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 自分には妖精がついている。

 

 巴子がそう確信するのにはいくつか理由があった。

 それは耳元で聞こえはじめた羽音であったり、肩にのしかかる小さな重みであったり、ほのかに感じる温もりであったりだ。

 妖精の大きさは手の平にのるくらいだろうか。見ることはできていないので断言はできなかったが、推定でそのくらいだと思われた。

 巴子にとっても、初めは目に見えない違和感でしかなかった。けれど、ソレを妖精と呼ぶようになるきっかけがあったのだ。


 一週間前、巴子はある発表会で大勢の前でプレゼンをしなければいけなくなった。東北の研究者を集めた研究の発表会だ。

 正直にいって、巴子はこういった場は苦手だった。

 人見知りも激しいし、根暗と呼ばれても仕方がないくらいには陰気だ。壇上で話そうものなら声が上ずって話しにならない。

 だから、同期から押し付けられた今回の仕事が嫌で仕方がなかった。


「わたし、あんま研究進んでないしさぁ。ここはウチのエースである巴子にお願いしていい? この通り! ね? ねー? 頼んますっ!」


 拝むポーズだけして、笑いながら頼み込んでくる同期には怒りを覚えたほどだ。

しかし仕事は仕事。教授にまで頼まれてしまえば、巴子としては断ることもできない。

 その時にはすでに目に見えない違和感が付きまとっていたようにも思う。それこそ、作業の疲れから耳鳴りや肩こりにでもなったのだと思っていた。

 胃痛薬と頭痛薬を飲みながら、なんとか前々日までに資料を準備した。当日まではプレゼンの練習をした。

 それでも違和感を拭いきれず、前日の夜に巴子は不安と緊張で顔を青くしながらベッドに入った。


 ――けれど、その日は記憶にぽっかりと穴が空いているのだ。


 朝起きて、食事をとろうとしてとれず、普段よりも少しだけきっちりとメイクして、部屋を出て――ない。

 後になって聞いた話だが、どうやら巴子は気負う様子もなくプレゼンをこなしていたらしい。四十人を越える大学生や本職の研究者たちの前で、堂々と受け答えをしていたと言うのだ。

 教授も、同期も、他の研究室メンバーも別人のようにテキパキと返答していく巴子の姿に感動したと、しきりに褒めていた。

 意味がわからなかった。


 ――この私が?


 と、巴子は首をかしげた。

 自分にはそんなことはできない、と思った。

 ありえないのなら、自分の代わりに『誰か』がやってくれたとしか考えられない。

 それからの一週間。ときおり記憶が抜け落ちるようになった。

 その記憶が消えるタイミングがストレスを感じそうな時だと、巴子はすぐに気付いた。

 

 気味悪いと感じたのは一瞬だけだ。

 あとはもう感謝しかなかった。

 

 普通に考えればストレスのせいで頭がヘンになっているだけなのかもしれない。一時的な記憶障害なのかもしれない。

 けれど、そんなことはどうでもよかった。

 自分が意識してやるよりもうまくこなしているというのだから文句があるはずもない。

 

 それが幻聴であれ、幻覚であれ、巴子はその救いの主を妖精と呼ぶことにした。


 記憶を盗む――『私』という時間を盗む妖精だ。

 

 

+++

 


 その日の夜、例の発表会の打ち上げがあった。

 巴子の他にもう一人。後輩の男子学生が発表会に参加していたのだが、その後輩が先週は私用で忙しかったらしく、一週間遅れての打ち上げになったのだ。


「あの時の巴子。すごいかっこよかったよっ!」


 隣の席に座った同期が心にもないことを口にしている。その距離の近さに巴子は居心地の悪さを感じた。


「そう? ありがとう。でも、みんなにも手伝ってもらったからだよ」


 巴子はいつも通りの愛想笑いを浮かべて、話を合わせる。飲み会の時のいつものポジションだった。

 日常のどうでいい話題。有名人の不倫がどうとか、コロッケに醤油をかけるのは有かとか、彼氏の実家がどうとか、中身のない言葉の応酬を受け流す。

 時間が経つにつれて、心の中に淀みが溜まってきた。――馬鹿騒ぎしている周りの連中が苦し紛れに喘いでいるようにしか見えなくなってきた。


「いいか諸君! 君たちは何もわかっていないっ!」


 唐突に、教授が声を張り上げる。他の客の迷惑になるくらいのがなり声だった。

 その一言で研究室メンバーの全員が悟った。

 

 また始まった、と。


 教授は『本当の愛とは何か』をこの席で若者たちにレクチャーするつもりのようなのだ。言うまでもないことだがこの教授は妻帯していない。

 巴子が研究室に入って、少なくとも五回目だった。

 

 ――本気で嫌になってきた。

 

 これ以上、酔っ払いの話を聞いていたくもなかったので巴子は少し抜け出すことにした。幸いなことにちょうどケータイに連絡がはいってきたのだ。

 

 ケータイを隠れ見て、巴子は口元をほころばせた。

 ――彼だ。

 ちょうど夜七時。仕事が終わったところなんだろう。


「あ。すいません――電話が」


 正確には電話ではなくSNSの通知だったが、この際、どっちでもいい。

 巴子は表情の下に喜びを浮かべながらその場を離れる。お手洗いの前まで来て、届いた文面を見た。


 

『ごめん 今日 いけなくなった』

 

 

 巴子の喉から漏れたのは乾いた笑い。さっきまでの喜びは、そのままこぼれ落ちてしまっていた。


「あーあ。やっぱりか」


 笑うしかなかった。

 付き合って三年になる城ケ崎権悟という男がどういう男かを、巴子はわかっているはずだった。

 いままで何度も期待して何度も裏切られた。

 けれど今度こそはと期待してしまった。

 二人の付き始めた記念日くらいは権悟が無理をしてでも来てくれるものと信じていた。

 その期待が間違いだったのだ。


 巴子は二次会を抜け出して、権悟と会うつもりだった。

 今日はお酒だって最初の一杯だけでそれ以降は飲ん

でいない。あの連中と飲んでもマズいだけというのもあったが、それを差し置いても控えめにしていたのだ。

 今日はそういう約束だった。

 金曜日は早めに仕事が終わるからと、せっかくの記念日だからと。権悟の方から誘ってきたのに。

 

 ――なのに。

 だっていうのに。


「……最悪だ」


 何度目かもしれないため息をつく。

 沈んだ心に、もう一つ追い打ち。

 不愉快で耳障りな拍手喝采が、巴子のところにまで響いてきた。

教授の大演説会が佳境に入ったらしい。


 羽音とともに――右肩に、小さな重みが加わった。

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