開いた。たしか、どら焼きがあったはず。六個詰めのお得セットを、今日初めて

入店したスーパーで発見した。


 そこで、僕は違和感を感じた。


 どら焼きの袋が開けられ、五個入っているはずのもが四個になっていた。


 一瞬だけゾクッとしたが、「気のせいだ

ろ」と言って気を紛らわせた。 元々幽霊に興味関心がないのは、ここに住んでいる僕にとってとても都合が良かったことであったのだ。


 どら焼きにかじりながら飲んだコーヒーが減っているのに気付かぬまま。

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