廃嫡令嬢マリアステラの悪辣なる推理
黄鱗きいろ
絵画はいかにして人を食ったのか
第1話 悪辣なるマリアステラ
絵が人を食った。そんなありえない事件が起こったのは、自らも所属するスコットランド・ヤードの所轄内だった。
「ゴルドアド家に残された血痕が――」
「死体はいまだ上がっておらず――」
「現場に残された絵が――」
「目撃者も――」
捜査は手づまり。足で稼ごうにもそろそろ無理がある。
顔を突き合わせて考え込む先輩方を上から覗き込み、苛立った顔で睨み返されては首をすくめて縮こまった。
スコットランド・ヤードのSCO1――殺人・重大犯罪対策指令部に配属されて三ヶ月。この状況でまだまだヒヨッコの自分にできることは少ない。できるのはせいぜい頭をひねる先輩方の邪魔にならないように小さくなっていることぐらいだ。
「グッドマン巡査部長」
「は、はいぃ!」
突然、輪の中にいた上司、SCO1部長トーマス・ウェンストンに声をかけられ、思わず変な声を上げて飛び上がってしまう。
その場の全員の視線が一気に自分に集まってくる。顔から一気に血が引き、背中に冷や汗がダラダラと流れ出す。
このパターンは知っている。例のあれだ。なんで自分が。本当に勘弁してほしい。誰か他の人がやってくれればいいのに。
「彼女のところに行ってこい」
いやだ。絶っ対にいやだ。
抗議の意を込めてウェンストン部長を見るも、部長は冷徹な表情を崩さない。
「で、でも」
「でもじゃない」
「しかし」
「しかしでもない」
「ですが!」
「……グッドマン巡査部長」
もうほとんど泣きそうな気分になっている自分に、部長は低い位置から恐ろしい顔を向けてきた。
「彼女の、ところに、行ってこい!」
「ひゃい……行ってきますぅ……」
図体のわりに泣き虫だと幼いころから揶揄われてきたというのに、まだ治っていないらしい。
一時間後、自分は、鼻を小さくすすりながら、メンヴィル家の門の前に立っていた。一応電話でアポは取ったので中に入れてはもらえるはずだ。
呼び鈴を鳴らすべきか、迎えが来るのを待つべきか迷ってさらに約五分。門の向こうから少し小太りの使用人が体を揺らしながらやってくるのが見えた。
「ああ、刑事さん。いらしていたなら仰ってくださればいいものを」
まったくもってその通りだ。面目ない。
「ささ、中にお入りくださいな。お嬢様もお待ちですよ」
案内されるままに低い門をくぐり、邸内へと入っていく。入ってすぐの
毎回思うのだが、この家の持ち主は彼女を甘やかしすぎてはいないだろうか。いくら彼女が特殊な出だからといって、ここまでの邸宅を渡して、メイドたちへの給金も払っているというのだから相当なものだ。
広間を通り過ぎ、左の廊下を進んでいくと庭に出る。白く掃き清められたタイル張りの廊下を歩きながら、使用人は『彼女』へと声をかけた。
「お嬢様。刑事さんをお連れしましたよ」
緑と白の境界線。
深緑に包まれた庭と、白色の屋敷のその境目に、少女の座るティーテーブルはあった。
自分はそこへと歩み寄り、少女の二歩前で足を止めた。許しなく、これ以上近づいたり、こちらから話しかけようものなら癇癪を起こされるのだ。
立ち止まったまま時間が流れること十数秒。自分は彼女の造作を無意識のうちに観察してしまっていた。
最初に会った時は、光が差し込む水底の瞳をしていると思ったものだ。ぱちりと大きな少女の瞳はしかし私を映しておらず、大きな池を有するこのメンヴィル家の庭園のほうへと向けられている。
鼻先はつんと高く、唇はつややか。今はすまし顔のあの唇は、時に恐ろしく、時に嗜虐の笑みにゆがむのだから手に負えない。
彼女に痛めつけられた過去の記憶を思い出して渋い顔になっていると、こちらに目を向けないまま彼女は口を開いた。
「あなたは絵画を見たことがあるかしら」
また始まった。
少女の瞳と同じ色をした池にちらりと目をやる。水面にはスイレンの葉が浮かび、つぼみもぽつりぽつりと立っている。
そうだ、この色をした絵画は目にしたことがある。新聞の一面か――もしかしたら教科書で見たのかも。
「見たことがある、とあなたは答えるでしょうね。自分だってそれぐらいの経験はあるって。それだからあなたは駄目なのよ」
「うぐっ」
胃を直接刺されたかのような痛みが走り、自分は腹を押さえて彼女のほうへと目を戻す。
「絵画を見るってどういうことなのかしらね。色彩を視覚でとらえること? 表面を目でなぞること? 知識を持って絵の全体を見ること? それとも値段かしら?」
つらつらと並べ立てられる疑問に、決して頭がいい方ではないと自負している自分は、まるで謎の呪文を聞いて混乱しているような心地になってしまっていた。
ふと、彼女は苛立たしそうに目を細めた。
「でも、きっとそのすべてが正解ですべてが間違いなのよね。絵画というものは誰かにささげられたものであるかもしれないし、自分のために書いたものであるかもしれないし、お金のためのものかもしれないし、だけどそれはもうそこにある物体でしかなくて――そう、ただの物体なのよ。そこにあるのは色のついた布。それだけなの。それだけだっていうのに、人は絵画を見て、何かを得た気になって帰っていく。そういうことなのよ」
少女は一度ゆっくりとまばたきをし――そこで初めてそのまなこは自分へと向けられる。
「それで……何の話だったかしら、トニー・グッドマン刑事?」
氷のような微笑みを身に受けて、自分は帰りたい気分でいっぱいになる。できるならば帰りたい。こんな恐ろしい人間の前に立っていたくなんかない。
だけど、仕事で来ている以上、いくらこの少女が恐ろしくても、自分はその言葉を言わなければならないのだ。
自分は無意識のうちにぐっと引き絞っていた唇をなんとか緩め、やっとのことで言葉を吐きだした。
「事件です、マリアステラ嬢」
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