星の味
ミカヅキ
星の味
星も月も見えない、真っ暗な夜だった。
道を歩いていた。舗装されていないあぜ道は真っ直ぐではなく、ぐにゃぐにゃに曲がっている。道の外には黒が広がっていた。
黒の正体はわからない。地面ではなく、夜空に道がかかっていて、私はそこを歩いていたのかもしれない。
星が降ってきた。
金色でキラキラしたそれは、音も立てずに私の掌の上に収まった。私はそれが甘くておいしいものだと知っていたから、躊躇わず、口に放り込もうとつまみ上げた。
それを遮ったのは男の手だった。私の口に入るはずだった星をその骨ばった手に握り、男は狐の仮面の下から、黙って私を見た。
「返して」
私は男から星を取り戻そうと手を伸ばすが、男がその手を上に掲げて虚しく空を切る。私より頭一つ分ほど高い身長の男が腕を上げてしまえば、私の手がそこに届く道理はないのだった。
不機嫌を隠しもせずに顔を顰めた私を見て、狐面の男は肩を竦めた。男の藤色の着物が揺れる。仮面の表情は変わらないのに、男が困っているように見えた。
「これは、駄目だよ」
男が声を発した。柔らかい声だった。そしてやっぱり、困ったような声だった。
「どうして?」
「どうしても」
「それじゃあ納得出来ないわ」
男がまた肩を竦める。そして駄々っ子を宥めるような柔らかい声音で、また仮面の下で口を開いた。
「早くお帰り、この場所に居ては行けない。犬が、来てしまう」
どうして、と問う前に、目の前の景色が歪んで私の喉は息を呑む。下を見れば道が崩れていた。
足元が崩れ落ちて、私は落下する。浮遊感に、「やっぱり空に道がかかっていたんだ」と、妙に冷静な思考はそんな場違いなことを考えた。
崩れていない道の上にいる狐面が私を見下ろす。遠ざかる姿に、私の意識は黒に飲まれた。
耳障りな機械音に目が覚める。手を伸ばして音の発信源を少々手荒に叩き、静かになったそれを掴んで引き寄せた。布団の中でもぞもぞと身じろぎ、まだぼやけた頭のままその無機物を視界に入れる。本来の起床時間を僅かに過ぎた数字を針は指している。もう起きなければ、と思う脳とは裏腹に、瞼は重さをましていく。
結局私が布団から出たのは、それから十分後、母が怒鳴りながら布団を剥いでからだった。
変な夢を見た。教師が長ったらしい説明をしつつ黒板をチョークで叩くのを見ながら、私は今日見た夢を思い出していた。
夢らしい、奇天烈な内容。夜空に道がかかっているなんてありえないし、星を食べようとしたことも理解できない。そもそも夢の中の自分はどうして星を『甘くておいしいもの』だと知っていたのだろう。まるで食べたことがあるみたいに。
夢の中の、狐面の男。知らない男だった。だけど私は、夢の中の私は、あの男を知っている気がした。
思考の海に沈みかけた意識は、教師の怒鳴り声で引き戻される。どうやら指名されたらしい。慌てて教科書の該当箇所を探し始めた私の脳に、最早夢の事など微塵も残っていなかった。
道に一人でたっていた。やはり道の外は黒かった。
二回目だからだろうか、今度はすぐに夢だとわかる。辺りを見渡しても道の他には闇しか広がっていない。狐面の男は、どこにもいなかった。
道を歩く。アテはない。ぼんやりとした脳の妙に冴えた部分が、どこに向かっているのか、と問いかけた。さて、私はどこに向かっているのだろうか。わからない。
私の手を誰かが握った。振り向くと、私の隣に軍服姿の男が立っていた。犬の仮面の奥の顔は見えない。犬面の男が私の手を引いた。
「……誰?」
思わず、私は口に出していた。犬面は私の方を向いて、肩を揺らす。笑っているようだった。
「誰だと思う?」
「……わからない」
「それならば、そういうことだ。僕は君の知らない誰かだよ」
「何を言っているの?」
犬面は答えず、私に背を向けて歩き出す。手は握られたままだから、男に引かれて私も歩かざるを得ない。暫く無言で歩き続けた。
歩くにつれて不安が増していく。この道の先に何があるのか、わからないまま歩き続ける。それは不安以外のなにものでもなかった。
「ねぇ、どこに向かっているの」
犬面が私の声に振り向いた。無機質な仮面が私を見据える。
「どこだと思う?」
「わからないから聞いてるの」
「そうか、そうだね」
犬面が肩を揺らした。くすくすと、仮面の下からくぐもった笑い声が聞こえる。
「着いたら、わかるよ」
犬面が言った。やはり笑いの混じった声だった。
私は最早、恐ろしさしか感じられない。着いてしまえば、きっともう手遅れなのだ。知ってしまえば知らなかった頃には戻れない。
怖い。
嫌。
見たくない。
私は犬面の男の手を振り払おうとして、しかし男の力の強さに、敵わない。叶わない。
「どうして逃げるの」
犬面が問うた。不満げな声が仮面の奥から響いた。
「……怖い」
「怖い? 何が?」
答えようとして、しかし突然強く腕を犬面の男とは反対方向に引っ張られたことで私は口を驚きに噤んだ。腕を引いたのは、狐面の男だった。
「駄目だよ、そちらに行っては」
やはり困ったように狐面は言う。その声が妙に懐かしい気がした。犬面は黙ったまま、狐面と私を見て、少し不機嫌そうに唸る。
視界が歪む。足元が崩れて、私はまた真っ逆さまに落ちていく。浮遊感と共に、意識が遠ざかるのを感じていた。
「時間切れだ」
犬面の男が、不機嫌そうに、拗ねたように言った。
「覚えておいで。いつかは知らねばならないよ」
犬面の、そんな言葉を聞きながら、私は落ちて。堕ちて。崩れ落ちる道と、遠くになっていく狐と犬を眺めながら、やがて視界は暗転した。
黒が広がる空に、星は見えなかった。
「旭陽、最近ぼーっとしすぎじゃない?」
友人に話しかけられて、顔を向ける。そばかすのある顔を不満げに歪めた彼女が「ほらまた」と頬をふくらませた。
「旭陽、私の話聞いてたー?」
「……ごめん、なんだっけ」
やっぱり聞いてなかった。そう、友人が拗ねる。妙に子供っぽい彼女がへそを曲げると長いことは長い付き合いで知っている。ごめん、と素直に謝ると、彼女は案外簡単に「いいよ」と笑った。
「旭陽ってば、そんなぼけっとしてたらダメだよ。昨日だって授業中にぼーっとして、先生に怒られてたじゃない」
友人が笑う。そうか、そういえばあれは昨日のことだったか。そう、ぼんやりとした頭で思い出した。
狐面の男の夢のことを考えて、教師に怒られたのは昨日だ。そう、ならばあの犬面の男の夢はいつの夢だったろう。
はて、どこから夢だったか。否、どこから現実だったか。朝目覚めて、学校に来るまでの記憶が抜け落ちている。過程が抜けている。
「ほら、またぼうっとして」
友人が笑う。彼女の顔を見て、私は目を見開いた。
友人の肩から上は、愛嬌のあるそばかす顔ではなく、カナリアになっていた。友人の体をしたカナリアはまた甲高く笑う。
「どうしたの旭陽、そういえばさ、昨日の は、 」
友人の声は途中からただの鳥の鳴き声へと変わり果てた。
自分の心臓の音がやけにうるさい。立ち上がって辺りを見渡す。椅子がガタンと音を立てて倒れかけたが、そんなものはどうでもよかった。
教室にクラスメイトはどこにもいない。ただ、頭だけが犬や豚、狸や猫の人型をした何かが、制服を着て、楽しげに談笑しているだけだ。教室の扉が開いて、スーツを着た馬の頭が入ってくる。ぶひひん、と吼えると、制服の動物達は一斉に各々の席へと向かう。私だけが立ったままで、そんな私を動物達は奇異の目で見ていた。
めまいがして、また、暗転。
次に見たのは己の部屋の天井だった。外は暗い。
長い夢を見ていたようだと、息を吐いた。学校から帰った後、強い眠気に逆らわずにベッドに倒れたことを思い出す。時計の針は七を指している。階下から、母親が夕飯だと呼んでいる。
頬をつねると痛かった。現実だった。なんだかどっと疲れて、食事の気分ではなかった。いらない、と叫ぶ。だがそれよりも大きな声で、何言ってんの、降りてきなさい、と怒鳴られた。
「旭陽!」
翌日の朝、通学路を歩いていた私に後ろから声がかかった。友人だった。満面の笑みで輝くそばかす顔は、羽毛の一本も生えていない。
「あんたまたぼーっとして。最近ずっと上の空じゃない、何かあった?」
「……いや、その」
言うべきか言わないべきか少し逡巡して、結局私は口を開いた。
「……最近、変な夢を見て」
「変な夢? どんな?」
どんなと言われると説明しづらくて、返事を口は作らない。とりあえず友人の頭がカナリアになったことを話すと、なにそれ、と友人は笑った。
「夢なんて気にしないの! でも睡眠はちゃんととらなきゃね。そういえば、進路希望調査、書いた?」
言われて、そんなものもあったかと思いだした。締め切りは明日だったはずだ。危なかった。
そんな記憶から抜け落ちていたようなものを、書いている筈がない。素直に首を横に振ると、友人はやはり笑った。
「もー。締め切り明日だよ」
「……そっちは、何を書いたの?」
「私? 私はナースになりたいから、看護系の学校をいくつか」
「ふうん」
友人は友人で考えているらしい。彼女が将来を語るのをどこか遠くに聞きながら、私は己の机に白紙のまま放置されているであろう紙のことをぼんやりと考えていた。
己の将来など何一つ見えない私は、友人が眩しかった。
帰宅後、机の上を漁ってしわくちゃの白い紙を発見した。ベッドに寝転んでそれを眺める。進路希望調査、と書かれたゴシック体の文字の下に、三つほど四角で囲まれた空欄があって、第一希望から第三希望まで大学名を書くように、と、下に記されていた。眺めていてもそれは埋まらないが、それ以外のアクションを取る気になれない。
こんな薄っぺらい紙一枚で己の道が決まるのかと思うと吐き気がする。大学だけが全てではないと教師は言うが、それでも、やはり大きなものなのだ。
進路なんて見えない。私は何になりたいんだろうか。幼いころは、何になりたかったんだっけ。思い出せない。ただ、昔はもっと世界は輝いていたように思う。成長する度世界の濁った面が見えてきて。それが、私は嫌で。
だから。
だから、私は。
私は、目を、
星も月も見えない、真っ暗な空だった。私は一人で道を歩いていた。
星が降ってきた。きらきらと、金色に輝くかたまりが、私の掌に収まった。
私は、これが甘いものだと思っているのだ。昔祖母のくれた金平糖のように。盲目に信じているのだ。信じていたいのだ。綺麗なものが美味しくないはずは無いと。
本当に?
「駄目だよ、旭陽。それを食べては」
狐面の男が私の背後に立っていた。
「お食べ、旭陽。真実を知りたいだろう」
犬面の男が私の正面に立っていた。
「駄目だよ。知ってしまえば元には戻れない。知るのは怖いだろう」
狐がそう吠えた。黄金色の尻尾を大きく振る。
「食べなさい。無知は罪だよ。知らねばならない」
犬がそう唸った。こげ茶の耳がピクリと動く。
狐と犬がお互いにとびかかった。取っ組み合い噛みつき合い、暴れに暴れて、とうとう足元は軋みを上げる。
道が崩れた。狐と犬が堕ちていく。そのさまを、ただぼんやり見ていた。
手元の星を見る。やはりきらきらと輝いて、綺麗な姿のままだった。手を口元に動かして、静かに星を齧る。
小さくて、きらきらしていて、金色で綺麗なその物体は、口の中でどろりと溶けて。
鉄錆臭い、泥のような味がした。
星の味 ミカヅキ @mikadukicomic
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