擬人化、あるいはメタモルフォーゼ

雪乃 伴哉

擬人化、あるいはメタモルフォーゼ

 ある昼下がり、何気ない食べ物が胃に落ちて、私から腹が消えた時、つっかけで街に繰り出す。風がそよぐ。空気に漂った汗の粒のようなものがはじけてそれとなく匂いを鼻腔に届ける。汗をかいているという触感覚はまるでない。少し間があって、じっとりとした額の感覚から、私は朝に床を出てから汗を積み重ねていたのだということを感じ取る。こういう語りは、おそらく万人に同様の経験を喚起する。あるとき不意に額のを感じ取って、手で額をべっとりと拭う。その手は左手かもしれない。右の手かもしれない。しかし、右だろうと左だろうと、そんなことは気にすることなく、手で額を拭うと言ってしまう。で額を拭う。

 今、私はで額を拭う。きっと今、この語りによってが思い起こされるだろう。汗を積み重ねていたことにふと気づいてしまう瞬間があるだろう。でも、「私」の汗ばむ感触と「あなた」の汗ばんだ経験はなぜか同じではない。色合いが違ってしまう。どんなに手を伸ばしても寸でのところで波が二人を引き離してしまう二隻の舟に似ている。架け橋が決定的に断絶してしまっている。

 右を見る。人がいる。三人の人がいる。歩いている。一人は向こうへ。二人はこちらへ。私は立ち尽くして右を見遣ったまま。一人には追いつけない。二人とは少しずつ距離が縮んでゆく。もう三、四十歩ほどで私と二人とは距離ゼロになる。でもやはり二人には追いつけない。

 あの一人は今何を感じ取っているのか。視覚像は立ち現われてしまっているだろう。触覚はその多くが捨象されているに違いない。足の裏で踏みしめている地面の感覚や腕にかけた鞄の紐の感触を常に感じ取って歩いている人はいないだろうから。聴覚も同様に。おそらく今ここに夥しい音が、もちろん波と呼んでかまわないのだが、あるはずだが、それに慣れすぎてしまっているためにそれを無音と呼ぶ。しかし、そうでないかもしれない。あの一人はこんな想像を働かせる私よりももっと豊かに感じ取っているのかもしれない。あるいは、なにも感じ取っていないのかもしれない。感覚に慣れすぎているというよりは感じ取らないというしかたで。粗雑な言葉を使うなら感覚がないということだ。皮だけ被っていて中身は空虚なのかもしれない。そんなことはない、と思う理由がない。あの人が私と同じである理由がないために。

 でもあの一人は向こうに歩いていっている。私にはどうしようもないのだが、あの一人は向こうに歩いていく。このどうしようもなさに、どうしようもないとは思わない。そんなことにはもうとっくに慣れてしまっていたのだから。私に見えているものが世界だと言う気にもなれない。だってあの一人はただ歩いてしまっていて、私はただ立ってしまっているのだから。ただ、そこに流れる時間がある。

 あの二人は今何を思っているのか。距離は互いに十歩ほど離れている。おそらく見知らぬ二人、たまたま今このときに十歩ほどの距離をあけて共にこちらへ歩いている二人。知り合いならもう少し肩を並べて歩くのじゃないか。でもそういう知り合いなのかもしれない。十歩ほど間隔をあけて歩く知り合いの二人なのかもしれない。

 後の者には前の者が見えている。前に人が見えるというのは、はっきりした存在を描く。前の者に仕掛けるにしても、回避するにしても、追従するにしても、凡そ自由自在だ。それだけの存在を描く。

 前の者には後の者が見えていない。しかしなにか人が後ろにいるような感触は持っている。よく気配と呼ばれる。気配は確かな存在は描かない。でもなにか人を感じる。その煙に包まれるような気持ち悪さに抗えず後ろを振り返って人がいるのか。だがもし目が合ってしまってはどうも気まずい。もしと言うよりは目が合ってしまうことはなぜか確信に近いものがある。次にどうなるかわからない不安定さを抱えるかのようにして、視線を前方から外さずにまっすぐ歩く。あるいはもっと前のところ、たとえば合流の場面で、姿を視認していたら後ろに人がいることを確信して歩いているかもしれない。その場合はなぜか少し安心感が湧いてくる。

 あの二人はこんなことを思って歩くのだろうか。もっと違うことを思うだろうか。私はあの二人ではないが、どうしてだか違うことを思っているだろうと思う。私はあの人と今違うことを思っているなどと確かめることができたためしはないのに、でも違うことを思っていると思う。それはきっと、同じことを思うということがいかに空虚な妄想であるかを知っているからだろう。私とあの二人の断絶を、私が断絶と思う前にはもう知ってしまっているのだ。そうしてあの二人とすれ違った。

 左を見る。人がいる。ぱっと見て何人かすぐにはわからないくらいの人がいる。数人なのか十数人なのかあいまいなくらいの人がいる。最も距離が近いのは今すれ違ったばかりのあの二人だ。あの二人は今も歩いている。今度はこちらではなく向こうへ歩いてゆく。私とあの二人の間にただ流れる時間がある。

 店に入ってゆく一人がいる。珍しくもない自動ドアの前に立って、二枚のガラスは自動で左右に分かれ、その空間に体を通して入っていく。私からもう見えなくなった。そこでその一人は消えてしまった。だが考えようと思えば私はその一人のことを考えられる。その一人がかの店でどのような振る舞いを見せるのかは、私の振る舞いになぞらえて想像することができる。私の知らない店でも、きっとこのようなことがおこなわれているのだろうと想像できる。それが実際のその一人の振る舞いとどの程度まで一致するのかなどは全く問題にされない。そういうことを追い求める性格を、この想像は持っていない。ただ想像してみただけ。この想像はその一人と私の断絶を埋める作業では、ない。私は依然私のままだ。

 そしてまた、次の人へと視線が移ろう。一人、また一人と追いかけては、私はその人ではないことに気づく。結ばれることのない私の手とひとの手に失望する。どうしようもなさに、どうしようもないと思うこともなく、ただ慣れてしまっていて、あとは流れる時間を眺めるしかない。大きな時間の中に身を任せるとき、私は私である。しかしそれでもなお、私は人と重なろうとする。断絶に向かって飛ぶ。なんとか不格好にでも飛び越えてみせようとする。

 それは人とつながりたいからなのだろうか。こうして立ち尽くしているのはつながるためなのだろうか。人は流れてゆく。ただ流れてゆく。その流れの中に私は立ち尽くしている。歩くこともできる。後ろについてゆくこともできる。だがどの流れに身を任せればよいのだろう。向こうに歩いてゆくあの一人についてゆくことはできない。こちらに歩いてくるあの二人にもついてゆくことはできない。すれ違って背中を追うこともできない。あるいはそうしないのかもしれない。

 どの流れに身を任すか、そんなことは考える前にすでに身を任してしまっている。右を見ても人。左を見ても人。私は人になるためにこうして立ち尽くすのではなかったか。あなたの世界の色合いの違いと、私の世界の色合いの違いを確かめるようにして。ともすれば独善に陥るしかないような不安を抱えながら、しかしそれに押しつぶされてしまわないように寸でのところで堪えながら。私はになりきろうとして、周りの人に目を奪われながら、しかし自分は立ち尽くすしかない。

 あの一人も、あの二人も、どの何人も、そうして立ち尽くしている。私とともに。皆が右を見ている。左を見ている。を探している。自分が人になるために。周りを見渡して犬になろうとする人はいない。昆虫になろうとする人もいない。魚や蛙になろうとする人もいない。皆が断絶へ向かい、挑戦し、挫折する。それでもやめようとしない。断絶を超えようとしながら、一生懸命人を装うのだ。

 人になろうとすることのどうしようもなさにどうしようもないと思うことも忘れ、ただ慣れきってしまった。人になりたいから人になろうとするのでもなく、ただおのずと人を装う。いや、装ってしまっている。そしてなによりも、きっとそれはそうあるべきで、否定を待っているものではない。それでいいのだと、足元から肯定の声が立ち上ってくる。聞こえない声を手掛かりにしながら、明日の暗闇を同じように手探りで進む。

 人を探しながら、人を装い、流れるようにして、しかしただ立ち尽くしている。皆が人に擬態する営みの中で、が紡がれていく。それはほんのか細い絹糸のようだが、しなやかで柔らかい。このひ弱な糸を手にして、しかしどんな物語でも紡いでいけるような奥行きを秘めている。私もこうして波に揺れる小舟の上から糸の端を伸ばして、手が触れる瞬間を待ちわびている。それが目の前にありながら、しかし引き離される繰り返しの中で、こうすることが人になることだと言いきかせて。 

 これはという個体の、という類への挑戦なのだ。個体は他の個体との決定的な断絶を味わいながら、という類にも手をかけることができず、虚空をみつめる。ただそこには流れる時間がある。そこで私はただ立ち尽くしてしまっている。右を見る。左を見る。

 こうして、というこの個体は日常のなかで擬人化する。

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