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 結局、巴子は打ち上げの二次会にはいかなかったらしい。


 ――らしい、というのはもちろん、巴子自身には記憶がないからだ。

 これまでの経験からいって妖精が巴子に不利になるような言動をすることはありえないので、きっと上手に断りをいれてくれたのだと思う。

 

 唐突に意識を取り戻した巴子は、なぜか暗い研究室に戻ってきていた。

 なんとなく理由を考えてみる。


 ――きっと日課をこなしにきたのだろう。


 一際大きな窓をあけて、部屋に春風をいれる。

 どこか湿り気をおびた風だった。

 今日の巴子は少し大胆だった。別に酔っ払っていたわけでもないが、少しだけ気持ちが高ぶっていたのだ。


「きっと大丈夫よね」


 言い訳のように呟いて、巴子は窓枠に足をかけ、――そこに腰を下ろして、呆然と夜空を眺めていた。

 

「どうにかならないかな。……ホント、どうにか」

 

 水滴で滲む視界。

 その片隅を、何かが掠め通る。

 驚いた巴子はすぐにそちらに視線をやったが、すでに遅かった。その色の印象だけを残して、建物の影へと隠れてしまった。


 揺らめいていたのは――青。

 

 夜の闇の中で、不自然なまでに輝く浅葱(あさぎ)と黒の美しい文様が目に焼き付いていた。



†††


 

 記憶の欠落は日に日に大きくなっていた。

 まるで虫食い穴のように、一日に数回も記憶が抜け落ちることもあった。

 けれど記憶が抜ける度に、巴子の周りからの評価は上がっていった。どうやら本当に、妖精は人当たりのいい対応が上手らしいのだ。

 だから、『自分』でいる時間が少なくなるほど、巴子は元気になっていった。

 

 妖精が現れて二週間を過ぎた頃、巴子はもう妖精のいなかった頃の生活を思いだせなかった。

 


†††


 

「ねぇ巴子。今日カラオケいかない? ねぇねぇ」

 

 そう声をかけてきたのは同期の女性だった。

 

「いいよ。別に予定ないし」

「おー、やったね。レアキャラゲット!」


 心に余裕ができたからか。同期が提案するこういった下らない息抜きにも、巴子はときどき参加するようになった。

 どうせ嫌な思いをするにしても、その記憶は消えるのだから巴子にはなんの不利益もない。


 巴子と同期、後輩の男子の三人で近所のカラオケに行った。

 流行りの歌やCMソング、よく知らない昔のアニメ主題歌。ノリノリなアイドルソング。

 巴子自身は他の二人ほど盛り上がりきれてないところもあったが、それでも楽しかった。

 とりあえず大きな声を出すというのはそれだけでスッキリするものだ。時々はこういうのもいいかもしれないな、と巴子は考えを改めていた。

 五巡目。

 そろそろネタを捻り出すのが辛くなってきた頃、不意に巴子のケータイに着信があった。


「――ん」


 まただ。と、巴子は顔をしかめる。

 ここ数日、よく非通知の番号から電話がかかってくる。


 見覚えのない番号だ。

 

 怖くなった巴子は一度もこの電話に出たことはなかった。けれど、そろそろ限界かもしれないとも思っていた。

 同期は巴子の困惑した表情に目ざとく気づき、事情を尋ねてきた。

 ――別に隠すことでもないので、巴子は素直に事情を話す。その途中で、後輩も熱唱を中断して巴子のもとにかけよってきた。


「なんすかそれ。ストーカーとかじゃないすか? 絶対でない方がいいですよ」


 後輩が顔をしかめながら言う。彼は心配して言ってくれているのだろうが、巴子としてはそんな不吉なことを言うのはやめて欲しかった。

 身に覚えがないし、巴子自身、ストーカーに付きまとわれるほどに容姿や性格が優れているワケでもない。

 

 ――もしかしたら人当たりのいい妖精の方に食いついた人間がいるのかもしれないが……

 少しだけ想像して、巴子は背筋が寒くなるのを感じた。


「ちょっと、お馬鹿っ!」


 と、そこで同期が後輩男子の頭をマイクで叩く。

 痛いっすよぉ、という後輩の涙声を無視して、同期は少し厳しい顔で巴子たちの方を交互に見た。


「君さ。怖がらせてどうすんの。――それに巴子もさぁ。ビビリすぎだよ。もしかしたら、知り合いかもしんないじゃん。確認してないんでしょ?」


 それはそうだけど、と巴子はしぶる。

 記憶の欠落がある以上、誰かに電話番号を教えたという状況もありえる。

 前日の発表会の時にも、知らない間に知り合った人が何人かいたのだ。いつのまにか、いくつか名刺が増えていたこともあった。

 ただし、同期はそんな事情とは別なところが気に入らないらしい。


「ウダウダしてたらいつまでも電話してくるよ、そういうタイプは。でさ、本当にやばいヤツだったら、今、隣に彼氏いるからーとか言って、こいつ出せばいいじゃん」


 同期は後輩男子の首にグイっと手をかけて、引き寄せる。明らかに後輩は困惑している表情だったが、それでも笑顔を浮かべてくれた。


「んまぁ、それくらいならもちろんオッケーですよ。俺も男だ。任してください」


 どん、と胸をはる後輩。

 口が軽く、線は細く、分厚い眼鏡をかけている。

 彼はおよそ男らしさと無縁の見た目をしているが、この時ばかりはその軽さに巴子は感謝した。


「うん。わかった。ありがとう――がんばってみる」


 三人で電話の相手のパターンを何通りか考えた。

 そして、困ったらすぐに後輩男子に助け舟をお願いすることにして、巴子は部屋の外に出た。

 通話のボタンを押してケータイに耳に当てる。

 何回かのコールの後に、繋がった。


『……』


 相手が息を飲んだ。何かを逡巡する気配。


『……』


 その沈黙に、巴子はこらえきれなくなった。


「――あの」


 巴子が声をかけたのと同じタイミングで、若い男の声が返ってきた。

 

『巴子。オマエ、なんで俺を無視――



†††


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