あの日の君におかえりなさい

一飛 由

第1話

 幼い頃の僕は、いわゆる泣き虫の子供だった。

 不安になったり、困ったことがあったりするとすぐに大泣きして、その度に近所のお姉ちゃんに慰めてもらっていたのを覚えている。

 お姉ちゃんと言っても、当時の僕よりちょっと大きいくらいだったから、年齢は5歳とか6歳とか、それくらいだったと思う。

 僕のことをユウちゃんって呼んで、お姉さんぶってたのがとても印象的だった。

 お姉ちゃんはいつも青地に白色の水玉ワンピースを着ていて、肌は日に焼けているのかちょっと色黒で、顔立ちも綺麗というより愛嬌のある感じだったと思う。

 髪は腰くらいまで長く伸びていたし、履物も白い革の紐で編んだようなサンダルだったから、僕が女の子を意識したのもお姉ちゃんが最初だったかもしれない。

 ただ、不思議なことにお姉ちゃんと遊んだ思い出はまったく覚えていない。

 僕が泣き虫だったのが原因なのだろうけど、いつも困ったような、でもどこか嬉しそうな顔で抱き留めてくれた記憶くらいしか、僕の中には残っていないのだ。

 そんなお姉ちゃんとの別れは、本当に唐突だった。

 あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。

 忘れたくても忘れられるわけがない。

 僕のお母さんがいなくなった日だ。

 鉛のように暗い曇り空。

 矢のように降り続ける雨。

 歪んだライトと、赤黒く染まった鉄の塊。

 もう動かない、お母さんだったもの。

 何故かその時だけは、泣き虫だったはずの僕の目は、一滴も涙を流すことはなかった。

 それ以上に、凄いショックだったのだと思う。

 当時の僕は、助けが欲しくて、誰かにすがりたくて、ずっとお姉ちゃんを探していた。

 でも、結局お姉ちゃんには会えなかった。

 毎日のように会っていたのに、何故かその日を境に、お姉ちゃんは僕の前から姿を消したのだ。

 理由はわからない。

 引っ越しをしたのかもしれないし、生活リズムが変わっただけかもしれない。

 ただ、幼い僕にはそれを確認することなんてできなくて、大切な人を二人同時に失った事実を堪え続けることしかできなかったのだ。



「……よし、こんなものだろ」

 鏡の前で制服の具合と寝癖の有無を確認すると、僕は小さくうなずいた。

 四角い鏡面世界の自分は、どこか自信なさげで寂しそうな顔をしていたが、あえて気付かないフリをして、虚構の自分に背を向ける。

 僕の顔が美形だったなら、毎朝鏡を見て元気の一つでも出せるのだろうが、ないものねだりをしても仕方がない――なんて、そんなことを思ってる場合じゃなかった。

 身支度を済ませたわけだし、早く朝食を食べないと時間がなくなってしまう。

 自室を出て廊下を歩くこと数秒、ダイニングへ通じる扉を開く。

 一歩踏み入れるだけで、コーヒーの残り香が鼻につくのがわかった。

 どうやら父さんは今日も朝が早かったらしい。

 別段、珍しいことでもない。

 僕にとっては、よくある日常の一つだ。

 扉のすぐ横にある照明のスイッチを入れると、僕はそのまま窓際へと進む。

 一直線にテーブルに向かうのではなく、窓際まで迂回して空の様子をうかがうのは、僕にとっての一種の習慣みたいなものになっていた。

 深い理由なんてない。

 ただ、なんとなく空の様子を見て、晴れていれば安心できるという、それだけのことだ。

 だが、窓越しに見上げた空は、外気の明るさに反して曇天。

 昔の苦い記憶が頭に思い浮かんで、思わず顔をしかめてしまう。

 どうやら今日の運勢はあまり良くはなさそうだ。

 溜息を吐きながら、今度こそダイニングにあるテーブルへと向かう。

 テーブルの上には白い皿に乗ったトーストが2枚。

 それとメモらしき紙が、重石代わりに置かれた青色のマグネットの下に敷かれていた。

 メモに目を落とすと、そこには父さんの達筆なのか汚いのかわからない字で、今日は遅くなるといった内容の伝言が書かれていた。

 イスに腰掛けながら、メモ紙をめくると、そこには千円札が一枚、かくれんぼの苦手な子供さながらに置かれていた。

 夕飯はこれで済ませろということなのだろう。

 僕は千円札をサッと引き抜くと、ポケットから自分の財布を取り出し、中へと仕舞った。

 一人で食べる朝食。

 静まり返った家の中で、トーストが力なく裂けていく音だけが、僕の耳に入ってくる。

 焼いてから大分時間が経っていたのだろう、温かさも香ばしさも抜けたトーストからは、薄く塗られたマーマレードジャムの味しかしない。

 文句の一つも言いたくはなる味ではあるが、家事全般をこなしつつ一人で僕の面倒まで見てくれる父さんのことを考えると、文句は自然と喉の奥へと引っ込んでしまう。

 そう、僕が我慢すれば、それで済むことなのだ。

 これが僕にとっての何の変哲もない朝の日常風景だ。

 友達からは寂しくないかなんて言われたりもするけど、僕にとってはこれが当たり前なのだから、寂しくもなんともない。

 それよりも、憐れんでくる人たちの視線の方が、何倍も嫌で、不快だ。

 他人の生活にまで口出しをする必要が、果たしてあるのだろうか。

 小さな苛立ちが、食事の速度を上げていく。

 朝食の時間はすぐに終わった。

 冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぐと、一気に飲み干す。

 嫌な気分を、口に残ったパンの欠片と一緒に流し込みたかったのかもしれない。

 あとは流し台で皿とコップを洗えば、家を出る時間だ。

 自室に戻り、鍵と通学鞄を手に取った後、そのまま玄関へと向かう。

 ところが、靴を履いて立ち上がったところで、それまで順調だった僕の両足は不意に動きを止めてしまう。

 ドアのすぐ横に置かれている傘立てに目がついたのだ。

 確か昨晩の天気予報では、夕方から雨が降るといったようなことを言っていた気がする。

 帰りの時間帯を考えると、傘が必要かどうかは微妙なところだ。

「さすがに大丈夫だろ」

 窓から見えた雲の厚さが気にはなったが、手荷物が増えることが嫌だったこともあって、僕は傘立ての横を素通りして、そのまま玄関のドアをくぐった。



 雨模様の外気とは打って変わって、登校直後の教室の空気は賑やかだった。

 仲間同士で集まって雑談したり、じゃれ合ったり、終わっていない宿題を慌てて仕上げたり、その過ごし方は人によって様々だ。

 ただ、その中から聞こえてくるひと際大きな声を、僕の耳は嫌でも拾ってしまう。

「もう無理。シイちゃんが居なくなったら私はどうしたらいいのよ!」

「引退って言っても来月の話だしさ、それまでに気が変わるかもしれないじゃん」

「そうそう、だから気を落とさないで、サオリ?」

 話の内容的に、好きなアイドルが引退宣言でもしたのだろう、女子の一人が机に突っ伏して感情的な声を上げていた。

 周りの女子たちもその様子に神妙な顔をしながら、必死になだめている。

 確かに残念だとは思うが、そこまで絶望するようなことだろうか。

 まぁ、僕自身が母親を亡くすという壮絶な経験をしているせいで、その辺りの感覚が壊れてしまってるだけなのかもしれないけど。

 ……こういうところが、僕の悪い所なんだろう。

 自分の本心をぐっと抑えて周りの人間に合わせることができたなら、学校生活でも独りになることはなかったはずだ。

 だけど、僕にはどうにもそれができない。

 上手に説明できないが、心が我慢を拒絶しているみたいな感じがして、うまくいかないのだ。

 クラスメイトも、僕の境遇を知っているせいもあってか、お互いに距離がつかめないまま今に至っている。

 これは、なるべくして独りになったと言ってもいいだろう。

 だから僕は会話に入ることはなく、その様子を遠くから静観しながら、ただ静かに時間が過ぎるのを待っている。

 一種の修行みたいなものだと思えば、案外なんとかなるものだ。

 僕がそんなことを思っていると、当該の女子の取り巻きの一人が、何かを思い出した様子で口を開いた。

「そうだ、映画見に行こうよ。悲しい時は思い切り泣いた方がいいって言うしさ」

 つらいときは泣いた方がいいというのは、僕も以前テレビで見たことがある。

 ただ、それを試そうだなんて考えたことなんてなかったし、最近は何かを見て泣いただなんて覚えもない。

 実際に効果はあるものなのだろうか。

 そういえば、僕が最後に泣いたのは、一体いつだっただろうか。

 少なくとも中学の卒業式では泣いてなかったはずだし、もっと前だとすると小学校ということになるが――。

 記憶をさかのぼっている最中、不意に脳裏にお姉ちゃんの姿が思い浮かんだ。

 きっと、今朝見た曇り空のせいだろう。

 でも、思い浮かんでしまったら、気になってしまうのが人間の性だ。

 あの日になって、さよならも言わずに突然消えたお姉ちゃん。

 今頃お姉ちゃんはどうしているだろう。

 元気にしているだろうか。

 もしどこかで再会したら、変わったねとか、変わってないねとか他愛ない話で笑い合えたらいいのに。

 ただ、お姉ちゃんが驚くほど美人になっていたら、ちょっと対応に困るかもしれない。

 さすがに結婚はしていないだろうけど、お姉ちゃんならいいお母さんになりそうだし、ちょっと見てみたい気はする。

 逆に凛々しさに磨きがかかってたら、それはそれで面白いかもしれない。

 演劇で男役とかやって、女子からも人気が出ちゃったりして――。

 途端、僕の思考に幕引きを迫るように、教室上部にあるスピーカーからチャイムの音が流れ始めた。

 間が悪いとはこのことだろう。

 だが、僕がどう足掻いたところで、チャイムが止まることはない。

 僕は束の間の追想を切り上げて、これから始まるホームルームの準備を始めるのだった。



 放課後になっても、空は相変わらず不機嫌なままだった。

 朝よりも暗さが増しているように思えるのは、さすがに気のせいじゃないだろう。

 雨が降り出す前に、さっさと帰るのが利口というものだ。

 幸い、僕には一緒に帰るような友達はいないわけだし、家までの数十分くらいなら雨も待っていてくれるはずだ。

 しかし、そういう時に限って思惑は外れてしまうもので、歩き始めて数分も経たない内に雨が降り出してしまった。

 こんなことなら、ちゃんと傘を持ってくればよかった。

 だが、今になって後悔しても、もう遅い。

 徐々に強さを増していく雨のカーテンをを切り裂くように、僕は全力で家路を駆けた。

 息は上がるし、雨は痛いし、足は重いし、靴の中はびちょびちょに濡れて気持ち悪い。

 さすがに走るのがきつくなってきて、住宅地に入った辺りでペースを落とす。

 この辺りまでくれば、家まではもうすぐだ。

 すっかり荒くなった呼吸を整えながら、帰ったら風呂でも沸かして温まらないと――そんなことを思っていた矢先だった。

 雨の音に交じって、かすかにではあるが車のエンジン音が聞こえた。

 普段であれば、気にすることもないことなのだが、今は違う。

 なんというか、妙にスピードが出過ぎているような、異様なふかし具合に思えたのだ。

 もしかして何かヤバい人が運転でもしてるんじゃないかと、僕は一抹の不安を感じて足を止め、振り返る。

「うわっ!」

 思わず声が漏れた。

 ダークグリーンの乗用車がライトもつけず、すぐ近くまで迫ってきていた。

 反射的に身体を反らせて車道から離れようと試みる。

 ところが、疲れが溜まっていたせいか、はたまた水たまりに足を取られたのか、不運にも僕の身体はバランスを崩して転倒する。

 急激に低くなる視点。

 臀部に生じた衝撃が脳天へと突き抜ける。

 その痛みを味わう間もなく、眼前を乗用車が通過していき、水しぶきが顔に直撃した。

 呆然とする僕を嘲笑うかのように、ダークグリーンの背中が遠ざかっていく。

 事故に遭わなかったのは幸運だったが、その代償はあまりにみじめだった。

 全身水浸しになりながら、雨の中、路地に座り込んでいる自分。

 矢のように鋭く降り注ぐ雨粒が、僕の心に穴を開けていく。

 どうして僕がこんな目に遭わないといけないのだろう。

 そんな考えが浮かんできて、悔しくて、苦しくて、痛くて、冷たくて、眠っていた感情が一気によみがえって、目頭が熱くなった。

 その時だった。

「大丈夫?」

 どこかで聞いた覚えのある声だった。

 顔を上げると、潤んだ視界の中に人の姿が見えた。

 慌てて目元をこすってみると、その子の姿が鮮明に僕の瞳に映る。

「お姉……ちゃん?」

 青地に白色の水玉ワンピース、色黒な肌に愛嬌のある顔、腰まで伸びた髪に、白い革の紐でできたサンダル。

 記憶の中のお姉ちゃん、そのものだった。

 降りしきる雨の中、いつも僕を慰めてくれた、あのお姉ちゃんが、今ここに現れたのだ。

「ようやく会えたね」

 お姉ちゃんはそう言うと、にっこりと笑った。

 雨が降っているはずなのに、不思議とその瞬間だけはハッキリと表情まで見て取れた。

 これは、夢じゃないのだろうか。

 しかし、全身に打ち付ける雨の感覚が、それを否定する。

「お姉ちゃん、なの?」

 あまりに幼稚な僕の言葉に、お姉ちゃんは懐かしい微笑みで応える。

 見間違いでも、幻覚でもない――そう確信できた。

 お姉ちゃんは確かに僕の目の前に存在していて、僕の言葉に反応してくれているのだ。

 心が現実だと受け入れた途端、僕の中で止まっていた時間が、音を立てて動き始めた。

「お姉ちゃん、僕……僕ね……」

 嬉しいはずなのに、会ったらどうしようか考えていたのに、肝心な時に言葉が出てこない。

 喉が震えて、言葉よりも感情が噴き出て、止まらない。

 だけど、そんな僕をお姉ちゃんは優しく抱き留めてくれた。

 5歳くらいの小さな身体だけど、お姉ちゃんはその小さくて細い腕で、座り込んだ僕の頭を温かく包み込んでいた。

「私ね、ずっと待ってたんだよ。ユウちゃんがこうして甘えてくれるのを……」

 聞きたかった言葉に、胸が奮えた。

 まるで自分の中の時間が、幼少期のあの頃までさかのぼったような、そんな心地だった。

 そのせいか、僕の口は幼い言葉の刃を、お姉ちゃんに放ってしまう。、

「だったら、どうしてお姉ちゃんは居なくなったの? 僕、お母さんが死んじゃった時に、会えなくて、ひとりになっちゃったって思って――」

 気遣いを忘れた僕の言葉に、お姉ちゃんはゆっくりとうなずいた。

 そして僕の目を見ながら、諭すような柔らかな口調で言葉を紡いでいった。

「私、ユウちゃんの涙だから。だから、会えなかったの。一番つらい時に、ごめんね。ユウちゃん」

 そしてお姉ちゃんは両目に涙を浮かべながら、僕のことをより強く抱きしめた。

 懐かしい匂いと温度に、僕の心の中で、何かが解けていく。

 お姉ちゃんの言葉はにわかに信じがたいものだったのだろうけど、今の僕には素直に受け入れられた。

 きっと、お姉ちゃんがここにいるという安心感のおかげだったのだろう。

 気付けば、僕は言葉を覚えたての子供みたいに、自身の胸の内を赤裸々に打ち明けていた。

「お姉ちゃん、僕、ずっと強くならなきゃって……泣いたら、みんなお母さんが悲しむからって……」

 それはきっと、傍から見ればみっともない、無様な姿に映ったことだろう。

 でも、僕にとってはそんなことはどうでもよかった。

 十数年ぶりに、ありのままの気持ちをぶつけられる人を、自分のかけがえのない居場所を、見つけることができたのだから。

 そして、そんな僕のことを、お姉ちゃんは優しく、温かく支えてくれる。

「つらい時は素直に泣いていいんだよ。私が全部、受け止めてあげるから」

 お姉ちゃんの言葉に、僕の気持ちの奔流はついに言葉を決壊させる。

 自分自身でも何を言っているのかわからなくなっていた。

 ただ僕はひたすらに、嗚咽を漏らしながら、お姉ちゃんのひだまりのような温かさにすがりつき、十数年分の涙を流していた。



 気が付くと、僕は一人で路地の真ん中に座り込んでいた。

 雨はとうに止んでいて、あんなに暗々としていた曇り空はどこかへ消え去り、鮮やかな茜色の輝きを放っていた。

 右を見ても、左を見ても、お姉ちゃんの姿はもうどこにもない。

 さっきのは夢だったのだろうか。

 そんなことをぼんやりと思いながら、僕はふらつきながらもゆっくりと立ち上がる。

 瞬間、頬を何かが伝う感覚がした。

 雨による水滴とは明らかに違うそれは、さっきまで僕が浮かべていた涙なのだとすぐにわかった。

 夢なんかじゃない。

 僕は実際にお姉ちゃんに会って、そして泣いていたんだ。

 その実感が、僕の心に光を与えてくれる。

「ありがとう、お姉ちゃん。僕、頑張ってみるよ」

 誰にとなくそうつぶやくと、僕は水たまりから鞄を拾い上げ、そのまま夕日に向かって歩き始める。

 気持ちがすっきりしたら、なんだか急にお腹が空いてきた。

 今日の夕飯は何にするか決めてなかったし、ちょうどいい。

 そうだな……ハンバーグとか、どうだろうか。

 うん、ちょっと子供っぽいけど、いいかもしれない。

 だって今日は、お姉ちゃんに再会できた、大切な記念日なんだし。

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