第2話 人喰い絵画に嫌味を添えて

 廃嫡公女。赤毛の悪魔。悪辣なるマリアステラ。それが彼女の異名だ。

 その名に恥じずというかなんというか、彼女の悪名はヤード中に響き渡っており、上流階級の方々も特殊な生い立ちである彼女に無闇には関わろうとしない。

 されど彼女はとある理由によってスコットランド・ヤードに重宝されている。されている、のだが――



「ふぅん」

 決死の思いで吐き出した自分への返答はそれだけだった。どうやら今日の彼女には事件に対する興味がないみたいだ。

 だけどここで退くわけにはいかない。なぜならこれは仕事で、ここで帰ってしまえば部長に死ぬほどどやされるのだから仕方がない。

 あの人怒ると怖いんだよなあ。怒らなくても怖いけど。

 いずれにしてもこれから自分に降りかかるであろう災難に大きく体を震わせた後、自分はおそるおそる言葉を発した。

「マリアステラ嬢、人食い絵画という話をお聞きになったことは」

「ないわね。一から説明して頂戴」

 そう言いながら彼女はスカートだというのに足を組む。はしたないと嗜める者はいない。なぜならここは彼女の城だからだ。

「ほら早く。お前は頭だけじゃなくて口まで愚鈍なの?」

「ひぃ、すみません……」

 手のひらを壁にして一歩後ずさる。彼女はそんな自分を見てにまにまと笑い始めた。真っ赤な唇がぐーっと横に広がり、翡翠色の目は細められる。

「お前は本当に愚鈍な人間ね。いいえ、人間なんて身分はお前にはふさわしくないわ。お前は図体がでかいだけの犬よ、犬! 犬なら人間様の言葉をしゃべれなくても仕方がないわね。わたくしったらなんて無茶なことを言ったのかしら。あーおっかしい!」

「わ、わかりましたっ、わかりましたからっ、話しますからやめてくださいぃ……」

 ほとんど頭を抱えてしゃがみこんでしまいそうになりながら、自分は彼女に懇願する。そう、懇願だ。彼女が一番喜ぶ反応を自分はしてしまったのだ。

「そんなことを言われるとやめたくなくなるわね」

「ひ、ひぇぇ……」

 完全に嗜虐のスイッチが入ってしまった彼女に、逃げ出したいのを必死にこらえながらも数歩後ずさる。ちらりと見た背後の扉には小太りのメイドが控えていて、簡単には逃がしてもらえそうにない。

「そもそもね、この駄犬刑事。あなたたちヤードは私に頼ることに何の疑問も抱かないのかしら。こんないたいけな、未成年の、美少女に。プライドってものがあなたたちにはないの?」

 自分で美少女って言っちゃったよこの子。

 そんな内心の思いを悟られたのか、彼女は一気に不機嫌そうな顔になって、持っていたティーカップを乱暴にソーサーに叩きつけた。

「何。何か文句でもあるの!?」

「イ、イエ、ナンデモ……」

 目をそらして彼女の追及から逃れようとする。しかし当然彼女が許してくれるわけもない。

「そうよ、私は美少女よ。世界でも一、二を争う美少女ですとも。そうよね、あなたもそう思うわよね? 私にかしづいて靴先にキスをしたいって思うわよね?」

「うぅ……」

 うまく答えられないでいる自分に、彼女はますます機嫌を悪くしたらしく、顔をしかめて目を細めた。

「こんな美少女が目の前にいるっていうのにあなたは敬服も興奮もしないっていうの? もしかして不能?」

 レディがそんなあけすけな言葉を使うんじゃありません。

「うるさいわね、私が何言おうと私の勝手でしょう!?」

「え、自分は何も……」

「顔がうるさいのよ、顔が!」

 その剣幕に一歩後ずさり、だけど背後をメイドに固められていることを思い出して、どうすることもできずにあわあわとすることしかできなかった。

「どうしたの? そんなに帰りたそうな顔をして。帰ってもいいのよ? 与えられたお仕事を投げ捨ててすごすごと帰るあなたはそれはそれは面白いことでしょうね」

「うう、あう、あう……」

 もはや意味不明な言葉を発してうなることしかできない。ただでさえよくない頭がさらに混乱してしまい、もう一歩後ずさった拍子にバランスを崩して自分は尻餅をついてしまった。

「うわっ、いでっ……」

「あらまあ大丈夫? そんな風に地面とお友達になるなんて、ついに人間様より下の存在だって認める気になったのかしら? 偉いわぁ、なでてあげようかしら」

「ひぃ……」

 マリアステラは立ち上がり、自分に向かって一歩一歩歩いてきた。自分は腕で頭をかばいながら、怯えることしかできない。

 しかし彼女は自分の目の前までやってくると、やさしく自分の肩に手を置いてきた。

「いいのよ、あなたはそのままで。あなたは生まれつきのゴミくずなのだから、そのままのあなたでいてちょうだい。私が丹念に踏みつけてあげるわ」

 慈愛のこもった声色でゆっくりと彼女は宣告してくる。だけどその内容はいつも通り残酷で、そのギャップに自分はめまいがした。

 しかしその直後、彼女は普段と同じ冷たい表情に戻ると、自分の肩を押してあらためて床に尻餅をつかせてきた。

「あ、嘘。ゴミなんて踏みたくないわ。廊下の隅で転がって、メイドたちに片づけられるのを待ちなさいな」

 それだけを言うとマリアステラは、フリルがふんだんにあしらわれたスカートを揺らしながら、さっさと邸宅の中へと戻っていこうとしてしまった。自分は慌ててそれにすがりついた。

「ま、待ってください、マリアステラ嬢!」

 腕を掴まれ、しぶしぶ見下すようにして彼女はこちらを見る。自分は必死になって繰り返した。

「事件です、事件なんです」

 そのあまりの必死さに心を打たれた――のかどうかは分からないが、マリアステラはこちらに向き直り、ティーテーブルのほうへと戻っていった。

「まあいいわ、話してみなさいな。聞くだけ聞いてあげる」

 傲慢な態度で発言を許可され、自分はようやく息をついて捜査資料を取り出すことができた。

「事件が起こったのは二週間前のことです」

 彼女の座る机に、一枚の写真をそっと置く。彼女はそれを細くて白い指で持ち上げて検分しはじめた。

「ゴルドアド家の令嬢が、邸内でおびただしい量の血痕を残して失踪しました」

 彼女の見る写真には、床に広がる血の跡と、その先にある一枚の絵画が写されている。正直、こんな少女に見せるべきものではないのだが、彼女に対してなので仕方ない。

「ご覧の通り、血の跡は絵に向かっていて、そこで途切れています。現場の状況から見るに、素直に考えれば絵の中に被害者は引きずり込まれたように見えます」

「ふうん。それで、人食い絵画ってわけね」

「はい、その通りです。ですが同時に街でその令嬢を見かけたという目撃証言が出ているので単なる家出かとも考えられたのですが……」

「それにしてはこの血痕は妙ね。この出血量なら普通なら死んでるわ」

「仰るとおりです、マリアステラ嬢」

 話を聞いてくれさえすれば、この通り理解も把握も早い優秀な方なのだが――いかんせん性格に難がありすぎて、本当に困る。

「お世辞はいいわ。話を続けてちょうだい」

 素直な賛辞だったというのにそう突っぱねられ、少ししょんぼりしながら自分は捜査資料を見直した。

「この二週間、捜査員はほぼ総出で彼女の捜索にあたりましたが、目撃証言は出るものの、彼女の居場所は一向に掴めずにいます。殺人事件と断定できない以上、誘拐などであれば早急な対応が必要になってきます。それに加えて上流階級のご令嬢なのでその……」

「上から解決をせっつかれてる、ってわけね。ご愁傷様」

 彼女がぽいっとこちらに向かって投げ捨ててきた写真を、慌てて受け取る。

「それでそのぉ……この事件への協力を願いたいのですが……」

「いいわよ」

「え?」

「面白そうじゃない。今回はじきじきに私が出てあげる」

「え、え、本当ですか!?」

 いつもならもっとごねるところだが、こうもあっさりとOKをもらえると、それはそれで出鼻をくじかれた思いがある。

「本当よ。ほら、行くわよ」

「へ、行くって……どこに?」

「決まってるじゃない。その殺人現場よ。さっさと案内しなさいな」

 それだけ言い残すと、彼女はすたすたと玄関に向かって歩き出してしまった。自分はその後を慌てて追いかける。

「お、お待ちください、マリアステラ嬢!」

 その呼びかけに彼女はぴたりと足を止め、こちらをほとんど睨みつけるように見上げてきた。

「グッドマン刑事」

「へ、はい!」

「まさか外でもそんな仰々しい呼び方で私を呼ぶつもりかしら?」

 自分は立ち止まり、口を開け閉めする。そう、彼女はこうして自分で遊ぶのが大好きなのだ。

 彼女はにっと目を細めてみせた。

「いつも通り、外ではマリィとお呼びなさい」

 毎回ながらそんな恐れ多い注文をどうしてつけてくるのか。どう答えるべきかと迷っている自分の手を、彼女はそっと取って、可愛らしく首を傾げてみせた。

「私もトニー刑事と呼ぶから、ね?」

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