第4話 どうにでもなれ

 本当に逝きかけていたかどうかはともかく、俺は光の向こう側に、確かに見た。

 父と、母の影。

 ずっと会いたかった。声を聴きたかった。そして、伝えたかった。

 苦労をかけてしまって、そして期待に応えられなくてごめんなさい、と。

 俺は、迷わずそちらに向かって歩き出す。現世にはもう、何の縁も存在しないのだから。


『死んじゃあダメだ、フミノリ!』


 必死で俺の名前を叫ぶ背後からの声が、俺を引き留めた。

 何の縁も存在しないはずの背後から、何故。

 疑問に思った瞬間、父と母の影が急速に薄れていく。


 待ってよ――


 焦燥に駆られて走り出そうとするが、間に合いそうもない。

 そんな俺の耳に、不意に、懐かしい声が蘇った。


 これ、ちょっとしたプレゼント。お父さんの形見なんだけどね――


 おめでとう、フミノリ。父さんのぶんも、自分なりに生きなさい――


 ありがとう。俺はそう言って、あの箱を、”彼女”が入ったあの箱を受け取った。

 それから一週間後に、母との永遠の別れが訪れてしまうだなんて、どうしたら想像できる?

 俺は結局、”彼女”を一度も使わないまま、押し入れの奥底に仕舞い込んだ。

 下手に触れると、前に進めなくなるような気がして――

 

「目が覚めたか」


 視界に飛び込んできたのは、黒く柔らかそうな山脈と、その奥から少し心配そうな表情で覗くサファイアブルーの瞳。”彼女”――自称万年筆の精霊だ。

 どうやら膝枕されているらしい。なんてことだ。俺の生み出した都合のいい妄想だという可能性が増してしまった。

 だが、もうそれでも良い気がしていた。


「まったく、心配したんだからな……いや、そんなにはしてないが」


 妄想だろうが、精霊だろうが、亡霊だろうが、彼女の”死ぬな”という言葉は、本物だと思えた。

 そして、彼女が呼びかけてくれなければ、俺はきっと死を選んでいた。……母の”生きなさい”という言葉を、永遠に忘れたまま。


「感謝しろ、1時間ぐらいこうして看病してやったのだからな。かなり恥ずかしかった」

「……ありがとう、ございます」


 暖かく、柔らかな感触に浸りながら、俺は感謝の言葉を述べ、ふと思った。

 誰に突き飛ばされたせいでこうなってしまったのだろう。



「取り敢えず――遺書書くぐらいなら物語を書きなさい。志半ばで倒れたフミヒコ……あなたの父親の仇を、キミがとるのだ!」

「はぁ」


 膝枕から乱暴に引きずりはがされてすぐ、彼女――自称万年筆が命令してきた。

 少し現実に引き戻されたような気がしたが、もはや彼女を幻覚だと疑う気持ちは8割気失せている。――これでもかなり努力したのだ。


「よーく聞けよ」


 コホン、と可愛らしく息を整え、口を開く彼女。


「私は、別にキミの自殺を止めるためにわざわざ現れた訳ではなぁい!」

「な、なんだって」


 衝撃の事実。

 てっきりそれしかないと考えていたので少しショックだった。何せ、彼女のお陰で少しは生きてみようと思ったばかりなのだ。


 因みに、既に退社の意思は憎き上司に伝達済みである。膝枕されながら一言そう伝えただけなので、正式な手続きをする必要はあるが、既に意志は固い。


「えーっとじゃあ、つまり、年代物の万年筆さんは父さんの無念の気持ちを晴らす為に自我を持ち、人間の姿を得た、と」

「うむ、その通り。どうだ、この姿! 人間にしか見えんだろ?」


 また頭が痛くなってきたが、薬に手を伸ばせばまた誤解されかねないのでやめておく。

 というか、そもそもの疑問があった。……そもそもと言い始めるとどこから突っ込んでいいか分からないぐらい沢山あったが、そのうちの一つを、勇気を出して口にすることにした。


「あの、それってぇ……」

「うむ?」

「それって……万年筆さんがわざわざ擬人化する必要、あります?」


 俺は根本的な疑問を投げかけた。……つもりだったのだが、彼女は全く気にしていないようで、


「いや、あるだろ。ただの万年筆が話しかけてきたらホラーだろ。幻覚と思われても仕方がないだろ」


 即答された。おまけに“何を言っているんだ、こいつは”という目で俺を見てくる。 何を言っているんだ、この女万年筆。

 寧ろホラーかファンタジーの住人以外の何だというのか。

 俺は、喉に出掛かった言葉を飲み込むのが一苦労であった。


「でも俺、小説なんて書くどころか、読んだことないですよ」


 すると、彼女はサファイアブルーの目を丸くして驚きの感情を露わにする。


「いやいや、フミヒコは――君の父さんは、何冊かは出してただろ」

「うーん、まぁ、そうなんですけど……」


 確かに、父は作家だった。だが、それも死の少し前にデビューして、出版されたのも一冊だけだ。それも、まったく売れなかったらしい。

 というか、我が家ではそのことがタブー、黒歴史になっており、父との惚気話をよく展開してきた母も、肝心の小説の内容に関しては「気にしなくていいのよ」と、露骨に避けていた。「読まない方が心の為」とまで言われた気がする。


 言いすぎだ、母よ。どんだけ酷かったんだ、父よ。


 そういった経緯をかいつまんで伝えると、ホラー万年筆精霊は「あーなるほど」と納得したかのように、神妙な表情で何度も深く頷いた。


「まぁ……奇跡だったな、デビュー出来たのは。是非もなし」

「……おやじ」


 今、物凄い勢いで死者の名誉が傷ついている。父は泣いていい。


「……ただな」


 ふっと穏やかな表情を浮かべるホラーファンタジー万年筆。不覚にもドキリとさせられる。


「人間は成長する――少なくとも、その為に足掻くものだよ、フミノリくん」

「えーっと……何かしていたのですか、父は」

「ああ、デビュー後、彼は沢山の本を読み、研究し、そして自身の技術を磨いていった」


 それは母から聞いた覚えがある。

 実家にある父の書斎には、父の本は一冊もないが、父の所有していた本は大量に保管されている。そして、どの本にも附箋が仕込まれていたり、ページが折られていたり、メモが大量に残っていたりするのだ。

 ただ、病は――寿命は、父の成長を待たなかった。その研鑽は、うず高く積みあがるだけ積みあがって……。


「――私に宿っている」

「え?」


 どこか使命に溢れたような声色で彼女が言う。


「フミヒコの願いと研鑽は、私の中に宿っている。私はそれを、具現化したい。……フミノリ、私にはキミの力が必要だ」

「願い?」


 父に関して、俺は殆ど何も知らない。どんな願いがあったというのだ。

 俺の疑問に対し、「ふふん」と勿体つけて答えた。


「生きた証を、この世に刻み付ける――つまり、」

「つまり?」

「ベストセラー小説を書きあげることだ!」


 ああ、頭痛だけでなく胃痛まで。


「大丈夫だ。私を手に執れば、その後はキミの身体を勝手に動かして私が書くから」


 なんて恐ろしいことを、平然と。


「つまり、キミの力っていうよりは、キミの腕と指先、それと最低限の生命力さえあれば良いというわけだ! さあ、私を助けろ! 命の恩人をなぁ!」


 冗談じゃない。

 俺は助けてくれなんて一度も言っていないし、目の前のいかがわしい存在には助けられるどころか殺されかけたような気がする。


「いいですよ」


 でも、俺は快諾していた。


「……え、いいのか」

「断る理由がないので」


 万年筆の精霊は更に困惑の色を露わにする。


「どうせ、捨てようとしていた命ですし。それに、父と母が遺したものからの頼みと考えたら、断れませんよ」

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