海のなかでガラスは

古池ねじ

第1話

 一人で秋を迎えるのは、もう何度目になるだろう。この頃はもう年を重ねる度に、孤独になっていく気がする。孤独に、同時に、自由に。

 かさついた髪に触れる風が涼しい。昨日までは感じ取れた夏の名残の熱はどこかに吹き飛ばされて、空の高いところにはほうきの跡に似た薄い雲が浮かんでいる。冬の先触れの寒さもまだない。完璧な、秋だ。ごく短い期間しか味わえないその空気の中、いつもよりもゆっくりと歩く。

 澄んだ藍色の海に、白い泡の筋ができている。もう耳になじみ過ぎた波の音を、拾い上げるようにして聞き取る。スニーカーの下で白い砂が沈む。ゆっくりと歩く。浜を歩いている間は、仕事について何も考えないことにしている。急な依頼で眠れていなくても、家に帰った途端にパソコンと向き合わなくてはいけなくても、この時間は、そのことを考えない。海に向かって心を開け放しておく。そうやって、心を静かに保つ。静かな、一人きりの生活。孤独で、快適な、私だけの生活。長い時間をかけて、すっかり若さを失った私が手にした、あるいは私が辿りついた生活。それを、きちんとしたかたちで保っておくには、こういう時間が必要だった。

 夏場よりも色が濃くなったように見える砂を見る。たまにいいガラス片が見つかるのだ。シーグラス。今日も見つけた。石に混じって、あおいガラス。拾いあげて光にあててみる。曇った丸い水色。硬くてひやりとした儚い手触り。もともとは何だったのだろう。どこからやってきて、こうなるまで、どのぐらいの時間がかかったのだろう。

 少し楽しくなって、口笛を吹いた。吹き始めてから、その曲がニューシネマパラダイスの愛のテーマだということに気づいた。私の口笛は細く、寂しげな音が出る。

 最初、気のせいかと思った。感傷的な気分が勝手に音を足しているのかと。それはその口笛が、あんまりにも私の気分にぴったりと沿っていたせいでもある。寂しくて、それでいてたっぷりと甘くて。それが現実の音なのだとわかってからも、なんだか夢のようだと感じていた。海風の中、細い糸のような私の口笛に、細く淡いのに決して途切れることのない音が甘く絡みつく。一息吹くごとにその音は口笛だけでなく、私自身の輪郭に甘く沿って絡む。潮風さえどこか甘くなる。

 導かれるように吹き、導かれるように終わった。甘い余韻の底で、波の音がざわめく。

「先生」

 そう呼ばれること自体、久しぶりだった。振り返る。

「……驚いた」

 口をついて出たのはその言葉だったけれど、自分で知覚できる意識の奥では、知っていた気がした。寂しく甘い夢のようなニューシネマパラダイス。口笛ではないけれど、それを聞いたことがあった。何年か前の自動車のCMで、白いシャツとジーンズの彼が弾いていた。映画音楽からポップスやロックまで、さまざまな曲のピアノアレンジを彼が弾くシリーズ。あれで、彼の名前と顔はクラシックファンだけでなく、本当に誰もが知ることになった。大衆化したのだ。それでも、もともとのファンや評論家からの評価も高いままだ。先月もニューヨークでコンサートを開き、大喝采を浴びていた。来月にもまた東京でコンサートがあるはずだった。

「……久しぶり」

 目を細める。

 写真や動画で見るよりも、ずっと背が高いように思う。かたちのいい小さな頭蓋骨。陰になったところは青く見えるほど白いなめらかな肌。細長い手足の運びは無造作でも、どこか人に見られ慣れた人間の洗練がある。どの瞬間もそれで一つの絵のようだ。着ている薄手の黒いセーターも細身のパンツもキャンパスシューズも、派手ではないけれど高いものなのが一目でわかる。その佇まいが、この寂れた町に慣れた私の目にはいちいち浮き上がって見える。注目と喝采を浴びるために生まれたような人間。

「うん。久しぶり」

 でもそのどこか躊躇いながらも甘えるような微笑みは、昔のまま、小学生の彼のままだった。日に焼けた肌の、いつもぐにゃぐにゃと何かにもたれかかろうとする男の子の姿が、記憶の底から不意に鮮明に浮かび上がる。十五年。小学校を卒業した彼がこの町を出て行ってから、もうそれだけの時間が経っていた。

「……帰ってきてたの?」

 テレビか何かの取材かもしれない、と思って、こっそりあたりを見回してみる。静かな砂浜に、私たち以外の影はない。

「うん」

 この大人が信頼できるのか見定めようとしながらも、甘えたい気持ちが隠し切れない。そんな様子で彼はうなずく。子供の頃からいつもそんな調子で話すので、生徒の扱いはなるべく平等にしようと心がけていても、どうしても注意を持っていかれた。半ば無理矢理のように注意を引き付けられて、指導にも熱がこもった。もっともその熱は、彼のそういう態度のせいだけに引き起こされたものではなかったけれど。

「先生、変わらないね」

 そういうことを言われたときの習慣として、否定しようとする。もう、年寄りだ。でもそんなことは彼にだってわかっているだろう。くすんだ肌。柔らかく崩れていく体型。見ての通りだ。しかし、歳をとっても、私は変わらない。ある意味ではその通りでもある。

「君も変わらないね」

「ほんとう?」

 無防備なほど無邪気に尋ねる彼に頷く。

「全然変わらない。背は高くなったけど」

 彼は笑う。そういえば、笑窪があったのだ。思い出す。どれだけ写真や動画で見慣れていても、また出会うまで見落とし続けていたところがあるのだ。

「先生、散歩?」

「そう。散歩」

「散歩毎日してるの? 今も?」

 頷いた。

 砂浜を歩くのは毎朝の習慣だった。よほど強い雨でも降らない限り、朝食の後に砂浜を歩く。もうずっと、ずっと、そうしている。この町に帰ってきてから二十五年、ずっと。

 彼が小学生のころ。彼は夏には朝から海で遊ぶので、よく会った。ちょっとだけちょっとだけ、と言いながら、結局いつも昼まで付き合わされたものだ。彼には漁師の父と看護師の母がいて、二人とも忙しく、なんとなく、私が彼の面倒を見ることを期待されている気がした。三十を過ぎて結婚もせず親の世話もせずに暮らす女には、その程度のことは当然に期待される。ここはそういう町だった。ひとたび目を離せば沖に向かってどこまでも泳いで行ってしまう男の子を捕まえて、もう帰ろう。帰って一緒にお昼にしよう、と言い続けていた。痩せた真っ黒の彼は私に捕まるとだらんと力を抜いて重たくなって、まだ遊ぶんだと砂の上に倒れ込んだ。ときどき私も引きずり倒されて、二人で砂まみれになった。

 ずっと泳いでいったら何があるの。

 いつだったか、濡れた肌の彼が寝転がって言った。

 別の国。

 そのうち行ける?

 その問いを覚えているのは、彼がいずれ、行ってしまうだろうと思っていたのを言い当てられたような気がしたからかもしれない。あのとき、私はなんと答えただろう。海の向こう。別の国。私が見られなかった場所。小さな痩せた背中にくっきり浮き出した肩甲骨。こんなに幼いのに、すでに私よりも、私のほんの僅か輝かしかった若い日よりも、ずっと、ずっと、彼の翼は力強い。どこにでも行ける。まだ、この子はそのことを知らない。

「楽しかったなあ」

「え?」

 いつの間にか肩に腕が触れそうなほどの距離に彼が立っていた。あのとき私が思った通り、十二歳でこの町を出ていき、十五歳で日本を出て行った彼。

「夏はここで先生と遊べて、いつも楽しかった。いっぱいしゃべれたし、お昼も食べさせてもらって」

 なんの他意もない、混じりけなしの懐古だった。丸く大きな瞳に、海から光の粒が入り込んでいる。

「俺、先生大好きだったから、ほんと楽しかった」

 小学生のころと何も変わらない、甘えた物言い。躊躇いながらもこちらに寄り掛かるような微笑み。

 眩しい。

 私は目を細めて、黙っていた。彼は私の手を握った。それは男が女の手を握るやり方ではなく、子供が大人の手を握るような、不格好なやり方だった。軽く握り込んだ私の手を無理に開かせて、自分の手を滑り込ませる。子供のやり方で握りながら、大きな大きな手のひらの中に、私の手を覆ってしまう。なんて大きくて、指先まで力強い手だろう。彼の手。世界中に届く音を奏でる手。乾いた皮膚が、脈打つように熱い。

 顔をあげると、彼はちょっとした悪戯を成功させた子供の顔で笑っていた。私も笑おうとする。うまくできたかはわからない。

「……うちに来る?」

「いいの?」

 聞きながら、もうすっかり行く気になっているのがわかった。かかとが軽く跳ねて、握った手がぽんぽんと彼の腿にぶつかる。

 今度は笑おう、と思うよりも前に、笑っていた。


 海辺の家は両親の遺産だ。三人で住むには大きくはない家だったが、一人で住むには広い。どうしようもないところ以外はほとんど手を入れていないので、ずいぶん古びている。台風が来るたび、軋む家の中で縮こまって、これが最後かもしれないと覚悟を決めることになる。これが最後かもしれない、それでもかまわない、と。

「教室、もうやってないの?」

 壁の、四角く色が変わったところを見て彼が尋ねる。五年ほど前まではそこにピアノ教室の看板があったのだ。

「もう私も年だしね。やめちゃった」

 引き戸を開けて中に入る。ものがないので散らかってはいないけれど、一人しか出入りしていない家はくたびれた気配に満ちている。自分でも久しぶりに見る客用のスリッパを、玄関の物入から引っ張り出して勧める。

「中、全然変わってないね」

「そう?」

 ポケットからガラスを出して飾り棚の籠のそばに置いた。拾ったら置いておいて、気が向いたときにまとめて洗って籠の中に入れる。籠の中にはそうやって集めた色とりどりのガラスがいっぱいだ。窓から日が入ると、きらきら光って綺麗。

「ガラス?」

 飾り棚の前に立つ私の両脇に手をつくようにして、彼が尋ねる。私の髪が、彼の声で揺れる。

「先生まだこういうの拾ってたんだ」

 籠の中に節くれだった長い指を入れる。かしゃかしゃ、と高い音が立つ。音と感触を楽しむように、籠の中をかき回す。ぱちぱちと、籠の中で光が跳ねる。

「覚えてるの?」

 尋ねると、指が止まった。

「覚えてるよ」

 指を抜く。籠の中のガラスは、なぜだかさっきよりも生き生きとあざやかに見える。日常の中に沈んでいた色彩が浮き上がってきたような。

「すごくよく覚えてる」

 念を押すようにそう言うとかかとを使って靴を脱いで、つま先で引っ掛けるようにしてスリッパを履く。何かを急いているような仕草。昔と同じだ。

 廊下を通って居間に入ると、

「うわ、ほんと全然変わってない」

 と笑って、椅子に掛けた。四人座れるテーブルセットだけれど、自分以外の誰かが据わっているのを見るのは久しぶりだった。

「でもこんなに小さかったんだ。このテーブル」

「今何センチ?」

「さあ。180は超えてるけど」

「おやまあ」

「なにそれ」

 二人で笑い合う。私は台所に入って冷蔵庫を開ける。

「手を洗っていらっしゃい。いいものがあるから」

「はあい」

 ことさらに子供っぽく言って、彼は洗面所に向かう。鴨居に頭をぶつけそうになり、慌ててかがんでいる。

「やれやれ」

 小さく呟いて、私は「いいもの」を洗って、皿に盛る。

「いちじくだ」

 思いがけない距離で言われて、皿を落としそうになる。私の肩に顎をつきそうな近さで彼が手元を覗き込んでいた。いつの間に台所に入っていたんだろう。動揺を表に出さないようにする。

「先生いちじく好きだよね」

「好き。よくもらうしね」

 このあたりでよく取れるのだ。インターネットやいろいろな手続きに疎い近所の人たちの、簡単な雑用の代金として、果物はよくもらう。原始的でないことをしてもらう、原始的な甘い貨幣。

「いただきます」

 そのまま私の両脇から腕を回して、いちじくを手に取る。熟れた赤褐色の皮の上を、水滴が丸く滑り、シンクに落ちる。私の肩に顎を乗せて、皮の裂けたところから半分に割った。果肉が引き裂かれ、香りが飛び出す。甘い、甘い、香り。長い指が果肉をつまみ、口に運ぶ。白く光る歯が覗く。薄い皮ごとかぶりつく。

「甘い」

「お行儀が悪い」

 彼は白い喉を晒して笑う。昔から、こうだった。昔からお行儀が悪くて、私が本当に怒るぎりぎりのところまで甘えかかってくる。

 こんなに大きくなってもなお、まだ私に甘えたいのだろうか。はねつけてもいい。もちろん。でも彼の態度から見える微かな怯えのようなものと、それから私の中にあるものが、それをさせない。受け入れてしまう。

「先生もいる?」

 聞きながら、ひんやりとした果肉を私の唇に押し当てる。口の周りが果汁にまみれる。私はそっと口を開いて、柔らかな果肉を招き入れた。唇を押すように彼の指が触れる。ピアノに触れるときも、こんなふうだろうか。馬鹿げたことを思いながらいちじくを齧る。彼は台所の窓から入る日に目を細めて、無造作に汚れた指を舐めた。

「あとは向こうで食べましょう」

 手拭き用の布巾を搾って言う。はあい、と彼は皿をもって運んでくれる。

 昔座った通りに私の席の正面に座って、いちじくの皮を指でつるりと撫でながら、唇を尖らせる。

「どうしてって聞かないの」

「聞いてほしいの?」

 うーん、と唸って、いちじくの実を裂いた。

「聞いてもらうほどのことがない」

「どういうこと?」

 うーん、ともう一度唸って、裂いた実を差し出す。香りがむっと鼻をつく。

「あげる」

「なにそれ」

 それでも受け取って、口にする。彼の指に触れた場所がぬるんでいて、いっそう甘い香りを漂わせているように感じる。柔らかく甘い果実がぷちぷちと口の中でほどけていく。

「指が甘い匂いがする」

 彼が唇に指をつけて言う。また、見知った仕草。昔も果物を食べた後は、そうやって匂いを嗅いでいた。

「気になる?」

「ううん。果物食べるの久しぶりだなって思った」

「そう?」

「買わないしもらわない。食べに行ったら出てくることもあるけど、丸のままは出てこないし、まあ、手では食べない」

 私はお行儀よくナイフとフォークで食事する彼を思い浮かべようとする。映像や写真や記事で見るだけだったときなら、まだできたかもしれないけれど、もう無理だった。行儀悪く人に甘え、指の匂いを嗅ぎ、座っていることが自分に合わないとばかりに体を揺らしている彼は、体ばかり大きくなった、私の知る小さな男の子としか思えない。実際、そうなのかもしれない。若い頃いくらか交流があった演奏家たちも、そういうものだった。彼らはずっと、楽器しか知らない。後のことは皆大人がやってくれる。彼らが見事な音を奏でる限り、大人としての振舞いを知らないことなど誰もとがめはしない。彼らにとって精神的な成熟は、演奏に合致する肉体を作り上げてから獲得するもの、あるいは、永遠に得られないもの、だった。

「先生、ねえ」

「なに」

「弾いていい?」

 居間に置いてあるグランドピアノを指差す。日に褪せた赤いカバーがかかっているピアノは、使い道のない家具のようで、もう楽器にも見えない。それでも私は手を拭いて立ち上がると、カバーを外した。埃が立って、鼻がむずつく。カバーの下から現れた肌は黒くつやつやと輝いている。今まさに目覚めて、人に触れられたがるように。その黒い肌を、彼の白い指が撫でる。優しく、親し気に、懐柔するように。

「調律してる?」

「一応ね」

 ピアノのためというよりも、頼んでいるところとの付き合いのために調律はしていた。いい状態とは言えないが、音はそう狂ってはいないはずだ。

 彼は蓋を開けて、赤いフェルトのキーカバーを取って私に渡した。それから立ったまま鍵盤に指を走らせる。

「あ、弾けるね。懐かしい」

 歯を見せて嬉しそうに笑う。私は笑うことができず、部屋に漂う音色の余韻を耳で探ってしまう。彼は今、ピアノを弾いたというよりも、ただキーを押して音を確かめただけだ。

 それでも、違う。なぜこんな音が。何が違う。彼の指が鍵盤を押す。それだけなのに、他の誰とも何もかもが違う。ピアノは、こういう音を出すのだ。こんな音を出すために生まれた楽器なのだ。黒い大きなグランドピアノが、内側に抱えた空間すべてを使って歌う。くたびれた部屋の空気が音によって沸き立ち、明るく澄んでいく。

「先生?」

 先生?

 彼が私をそう呼ぶ。奇妙だった。何が先生だというのだろう。私が彼に、何を教えられたというのだろう。最初からそうだった。この子はほかの子とは違っていた。四歳のときから、この子の中には何かがあった。音楽そのもの。才能そのもの。私は横にいて、それを見ていただけだ。大きな得体のしれないものと、彼がなじんでいくのを。それがなんなのかも、本当のところわからないまま。わからないまま見つめ、そして他人の手に委ねた。

「……何を弾くの?」

 微笑んで尋ねる。顔の筋肉が、あの頃と同じように動く。彼のためだけにつくる笑顔。

 彼も微笑む。気を遣わずに笑うとき、歯が奥のほうまで見える。白くてきれいな乳歯みたいなかたちの歯。前歯のあいだが少し空いている。まだまだこれから大きくなるつもりみたいに。

「先生の好きなやつ」

 そう言うと、鍵盤の上に指を落とした。その瞬間、腰から浮き上がるような心地がした。ピアノから響いた音が、裸の足の裏から私の体に突き刺さる。この部屋すべてが、その中にいる私までが楽器になったように、音が中まで入ってくる。澄んだ音は愛らしい響きを伴いながら、私を拘束する。逃げ場がない。私に動く意思がないと確認すると、音はご褒美のように皮膚すべてをやさしく愛撫する。私は最初の衝撃を忘れてうっとりと音に没頭する。気持ちが音に沿うと、音は応えるようにどこまでも優しくその中に浸らせる。目を瞑ると、瞼の上を音がなぞっていく。音楽は耳で聴くものじゃなく、空間を動かすものなのだ。瞼の暗闇の中で彼の長く強い指が白い鍵盤に落ちるさまを思い浮かべる。あの指が。音を。音はまるく皮膚を転がり、私の芯を揺らす。音と私は境目をなくして、私が曲のなかに入り込む。

 曲が終わる。最後の一音が鳴り、余韻が静かに空気に沈む。私は息を吐いた。彼の音に洗われて、自分の体が何か新鮮で甘いものになってしまったように感じる。微かにしびれる指先を握る。起こったことがおそろしい、と感じているのに、曲のなかにいた体はまだ甘い陶酔に浸っていた。目を瞑って、このままここに崩れ落ちてしまいたい。

「これ好きでしょ」

 彼は笑う。白い歯が見える。私は表情をなくして、頷いた。リストの愛の夢第3番。好きだ。ずっと好きな曲。彼の演奏も大好きだった。CDも何度も聞いたし、コンサートの演奏も何度も見た。でも、こんな、こんな近くでの体験は、好き、なんて言葉で表すものではない。なぜ彼はこんなに、どうということもないような顔で笑えるのだろう。

 違う。彼にとっては本当に、なんてことのない演奏なのだ。

「久しぶりに弾いたけど、これいいピアノだよね」

 戯れのように指を落とす。そんな音が鳴るのは、あなたに対してだけだ。

 私のグランドピアノ。私の。四歳のときに買ってもらった、私の、ピアノ。ここに運び込むために、朝から大人がたくさんやってきて、大騒ぎだった。黒いきらきらした大きな大きなピアノ。赤いフェルトのキーカバーを外して、真っ白な鍵盤に初めて指を落としたときの、その高揚感。そうして出会ってずっと一緒だった。楽譜なんて読めないときから、右手と左手で違う動きができるようになる前から、ずっと。小学校に入る前は母に、小学校に入ってからは隣の町から先生に来てもらって教えてもらった。中学に入ってからは自転車と電車で一時間半かけて先生の教室に通って、家ではこのピアノを弾いた。環境が悪くて無理だろうと言われながら、必死で練習して、東京の音大に進学した。一人暮らしのマンションにも運び込んで、狭い部屋でもずっと一緒だった。私が夢を持ったときも、夢はただの夢だったと悟ったときも、ずっと一緒だったピアノ。

 でもそんな感傷など、何の意味もない。彼が無造作に指を落としただけで、私の費やした時間すべての無意味さを思い知らされる。私はあれだけの時間をかけて、このピアノと本当に出会うことさえしていなかった。私との触れ合いの長い長い時間の中でさえ、このピアノにはずっと触れさせず、隠していた部分があった。

「先生?」

 彼の訝しむ声に、咄嗟に顔に笑みを貼り付ける。

「上手になったね」

 子供に言い聞かせるような言葉に、彼はへへへ、と照れくさそうに笑った。

「俺先生に褒められるの本当に好き」

 ぽんぽんとキーを叩く。何をどうしたらこんなにまっすぐに音が鳴るのか。

「教室、楽しかったなあ本当」

「本当?」

「うん」

 目を細める。長い睫毛。

「昔はさ、ピアノの上にななちゃんとかかずくんとか乗ったりしてたよね。先生よく怒らなかったよなって」

「君は乗らなかったけど」

「乗るものじゃないからね」

 それを最初からわかっているのは、君だけだった。みんなにとって、ピアノはおもちゃだった。だからおもちゃを卒業するように、ピアノも卒業してしまった。

 幼い頃の私にとっても、ピアノはおもちゃではなかった。人生とともにあるものだと思っていた。そう信じて行った東京の音大で、一番学んだのは自分には才能がないということだった。私の演奏には、他人に「この音を聴きたい」と思わせるものがない。多少器用に鍵盤を指示通りに叩けるというだけ。どれだけ努力したところで、指が器用になるだけだ。私には、才能がない。自分の音が、ない。

 それを煌びやかな街の、煌びやかな人たちの中でさんざんに思い知って、ピアノはただの趣味として、会社勤めを始めた。音大でピアノをやっていた、という経歴は、ただの「育ちのいいお嬢さん」という値札にしかならなかった。粉々に砕かれた自尊心を抱えて、その破片で自分を傷つけながら、育ちのいいお嬢さんみたいな顔をして会社に行って、仕事をした。一人のときだけピアノを弾いた。何かの未練のように。何年かすると、事故で両親が亡くなった。私はピアノと一緒にこの町に帰った。両親の死が私を呼び戻した、ということになるのだろうが、私からすれば、それはきっかけに過ぎなかった。私にはもう、東京にいる理由がなかった。そうしてここに帰り、ほかにできることもないので、小さな看板を作って、ピアノの教室を始めた。子供たちは可愛らしく、しかし音楽に興味などなく、彼らにとってピアノは音の鳴る大きなおもちゃであり、授業はなんとか私の指導をやりすごして友達とおしゃべりするためのものだった。

 その現実は、粉々に砕かれた私の自尊心をさらに削った。それでもそうするほかないので、私は「町のピアノ教室の先生」のように振舞った。振舞ううちに、だんだんと、気持ちもそのようになってきた。それは本当の自分ではなかったかもしれないけれど、誰かに買われるのを待つ値札よりは、幾分ましだった。少なくとも、人間だ。粉々に割れて、尖って自分を傷つけていた自尊心が、年月に洗われて、少しずつ丸くなっていく。子供たちは指導には反発しても、音楽が嫌いなわけではない。おもちゃのようにピアノを鳴らして、少しずつ曲が奏でられるようになっていくのは、どんな子供にとっても根源的な楽しさがある。私たちは素朴な音楽と素朴な楽しみを子供たちに与えることができる。そうして、私はピアノの先生として、それなりに幸福になった。ピアノの先生という立場にぴったりとはまり込んで、それなりに満足していた。夢とか欲望とか、そういうものの存在自体、忘れていた。

 四歳の彼が、ここにやってくるまでは。

 小さな可愛らしい男の子だった。男の子の生徒は、珍しいというほどではないけれど女の子よりは少なかった。一人っ子ならなおさらだ。たいていの男の子は姉妹のついでに通うものだった。彼は大きな目で私とピアノを見て、そわそわと体を揺らしていた。話しかけると恥ずかしそうに俯く彼の横で彼の母が話してくれたところによると、幼稚園のピアノに触って、どうしてもピアノを習いたくなったそうだ。

 ピアノ好き?

 尋ねると、黙ったまま口の端をきゅっと引き上げて頷いた。

 自分からピアノを習いたいと言ってくれる子供がいたことが嬉しくて、私も微笑んだ。ピアノの前に座らせて、椅子の高さを調節してやった。日に焼けた頬が興奮で赤く染まっていた。

 弾いてごらん。

 優しく言うと、ふう、と可愛らしく息を吐いて、それから指をピアノに落とした。

 それで、何もかもが変わってしまった。可愛らしい小さくて恥ずかしがり屋の、ピアノが好きな男の子によって、何もかも。

「俺、しばらくこっちにいるから、先生遊んでよ」

 少し小さく見える背もたれに体を預けて彼が言う。しばらく。確かに大きなコンサートは当分なかったはずだけれど、彼ほどのピアニストにそんな時間があるのもだろうか。もしかして怪我でもしているのか、と考えて、聞いたばかりの演奏を思い出す。あれはどんな小さな不安もない、万全の演奏だった。そのぐらいは私にもわかる。

「遊ぶって、何して?」

 しばらくっていつまで。あなたは一体何をしに来たの。

 重要なことには触れずに問う。でも実際、遊ぶにもこの辺りには若者が遊ぶような場所など何もないのだ。スーパーの片隅のゲームコーナー。コンテナを利用したカラオケボックス。パチンコ屋。それ以外のものがほしければ車を三十分は走らせなくてはいけない。私自身は学生の頃はピアノと受験に必死で不満に感じたこともなく、帰ってきてからは東京という華やかな都市の華やかな時代を過ごしたあとで疲れていたので、海と山の景色の落ち着きに不満などなかった。だが若者に向いた場所ではないのは明らかで、みんな、海で泳ぐだけでは満足できない年になると、出て行ってしまう。海から出た生き物が陸に向かうように、華やかな内地へと向かっていく。そしてやがて時期が来ると、多くの若者たちは帰ってくる。そう定められた生き物のように。彼らはもう内地に惹かれることはない。そして親と同じ仕事をして、昔から知る誰かと結びつき、子供を作る。私はそれを、ずっと見てきた。帰ってくる子供。帰ってこない子供。

「なんだろ。散歩とか?」

「もう一回行く?」

 うーん、と彼は唸る。

「とりあえずお昼にしようよ。このへんって何か店とかあったっけ」

「ラーメン屋さんならあるけど」

 ああ、と彼はなんだか意外そうな顔をする。

「そっか。あそこラーメン屋か。いつも見てたけど入ったことないや」

 ぴょんと跳ねるように立ち上がる。キーカバーをしてピアノを蓋を閉じる。

「そうめんじゃなくていいの?」

 私の問いに、彼は嬉しそうに笑った。

 昔はよくそうめんを茹でてやっていた。薬味もないただのそうめんを、彼はずいぶんたくさん食べたものだった。

「そうめん食べたいけど、先生におごってあげようと思って」

「ラーメンを?」

「フルコースが食べられるところがあるならそこにするけど。あそこのラーメンおいしいの?」

「あっさりしたラーメンって好き?」

 彼は首を傾げた。

「そういえば、ラーメン自体あんまり食べたことない」

「本当?」

「袋麺とかこっちにいたころは家で食べてたけど、ラーメン屋とか行かないから」

 私は浮かべかけた表情を塗りつぶすようにして微笑んだ。

「じゃあ、行きましょう」

「はーい」

 彼は私の背中に手をかけて押した。子供というより幼児の仕草だ。私の背中を覆ってしまいそうな大きな手に押されて、よろめくように歩き出す。


 古ぼけて中の見えないすりガラスの扉には、褪せて読めない文字が書かれた紙がぺたぺたと貼ってある。私が手を伸ばす前に彼がドアをがたつかせながらどうにか開けてくれ、私を中に導いてくれる。

「いらっしゃいませー」

 カウンターの中で店主が新聞を読んだまま言う。

 流行っているようには見えないけれど、いつも何人か人がいる。お店の中でそれだけ新しく大きいテレビでは相撲がやっていて、それを近所のお年寄りが見ている。ザーサイか何か軽いものをつまみに瓶のビールをだらだらと飲んでいる様子だった。

 適当な席に座ろうとすると、彼が椅子を引いてくれた。意識的に気を遣っているわけではなく、ただ身に染みた習慣としてそうしているようだった。彼も私の前に座る。店主がぬるい水を出してくれる。

 その頃になると、店主やほかの客が、私たちに注目し始めていた。私たちというよりは彼に。最初は誰だかわからない様子で、でもそのうちに私に気づき、もしかしたら彼ではないか、という雰囲気になる。彼らと私は知り合いというほどでもない。全員が知り合いと言うほど狭い町ではないが、ピアノ教師をしていたずっと独り身の女のことは、みんなうすうす知っている。そして、彼が私の教え子であることも。

「おすすめある?」

 彼はそんなものにまったく頓着せず、壁に貼り付けてある短冊のようなメニューを興味深げに見上げて尋ねる。

「ラーメンでいいんじゃない?」

「先生もラーメン?」

「ええ」

 ラーメンふたつ、と彼がにこにこして言う。へい、と返事をして、店主は厨房に立つ。

 客は私たちを見て低い声で何事か話しているけれど、直接話しかけるつもりはないようだった。

「気にならない?」

 私もテレビのボリュームに紛れるような声で尋ねる。きょろきょろ店を見まわしていた彼は顔を思い切りこちらに寄せた。

「なに?」

 囁き声で聞き返してくる。

「気にならない?」

 私も囁き声で返す。

「何が?」

 屈託なく聞き返されて、私は何も、と答えた。彼は首を傾げて、相撲を見始める。形のいい顎の線。どんな仕草も絵のようだ。つい、見てしまう。私以外の客の視線も、彼に集まる。離れない。

 それを彼はあえて気にしていないのではなく、本当にただ目にも入っていないようだ。注目は、彼にとっては当たり前のことなのかもしれない。自分が見られているという意識さえもうない。

「相撲面白いなあ」

「そう?」

「面白いよ」

 言われて見ている。淡々と大きな力士が出てきて、静かに取り組み、静かに勝敗を決して、また別の力士が出てくる。大きな画面で見ると、その光景は確かに異様で、面白かった。

 そうやってテレビを見上げていると、ラーメンがやってくる。白い湯気を立てる透き通った茶色いスープに細い麺。なるとにのりにメンマに葱、油気のない薄いチャーシュー。急にお腹がすいてきた。

「いただきます」

「いただきます」

 食卓には白コショウ。なんとも古めかしいラーメンだ。彼はレンゲでスープを掬って、ふうふうしてから一口飲む。

「あっつ」

 そういえば猫舌だった。私もスープに口をつけると、熱かった。ふうふうしてから飲む。熱くて、しょっぱい。おいしい。昔のラーメンだ。

 ふうふうするのに忙しくて、何も話さずラーメンを食べた。食べ終わって、テーブルにあったティッシュで口を拭いて、ぬるい水を飲む。彼はまだふうふうしながら食べている。

「おいしかった。ごちそうさま」

 食べ終わって手を合わせる彼の前髪が、汗と湯気でぺったりとしてしまっている。直してやろうかな、と思って、でもやめておいた。子供じゃないのだ。

「くっついてる」

 と思ったら、彼が手を伸ばして、私の前髪に触れた。驚いていると、いたずらに成功したような顔で笑う。私は自分で前髪に触れた。なんだか、困ってしまっていた。私が困った顔をしたからか、彼も困った顔をした。

「出ようか」

 頷いて立ち上がる。彼はポケットから薄いお財布を出して、一万円札で支払いをした。

「おつりはいいや」

 ぎょっとしている店内には目もくれず、ごちそうさま、と言うと、軋むドアを開いて私を通してくれた。

「ラーメン美味しかったな」

 うきうきとした声。合わせるように足取りも軽い。

「そんなに?」

 確かに美味しいけれど、普通のラーメンだ。

「美味しかったー。また食べたいな」

 そんなのいつでも食べられるでしょう、と思ったけれど、そうではないのかもしれない、と口を噤んだ。東京には、あんなラーメンを出すお店なんて探さないとないのかもしれない。時間に置いて行かれた場所でしか生き残れないようなお店。

「この町、こんなんだったんだなあ」

 家に帰る道からは、ガードレールの下に海が見える。白っぽく汚れた道路を通るのは私たちだけだ。車は少なく、歩く人はもっと少ない。歩くことを楽しむという発想が、この町の人にはあまりないのだ。

「こんなんだよ。忘れちゃってた?」

「まあね。ずっと帰ってなかったし。子供の目と大人の目じゃ見えるものも違うから」

 伏せると目立つ長い睫毛。彼がこの町を出て行ったのは、小学校を出てすぐだった。中学からは東京で、著名なピアノ教師のもとに下宿することになったのだ。あの日、彼の両親に頼まれて、私が車で新幹線がある駅まで送ってやった。荷物はもう送ってしまっていて、彼は大きな緑のスポーツバッグを膝に抱えて、そこに細い顎を埋めていた。泣いているのかもしれない、と思うと、助手席のほうを見られなかった。ハンドルを握りながら、私も泣きたかった。なんのために流す涙なのかもわからないまま。

 送り届けたことを電話で報告すると、お母さんは噎せるようにして泣いていた。普段穏やかなその人の泣き声は胸に痛かった。泣いてしまうとわかっていたから、送ることができなかったのだろう。私は彼の前で泣かなくてよかったと思った。

 やがて泣き声が収まると、小さな小さな声で彼女は言った。

 可哀想に。

 その言葉に、私は返事をできなかった。そのあとで、少しだけ泣いた。誰にも知られないように。

 可哀想に。

 あの日彼とどんな話をしたのかも、そのあとお母さんとどんな話をしたのかも、ほとんど覚えていなかった。それでもその言葉だけ、今でもはっきりと、覚えていた。忘れることが、できなかった。

 私の横で、彼はゆっくりと歩いている。浮かれたような軽い足取り。それ自体が一つの音楽のような。

 可哀想に。

 一度思い出すと、頭から離れない。スポーツバッグを抱いていた、日焼けした小さな男の子。私が送り出した男の子が、帰ってきたのだ。

「あ!」

 物思いを破るように、声がした。彼が立ち止まり、私も止まる。向こうから、柴犬を連れた女の人が小走りでやってきた。誰だろう。普段この時間にこの道は通らないので、散歩中に行き会ったことは多分ない。ゆったりとしたカットソーとデニムにスニーカー。まっすぐな髪はつややかで、まだ若い。

「あ!」

 彼も声をあげる。飛び上がるように踵を浮かせて、それからとん、と地面につける。女の人は嬉しそうに笑っている。柴犬は興奮することもなく黒い瞳を見開いている。

「あら」

 私も気づいた。名前。名前はなんだっただろう。彼が言う。

「藤田さん」

 そうだった。

「覚えててくれたんだ!」

 藤田さんは彼に対して嬉しそうに笑う。藤田さん。そう。そんな名前だった。うちの教室に通っていた女の子の友達なので、何回かうちに遊びに来たことがあった。私がこんにちはと頭を下げると、彼に対するのよりは落ち着いた様子で頭を下げてくれた。すぐに彼に視線が戻る。その先で彼が笑う。

「藤田さんのことぐらい覚えてるよ。そんなに記憶力悪そう? 俺」

「悪そうではないけど有名人だもん。覚えてられないかなって」

「覚えてるよ。クラスも一緒だったのに」

「そうだねー。でもなんか今となると不思議な感じがするんだよね。CMとかで見ると混乱する」

「しないでよ」

 若者たちが和気あいあいと話す間、私はしゃがんで、柴犬に挨拶をした。小柄で黒い瞳が可愛らしいけれど、毛並みから見るに結構な老犬なのかもしれない。舌を出して、笑っているような顔をつくる。

「触っても大丈夫?」

「あ、はい。大丈夫ですよ!」

 許可を得たので、撫でてやる。かさついた毛並みと張りのない皮膚は、やはり老犬なのだろう。頭から首に向かって微かに凹んでいる線が手に心地よく、犬も気持ちがよさそうに目を細めている。犬の匂いだ。彼と藤田さんは共通の知り合いの話をしている。誰が結婚した。誰が子供を産んだ。どの店を誰が継いだ。校長先生が定年退職した。誰が亡くなった。

「はー。いろいろあったんだねえ」

「え、だって、何年経ったっけ」

「十五年」

「そりゃーいろいろあるよ。そっちのほうが色々あったじゃん」

「そうかなあ」

「そうだよー。いろんなところ行ったでしょ?」

 彼は十代のうちにパリに行き、世界的なコンクールを獲り、世界中を飛び回った。ありとあらゆる著名な演奏家と、オーケストラと共演した。

「いろんなところ行っても、やること全部一緒だからね。人がいないところでピアノ弾いて、ピアノ弾いて、ピアノ弾いて、それから人がいるところでピアノ弾く」

「でもすごいよね。私たち合唱のときとかにピアノ弾いてもらってたもん。思い出すと変な気持ちになる」

「また弾こうか?」

「ええ? いいよお。なんかやりにくい。もう有名になりすぎて同級生って感じしないし」

 ひどいな、と彼は笑った。藤田さんは今は親の店で美容師をしているのだと言う。

「今おうちだよね。いつまでこっちいるの?」

「家には帰ってない。ホテル」

 知らなかった。

「ホテル? なんで?」

「ねえちゃん離婚してこっち戻ってきてるから。俺の部屋もうないんだ」

「あーそっか。子供さん連れてるもんね」

 そういえばそうだった。彼には歳の離れた姉がいて、彼が幼い頃に進学のために家を出ていた。確か看護師になっていたはずだ。帰ってきたらしいという話を、誰かから聞いた。子供のことは知らなかった。

 すっかり遠慮なく撫でまわす私の手を、遠慮なく楽しんでいる柴犬のかさついた体毛の感触を味わいながら、なんだか気まずくなる。彼がまだ話していないことをこうやって聞いてしまっていることに。

「そろそろ行くよ。またね」

 しっぽの上のあたりを撫でていると、彼が言った。

「あ、うん。またねー」

「またね」

 私は犬に向かって言う。藤田さんは犬に「よかったねー撫でてもらって」と笑う。犬はまだ物足りなさそうな様子だったけれど、主人に従う。私たちは手を振り合って別れる。

「ホテルなの?」

「うん」

 歩きながら尋ねると、彼は隣町のホテルの名前を言った。

「泊まろうと思って新幹線で調べたらホテルなんか全然ないんだもん。びっくりした」

「そりゃ、ないでしょう。誰も来ないもの」

「来ないの?」

「来ないよ」

 誰もここにはやってこない。出て行って、うまく出ていき損ねた人間が、帰ってくるだけ。やってくるのはせいぜい、君の取材をしにくるテレビのスタッフぐらいだ。

「いいところなのに」

 彼は海に目を細める。綺麗な海だ。でも誰も来ないから、ここの海は綺麗なままなのだ。

「俺、ずっとここにいようかな」

 彼が呟く。

「ここに?」

 うん、と頷いて続ける。

「先生の教室継ぐよ。ここでピアノの先生する」

「私の家で?」

「家賃払うよ」

 びっくりするような図々しさだ。笑ってしまう。

「先生なんで先生やめちゃったの」

「子供が減ったから」

「え、じゃあ俺もだめだ。漁師になろうかな」

 君ならいくらでも生徒はやってくるだろう。それこそ東京からだって。もしかしたら海外からも。もし、君がここにいるのなら。君がピアノを弾くのなら、君の音は、どこにでも届く。

「先生って今何か仕事してるの?」

「色々してる」

「色々って」

 笑う。はぐらかしたつもりではなく、本当にいろいろとしか言いようがないのだった。

「インターネットで色々仕事もらって……色々してる。ちょっとした文章とか、デザインとか事務仕事とか翻訳とか……まあ、パソコンでできる便利屋みたいな」

 まだピアノ教室をやっている頃、知人に頼まれてホームページをいくつか作ったのが始まりだった。何年かすれば家がある女ひとりならどうにか暮らしていける額なら稼げるようになった。仕事は予定がうまく立たなくて詰まってしまうときもあるけれど、基本的には時間がある。たっぷりとした時間の中で、ぼんやりと過ごしている。

「なんか先生って、優雅だよね」

「優雅?」

 うん、と彼は頷く。

「自分のテンポがあるっていうか。あんまり周りに合わせないよね」

「そう?」

「うん。だから、なんか楽だった。先生といるの」

 私は微笑んだ。そんなにいいものではなかった。私の中の鬱屈が、いつまでたっても周りに合わせることを拒んでいただけだ。あるいは、周りが私のような女を、本当には受け入れてくれなかっただけ。

 それでも一人で歩いていくうちに、自分のテンポができる。

「ずっといちゃだめかな」

 彼は微笑んでいた。口元だけが、どうにか。

「ずっと?」

 ん、と短くうなずく。

「ここにずっと、いちゃだめかな」

 私は首を傾げた。そんなことを言われても、なんと答えていいのかわからない。馬鹿なことを言っている、と思う。でも馬鹿なことを言って、と、笑うことはできなかった。私だけは、彼を笑う権利がなかった。私、だけは。

 人通りがないのを見て、彼の手に触れた。拒まれないのを確認して、手を繋いだ。がっしりとした、分厚い、大きな手。音を紡ぐ手。彼が私の手を握る。私の手はなんて小さく弱弱しいことだろう。そのことにまだかすかに胸が痛む。逃げ出したくなるような、叫び出したくなるような、どうしようもない痛み。もう、ずっと忘れていた感情だった。

 黙って歩く。波の音がした。水が砂浜を洗う。ガラスの欠片が、磨かれていく音。この町に帰ってきてから、ずっとこの音を聴いていた。帰ってくるまでは、意識もしていなかった。いつも、いつも、ずっと、止むことがない波の音が、この町の底にしみこんでいる。


 引き戸を閉める。玄関の窓からはもう日が入らなくて、影ばかりが目につく暗さだ。電気に手を伸ばすと、後ろから抱きしめられた。

 せんせい。

 私の髪に埋もれるようにして彼が呼ぶ。腕の力が強い。女を、抱きしめ慣れていない腕だと思った。体の柔らかい部分や関節が、押しつぶされて痛い。力任せの子供みたい。

 せんせい。

 彼が私を呼ぶ。私は彼の腕を、優しく叩いた。子供を安心させるように。ひどい欺瞞だ、と、苦しくなる。腕の力は緩まない。苦しい。力の強さ。体温。体の大きさ。彼は人間だった。生きている人間。ずっと、苦しみを抱えて生きてきた人間。彼は苦しんでいたのだ。息が苦しい。苦しい。泣きたい、と思った。でも、涙なんか出ない。出し方を忘れた。

 せんせい。たすけて。

 髪が濡れていく。彼の体が震えて、その中の私の体も震える。彼は泣いていた。ひっ、ひっ、と喉が引きつる音がする。腕の力が緩む。私はどうにか体を反転させて、彼に向き合うと、背中に腕を回した。引きつる嗚咽の音が止み、彼は鼻をすすった。私は彼の背中をぽんぽんと叩いてやる。

「……なにかあったの?」

 服の布が引っ張られる。彼が背中の布をつかんでいるのだろう。はあ、はあ、と湿った息が漏れる。落ち着くように、背中を規則的に叩いてやる。ひどい欺瞞。その欺瞞が、指から伝わらなければいいと思った。ただ優しさだけを彼が受け取ってくれたらいいのに。でも、それも欺瞞だった。それでも彼には、気づいてほしくない。私のためではなく、彼のために。

「……くるしいんだ」

 涙に濡れた声で言う。

「くるしい?」

「ピアノ……弾くのが、くるしい」

「ピアノ?」

 そんなこと思いつきもしなかったような声で繰り返す。本当は、わかっていたのに。彼がここに帰ってきたときから、いや、もっと、ずっと前から。多分、彼がピアノを始めたころには、多分、もうわかっていた。彼がいつか、自分の才能に苦しめられる日が来ることを。あんな才能を持って、普通に生きていけるはずがない。

「弾いても弾いても……終わりがないんだ。でも、弾くしかなくて……」

 おれにはぴあのしか、ないから。

 その声に籠った苦しみと、絶望。その深さ。私には手が届かない場所。誰にも手が届かない場所。そこで彼は苦しんでいた。

 才能。孤独。私にも、覚えがあった。この小さな町で、私は特別な女の子だった。誰よりもピアノがうまい子供。あの頃は今よりもまだ人が多かったけれど、誰もが私を知っていた。視線。噂話。敵意。それはうんざりすることではあったけれど、誇らしくもあった。この町は私に似つかわしくない、いつか出ていくべき場所で、私にはもっと広い、相応しい場所があるのだと信じていられた。

 結局、そんな場所などなかった。私は、この町では際立っているだけの田舎者なのだ。田舎者であることを取柄にできるほどの才能など、なかった。どこの田舎にでもいる、ピアノがちょっと弾けるだけの凡人。私に相応しい場所などどこにもなかった。どこでも居心地が悪いのだ。私の自我が、私という人間に、満足ができないのだ。

 そして彼にもまた、相応しい場所など、ないのだ。この町を出ても、日本を出ても、彼は孤立している。どんな場所でも際立っている。どこに行っても、どんなふうに弾いても、彼は孤独だ。私にはわかっていた。彼がまだほんの小さい頃、音を紡ぐ喜びにどっぷりと浸っていたときから、わかっていた。日に日に驚くほどのスピードで磨かれていく演奏。その先に、今この世のどこにもない音があること。彼だけが持つ音の世界。彼はその世界を誰とも分け合えず、ただピアノを通してその断片を人々に与えるだけの存在になること。最初からわかっていた。

 わかっていて、突き放した。

 君は東京に行った方がいい。この先もずっとピアノが弾きたいのなら、なるべく早く行ったほうがいい。いろんな先生がいる。いろんな演奏が聴ける。いろんな場所で弾ける。この町ではできないいろんなことが東京ならできる。君がやりたくてもできないことが、なんだってできる。

 ピアノの前に並んで座って告げる私の言葉に彼は目を輝かせた。私は嘘はつかなかった。ただ隠していただけだ。ピアノを弾き続ければ、君はきっと苦しむ。そしてきっと、君の苦しみを分け合える人は、いない。東京にも。世界中の、どこにも。君のこれから行く道は、尊い、孤独への道だ。進めば進むだけ、君は輝かしくなり、人々から遠ざかる。

 でももしそれを告げたところで、彼は違う道を選んだのだろうか? きっと、そうではない。彼はそうするしかなかった。この道しかない。それが、才能だった。彼自身が彼の才能に魅せられ、駆られていた。彼の小さな体と喜びに満ちた心は、音の才能の素晴らしい乗り物だった。才能は彼へのギフトであり、彼もまた、才能へのギフトだった。

 それは私にはどうしようもないことだ。私はただ、最初に見た、というだけ。才能が輝く瞬間を。私が作ったわけでも、私が磨いたわけでもない。私が彼を東京に行かせたわけでもない。彼の才能、才能ゆえの彼の成功は、私の成果ではない。当たり前だ。そしてそうであるのならば、彼の苦しみもまた、私のせいではない。

 本当に?

 彼はまだ私にしがみついていた。心臓の鼓動が、私の体にそのまま響く。ちいさな動物が、暗い場所に閉じ込められてあがいているような、そんな響き。言葉にも、もう嗚咽にもならない軋んだような音が、喉から時々漏れてくる。

 私のせいではない。本当に? 私にこうなることを、止めることなどできなかった。そうかもしれない。でも、私は、あの頃、まだ見ない未来に焦がれる男の子が、苦しむのを知っていた。知っていて、それでいいと思ったのだった。私にはそれをどうしようもできないから。違う。そうではない。そうではなく。

 四歳の男の子が、得意げに弾いてみせた「キラキラ星」。私はそれに驚愕し、賞賛し、羨望し、それから。

 私にしがみつく、私より大きな体。強い腕の力。彼がもう少し力を入れれば、私はぐちゃりと潰されてしまいそうだ。弱く小さな私。学生の頃、ずっと思っていた。もっと強い指がほしい。ありとあらゆるピアノ曲が、私のような小さく弱い手の人間のためには書かれていないと気づいたときの絶望。彼はそんなもの一度だって味わったことがない。最初から、華奢な体に不似合いなぐらいに大きな手を持っていた。羨ましかった。羨ましくて、羨ましくて、それから。

 彼の腕の強さに、自分でも見ないようにしてきた感情が、突きつけられる。彼の背を抱きしめる。すがりつくように。許してほしかった。でも許しを乞うことも、もうできない。

 だってずっと、羨んでいた。近くで見ているのが、苦しかった。私よりもずっとずっとずっと幼い少年が、私の乏しい、それでもどうにか少しずつ積み上げてきたものをあっという間に吸い取って、私が想像もしなかった音を出し、これからさらに高みに上ろうとする。彼は私を慕ってくれた。いつも甘えて、私にもたれかかろうとしていた。

 疎ましかった。多分、憎かった。こんな年になってもまだ、自分を傷つけるだけの感情を持てるものかと驚き、自分に失望し、感情自体を認めないようにした。それでも、もう、そばにいてほしくなかった。彼の先生で、いたくなかった。何もかもを奪われてしまう気がした。彼にとって価値のあるものなど、何も持ってはいないのに。

 だから、東京に行かせた。遠くからなら、まだ穏やかでいられた。羨ましいと思っても、憎まずにはいられた。少しずつ、少しずつ、羨望さえ摩耗し、穏やかになっていくなかで、ピアノへの情熱もなくなっていった。もう、弾かなくてもいい。聴くだけで。私は彼の音源を集め、動画を見た。聴けば聴くほど、素晴らしかった。演奏家としての彼はただただ輝かしくて、憎むどころか、羨むことさえ難しかった。日を追うごとに彼の音から余計なものが削ぎ落され、豊かに膨らんでいく。一人ぼっちの家で、私はその音にうっとりと包まれて浸った。私の生活の中に、波の音とともに、彼の音楽が鳴るようになった。そうやって、演奏家としての彼を愛していった。もう遠い、高い、手の届かない場所にある輝き。嫉妬も、憎しみも、届かない。ただ見つめるだけ。

 近くで聴けば、彼の音は私を突き刺した。遠くから、手が届かないほど遠くからなら、ただ美しかった。きっと私だけのことではない。人が彼を愛せるようになる距離があるのだ。遠くからなら、彼は愛される。そして彼の音色は、どこかに孤独の悲しみが、甘美に揺らめいて、ほんの微かなひっかかりとして耳に残り、それが人々を余計に魅了していた。苦痛さえ、遠くに輝く人のものは、美しいのだ。

 才能ゆえの孤独。若い天才の苦悩。

 言葉にすれば結局これだけのことなのだろう。陳腐にさえ響く。でも、彼は、生きているのだ。甘えた子供の心と大きな手と輝く才能を持つこの若者、痩せた体と不釣り合いに太い腕の、ピアノによって作られた肉体を持つこの若者は今まさに、苦しみの中で、呼吸をしているのだ。彼には他の生き方などない。陳腐ながらもドラマティックな持ち物で、たった一度の、誰も隣にいない道を歩くしかないのだ。

「ここに……ずっと、いられないかな……」

 涙で濡れた声で、彼が尋ねる。さっきまでの冗談めかした言い方ではなく、いろんな言い訳がすべて剥ぎ取られた声だった。

「……ここに?」

 汗で湿ったセーターに、頬を預けたまま尋ねる。

「先生がいれば……俺……大丈夫な気がする……」

「わたし?」

 よくわからなかった。

「俺、先生のところで弾くのが一番好きだったから……楽しいだけで……東京行ってからはなんか、ちょっと、違った……最初はすごい楽しかったけど……どんどんなんか、違っていって……なんかもう、楽しいのかわからない……」

 くくっ、と、嗄れた喉を鳴らして笑う。

「楽しいとか……でも、大事なことじゃないのかな……楽しいとか……そんなこと大事だと思ってるの、俺だけ、みたいなんだ……みんな別にどうでもいいみたいだ……俺が楽しいとか……別に……なんか、うまく言えないけど……」

 骨の浮いた背中。自分の体験と感情に似つかわしい言葉を選べるようになるほどの成熟が、彼にはまだなかった。わかっている、と、伝わるように、背中を優しく優しく撫でる。本当は、彼の苦しみの内実など、私にはわかりはしない。でもこの指でついた嘘が、彼の心を慰めることができればいいと思う。その感情は、本当のことだった。これは本当のことだと、自分で決めた。

「いいよ」

「……いいの?」

 彼は私がそう言ったことを、信じられない様子だった。背中を撫でてやる。

「好きなだけいていいよ」

「……いつまでもいるかもよ」

 気おくれしたような言い方。ふと、彼は本当のところ、今すぐにでも帰らなくてはいけないのかもな、と思った。大きな仕事を放り出しているわけではなさそうだけれど、彼はこんなところにいる場合ではないと感じているのかもしれない。でも、

「いいよ」

 と私は言うことにした。それが今の私のやるべきことだと感じていた。

 彼が笑う気配がした。私も笑う。

「布団出さなきゃ」

 彼は笑っている。ずっと、ずっと笑っていてほしかった。小さな甘えん坊の男の子。可愛くて、輝かしくて、疎ましい男の子。私が昔、自分の弱さと醜さからそれと知られぬように見捨てた、男の子。

 でも、あのときだって、私はあの子に苦しんでほしかったわけじゃない。この先も、苦しんでほしいわけじゃない。

 海に波があるように、生きている以上、苦しいのだ。それでも私は、彼を苦しみから、守ってやりたかった。彼を送っていったあの日から、長い長い時間を経て、ようやくそう思えるようになったのだった。彼の音だけでなく、彼自身を、愛せるようになった。小さな、でもまだ確かにそこには存在している痛みや嫉妬を、優しさでねじ伏せることが、できるようになったのだ。遅すぎるのかもしれない。だとしてもその償いを、私は自分自身でしなくてはいけない。自分自身で、償いたい。できるかどうかはともかく、私がそうしたいのだった。

「……あのさ」

 抱き合ったままでないと聞き取れないほど微かな声で、彼が呟く。

「うん」

 ピアノ、やめてもいいかな。

 ありえない言葉が聞こえた。彼が、ピアノをやめる。その意味をうまく理解できないまま、どっと、洪水のように私の中に記憶が溢れかえる。小学生の時の発表会での愛の夢。ストリーミングで観た国際コンクールでのショパン。大ホールでのニューイヤーコンサート。私が好きだと言ったから、この家で弾いてくれたニューシネマパラダイス。半ズボンに蝶ネクタイの彼。オーケストラの前で燕尾服を着ている彼。ピアノの前で気負いなく丸まる背中。挑みかかるような微かな笑み。鍵盤に落ちる白く長い指。大編成のオーケストラと聴衆の注目を集めながら、音のない夜に恋人に囁くような優しい触れ方でピアノを弾く彼。音も映像も感情もぐちゃぐちゃになって溢れる。ただただ、眩しく、尊い。遠くで瞬きながら、それでいて誰にとっても自分の大切な何かのように感じる。そういう輝き。それが、この世から、なくなるかもしれない。彼の心ひとつで、なくなるかもしれないのだ。とんでもないことだ。とんでもないことを、彼はでも、口にした。そうする必要があったから。

 息を止める。感情を一度、止める。細く息を吐いて、吸う。覚悟を決める。

「いいよ」

 やめないで。私の中は、ただその言葉に埋め尽くされている。叫びのように。そこに無理矢理、彼のための場所を作り出す。

 ずっとここにいてもいい。ピアノだってやめてもいい。なんでもしてもいい。どんな苦しみからだって、遠ざけていてあげる。他の誰があなたを誰もいない高いところに押し上げようとしても、私だけはここにあなたの布団を敷いて、あなたのために素麺をゆでてあげよう。

 彼はまた泣いている。私をきつくきつく抱きしめる。力は強いけれど、もう苦しくはなかった。泣きながら、彼は私を抱きしめる方法を学んでいた。それに、ひっそりと微笑む。ほら。と思う。まだ口には出さない。それでも、ほら。と。このドアをくぐる前には知らなかったことを、もう彼は知っているのだ。小さなことでも、でも、確かに違う。

「いいの?」

 彼は笑っている。私も笑う。

「いいよ」

 かまわない。あなたがピアノを弾かなくなっても、かまわない。胸の中で波打つものを無視して、ただそう言い聞かせる。彼の背を撫でる。

 彼の腕が緩む。私の目を覗き込む。私も彼の目を覗き込む。若くきらめく瞳の中に、不信の色を見る。誰も信じられる人がいない彼。私は彼の目を見つめて、訴えかける。

 私の瞳の中の光が彼に届いて、眼球を覆う涙を揺らす。くたりと彼の顔が崩れる。張り詰めていた何かが切れたように。

「いいんだ」

 笑っているようにも泣いているようにも見える顔で、彼が呟く。

「いいんだ」

 もう一度、言い聞かせるように呟いて、微笑む。ぽつん、と私の頬に涙が落ちる。私自身の涙のように、熱い滴は頬を滑り落ちていく。彼は親指でそれを拭った。優しく適切な、大人の男が大人の女に触れるときのやり方で。

「そうだよ」

「そっかあ」

 わざとらしくはしゃいだように言うと、私をがっと抱き込んだ。そうすることで、何かを隠しているみたいに。でも子供じみた仕草をまねたところで、もう彼の腕は大人の腕だった。強く力を入れながら、私の体はどこも痛まない。彼自身が気づいているかもわからないその変化に、私は微笑む。思いもかけないところから、人は変わっていくのだ。

 彼がどうなるのか、先のことは何もわからない。彼はピアノを、やめないだろう。故郷でのほんの少しの逸脱の後に、また帰っていくだろう。そう生まれついた子供だから。私は結局のところ、そう思っている。思い込んでいる。でも、そういう私の強固な思い込みは、本当の未来を示すものじゃない。なんの指針にもならない。私の思い込みは、現実には関係がない。彼は、本当にピアノをやめるのかもしれない。本当にここにずっと、いるのかもしれない。何が起こるのかは、わからない。平凡な田舎のピアノ教師の下に、たまたま彼がやってきたように、どんなことだって起こる。遠いどこか、遠い昔に割れたガラスが、この浜に辿りつくように。莫大な水の流れが予想もつかないように、私たちには何もわからない。

 でも、わかっていることもある。

 私は彼を抱きしめる。夢を見て、挫折して、自分に厭いて、傷つきながら彼よりも長い時間を生きてきた人間として。長い時間をかけて、幼いころに夢見たものとはまったく違う場所で、まったく違う種類の小さな、でも確かに自分のものである幸福を手にした人間としてのすべてで、彼を。今、私には届かない苦しみの中にいる若い人を抱きしめる。

「大丈夫だよ」

 そう。大丈夫なのだ。季節が移り変わるように、ガラスが丸くなるように、私たちは大丈夫なのだ。終わりのないように見える苦しみの先に、想像もつかない場所に、それぞれの幸福が、あるのだ。必ずある。私にはわかっている。彼は必ず幸福になる。この先なにがあっても、大丈夫だ。私はその自分の思い込みを、今ここで、意志と結びつける。私が彼を、必ず、大丈夫に、するのだ。腕に力を入れる。

 私たちは必ず、幸福になれる。

 いつの間にか傾いていた日が、散らばる丸いガラスを照らしている。大きさもかたちも色もばらばらの、霞んだ風合いのガラスが日を含んで、やわらかく輝いている。

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海のなかでガラスは 古池ねじ @satouneji

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