とうこさんについて

雨宮 馨

第1話

とうこさんについて、わたしが知っていることを話します。


とうこさんは、とても穏やかに笑います。小さな会社の事務をしているとうこさんは、真面目でよく気の付く働き者です。何事も嫌な顔ひとつせずよく笑うとうこさんは、皆から好かれています。しかし、とうこさんは恐れていました。はりぼての笑顔と、何の感情も含まれていない優しい言葉を紡ぐ口。いつかぽろぽろとすべてが剥がれ落ちてしまうことをとうこさんは恐ろしく思っていました。


とうこさんは、仕事から帰ると湯船にたっぷりのお湯をはり、肩までとっぷり浸かります。体が温まるまで、じいっと浸かります。頭がくらくらして来ても、とうこさんはやめられません。いくら体を外から温めても、真ん中ががらんどうで、とてもひんやりと冷え切っているのです。がらんどうのとうこさんから、冷たい涙がこぼれました。


とうこさんは一匹の猫と共に暮らしています。寂しがりで賢いさび猫です。とうこさんと猫はひっそりと寄り添って、お互いを温めていました。とうこさんのひんやりとした白い手で撫でられると、猫はとても安心するのでした。とうこさんは部屋に人をいれることがありませんでしたから、そこはひとりと一匹だけの空間でした。


とうこさんは学生時代にあまりお金がありませんでした。昼間は勉強をしたかったとうこさんは、夜に繁華街のはずれにあるスナックで働いていました。とうこさんは決して華やかではありませんでしたが、静かな美しさがありました。お客さんや学生の中には、とうこさんに声をかける人もおりましたが、とうこさんは誰とも深い仲になることはありませんでした。


ある時、とうこさんの猫が死にました。アパートの前の道から大通りへ出るところで、猫は車に轢かれて死んでいました。とうこさんが珍しく鍵を閉め忘れた窓から猫は出て行ったのです。


とうこさんはそれから一ヶ月後にいなくなりました。仕事を退職し、アパートを引き払い、身の回りのことを全て片付けてとうこさんはいなくなりました。


しばらくして、とうこさんの車が山奥で見つかりました。車の中には、日記が一冊ありました。とうこさんは今も見つかっていません。


とうこさんはわたしの姉です。まだわたしが物心がつかないほど小さい頃、両親が離婚しました。心優しいとうこさんは、パパがひとりぼっちは寂しいからと、父について行くと決めたのです。父について、わたしはあまりよく知りませんが、生活能力に欠けた人だったようです。


わたしは今、失踪した時のとうこさんと同じ歳になりました。共に生きたいと思う人と結婚をし、愛しい娘がひとりいます。暖かな家庭の中で、静かに幸せを感じています。


わたしがとうこさんだったのかもしれませんし、とうこさんがわたしだったかもしれません。とうこさんが何を考えて生きていたのかわたしには分からないし、もしかしたらとうこさん自身もよく分かっていなかったかもしれません。


とうこさんを思い出す時、わたしは何よりも生きている実感があるのです。


長い話ももう終わりです。そろそろ橙子が学校から帰ってきます。とうこさん…?いえ、わたしの娘です。今年から小学生なんですよ。主人はわたしに姉がいることを知りません。


橙子はどんどん記憶の中の姉に似てきています。わたしはどこかで姉がうらやましくてしょうがないのです。


娘に橙子と名を付けたわたしは、おかしいのでしょうか?橙子にお母さんと呼ばれるたびに、何かとても甘い蜜を啜っているような気持ちになるのは?

姉さんがわたしを呼んでいるんです。

橙子が成長していくとともに、姉さんの記憶は上書きされていきます。

わたしが姉さんをすべて忘れてしまう前に、あなたに話せて良かった。姉さんとわたしのこと、ずっと覚えていて下さいね。約束です。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

とうこさんについて 雨宮 馨 @amemiya-k

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る