うんざりするほど作為から生み出される言葉の羅列が巷に蔓延する中で、自分の心に宿った想いの種のようなものを手がかりにして素直な言葉を連ねていくという、私にとっては珍しいと思える作品。
おそらく羽衣さんは純朴な詩も書けてしまう人だろうと思う。
ごてごてに味付けされた言葉に慣れてしまっていると、読んだときに純真さが稚拙さに感じられてしまうと思う。
しかしながら、それだけ余計な言葉を使っていないということである。いつかの自分に宿った心をめがけて筆を進めるのに余計な寄り道をしない、言葉が問題じゃない、ただ描きたいものがある、というエネルギーで書いていくから、稚拙に見えるところに純真無垢が保存されている。
私などは、こうして言葉の才能もないから、余計な言を並べたてずにただ次に進むところを待つのが正しいのだろうが、どうしても期待のうちに一言助言めいたことを言わずにはおられない。どうかお許しいただきたい。
せっかく内側から卵の殻を破るのに、目線はいつの間にか外に置かれてないだろうか。殻の中にしかいなかった小鳥は、果たして自分が「『殻』の中」ということを知っているのだろうか。つまり、「殻」というのは「外から観察したときの」、「内と外とを隔てる境界線」であって、破ったときに初めて自分は殻の中にいたということに気づくのではないかと思う。
テクニカルに言えば、「殻の中」という言葉は最後小鳥が「殻を破る」ときだけにしてしまう方が、より一層内から泉のようにとめどなく湧き出てくるあの真っ白な気持ちに近づけるような気がする。
ともあれ、自分の内にあった気持ちを描く作品は、外から観察するように物語にしていくよりも、とにかく目線を内にして、エネルギーがどんどん外へ向かってあふれていくところを素朴かつ力強く描写していくほうが、羽衣さんの表現したいものに一層近づけるのではないかと思う。