どこからでも切れないハナシ

あさぎり椋

ソースの香りの女の子?

 メンチカツだ。俺はアパートの自室で一人、準備万端に満足し「ウム」と頷いた。

 スーパーの売れ残りから救出された二十円引きの惣菜メンチカツが、今まさに食卓に並んでいる。

 炊きたての白米、インスタントの味噌汁、カットサラダ一皿分、作ってから時間経過してサクサクしていたあの頃を忘れてしまったであろう妙に平べったいメンチカツ。一人暮らしの男子学生の夕食なんざテキトーなもんだ。

 仕上げに取り掛かろう。中濃ソースで満たされた小袋を両の指でつまむ。片側面には『こちら側のどこからでも切れます』の表記。


 ――いただきます。

 

 食に感謝し、小袋へ切れ目を入れる。


「……」


 切れない。ちょっぴり切れ込みが入ったが、届かない。こちら側のどこからでも切れますって書いてるのに、切れない。

 まあ、こんなこともあるさ。世の中に絶対なんてことは絶対に無い。気を取り直して、少し下の部分をつまむ。同じようにちょっぴり力を込め――


「……くっ」


 切れない。たまらず背筋に悪寒が走った。マイナス二十度の巨大冷凍庫に取り残されカギをかけられたような絶望感。失態だ。一度ならまだしも、二度は許されない失態だ。

 これではメンチカツを美味しく頂けない。こんだけしなびた値引き惣菜に美味いもクソもあるかと言われればそりゃそうだ。だが、つつましい食事事情を少しでも向上させんとする涙ぐましい努力まで否定されるいわれも無い。

 要するに、意地だ。

 

 ピリッ。


「むぅ……」


 開かない。


 ピリッ


「……なぜ」


 開かない。


 ピ


「南無三ッ!」


 正しい意味での壁ドン不可避な大声を上げ、切れ目が入りまくった小袋をゴミ箱にダンクシュート――する寸前で思い直し、座卓の上に置いた。いかに腹立たしいとはいえ、まだ使えるものを捨ててたまるか。

 あぁ、昔から知ってたさ。手先が不器用で図画工作の時間は大ッ嫌いだった。美術のテストは赤点の瀬戸際を教師のお情けで切り抜けた。口も達者ではないから何度もあらぬ誤解を招いた。幼少のみぎり、宝物の石ころを無言で差し出して好きな子に引かれたこともある。自分はそういう星の下に生まれてしまったのだ。


 たかがソースの袋程度で、と人は思うだろう。でもな、塵も積もれば何とやらってハナシよ。こういうの何度も繰り返してたら自分がほんとイヤになるんだ、まじで。体験してきた人にしか分からないんすよ、こればっかりは。

 食欲が急に失せ果て、大の字に寝転がる。白米が固くなろうが、味噌汁が冷めようが、もうどうでも良くなった。

 なーにが『こちら側のどこからでも切れます』だ。マヨも、ケチャップも、納豆のタレも、この類は一度で開けられた試しが無い。ちくしょう、俺は本当に何をやってもダメなヤツだ。

 と、うんざりしていると――味噌汁から漂う湯気の向こうに、何かがいた。


「えっ!?」


 ガバッと起き上がり、思わず目を疑う。

 見間違いでなければ、背の低いテーブルを挟んだ向こう側に、一人の少女が立っているのだ。


「食べないの? メンチカツ、美味しいよ?」

「……」


 彼女はきょとんと小首をかしげて微笑み、おそらく俺に問いかけている。

 呆気にとられ、何も言い出せない。不法侵入。泥棒。変質者。幽霊。部屋を間違えた。あらゆる可能性が脳内をめぐり、しかし言葉にならない。

 そうしてしばらくの沈黙があり、しびれを切らしたように、彼女はゴホンと咳払い。


「それでは不肖の身より自己紹介を。わたくし時は明治にして神戸工場こうばの窯に滴り、姓は中濃、名はソース。人呼んで鴨目かもめの小袋ソースと発します。どうぞお見知りおきを、お頼み申しますっ」


 ふっ、キマった――とばかりのドヤ顔。

 それをスルーして眺めてみると、真っ茶色に染め抜いた着物に、渋いグリーンの袴姿だ。顔に見覚えはない。立ち姿にあまりにも迫力が無いものだから、警察に通報する気にさえならなかった。腹も減ってる今の俺に、気力なんて大層なものを期待しないでほしい。


「……食いたきゃ食っていいよ」

「食べないよ! わたしは食べさせてあげる側だからね」

「あーん、でもしてくれるのか」

「絶対やだ。まったくもう、わたしはね――あなたが手にしたソースの小袋の化身さんなんだから」


 日ノ本には八百万やおよろずの神がおわします、と昔の偉い人は言った。ソースの小袋にだって、神だか妖精だかが宿っていても不思議ではあるまい。それが今こうして、和服姿の女の子に擬人化して俺の目の前に現れたと。

 そりゃ明治産まれなら和服だろうな――いやいや、ソースの発祥は明治だとしてもこの子の製造はつい最近じゃないの? どうでもいいが。

 見たところ、高く見積もっても小学高学年くらいのミニマムサイズ。ぶっちゃけ七五三にしか見えん。


「で、何しに来たの」

「何って、あなた今ソースの袋ぽいって捨てかけたじゃないの。このおたんこなす。新鮮な野菜の恵みがたっぷり詰まったエキスに、なんて仕打ちなの」

「開かないもんはどうしようもないだろ。俺の不器用なめんな」

「まぁ、結局捨てなかったから許してあげます」


 罪悪感が無いと言えば嘘になる。調味料とて食い物だ、それを粗末にしかけたという事実は拭えない。袋の中身には何の問題も無いのだから、ハサミで切って使ったっていい。

 だが正直、あれだけ切ろうとして失敗した跡だらけのソースの小袋を見たくもない。まるで、俺の惨めさを再確認するようで。


「安心なさい、この悲観主義者ペシミストのどてかぼちゃよ。わたしはね、そんなあなたにチャンスをあげに来たんだよ」

「え?」


 機会チャンスということは、俺はこれから何かを得るのか。

 彼女は俺のそばまで歩いてくると、ズイと自身の体を誇示して見せた。両手を広げてこちらに向ける様は、どこぞの寿司屋の社長を彷彿とさせる。


「ソースの妖精ってやつは、みんな君みたいなちんちくりんなのか」

「誰がちんちくりんじゃい、この腐れじゃがいも。小袋だからよ。ほら、ハサミハサミ」

「は?」


 彼女は近くに置いてあったハサミを示してから、チョキの手で自分の体を斬り刻むような仕草を見せた。

 珍妙極まる事態に、いよいよ脳が追いつかない。この子は何をさせたい。健全なる男子たる者、さすがに婦女子の服を斬り刻むような趣味は持っていない――が、そんな考えは見透かされていた。


「服じゃないよ。さぁさぁ、わたしの身体を思う存分、切り刻んでくれて構わないからね!」

「……リストカットの強化版か?」

「わたしはソースの小袋の化身! この体に流れる体液それすなわち全てが香り豊かな中濃ソースッ! さぁ、メンチカツが腐ってカビ生える前に、わたしという名のソースを心ゆくまで堪能なさいっ!」


 堪能なさい。なさい。さい――

 ……思わず別の世界にトリップするところだった。

 勢いに飲まれるまま、おそるおそるハサミを手にする。たしかに俺は、『どこからでも切れます』を切れなかった。ソースの妖精様なら、血の代わりにソースが流れていても驚かない。とはいえ、普通に喋ってる人の形をしたものを斬り刻むのには、さすがに抵抗が……。

 なんて躊躇していると、ソース娘はおもむろにハサミを奪って――先っちょを、自分の手のひらにブスリと突き立てた。


「お前っ! ……うっ!?」


 ――茶色い。

 本来ならトマトのように赤く鮮やかに流れ出るモノが、ほんのり粘性のある茶色い液体に代わっている。それそのものだけ見れば、まず間違いなくソースだと思うだろう。


「見ての通りよ。言っておくけど、あなたが普段クチにしてる普通のソースの百倍おいしいからね。ほれ、味わいたまへ」

「……これはぁ!」


 意を決して口にした瞬間、驚愕した。

 香りは芳しく、しょっぱい中にほのかな甘味と酸味が融和するトロリとした舌触り。メンチにかけても、焼きそばに絡めても、目玉焼きを味付けてもきっと絶妙に合うに違いあるまい。たったの一口でこの旨味!

 しかし、やはり刃物を平然と突き刺す様はショッキングな光景だ。


「それ、痛くないのか?」

「ぜーんぜん。このように全身のどこからでも切れまーす。いくらぶきっちょさんでも、これなら的は外さないでしょ? わたしはね、ぶきっちょなあなたにソースのかかった美味し~いメンチカツを味わってほしいの」

「ソースだから?」

「そうっす」


 ぶちころがすぞ、と言いかけるのをグッとこらえる。

 調味料は食べることを補助するのが役目。それが彼女の存在意義なんだろう。ならば彼女の本懐を遂げてやらないことは、失礼に当たるのではないか。

 だからといって、これは……あまりにも、耐えがたい。


「へ? な、なに?」


 しばし逡巡の後、俺は彼女の手を自分の両手で握った。いくら人外とは言え、その手のひらはあまりにも痛々しい。握り、包み、快癒を祈らずにいられないほどには。

 触れ合うことで暖かさが伝わってきた。そこはどうやら人間と同じらしい。細枝のような――この娘なら、ネギのように細いとでも形容するだろうか。それこそどこからでも簡単に切れて、たやすく折れてしまいそうな、華奢な細腕。少女のそれに刃を向けて良いなどと、父も母も俺に教えはしなかった。

 わずかに朱の差した少女の顔と目が合う。体液は茶色で頬は朱色とはこれいかに。考えて、少しおかしくなった。


「言葉が交わせて、意思疎通ができて、触れ合えて、笑顔が向け合える。そんな相手に流血を望むなど、俺には考えられない」

「いや、だから、ソースだってば……すぐ治るし……」

「俺にはこうすることしかできない」


 手を握って何になる、と思わなかったわけではない。冷えた手を握るのとはワケが違う。

 それでも人と人(?)が触れ合うことは、ムダではないはずだ。俺は一人の食卓の寂しさを知っている。一人で傷を抱えることもまた寂しい。

 そう思ってしまえば、彼女の傷ついた手を包まずにはいられなかった。


「えぇと……じゃあ、あの。ソース、いらない?」

「君の身体を斬り刻むのは忍びない。メンチは塩でも醤油でもそのままでも食べられる」


 最初は確かに驚いた。だが、わざわざこうして出向いてもらえただけでも、彼女の気持ちは十分に伝わった。売れ残った値引き惣菜で空腹を満たす時間より、この束の間の出会いが今は嬉しく思える。

 ふと気がつくと、ハサミを刺した跡が綺麗さっぱり消えている。やはり人間ではないのだと思うと同時に、痛々しい様が元に戻ったことに安堵する。


「んー。でも困ったな。これじゃわたし、何のために出てきたか分からないよ」

「すまん。申し訳ないけど、元に戻ってくれるとありがたい。そうすれば、小袋なら刃を入れることには躊躇しない」

「……あなた、ちょっと優しすぎるんじゃないの?」


 不意な言葉に胸を打たれる。かもしれん、と同意する心当たりは多々あった。つい何かを過剰に慮るあまり、損な役回りをさせられるのだって、きっと不器用さゆえだ。分かっていても、どうしても自分を曲げられない。

 出会って五分の彼女に、そこまで見抜かれてしまったか。


「さっきもさ、ソースの袋を捨てないでくれたでしょ。腹立って、そのままゴミ箱にクシャポイするところだったのに」

「作った人間や使われた素材、手間を考えれば、あまりにもったいない。そう思う、俺の理性が勝ったまで」

「なんかお侍さんみたい。……ありがとうね。お食事の邪魔してごめん。ソース、味わってくれると嬉しいな」


 えへへ、と彼女は照れくさそうに笑った。女に告白するたび、言葉足らずで勘気をこうむってきた俺のハートを射抜く、あまりにもまばゆい笑顔だった。瞬間、彼女がソースの精であったことなど忘れてしまいそうになる。

 こう言われては、塩や醤油なぞに浮気はできない。どこかへ帰ろうとする様子の彼女を前にして、俺の中に思わず、思いの丈が溢れ出てきた。


「なぁ、君」

「え?」

「好きだ」

「ハァ!?」


 素っ頓狂な声を上げる彼女の手を、再び握りしめる。やはり暖かく、心地良い人肌の温もりを感じる。ソースは冷たいものだという先入観など、実にくだらない。


「今度は何!? わたし今……いや、あの、わたしソースの化身なんですけど、わかってる!?」

「愛にそんな物は関係無い。俺は一度思ったら、口に出さずにはいられないタチだ。消える前に、伝えておきたかった」

「あうぅ……じゃ、じゃあ、大学出たら、食品会社に就職でもしたらいいんじゃないかな……」


 なるほど、その手があった。これも何かの縁だ。彼女のような存在を世に送り出す側に立つことも、また献身の形の一つではないか。

 きっと、今後味わうソースの味は忘れられないものになるだろう。


「……あと、ね?」

「ん?」


 彼女は俺から少し距離を取り、もじもじといじらしい態度を取り始めた。何か、非常に言い出しづらそうだ。

 まさかあのソース、賞味期限が切れてたのか? いくら切れるといっても、さすがにそれはゴメンだ。

 などと考えていると、彼女は――


「わたし……人間で言うところの、なんだよねぇ」


 ………………。

 ………………………………マジで?


「わたしってば、ソースだからね。色々入ってるけど、主成分はお酢なの」

「まさか、♂ということかッ!? ダジャレだってのかッ!」

「違うよ! お酢は男性名詞! だからこうして顕現する時は男の子として出てくるものなの!」


 納得……できてたまるか〜!


「その格好と一人称は!?」

「明治感あるかなぁって……」

「うそだぁぁぁぁっ!?」

「それに!」


 なんだ。まだ何かあるのか? もう勘弁してくれないか!


「ほら、言うでしょ? ――『ソースの味って男のコだよな』って」

「そんなオチかよぉぉっ!」


 こうして女にフラれ続けて幾星霜、ついに俺は小袋ソースの擬人化たる人外の男の娘にさえフラれてしまったのだった――




 ――ふと気がつくと、俺の目の前にはすっかり冷めきった夕食が並んでいた。傍らには、切れ目の入りまくった『どこからでも切れます』な小袋ソース。今までの光景が、まどろみの中で見た夢だったのだと理解するのに、そう時間はかからなかった。

 もう一度指をかけると、拍子抜けするほどカンタンに袋は空いた。

 ソースをかけて、メンチカツを食べる。


「……美味いなぁ」


 空腹に、ソースの味が染み渡る。

 あれはいったい何だったんだろう。深く考えたら負けな気がしてきた。ただ明日は買い物に行って、このソースのボトルをきちんと買ってこようと、そんな気分になっていた。

 不思議な気分だ。俺の何回目かも分からない恋は、こうして夢の中で終わったのでした。

 ちゃんちゃん。

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