天月の魔法

海崎 翔太 / 紅(クレナイ)

第1話 天月の魔法

 昔々ある所に、払魔師のいない村がありました。

 しかしその村には、悪い幽霊に酔って病気になる人はいませんでした。それは、み んなのご先祖様が、月から帰ってきてみんなを守ってくれていたのです。

 ある日、意地悪な幽霊がやってきました。その幽霊は、



 町中の火をすべて消してしまったのです。



  1


「しつこい奴だなぁ……。僕は魔法を信じないんだって」


「頑固な人ですねえ。だったら、私のこれはどうやって説明するんですか? ほら、ほら、腕が取れます!」


「やめろッ! 気色悪い‼」


 暗闇の中、ベッドの上から執拗に話しかけてくるノヴァと名乗る少女。本当に取り外した腕を視界の片隅にとらえてしまい、絶叫。叫び声はそのまま、僕は寝袋の中へと身体をさらに押し込む。


 この生活にも慣れたもので、背中から感じる床の硬い感触が、むしろ心地よくすら感じ始めている。クッション? そんな物、とっくの昔に強奪されている。ベッドの上で騒ぐ白髪のJCに。


「これは全部夢で、お前は僕が創り出した空想だ。朝目を覚ませば、お前は消えてる」


「強情ですねー」


「そうじゃなきゃ、大学生が今いるはずの場所はここじゃない。お巡りさんにしこたま怒られて、留置所の中だ」


 この生活も、かれこれ二週間以上となっている。夢でなければ、JCと共に生活している僕が、この場にいるはずがない。

 それに、


 腕を自在に外せる人間が、そうそう簡単にいてたまるか。


「いい加減認めてくださいよ。これは魔法の所為で、私には大切な人から授かった使命があるんだって」


「どこのラノベなんだ……。それに誰だよ、その大切な人って。依頼主だろ?」


「守秘義務があるので回答は不可です」


「よくそれで信じてもらえると思ったな」


 最近の増せている小学生なら、もっとましな嘘をつくとは思う。もっとも、自分の夢にツッコミを入れても疲れるだけだが。


 そんなやり取りを繰り返すこと十数分。時刻は、午後十一時。昨日よりも少し早く、ノヴァの言葉が途切れ始める。段々と受け答えが怪しくなり、訊いてもいない返事を返すようになる。


「……本当に、時間が、な、いん、です……よ……」


 寝言とも取れる呟きの後、ノヴァが完全に沈黙した。


「…………」


 ノヴァが寝静まると、不思議な静寂が部屋を支配する。ここは町中のはずなのに、外を通る車の音、企業戦士たちの喚声が聞こえてくることはない。


「…………はぁ……」


 そこに……、


「――――ずいぶん、仲良さそうだね」


 僕の隣で、もう一つの塊が動いた。

 この部屋にひとつだけある、来客用の布団。それがもぞもぞと動き、僕の方の毛布が持ち上がる。持ち上がった隙間から、可愛らしい女性の顔がのぞく。その顔は、暗闇の中でも不思議と表情までよく見えた。


「一応、二週間ほど暮らしていましたので」


「へぇ~……大切な彼女を二週間も放り出して、別の女の子連れ込んでたんだ?」


「……解ってて言うなよ。浮気じゃないし。それに、全部話しただろ?」


 月光が反射する黒髪をつまみながら、不服そうにうなずいたのが僕にも解った。


「でも、ちゃんと言ってくれればわたしも力を貸したのに……」


唯奈ゆいな、最初に行ったよな? 『警察に行こう』って、『わたしはまってるから』って。その言葉を聞いて、どう信じろっていうんだよ」


 唯奈が黙った。これは、図星を突かれた時の彼女の癖だ。この夢は色んな所が大雑把なくせして、こんな風に変なところはやたらとリアルだ。流石は、僕の夢……とでも言っておけばいいのか。


 しばらくの間、沈黙が下りる。唯奈が買ってきてくれた掛け時計だけが、ちくたくと時を刻んでいる。


祐樹ゆうき、どうするの? これから」


 その問いには、すぐに答えられない。なぜなら、僕が囲まれている状況は、案外複雑なのだから。ちなみに、ノヴァが唯奈の前で腕を取った時、唯奈は泡を吹いてひっくり返っていた。


「真面目な話、児童相談所に預けるか、警察のご厄介だな」


「何かあったら、今度はすぐ言ってね?」


「ありがとう。そうする」


「捕まったりは……しないよね?」


「捕まらないよ」


 だって、夢だもん。

 それよりも……、


「〝天月祭〟成功させような」


「――うん」


「それじゃあ、お休み」


「お休み」


 すぐに、隣からは寝息が聞こえはじめた。すっかり安心しきっている。それは、僕が何もしないと信用しているのか。はたまた何もできないだろうと高をくくっているのか。


 ここがラノベの世界なら、今までに一度くらいはラッキースケベでも起きていてもおかしくはないのに。ましてやここは夢なのに。それくらい、あってもいいのにと、そう思ってしまう。


「…………」


 静かに、寝袋から右腕を取り出す。そのまま、唯奈のいる毛布の中に差し込む。そして、僕の手の平は、無事お目当てのものに触れた。


 柔らかく、温かい、女の子の手。


 ここは僕の夢だ。しかも、唯奈は僕の彼女なんだ。

 これくらいは、許されるだろう……。


        ◇◆  


天月祭あまつきさい』のことについて、少しだけ話しておこう。


 この祭りは、僕のいる地区で毎年開催されている行事で、その歴史は古い。何でも、江戸時代には既に存在しているというのだから驚きだ。

 その内容はいたってシンプル。先祖の霊を迎えるというもの。いちばん近い行事はお盆だと思う。

 

 少し違うのは、死者の国が月にあるということくらいか。


 ここら一帯には、天月物語という伝説がある。それによると、昔から死者の国は月にあるらしい。死んだら月に行き、天女として生きるのだと。悪い行いをすれば、地の底で火あぶりにされるのだと。


 そして、月にいる住人たちは、七月になると天の川を渡ってこちらに返ってくるのだそうだ。そして生者は、死者を迎えるために提灯をともす。それは同時に、地の底から這いあがった悪霊を退ける力もあるのだと。


「なるほど。祐樹さんは詳しいんですね」


「……ここまではこの地区なら誰もが知ってる伝説だ。それに、僕は今年実行委員の一人だからな」


「そうだったんですね」


 ソフトクリームを頬張りながら隣を歩くノヴァ。警察署と、児童相談所に行った帰りだ。その横で、足取り重く道を進む僕。


 結論を言おう、散々だった。


 どちらに行っても、ノヴァの姿が見えることはなかった。必然的に僕は、いないはずの人が見えているという精神異常者の烙印を押されかけたのだ。どうにかしてごまかしたが、そのおかげでくたくただ。夢なら、そこらへんもう少しくらいおざなりでもいいはずなのに。


「ていうか、何でお前の姿は誰にも見えないんだよ。隠れてるのか?」


「まさか! 私のせいじゃないですよ。実をいうと、唯奈さんに見えてしまったことの方がビックリです」


「肝心なとこ、答えてないぞ」


「ただの魔法ですよ」


「……もういいや。それで」


 訊く気が失せた。

 なぜ、僕がここまで振り回されなければならないのか。


 ノヴァが僕の前に現れた日だって、本当は唯奈とのデートのはずだった。本人の目の前で、いきなり走って逃げる罪悪感。まあ結局、せつめいしたら許してはくれたけれども。


「そう言えば、毎年参加してるんですね。誰かと約束でもしてるんですか?」


「いや、約束じゃないよ。そんなかっこいい理由じゃない」


 みんなのためとか、地域を活性化させようとか、そんなたいそうなものじゃない。かといって、就職のために内申点を上げようとか、そんなはっきりした理由でもない。


 ただ、奇跡にすがっているだけだ。


 失踪した僕の姉が――京香姉さんが、

 ふらっと、祭りの日に現れるんじゃないかと、そんな確証もないことにすがっているだけだ。


 毎年、毎年、あり得るはずもないのに。


 すると、


「……ん?」


 ユラリと、視界が動く物体をとらえた。

 それは一瞬の出来事。故に、動いたモノの正体を判別するには、僕の動体視力では能力不足だった。だが、色と場所だけはしっかりと脳内に焼き付いている。


 色は黒色。というよりもむしろ、色と呼んでいいのかすら微妙なほどの闇。まるでそこだけが、世界から存在すること許されなかったのかと錯覚するほどの虚無。そして、


 場所は、影の中だった。


 今のは、何だったのだろう。


 生き物にしては異質。しかしここは夢だ。お化けの類だろうか。


「…………もうだめか……」


「あ? 何がだよ」


 不意に横から、そんな声が聞こえた。気になり、思わず訪ねてしまう。しかし、ノヴァは完全無視。そのことについて説明することは、一切なかった。


 口を開く。一言一言が聞き取れるように、ゆっくりはっきり。


「祐樹さん。私、そろそろ帰らなくてはいけなくなってしまいました」


「へぇ――…………?」


 ……………………………⁉


「はぁああっ⁉ お前なに言ってるんだよ突然‼」


「というわけで、今までありがとうございました」


「いや、ちょっと待て! いきなりどうしたんだよ? お前の中で何があった⁉」


「静かにしてください。周りには私が見えないんですから、祐樹さんが変人扱いされますよ? どうしたんですか、いったい」


「お前の! その〝いきなり爆弾発言〟のせいだろうがっ」


 ここまできての人をおちょくる態度に、声を荒らげる。奇しくもノヴァの言葉で我に返り、声量を少しだけ落とす。


 状況が理解できない。いったいどうしたというのだ。


 いまのいままで、散々僕の部屋に居候してきたというのに、一体何あったというのだ。何がそこまで決断させたのか。


「なあ、本当にどうしたんだよ」


「どうもしません。今日で変えることは決まっていたので」


「いきなり矛盾してること、気づいてる?」


「だから言ったじゃないですか。私には、特別な使命があるって」


「それも僕がらみだろう? いままで居候してたんだから。何かは教えてくれなくても、俺に何かできないのかよ」





「できません」




 二の句が継げなかった。

 これまで、僕の質問をおちゃらけた態度で散々かわしていたノヴァが、とてつもなく真剣な表情をしていたから。


 その視線が、僕を射殺そうとしていると、そう錯覚するほど冷たいものだったから。


「…………もしかして、お前にも」


『見えたのか?』そう言葉をつなげることはかなわなかった。


「これは、あなたが手伝っていいモノじゃないんです。人間のあなたじゃ、絶対にできない。特にあなたは、絶対にダメです」


 ぞっとするほどに、冷たい拒絶。いままでのノヴァではない。上っ面をはがした、ノヴァの内面がむき出しになって僕に触れていた。


 そこには、遠慮や配慮、そう呼ばれる類のものは一切ない。だからこの言葉にも、


 僕は何も言い返せなかった。


 いままで見たことがないほど、ノヴァは丁寧にお辞儀をする。そしてくるりと踵を返し、建物の奥へと消えていく。


 その姿を、銅像のように起立したまま僕は見送る。


 まるで、蛇に睨まれた蛙のように。


 僕は、その場から動くことができなかった。

 

         2


「……そっか。帰っちゃったんだ」


「何もかもが謎。本当に、不思議な二週間でございましたよ」


 グイっと帯を引っ張ると、吐息にも似た微かな声が唯奈の口から漏れ出る。真っ白な着物に、青がメインの帯たち。それぞれが正しい位置にあることを確認し、終わったぞと声をかける。


 僕の目の前にいたのは、巫女さんだ。


 年代が経過し、きれいな艶が浮かぶ絹の巫女装束に身を包み。薄く化粧をした顔はどこかはかなさを湛えている。こんな女の子が僕の彼女とは。今でも時々信じられない。


「そっちは、もう大丈夫なの?」


「ああ。僕のできることは全部終わってる」


 窓の外に目を向け、クスリと唯奈が笑う。


「そうみたいだね」


 それは、まるで張り切りすぎた子供に驚く母のよう。つられて笑いながら、僕も窓の外を見る。




 橙の光で、町が染まっていた。




 いたるところに提灯が取り付けられ、煌々と街中を照らす。柔らかな光の粒が、出来立ての飴玉のように温かな色を町に与えている。


 暗い場所を静かに染め上げ、明るい場所は色に調和をもたらす。この街に代々伝わる、蛍提灯だ。安全面から光源は電気へと変わったが、鬼火ロウソク色はなんとか再現されている。


 町全体が温かい。そこに人の活気が混ざり、夜は一気に燃え上がる。

夜が温かく彩られる。


 わざわざ、デザイン学科の友人にも手を貸してもらったのだ。

 これなら、言い伝えの死者たちも迷うことはない。


 これが、僕が任された仕事。そして、十年間応え続けた集大成だ。


 歓声が、水を打ったように静まり返る。それは、儀式が始まった証。

 唯奈の背中に触れる。帯はしっかり締まっている、衣装も問題ない。


 あとは、


「それじゃあ、踊り子、頑張れよ」


 とんっと、背中を叩く。

 身体が一瞬震えた。その後、程よく背中が弛緩したのが指先から伝わった。


 唯奈が頷き、歩き出す。

 一歩一歩、光の世界へと歩みを進めていく。

 不意に、立ち止まる。こちらを振り向く。

 口元が動く。


「――――――」


 声は全く聞き取れない。

 だが、


 ――行ってきます。

 

 そう言ったのだろうと、なんとなく理解できた。


          ◇◆   


 関係者出口から外に出て、自販機へと向かう。行って来いと送り出したものの、実をいうと、唯奈の出番はまだかなり先だったりする。この儀式はかなり長いものだからだ。


 硬貨を投入し、ボタンを押す。薄暗い中、頭上につるされた電球だけが、僕の身体を照らしている。


 取り出した炭酸飲料を口に含む。そのまま一気に、半分近くまで飲み干したところで口を離す。喉を通る二酸化炭素の刺激に、ほぅっと息をつき空を見上げる。


 ――……すこし、曇ってきたか?


 予報では、雨は降らないはずだ。それでも、やはり祭りの夜に曇りなのは少し気分が下がる。といっても、最後には送り火という名のキャンプファイアーをやるから、空はあまり関係ないのかもしれないが。


「あっ……電球……」


 頭上に吊り下げられた電球が、数度瞬いた。見てみれば相当に古いものだ。おそらく、水銀灯。だいぶ使われているのか、電球の内面は黒くくすんでいて、それが雰囲気の暗さを助長している。


「こいつも変えなきゃ」


 確か近くに、電球が保管されている部屋があったはずだ。反射的に、脚立を探して周りを見渡す。


 すると――、


「…………!」


 暗がりに、動くものが見えた。

 目を凝らす。すると確かに、何かがそこにいるのが見てとれた。だが、その姿が一向に見えない……というより、判別できない。


 人のようにも見えれば、動物のようにも見える。ゆらゆらと形を変え、その場に静止している。


 その色は、やはり黒よりも黒い黒。つい最近、僕が視界にとらえたものによく似ている。


 本能が、語っている。無意識に、理解していた。僕も、見た瞬間に解ってしまった。


 あれは、


 かかわってはいけないものなのだと。


「…………」


 不思議と、僕は冷静だった。

 ここにいてはいけない。あの黒から、早く離れなければ。追ってこれない場所まで動かなければ。

 至極冷静に、そんなことを考えることができた。


 SF的に考えるなら、光の中には入ってこれない。だとするならば、いま僕がいる場所はまず安全だ。その間に、あれが何かばあちゃんにでも訊いてみようか。


 不意に、


「…………?」


 チカチカと、視界が明暗を繰り返す。この場での光源は、頭上の電球のはずだと思い出したとき、僕は、自分が危ない状況に陥っていたことにようやく気が付いた。

 電気が消える、それはつまり。



 アレが、入ってこれるということじゃないか。


          3


『火がすべて消え、村は真っ暗闇に包まれました。

 するとどうでしょう。地面の下から、君の悪い声が聞こえてきたのです。

 ――……出せぇ……。出せぇ……。

 その声は、どんどんと大きくなります。村の人たちに、それを止めることはできません。

 ついに、地面の下から、悪い幽霊たちがたくさん出てきてしまったのでした。』



 意識が、別の方向へと引っ張り込まれる。姉さんの声が、どんどんと遠くなっていく。それに比例して、何やら寒気が身体を覆っていく。


 ――……もう、大丈夫。


 そこかで、遠い昔から聞き慣れた声が聞こえた気がした。


         ◇◆


 目が覚めて、さっきまでの光景が夢なのだとようやく理解した。

 姉さんと過ごした日々。祭りの日、主役だからと家を出て、そのままいなくなってしまった姉さんの声。


 そう言えば、姉さんが呼んでいたあの本は、どこへ行ってしまったのだろう。

 あれはたしか、姉さんが初めて僕に作ってくれた本だ。この地域の伝説を元にした、絵本のはずだ。いったい、どんな話だったか……。


「……うぅっ」


 そこまで考えたところで、どうしてか身体中が痛いことに気が付いた。


 目を開けると、そこは闇の世界。いや、小さな豆電球が隣で光っているから、そう見えるだけだろうか。豆電球の光は小さく、僕の身体を起点として数十センチしか照らしていない。


「…………やっと、目が覚めた……」


 幼さが、多分に含まれた声。少し前まで、いやというほど聞かされた声。


「……ノヴァ?」


 痛みをこらえ、ゆっくりと起き上がる。そこには、疲れ切った顔をしたノヴァの姿があった。


「……あれ……? 僕、どうして……?」


「川に落ちていたのよ。もう、祐樹の中には何も入っていないから安心して」


 いつになく、きつい口調でそう言われる。そこでようやく、僕は自分の身体がびしょ濡れになっていることに気が付いた。そうか、寒さの理由はこれだったか。


「助けてくれたのか……ありがとう」


 よく見てみると、ノヴァの身体も、いたるところが濡れてすごいことになっていた。


「どういたしまして。それより、何が起こっているかの説明はして大丈夫?」


 こくりと、僕は頷く。それを確認し、ノヴァがとある方向を指さした。


「ここは、町の裏庭。あっちには、祐樹がいた町がある」


 指をさした方向を見る。だがその光景は、僕が想定していたものとは明らかに違う。


「なんで、明かりがないんだ……?」


 そこにあったのは、暗闇。


 街灯も、蛍提灯も、何もかもが消えた町。町民たちが握っているであろう懐中電灯だけが、サーチライトのように夜空へと伸びる。


「祐樹、気を失う前に何か見た?」


「あ、ああ。何か、黒い靄みたいなのが………………もしかして、それが?」


 ノヴァが頷いた。そして、口を開こうとした、

 

 そのとき――、


「伏せて!」


 ノヴァが、僕に覆いかぶさった。激しく地面とキスをする。その刹那、奇妙な音と光が放たれた。


 何事かと、顔を上げた。目の前には、


〝黒〟が飛び交っていた。


 まるで、色そのものが実態を持っているかのように、自由自在に闇を飛び交っている。それは、時に近づき、時に後退を繰り返しながら、僕たちの周りをまわっている。しかし、光に触れるとその動きは大きく弱まる。


 突然、ノヴァが自分の服の端をつかみ、一気に引き裂く。ビリリと乾いた音を響かせ、敗れた一部が何と紙のように薄くなる。それを、ノヴァが握りしめる。

そして、


〝黒〟に向かって、思いっきり投げつけた。


 効果はてき面だった。

〝黒〟に当たった服の切れ端は、青い炎を上げて燃え出す。すると、さっきまでは嫌がる程度だった黒の身体は、たちまち青に包まれる。


〝黒〟がもがく。

青が滅却する。

〝黒〟が喰らう。

 青が喰らい返す。


〝黒〟の存在は、わずか数秒の攻防で消えうせたのだった。


「………………は?」


 理解不能。キャパシティーオーバー。


 この状況が、何一つ理解できなかった。


「走って!」


 その声に、慌てて立ち上がり、無我夢中で走り出す。

 僕の隣にはノヴァが並走し、進む方向を指示している。


 道中。


「祐樹が見たのは、悪霊。地獄から漏れ出してきた魂。もちろん、今のも」


「はぁ⁉ なに馬鹿なこと言ってんだよ」


「馬鹿でも間抜けでもいい。この際、信じなくてもいいから。大切なのは、それに町が襲われてるってこと」


 走りながら告げられる、衝撃的な言葉。

 当然、理解不能。しかしノヴァはお構いなく、説明を始める。そのあとの説明は、にわかには信じられないことだった。


 町中の火が消えたのは、この悪霊たちのせいであること。

 悪霊たちは、人に取り付きその生命力を喰らいつくすということ。


 そして、


 悪霊たちの狙いが、僕であること。


「……何で……何で僕なんだよ‼ 全部、全部僕の所為だっていうの「それは違う‼」」


 鋭く、僕の声を引き裂くようにノヴァが咆える。


「祐樹は、何も悪くない。ただ、あいつらが勝手にそう思っているだけ」


「解らない、言ってる意味が訳解らないんだよ!」


「祐樹は! 祐樹は十年間、ずっと儀式の調整役をしてた。十年連続で関わっていた人間は、祐樹しかいなかったの。だから、あいつらは祐樹がキーパーソンなんだって、勝手に誤解してる」


「じゃあ、僕がどうなっても……」


「どうにもならない。そもそも祐樹には何の力もないんだから、ただの無駄死にになるだけ。そうなったら、あいつらの暴走はもうだれにも止められない」


 そうか、つまり僕は、誘蛾灯のような役割なのか。


 蛾が、誘蛾灯に引き付けられるように、僕がいる限り、最悪のことは防げる。だが、僕がいなくなれば……、


 全ての悪霊が、町に放たれることになる。


「……策は、あるのかよ」


 このまま、走り続けるというはずもない。なにか、あいつらをどうにかできる秘策が、それがなければ終わりなのだ。


 答えは――、


「………………無い」


 長い、ひたすら長い間であった。


「………………」


「朝になれば、悪霊は地獄に引きずり込まれる。そうすれば、被害は最小限に――」


「嘘つくなよ!」


「⁉」


 それで、僕が気づかないとでも思ったのだろうか。


 あまりにも、解り易すぎだ。

 隠すのが、下手くそすぎだ。


「教えてくれ、僕を餌にして何ができる? じゃないと、僕は勝手に動くぞ!」


 あんなに間を開けて、何もないはずないじゃないか。僕が狙われているのに、それを利用する手がゼロなわけがないじゃないか。

 それに、これは僕の夢なんだ。

 

 悪夢なら悪夢らしく、僕を巻き込め!


「…………ひとつだけ」


 長い長い沈黙の後、ノヴァはその可能性を指摘する。


「……解った。それなら、僕に考えがある」


 僕の作戦に、ノヴァは頷く。しかしその横顔は、悔しさに歪んでいる。

 

おおよそ解決策を話すときに、するべきとは言えない表情に思えた。


          ◇◆   ◇◆   ◇◆


『唯奈! いま町はどうなってるっ?』


「電気が全部消えてる。停電が起こったみたい。祐樹はどこにいるの?」


『そこについては後で言う。それより、頼みがあるんだ!』


「大丈夫だと」そう言った声色は、切羽詰まったものだった。大丈夫な人間が出す声ではないと、普通に考えれば解ってしまうほどに。


 訳を聞いても、教えてくれない。もしかしたら、この停電に大きく関係があるのだろうか。


「…………本当に、本当にどうしたのよ! いったい何があったの?」


『説明してる時間がないんだ! いましくじったら、大変なことになる!』


 その時、電話越しに炎が燃え上がるような音がした。一瞬だけ、通信が途切れ雑音が混じる。どう考えても、大丈夫な状況ではない。何が起こっているかはわからない、だが、時間がないのは本当のようだった。


 全く、腹立たしい。


 どうして、相談くらいしてはくれないのか。相談しても仕方がないとしても、頼みがあるならそれくらい教えてくれてもいいじゃないか。その方が、こちらも円滑に事が進むというのに。


 今回のことも、もしかしたらあのノヴァという女の子が絡んでいるのだろうか。あの子が、祐樹を何か大変な状況に巻き込んでいるのだろうか。

 わたしをのけ者にして、二人だけでまたなにかしているのだろうか。


 ああ、腹立たしい。


 本当に、


 腹立たしい彼氏だ。


「――――ちゃんと、終わったら説明してよね!」


『もちろんだ! ありがとう』


 まったくもって、ずるい彼氏だ。


 話してくれないくせに、しっかりお礼だけは言ってくれる。ここは、最後まで腹が立つ彼氏でいてもらわないと困るというのに。


 そうでないと、嫌みのひとつも言えないではないか。


「それで、頼みたいことって?」




 案の定、やぐら周辺は混乱の最中だった。

 電源が停止し、薄暗い中で人が右往左往しているのが見える。こんな時に、こんなことをしてもいいのだろうか。確かに、百パーセント不謹慎というわけではないが。


 それに、


 ――……何があっても、やめないでくれ。同じことの繰り返しでもいい、ずっと続けていてくれ!

 

 あの言葉は、どういう意味だというのだろうか。


「…………考えても、仕方ないか……」


 いま、そんなこと考えるのは場違いだ。あの祐樹が言ったのだ。きっと、何か秘策があるのだろう。

 控室から抜け出し、いま、ここに立っている。騒ぎの所為か、まだ気が付いている者はいない。


 止められる前にやるなら、今しかない。


 音消しに使っていた古布を取り去り、静かに地面へと置く。


 リィィン……っと、殺しきれなかった音色が声を上げる。


 大丈夫。大丈夫。まだ、気が付かれてはいない。


 目だけを動かし、再度周りを確認する。

 人の数は充分。そして、祐樹が言っていた懐中電灯の数も充分。これなら、祐樹が言っていた条件を達成したと言っていいだろう。


 目をつむる。


 息をゆっくりと吐き出す。今度はゆっくりと吸いこむ。また吐き出す。

 

 そして、ゆっくりと目を開ける。

 

 心の準備はできた。


「…………よしっ」


 神楽鈴を持ち上げる。ゆっくりと昇っていくそれは、月に昇天する魂を暗示している。


 そのまま、


 目一杯掲げた神楽鈴を――、



◇◆   ◇◆   ◇◆



 リィィィィィィィ――――ィィイインッ‼


 ざわつくやぐらの周辺に、鋭い音が浸透した。

 全員の『時』が同期し、一斉に一時停止する。誰もが、音のするやぐらに目を向ける。


 そこにいたのは、死者の案内人。

 神楽鈴を鳴らし、舞台上を舞う唯奈だった。


 踊る、踊る、空気の羽衣を身にまとい。

 鳴らす、鳴らす、月へ聞こえるほどに。

 

 その姿は、先祖を導くその踊りは、

 誰が見ても、美しいものだった。


 ふと、どこからか光がやぐらに当たる。

 それに追従するように、やぐらを照らす光の筋は増えていき、唯奈の表情までもがはっきりと見えるようになる。そこには、はっきりとした意識はない。ただ単に、照らさなければという強迫感にとらわれたのだ。


 そう、はっきりと断言できる。なぜなら、僕もそう思っているのだから。

 しかしもったいないことに、僕にはそれを見る時間はない。唯奈に踊ってもらったのは、そのためだから。


 視界の片隅に、黒い靄が映る。僕を探しているのだろう。だが、人ごみに紛れてしまって僕が見つからないと見た。当然、すぐに解る唯奈に近づく。


 そして、弾かれる。


 悪霊は、生前ほどの知能は持っていないらしい。よくて犬と同等。普通ならばゾンビと変わらない――そう聞いている。


 つまり、奴らは本能的に一番目立つ唯奈に向かう。だが、弱点の光で弾かれる。それを繰り返すのだ。唯奈が踊り続けている間は、他のものに意識が回らない。


 ふたつ目は――、


「うえぇ……、ベタベタする」


 僕の行動から、大人たちの注意を逸らすため。



 手に感じる、食用油を染み込ませたロープの感触。それは腰へとつながっており、僕の身体はもう油でベトベトだ。


 そのロープは、やぐらの正面に位置するもう一つの巨大なやぐらにつながっている。それの役割は、その形と僕が握っているこれを見れば瞬時に解るはずだ。そう、燃やす以外にありえない。


 目指すは、広場の端っこ。朽ちてむき出しになるガスパイプ。もうガスは通っていない。だからこそ、何のためらいもなく腰に下げていたバールで思いっきり引きちぎる。


 ベキン! という破砕音に近い音とともに、バールが勢いよく僕の胸へと突進する。咳をしながら直撃の痛みに耐え、用意してあった残りの油――量にして三リットル――を破れた場所にすべて流し込む。その後、地面を這わせたロープの端も管の中へと押し込んだ。


 ここでの準備は完璧。端末の電源をつける。ロック画面に表示された時間は、タイムリミット六分前。以外に手間取ってしまった。もう、時間がない。


 ――さぁ、最後だ!


 泣いても笑っても、これが最初で最後のチャンス。

次はない。そうなれば、朝になった時に転がっているのは人の山だ。


 僕は走り出す。走りながら、ポケットの中をまさぐる。目当てのものがしっかり入っていることを確認して、速度を速める。

 目指すは、


〝ガス調整室〟



         ◇◆   ◇◆   ◇◆


 息が切れる。


 呼吸は震え、手足の感覚がない。


 それは、踊り疲れたからではない。断じて、そんなやわな身体作りをしてはいない。


 見てはいけないものを、見てしまったからだ。


 踊り、激しく移動する視界の端々に、黒い靄が映りこんでいる。それは、光に当たると後退する。だが、少しずつ、少しずつだが、距離を縮めているように感じてならない。心の中で、何か黒いものが膨れ上がっている。

 本能が悟った、あの黒い靄は触ってはいけないと。そして、


 奴らの狙いは、わたしなのだと。


 そうか、だからこそ、祐樹は何も言わなかったのか。

 聞いてしまえば、わたしが出てこなくなると思ったから。出てきたとしても、踊れなくなってしまうと思ったから。


 怖い、怖い、そのことは否定しない。光がなくなったらどうしようと、そのことは今この瞬間もはっきり恐怖として認識している。


 だが、


 身体を大きくひねる。神楽鈴がひときわ大きな音を奏で、着物の端が宙を舞う。


 恐怖を自覚するほどに、踊りの精度が上がっていくのが解る。本来踊るはずではなかったものまで、ついでに習った時の記憶を頼りに身体を振り回す。


 下からは、どよめきが起きる。すこし、間違えただろうか。

 たとえそうだとしても、わたしに当たる光の本数は変わらない。いや、むしろ増えているような気さえする。それがあれば、わたしが襲われることはない。


 まったく、祐樹は甘い。


 真実を――奴らのことを聞いて、わたしが怖気づくとでも思ったのだろうか。正常な判断ができなくなってしまうとでも思ったのか。


 まったく、どこまで彼女を信じないのか。


 祐樹が安全と言ったのなら、ましてや、自分でも安全と理解したなら、感情そっちのけで踊るに決まっているのに。わたしの心は、崩れ落ちるほどには弱くないのに。


 全て終わったら、文句を言ってやるんだ。


 今までほったらかしにしてごめんと、わたしの強さを信じれなくてごめんと、そう言わせるんだ。


 だからこそ、


 いまは、全部忘れて踊ってやるんだ!



          ◇◆   ◇◆   ◇◆


 旧管理棟一階に、〝ガス調整室〟はある。


 この町は少し特殊な設備が存在し、そのためにこの管理棟がある。

 それは、ガス灯籠。天然に産出されるガスを利用した灯籠が、かつてこの町にあった。


 日本でも珍しい、まとまった天然ガスを取ることができた地域、それ故に、一昔前まではガスを自給自足していた地域、それがここだ。

 ガスが枯渇してしまったため、いまとなってはそんなことは不可能だ。よって、灯籠の火は消え、電気へと移行している。


 しかし、設備はまだ残っている。


 取り壊し費用が掛かるからと、日本全国で見ても珍しいからと、この施設を残そうという採決がなされ、現在もそのままになっている。もちろん、ガスが出ることはない。だが、僕が考えていることはまだ実行できる。


 元栓を開放し、町中すべてのガスパイプをつなげることはできる。


 僕が壊したのは、土砂崩れであらわになった元栓につながる管。つまり、ここのバルブを開放すれば、あの場所と町中の灯籠がつながる。


 ――矢島のおっちゃん、ごめん!


 立ち入り禁止の看板を蹴飛ばし、錆びついた扉を力任せに引っ張る。そのまま、一目散に調整室へ。


 ――あいつらは祐樹がキーパーソンなんだって、勝手に誤解してる……


「……クソッ、やっぱりいる‼」


 中は真っ暗、黒い靄が襲ってくる。僕に取り付こうと躍起になる靄たちを、端末の懐中電灯機能ではじき返す。防御に精いっぱいで、まともに前は照らせない。だが、そんなことお構いなしに、僕は廊下を走り続ける。暗闇の中を、迷うことなく走り続ける。


 子供のころ、よくここに忍び込んでは地主の矢島さんに怒られていた。部屋の中がどうなっているのかまでは知らないが、どこに何があるかは、矢島のおっちゃんよりよく知っている。


 一階東側、唯奈の踊る姿が、窓からちょうど見える位置。


〝ガス調整室〟


――……あった!


 屋内のおかげか、扉は錆びついていない。拝借してきた鍵を取り出し、靄との攻防を続けながら、お目当てのものを差し込む。


 ガチンッ


 重たい音が、廊下に響く。まるで驚いているかのように、靄が一瞬だけ僕から離れる。その隙に、調整室へと一気に入りドアを閉める。懐中電灯の光をマックスにし、天井からぶら下がる紐に括り付ける。


 残り二分、もう時間がない。


「……どれだ……?」


 壁にでかでかと描かれた、パイプの配置図。まるで蜘蛛の糸のように、パイプは町中を張っている。


 配置図によると、パイプ管は五つのグループに分けられており、それぞれが別のバルブによって管理されているようだ。そして、ガスの元栓の役割を果たす、〝0番バルブ〟。僕が解放しなくてはいけないのは、この六つだ。

左側の巨大な空間、そのすぐ前に、五つのバルブ。それぞれ、1,2,3,4,5、番バルブだ。


 思いっ切り、左へと回す。1番バルブから順番に。


 流石は、平成初期まで使われてたバルブだ。錆がひどくて、うまく回らない。


「う……ッ、ご、けぇぇぇぇえ‼」


 手にこびりついた油を塗り付け、なんとか五つのバルブを開放する。手には血がにじんでいる。手の皮がはがれているのか。かなり痛い。

 時間は、残り四十五秒。あとは、0番バルブを――、


「…………うそ、だろ……」


 それを見て、そう言うしかなかった。

 直径、約八十センチ。


 他のバルブの四倍の円周を誇る、巨大バルブを目の前にして。





『悪い幽霊たちは、たちまち村の人たちを病気にしてしまいます。

 するとそこへ、ひとりの少年が名乗りを上げました。

 ――村長さん、僕を……』


 水にぬれたからだが、重い。


 祐樹を助ける時に、少し無理をしすぎてしまった。

 ただでさえ、この身体は色々と不自由だというのに。おかげで、下準備をするのにもかなりの手間がかかってしまった。


 祐樹に教えてもらった灯籠の場所は、全部回り終わった。奴らが手出しできないように、特別な仕様にして。そのおかげで、かなり力を使ってしまったのだが。


 もう一度やる力は、すでに残っていない。


 これが本当に最初で最後、一回きりの勝負になる。


「……ごめんね。祐樹」


 謝っても、許されることではないことは解っている。いくら勝率が悪かったとはいえ、全く関係のない祐樹をこの場に巻き込み、一番危険な役割を指せているのだ。何があっても、許されることではない。


 それにしても、


「……本当に、」


 不謹慎だとは解っている。こんなこと、いま考えるべきではないことも理解している。


 それでも、


「…………大きくなったなぁ」


 そう思わずにはいられなかった。




          ◇◆   ◇◆   ◇◆




 けたたましいアラームの音を、僕は落下中に聞いた。


 身体が落下し、ドサリというあまりよくない音が鳴る。しかし、身体中の痛みも気にする余裕はなく、ぜぇはぁと荒い呼吸を繰り返す。


 アラームが鳴った。これで、終了だ。


 手の平は血まみれ。もう、残っている皮なんてない。手首の付け根には、その残骸が湯葉のように密集して固まっている。むき出しの神経に、空気が針のように刺さる。


 僕にできることは、もう無い。


 悔しい。とてつもなく悔しい。


 僕の町なのに、僕が何とかしなくちゃいけないのに、もう、そんな力はどこにもない。


 だから、


「――――やってくれよ、ノヴァ」


 回りきった0番バルブの下で、そう願うしかなかった。




          ◇◆   ◇◆   ◇◆




 ――そこで、勇敢な少年は言いました僕を、魔よけに使ってください。そして少年は、自らの命を燃やして松明となりました。村は、幽霊たちの病気に勝ったのでした。

『…………この話、悲しい』

『そうね。お姉ちゃんもあんまり好きじゃない。じゃあ、お話書き換えちゃおうか』

『うん! はっぴーえんどにしたい!』

『もうそんな難しい言葉覚えたんだ。じゃあ、祐樹ならどうしたい?』

『僕なら――』



          ◇◆   ◇◆   ◇◆



 ――頼む、ノヴァ……!

 ――頑張って、祐樹!




『男の子を助ける女の子を出す!』




 ――……二人ともありがとう。あとは、任せて。



 青い炎が、天へと駆け上がった。


 やぐらを悠々と超え、雲を突き破り、月まで届かんとするほど高く。

 それは、悪しき魂を滅却する月の魔法。月の死者たちだけが使える、神秘の力。


 炎が、広がる。


 ロープを伝い、朽ちたパイプの中を走り、町全体に広がる。

 灯籠が数回、咳をするように炎を吐き出す。そして、二十数年ぶりに役目を再開し、煌々と明かりを湛える。


 青い光が、いたるところで産声を上げる。

 通りに、川に、湖に、

 光はすべてを包む込み、影の存在を否定した。

 

 黒い靄が、消えていく。


 うめき声が、消えていく。


 全てが消滅しても、光が消えることはない。


 いつしか、雲が晴れていた。

 七夕の夜空が、青の町を優しく見守る。

 荒々しく、壮大な天の川が、その珍しい町をとらえる。

 その光景はまるで、昔からの言い伝えで残る、


『天月物語』                                                                                                                  


          5


 ――七月八日、 午前四時――


「……終わったな」


「終わりましたね」


 昨日、靄に取り付かれていた僕が目を覚ましたあの場所で、再び僕は寝転がっている。


 隣にはノヴァ、そして唯奈。すべてが終わった朝日が身体にしみる。手にはまだ痛みが残る。だがそれ以上に、僕が感じているのは純粋な達成感だった。


 昨日の話は、もう聞くまでもないだろう。


 あの後、黒い靄は町にまったく寄り付けなくなった。それはもちろん、あの青い火のおかげ。いくら訊いても、秘密と言ってノヴァは教えてくれなかったが。問題はむしろ、その後の方だ。


 簡単に言えば、絞られたのだ。それはもう強烈に。


 唯奈の剣幕はすさまじいものだった。まず、なにがあったのかを根掘り葉掘り訊かれ、僕は盛大に叱られた。


 勿論、僕はあったことをすべて話した。そして、やたらと秘密という言葉を持ち出すノヴァは、本気で半殺しにされかけていた。僕が止めに入らなければ、あのまま窒息死もありえたのではないかと思える。


 そうは言いつつも、僕の手を見て泣きそうになりながら手当てをしてくれたのだから、あの怒りは本気で僕たちを心配したものだったのだろう。


 三人で寝転がる。朝日がさして、あっという間に青くなり始める空を見ながら、ただこの雰囲気の中に身体を休める。


「……ノヴァは、これからどうするの?」


 長い沈黙の後、唯奈がそう切り出した。


「それ、私の答え解っていますよね? 唯奈さん。それに、祐樹さんも」


「……うん」


「まぁ、なんとなくは」


 あの日、本気で三途の川が見えてしまったのか、ノヴァはひとつだけ自分の秘密を――自身の正体を明かした。


 ノヴァは月から来た使者らしい。目的までは話してくれなかったが、そんなことを察せないほど、僕たちは馬鹿じゃない。目的がアレなことは、もう明白だった。


「わたしたち、あなたのおかげで散々な目にあったんだけど……」


「は、はい、そこは申し訳なく思っています。ホントに、その……冗談抜きで」


「ふふ……、嘘、嘘、もうそのことには触れないって、二人で約束しているから」


 僕も、寝転がったまま頷く。それを聞いたノヴァは、明らかに困惑していた。だが僕は、なんとも思っていない。これが、僕の彼女なのだと知っているから。


 肝心なところはちゃんとしていて、割り切ることができる。決断は早く、サバサバしているが、意外なところがもろくて泣き虫。そしてちゃんと、女の子している。家族を失って自暴自棄になっていた僕の話をきいて、本気で泣いてくれたのも彼女だけだった。


 本当に、よく信じてくれたなと、いまさらながらに思う。


「もう、行っちゃうの?」


「はい。正直言って、私が今ここにいるのも結構限界が近いので。キレイにさよならするなら、もうそろそろ」


「そっか」


「それなら……っと」


 痛む両手を我慢し、立ち上がる。唯奈に思わず手を差し出すと、「不用心……」という言葉とともに腕をつかまれた。これは、帰ったらまた言われるかもしれない。


 ノヴァと向き合う。太陽を背にしたノヴァは、心なしか、輪郭が少し歪んできている気がした。


「……そろそろですね。それでは、祐樹さん、唯奈さん、ここでお別れです」


「ああ、じゃあな」


「また、こっちに来られるの?」


 頷く僕に、そうノヴァへと問いかける唯奈。それにノヴァはさみしそうに笑う。その笑みはつまり、そういうことなのだろう。「そっか」とひと言で納得したのち、唯奈はやさしそうな笑みを浮かべた。


 その時、


 ノヴァの身体が、大きく崩れた。


 僕たちは言葉を失う。だってそれは、崩れたノヴァの身体は、僕たちがよく知っているものなのだから。


「……新、聞紙?」


「他にもまだまだありますよ。霊体がこの世界に存在するには、依り代が必要でしたから」


 これなら、だれにも迷惑かからないでしょ? と、ノヴァはいたずらが成功した子供のように笑う。僕たちも、釣られて笑う。


 そこに、涙はない。あらかじめ、決めておいたのだ。別れるときは笑おうと。もちろん、唯奈と二人で。


「…………あっ、言い忘れてた」


「はい、何でしょう?」


 不意に、思い出した。昨日、解れる時には伝えようと思い、やっぱりやめたと取り消した言葉を。もう一度、考えてみる。だがやっぱり、言った方がすっきりするような気がするのだ。


 主に僕が。


「僕は、魔法を信じない主義だ」


「へ?」


 突然の告白に、ノヴァは予想通り固まった。


「もし、魔法があるっていうんなら、同じ状況を作れば何回だって同じ現象が起こるはずだ。なのに、そんな報告はない」


「ええぇー……強情ですね」


「うわぁ……流石理工学部」


 ノヴァが引いた。ついでに、唯奈も引いた。これは、本気で引いた時の目だ。ここで話を止めれば、僕は唯奈の中での『空気の読めない奴グランプリ』ナンバーワンを獲得することだろう。


「だけど……」


 だが残念、僕もそこまで子供じゃない。それに、そんなことを言いたいわけでもない。本当に伝えたいことはこの後だ。


「だけど、その、……はぁ…………認めるよ。ノヴァのそれが魔法だって。今回は完全に、ノヴァの勝ちだ」


 その時のノヴァの姿を、僕たちは生涯忘れられないだろうと確信した。


「……はいっ!」


 ノヴァが笑った。


 僕ですら……唯奈ですら見とれ息を呑む、太陽のような笑みで。

 そしてその笑みに、僕の心臓が大きく跳ねる。なぜなら、いま、全てが繋がったから。昨日までの記憶が、走馬灯のように脳内を駆け巡った。


 ――ちゃんと毎年参加してるんですね。誰かと約束でもしてるんですか?

 ――祐樹は十年間、ずっと儀式の調整役をしてた。十年連続で関わっていた人間は、祐樹しかいなかったの。


 ……ああ、そうか。


 ノヴァの思わせぶりな発言は、まるで、僕を知っていたかのような発言は、

そういう、ことだったのか。


「……もう、本当にお別れですね」


 ノヴァの身体は、腰から上を残して崩れ去っていた。崩れた紙くずは風に舞い、どこか遠くへと消えていく。


「それじゃあ――「ノヴァ!」」


「?」


 言わなくては。


「僕、唯奈って彼女ができたんだ」


「…………ッ!」


 もう、いまこの瞬間しかないんだから。


「だから、」


 言葉より先に、涙が零れ落ちた。


「だから……ッ」


「…………うん」


 声より先に、嗚咽が漏れだす。

 全てを悟ったような顔。だが、僕の口から言わないと意味がないんだ。

 言え、動け、絞り出せ!


 大切な人との、今生の別れになるのだから。


「ありがとう――――姉さん……ッ」


 言いたかった言葉は、口に出る前に消えてしまった。

 これが言いたいことなのだろうか、伝えたかったことなのだろうか、それはもう僕にも解らない。だが、会話としては成り立っていないことは明確だ。


 そして、


 姉さんは、笑った。


 僕に笑いかけていた、あの時の笑顔で。

 たとえ、姿が違っても。それはたしかに、

 

 京香姉さんだった。


 ――幸せになりなさい。


 音は聞こえなかった。

だが、そう言っていたのは、いやというほどに解った。


 崩れ落ちる。堪えていた涙が、一気にあふれ出す。

 背中を、唯奈が抱いたのが解った。それが、僕の涙に拍車をかける。


 どれくらい、泣いたのだろう。唯奈が、優しく背中を叩き、姉さんのいた場所を指さす。


 そこには、古ぼけた一冊の本があった。


 既製品にして造りが雑な、一冊の本があった。

 手に取る。おもむろに開く。


「……ぷっ、そういうことかよ。姉さん」


 ようやく、全てに合点がいった。

 姉さんがあんな格好をしていた理由が、ようやく解った。


「……そろそろ行こう?」


「ああ、そうだな。腹減ったよ」


 努めていつも通りに、僕たちは歩きだす。手が痛い僕に気を使い、握っているのが僕の手首なだけで、唯奈の温かさは変わらない。

 転ばないように、ゆっくりと山から下りていく。

 動かすことすら困難な左手に、


〝天月の魔法〟をにぎりしめて。


 ◇◆   ◇◆   ◇◆


 少年を助けたノヴァは言いました。

 一緒にこの村を守りましょうと。

 この先、なにがあったとしても、 


 わたしは、あなたの近くにいます、と。



 《Fin》

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天月の魔法 海崎 翔太 / 紅(クレナイ) @Kurenai_

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