@tamakaku

あの場所を去る日まで

人はなぜ仕事をするのか。それは他人から承認されるためです。ということは、仕事をすることは自分の存在を証明することと同じなのかもしれません。自分というものを証明するためには他人が必要です。その他人に証明してもらうには、その他人から信頼されていなければならないのです。自分が自分がと自我、自己がどれだけ強くても、周りがそれを認めてくれなければただの独りよがりだということです。孤独がいいという人は自ら自分の存在の証明に消極的なのです。同じ人生でも生きやすくするには他人から承認されやすい人になるのがいいと思います。もちろん、言いなりとは異なります。



人生はどうなるかわからない。予測をたてたいわけですが、人生が終わってみたことを考えると、人生とは日常、毎日の積み重ねで構成されているわけです。つまり今日、この一日がある意味で人生の縮図となっているのです。だから一日はとても重要で、その一日を粗末にしている人の人生はお粗末なのです。



利益はなぜうまなくてはいけないのでしょうか。自分が豊かになるためももちろんあるでしょう。しかし一番の目的は、その利益で更に利益を生む継続のためだと思います。今日得た利益を明日のために使う、もっと先を考え、貯める、投資するなど。継続するものは日常です。だから利益が必要だと思います。利益を生むことは継続であり、日常に直結するわけです。だから、停滞すればそれは衰退と同じで、考え方や時代からずれてしまえば、あっという間に利益は消えてしまうわけです。そのために蓄えるのです。そして商売を畳むときはとても多くの人に迷惑をかけるのです。だから蓄えは必要なのです。



なぜ物事は終わるのか。答えは簡単で始めるからです。つまり逆を言えば、始めなければ永遠に終わりは来ないのです。そんなことも当たり前なのですが、終わらないという人に限って何もしていない、始めていない人なのです。考えるという前にまず動いてみてはどうでしょうか。



幸福度の向上と、疲労感の低減、精神的ゆとりを確保するには、今の仕事の効率化が大事だということです。それがなければ、時間は作れないのです。密度の濃い仕事をするかわりに、短時間で終わらせる。これが今給与の少ない企業を救うことだし、自分も救うことになるわけだ。残業代が減るのが嫌だから、ダラダラ仕事をするというのは、会社を痩せ細させ、企業の寿命を縮める間違った行為だと気付くべきだ。基本給が安いから、残業代で手取りを多くするのは間違いで、本来あるべき姿は、基本給が高くて、残業代が必要ない状態です。つまり、残業代を減らせば割増賃金を企業としても払う必要がなくなるわけです。その分をベースに反映できるよう、仕事の効率を考えるべきです。それでも考えてくれない経営者であれば、本当にその会社がやばいか経営者がやばいかということになるので、速めに足を洗うのも手だと思います。



自分を変えると見方が変わります。すると世の中を見る目が変わってきます。世の中は自分を写す鏡と思ってみれば、ある意味、過度な期待を避けられる分、不平不満も少なくなり、幸せとまではいかなくても、多少生きやすくなるはずです。世の中を変えるには、まず自分を変える。灯台下暗しなんですね。



会社、組織で働く理由は簡単です。利益を上げることです。会社がなくなれば仕事もなくなります。仕事がなくなれば売り上げは落ちます。すると、衣食住、暮らしを支えられなくなります。こうならないために、一つのこと、利益を上げることに集中して仕事をするのです。ひとつのことを、一身、一心に行うのです。しかし、必ず結果は出るとは限りません。負けたという結果は仕方のないことです。これは受け入れて引く、下がり去りましょう。来るもの拒まずさる者追わずというのはこの辺りとも関係しそうです。



人は失敗を経験すると、二度と失敗したくないという恐怖心のようなものを覚え、変えなくては、変わらなくてはというような考えになります。そう、人は失敗からしか学べないのです。だからどんどん失敗させるべきです。できるようになってから任せるのではなく、任せるからできるようになるのです。逆を言えば、失敗させられない仕事も確かに存在しますが、いつまでたっても任せてもらえないというのは、信用があるとか、親切ではなく、ある意味で不幸な状態なのです。一回や二回の失敗がどうした、どんどん失敗を恐れず挑戦する力を育てていくのが本当の教育なのかもしれません。



人と戦うな。自分と戦え。これがセンスのいい人の戦法です。つい、他人を気にして他人と比べっこしてしまう。競争するために仕事をしていると勘違いして、自分の目標だったり、その目標を達成するにはどうしたらよいか、または、自分の限界、一番強いところは何かを忘れてしまうのです。



例えば、定食屋に行って○○定食と頼むと、ごはん味噌汁、小鉢にメインディッシュなんて感じで料理がきますが、人によっては嫌いな食べ物が一品ぐらい入っていることがあります。でも、除けたり、我慢して食べたりして定食は平らげるわけです。これが人生なのかもしれません。人生は完璧ではありません。だから嫌なこと、嫌いなこともついてくるわけです。しかし、それを除けて通るか、我慢して通るか、どちらにしても嫌いな状態を受け入れて進んでいく、定食を平らげることと同じような気がするのです。



できないことをできるようにしよう。これは誰にでもある話です。しかし、いつまでもできないことを責めていては前に進みません。前に進むにはできない事実を認め、受け入れることです。諦めるよりもつらいことでしょう。人間、誰しも完璧ではないのです。と言いながら、仕事では完璧を求めなければいけません。それはプロフェッショナルであるということと、仕事は結果が全てだからです。その仕事のための準備に「汗水たらして・・・」という人がいます。それは仕事の準備なのでやるべきことであり、当然で大変とか楽とかという問題ではないのです。楽に準備をして結果が大きければ良いでしょう。しかし、大変な苦労をしても結果が少なければ問題があります。それはしんどいだけです。その大変な苦労が少なくすることも仕事です。これは努力ではないのです。しなければならないことなのです。最悪なのは大変に苦労をしても失敗することです。仕事はある意味で勝負事みたいな側面があるように思います。つまり結果は二つしかなくて、成功か失敗かということです。結果を求めるわけだから当然成功しなければならないわけです。そのための準備も仕事です。段取り八部は努力ではなく、仕事の一部なのです。



お金を頂くとはプロの仕事をすることです。それは失敗せずに任されたことをやることですが、仕事の標準化が進んでいるこの社会では、失敗に遭遇しにくくなっています。だから失敗すると後手になるのです。本当のプロとは失敗、想定外、例外のときにしっかりと対処できる仕事をする人を言うのです。



努力は無駄にならないと言いますが、それは努力する方向性が間違っていた、努力自体に意味がなかったことに気づいたときに失敗という形で勉強するということから無駄ではないという意味です。普通は目標に向かって努力をするわけですが、目標が曖昧だとこういうことがおき、努力の無駄がおきるのです。努力をしても結果が出ない人がいます。こういう人は一度全体を見渡してみましょう。自分の努力している方向と周りの向かうべき方向が違えば、当然結果もそうなります。仕事は結果が求められます。それと効率です。そこで時間ばかりかかって結果が出ないことは最悪です。成功する選択をするべきです。



人間だれでも歳を取ります。しかし歳を取るほど落ち着きがでて失敗が少なくなります。これは賢くなっているのではなく、経験値が増えているから対処の仕方が上手いのだと思います。若いうちに多くの失敗を経験した方が、歳をとってから失敗しあたふたするみっともない大人にならなくて良いと思います。賢さを勘違いしている人が多いようです。失敗しないことはもちろん良いことですが、これは賢さではありません。失敗してもうまく対処ができる、うまく切り抜けられることが賢さだと思います。つまり素早く原因を突き止めて、後手になる前に手が打てることです。



流れに身を任せとはよく言いますが、実際流れに身を任せているのは死んだ魚だけだと思います。つまり生きている限り、流れに逆らっているということです。当然流れに逆らっているわけなので、障害にぶつかります。しかし流れに逆らわなければ障害にぶつからなかったことを考えると喜ぶべきことです。



幸福を実感している人というのは必ずしも裕福であるわけではないのです。ないないないと思っているネガティブな思考をやめ、物事は表裏一体であることを理解して、ひっくり返してポジティブに捉えることが出来るようになったほうが、富を得る労力を使うよりも、手早く幸福を実感できると思います。



未来を描くには夢が必要です。それを目標に変換する。そしてその目標に向けてどうしていくかを明確にしていくと言った作業が必要になります。ここまでは結構な人ができるのですが、それを実行することが出来ない人が多いです。なぜ、出来ないのか。その原因にあるのがネガティブという要素のようです。ポジティブ、前向きにというのは、行動に大きくかかわってくるようです。いつも言っていますが、脳は入出力でできているわけです。ポジティブな意識を持ち、それを出力していると、ポジティブを自分の中に入力することになる。だからポジティブになるのです。すると行動が変わってくるのです。



自分の身は自分で守る。これは当たり前で自己管理を指しています。食事に気を付けて、十分な睡眠、休養を取る。それと危険がある場所へは近づかない。大人になると仕事をします。仕事は社会の中の歯車の一つです。だから抜けにくいです。仕事をし始めると休めないのはあなたの代わりがいないからです。逆に言うと、誰でもいいような仕事をしている場合、組織、会社で人がころころ変わるのです。それはさておいて、自分の代わりはいないということは、自分は自分の運転手なのです。運転の仕方ひとつで事故などの危険事態になります。自分の身は自分で守るとは、自分をコントロールすることだと思います。



小さい子供が疑問に思うことがあります。なぜ働くのか。大半の大人はこう答えるでしょう。生活のためだと。これを否定するつもりはありませんが、もう少し掘り下げてみる必要があるように思います。何の目的で働いているのか。この辺りまで掘り下げないと、嫌々、渋々やる仕事になってしまいます。その仕事の目的とは、よりよい仕事をするために、仕事をしているのだと思います。そのために、自分は何ができるのか、どうするべきなのかを考える、役に立つにはどうするか考える、これがプロの仕事だと思います。



仕事とは会社などの組織を通じて、社会に所属する場所という考え方もできます。その社会で成り立っている仕事は何か。それは需要、必要性、受け手があるから仕事は発生するのです。プロとして役に立つから、報酬が発生するわけです。一番肝心なのは仕事は相手がいるから成立していることです。相手がいるから仕事は成立するというのが、お客様は神様ですとか、お客様目線というものです。つまり、仕事とは媒体で、これを通じてお客様という相手とコミュニケーションをとるわけです。だから仕事のエンドには人がいるため、人間力が必要になるのです。



充実した人生とは、充実した毎日の積み重ねです。そうなるために、いろいろ行動するわけですが、良い結果ばかりではありません。結果としてやめる、諦めるということもあるでしょう。しかしその前にもう一度だけチャンスがあると思います。そのチャンスを与えるのは自分です。それが他人に聞いてみる、他人に助けを求めるという行動です。これができるかできないかで歴然の差が生まれます。他人に聞いてみること、他人に助けを求めることが格好悪いと思っている人は多いです。しかしやめて、諦めて失敗した方がもっと恥ずかしいです。チャンスを自分に与えましょう。



子どもは他人との世界を広げていくことで成長するのだと思います。まずは親子の世界です。そこには既に自分の存在を認めてほしいという欲があるようです。そのため様々な注目や愛を得ようとします。そしてその欲が大きくなりより注目、愛を求めるがために怒りを表します。これが反抗期だと思います。



努力すると良くも悪くも結果が出ます。その結果をもとに努力をします。というように、努力とは際限なく繰り返され、続くのです。結果が伴うようになればさらに面白みや、やりがいが得られ、もっと努力するようになるのです。これが教育だと思います。努力という行為は幸福につながると思います。



失敗が発生した時、「誰のせいだ」と他人を攻める人がいます。でも、よく考えてみると、そう言った人は、もう自分が何とかする気はない、投げている人の発言だと思っています。要するに、相手、この場合は失敗に先手を取られ、自分が後手に回っている状態だから、思考停止して、最悪になるのです。ここで、慌てない、後手に回らないが出てきます。先手を取られてしまったら、仕方がないので、後手ですが、ここで、先手はくれてやったと切り返して、次の手を考えるように持っていくことが、最悪を避けるポイントのような気がします。と、同時に、これが成長、ステップアップになると思います。



基本的人権の尊重は必ず学校で習いますが、中身については、あまり触れられません。日本という国は恵まれているなぁと思います。つまり、社会で失敗したり、ドロップアウトしても、基本的人権の尊重があるから、あなたは守られているのですよってことです。だから自殺をする前に権利を行使するのです。



できない、やらないというのは仕事のような結果を求める世界では失敗を意味します。できないことをできるようにする、やらないことをやるようにするのが新しい価値の創造で、これが知恵を絞るということです。どっちにしろ、取り組まなければならないことならば、嫌々やるよりも、楽しくやりましょう。できない、やらないの前には言葉が隠れています。それは「どうせ」という自分の決めつけです。自分で壁を作る行為は、周囲との隔離を求めるネガティブな行為です。どうせ失敗するから、できない、やらないのですが、その失敗という判断は誰がするのでしょうか。第三者や相手である他人、ヒトなのです。失敗という判断、評価は人が設定している物なのです。だから曖昧なのです。そんな曖昧なものを最初から決定していてよいのでしょうか。「どうせ」とは自分の戦いだと思います。それは自分が決めた基準だからです。雛鳥と同じだと思います。殻を破って生まれる瞬間が一番大変なのだと思います。できるか、できないかというものを仕事や、結果、成果を求められるものでは、できるを選択する方が確実ではありますが、そこに安住してしまうとイノベーションは起きないのです。今はできなくても、どうしたらできるようになるのかを考えることが新たな価値の創造であり、イノベーションなのです。つまり、イノベーションとは否定から入るのです。今不可能なことをする。だからやりがいもあるし、面白いのです。そこには何度も言っている、創造という人間にしか持っていない能力を使うからです。これはできることしかしない、悪く言うとルーチンワーカーにはわからないことなのです。



実績とは積み重ねていくものです。でも、よく考えてみると、最初は実績も何もなかったのです。つまり、初代経営者、創業者が、高度経済成長期などに、次々と価値を創造したから、それが継続して現在の実績と信頼につながっているのです。つまり、企業、組織の体質ではできないことをするのが脱サラ、起業だったわけです。それこそ、社会、会社、一般常識の否定から入っていくわけだからある意味で、外れ者だったわけです。しかし、それは逸脱なだけだったのです。違法ではないのです。ずれているだけなのです。



細野晴臣氏がYMOの時代、「僕ら(日本)って何なんだろう」と真剣に考えた時「障子や紙とか木でできている国で、薄っぺらいものだ」と語っていました。そう、そんな資源も少なく、独立した文化の中で人類が生き続けてこられたのは、創意工夫以外何物でもないのです。当時の日本文明のレベルが低いと思っている人は大きな間違いです。逆にものすごく高いのです。だから今でも日本には職人という職種が残っているのです。ヨーロッパやアメリカから機械や計算、計測の技術が大量に入ってきたけど、機械でも測れない差を人間が五感を使って創造することが日本の凄みです。アメリカ流は効率重視で結果を求めます。日本流はそれとは逆です。だから魂というか、息吹、意思を感じるというモノづくりになるのです。技術力が先に来るのはヨーロッパも同じです。ただ、彼らには昔から積み重ねてきているものが違います。彼らは鋼鉄のコンセプトが存在するのです。つまり、自分たちが作ってきたものが世界で最高であり、これが世界の基準であるということを示すようなモノづくりがヨーロッパ風だと思っています。その辺りが、自動車でいうと、メルセデスやBMWという存在になるのです。だから彼らのモノは良いのだが、私たちには作れないのは当然なのです。同じ土俵で勝負をしようとするから、勝負に不利になるわけです。障子と紙と木でできた文化の国らしく、資源は少ないけど、少ない資源を効率的に、効果的に、使うためにはというところに、工業分野でのモノづくりの魂があるのだと思います。それが日本的な創造であると思うのです。



幸せとは状態だと過去に言いました。その状態を決めるのは自分であるということも言いました。自分とは何ですか?人です。つまり、幸せとは、自分が決める、人が決めるものである。幸せには人が起因するということです。つまり、人が苦手だと幸せからは遠のくということです。人が、人の中でしか、幸福を感じることができないのは、幸福とは人が作り出すものだからです。まさしくオナニーなのです。しかし、ここが大きな落とし穴なのです。貧乏でも幸せとはテレビの話という大人は、大馬鹿ものです。それが存在することを忘れてしまった人なだけなのです。



孤独な生活は不幸です。孤独に打ち勝つ強さがある人がいます。その強さも必要でしょうが、常時そうしている必要はないです。先ほどの原理で行くと、幸福を作り出す人が自分以外に居ないわけですから、孤独とは幸福のない状態=不幸となるのです。「成功」の反対は「失敗」ではなく「何もしないこと」とはよく言います。失敗の反対を考えた時、失敗したくなければどうしたらよいかというと挑戦をしない、何もしなければいいのです。この選択肢をくり返していくと、どんどん人の輪から外れていきます。失敗のない人生は完璧であり、最高に不幸です。



自立という話が昔ありました。自分の足で立つことです。自分の足で立つということは、自分で掴み取る、つまり自分で決めて責任を持って行動することなのです。その責任の中身には失敗もあるわけです。とても勇気のいることです。これは与えられるものではありません。自分の意思で決めるものです。こう考えても、幸せの中身には自分の意思が存在して、自分の意思とは、人の意思であるから、やはり幸せとは人が作りだすものなのだということがわかります。そこで大事なのは、作るのか、造るのか、創るのかということです。ここが人である重要なポイントです。人間が持つ能力とは創造力だと思っています。つまり創る能力です。新しいものをつくることなのです。誰もやったことのないことをするのだから、当然失敗します。でも、それがなければ、創造のその先には続いていかないのです。幸せは人が創るもの。だから人抜きでは創れないし失敗は必要だということ。ではお聴きしましょう。あなたは製造業ですか?違います。でも創造力は仕事に必要ですよ?えっ?ってなります。どんな仕事にも創造力は必要です。それは仕事という媒介の先に人がいるからです。そこで鍵になってくることが個性です。もともと創造という意味の中には独創という意味も含まれています。



お金はあったほうがいい。お金によって不幸になる人、幸福になる人がいる。これはわかっていることですが、どうしてそうなるかということはあまり知られていないようです。そこには、お金の使い方を知らない人が多いからだと思うのです。生きたお金の使い方とはよく言いますが一体どういう使い方が生きた使い方なのか、そこを考えた方が良いように思います。お金の使い方は、投資、消費、浪費の三つに分けられると思います。このバランスが崩れると、不幸になるのです。逆を言うと、三つのバランスを取るということが生きたお金の使い方、お金で幸福になる近道ということかもしれません。よく考えてみると、お金とは、幸せになるための道具であって、その物自体には幸も不幸もないのです。あくまでお金は道具であって、中間材料です。だからそれを利用して人間関係を構築しようとすることに無理があるから、普通に考えてもそんな人間関係はうまくいくわけはないし、破断するのです。お金で存在する人間関係は利害のあるサービスであるということです。



お金を儲けようと思うのは誰でもそうなのですが、何か勘違いしていることも多いようです。入ってくるお金と出ていくお金の差が儲かったお金と思う人がほとんどでしょう。数学、経済学的にはそうでしょう。しかし、出ていくお金と入ってくるお金の合計が、人生の価値になることを知らない人が多い。だから貯金はある程度必要だけど、貯めてばかりいないで、使うことも大事なのです。だから、使いまくれとは言いませんがある程度使うことによって、使い方もわかるし、使うことによって経験も増える。この経験が人生にとっての価値になる。使わないお金は、ただの紙と金属になってしまう。お金を稼ぐには、基本的には「頭」を使います。男性の土木関係の仕事、女性の性産業では体を使うともとれますが、根本は「頭」です。でも使うことに関しては頭の中の更に限られたところを使うことになります。それは「心」だと思います。使うには決心、覚悟が必要なのです。すぐに決心できる人は決断力のある人か、三つが良くわかっていない人のどちらかです。だからお金の使い方はその人を表していると言っても過言ではないのかもしれません。



私は幸せなのでしょうか。恵まれていることと、幸せなことはイコールではありません。幸せとは自分で決める状態のことです。だからいつまでたっても幸せになれない人は、その理想とする状態設定が高すぎるか、理想とする状態が設定できていないためわからないかのどちらかです。



少し前に流行ったことです。「個性を大切に」と。それは自分を表に出していくことなのですが、何か勘違いをしている人が多いみたいです。いきなり個性だけを出すのはバカです。まず、何でも基礎が存在するのです。それは教科書のような本であったり、講師のような教育者であったりします。教えを習得すると、仕事がある程度できるようになります。でもここには教えた側の意思が存在して、自分ではないのです。また、自分で受け入れることに不満を覚えている人もいるでしょう。だからここから自分の個性を足し算していくのです。個性のない仕事はそつなくこなせたと言えば聞こえはいいでしょう。しかし、裏を返せば、あなたでなくても良かったという価値のなさになるのです。他人の意思で動いていれば、型にはまるわけで、考えなくて良いから、楽です。するとその楽なところから抜け出そうとは考えなくなるのです。それが自分の成長を阻害しているのです。もう一皮むけて大きくなるには、やはり他との違いを明確に理解して、それを外に発信する、勇気ある挑戦が必要なのです。伸び悩みで悩んでいる人はこの辺りが足りないのかもしれません。これが自立、自律の本質なのかもしれません。



時間はエネルギーだと思っています。時間が経つと忘れるのは、エネルギーがあるからだと思います。だから無駄にしてはいけないのです。サルでもなく、オラウータンでもなく、人間が持っている能力は、想像すること、想像力だと思います。



生きていくためには、仕事をしなければならない。やりたいことするには、目標を立て、時間というエネルギーを使いながら日々打ち込む。仕事や目標の達成には、他の人との信頼と協力が不可欠です。そこで大事になるのが、人格です。責任感のある人間、強みの分析を行い、どう生かしていくかを考えることが、チーム、会社や組織、国の発展につながる。人間の強みは、集団、組織といった人を動かせることです。しかし、この根本には責任感と信頼があるのです。



日本人の義務の一つに労働がある。男性は人生の大半の時間を労働に使う。お金自身に幸せ、不幸せが存在しないというのであれば、仕事も生きがいと感じるか、苦行と感じるかも考え方次第なのかもしれない。いずれにせよ、生きていくため、生活していくためには働かなくてはならないのだ。幸せか、不幸せか。生きがいのある人生か、苦行の人生か。変われるのか、変えられるのか。答えが導き出せない。だから毎日試行錯誤して生きているのだと思う。答えがないという答えを探しているのかもしれない。だから答え探しには時間を伴う大きなエネルギーが必要だと思う。



ポジティブ、行動力、積極性、大事な三要素ですがこれが一つ間違うと、身の程知らず、怖いもの知らずということになります。それがリスクです。いつでもリスクは存在します。だからある程度リスクは想定しておかなければなりません。その予測ができると対処がしやすいです。リスクを予想しないで行動することはギャンブルです。生きるか死ぬかの二択と言っていいほどです。例えば足のつかないプールで泳ぐとき、水深が何メートルあるか、標記がなくても、大体これくらいだろうと予測を立てて入る、もしくは入らないという決断を下すことはリスク管理なのだと思います。



当たり前のことを当たり前にする。これほど難しいことはないと皆が思っていますが、逆にこれができるとすごいのかというとそうでもないようです。当たり前のことを当たり前にするから、当たり前の結果が出てくるわけです。つまり、成功者というのはどこか一味違う、人とは違う何かをしているのです。日本人は特に保守性、旧態依然としたものにこだわりがあります。過去に積み重ねてきた実績、今まで何とかやってこられた自信を重んじる風潮です。ただ、イノベーションという観点からすると、悪い側面しかありません。一味違うというのは、法律を出ない範囲での逸脱です。それを考えると、現在自分のやってきたことというのは、当たり前になるわけですから、そこから逸脱するには、自分のやってきたことは違うという否定をしなければ、新しい道が開けないのだと思います。だからイノベーションは難しいのだと思います。大器晩成という言葉がありますが、そういう人は、一握りだと思います。実際のところは、さぼっていたりして、チャンスをつかめずにくすぶっている、極端な言い方をすると怠けている人ということになるわけです。これを本当に努力、準備をしてチャンスを待つ大器晩成と一緒にしないでほしい。



人は、失敗したくて失敗するのではありません。また、失敗には原因があります。何か新しいことをしようと行動した結果、何かが足りなかったので失敗するのです。これが壁です。この壁を超えようとすることが辛くて苦しいのです。失敗すると自分に足りたいものが何かを考え、埋める努力をするのです。だから壁を超えられるし、超えると気持ちがいいし、越えられるようになる頃には一回り大きい自分がいるのです。努力とは継続した準備なのかもしれません。ただ、これらの行為は真剣だからできるのです。失敗を失敗という事実で終わらせる人は、失敗してもいいと思っている、器の広い人か、真剣身の足りない人のどちらかだと思います。真剣だから、本気だから知恵が生まれるのだと思います。



人間、人生は不平等です。これは覆りません。でも、勘違いしている人が多いのは、努力は報われないという考えです。結果から考えると、努力は報われていると思います。ただ、要素、要因の兼ね合いで、自分が想定したところとは違うところに努力の結果が出てしまうことが多いからです。これは努力と結果の中間に多くの人間、機械、道具などが挟まっているためです。だから、まわりが楽をしていて自分だけ苦しい思いをしていて、努力は報われないと思うことも多いでしょうが、そこであきらめずに努力を続けると、全然違うところから努力の成果品は出ると思います。時間と人生は無駄にできません。取り返すことが不可能だからです。これは誰しも知っていることです。そういった意味で、努力や準備を怠らないということは、どこからかやってくるチャンスを受け止める準備ができているから、チャンスをものにすることができるのです。準備、努力は報われます。



自分から結論を出す人もいます。それはやめるというかたちです。思うのは、こういう人は非常に決断力や行動力がある人だと思います。やめるというのは、何か新しいことを始める以上に厳しいことだと思います。それには、積み上げてきたものがあるからです。積み上げたものは自分だけではないからです。ただ、よく考えてみると、捨てるという行為は、集中するためであり、何かを守るためであると思います。積み上げてきたもの、世の中の常識を捨て去る覚悟のある英断だと思います。やめる行為が我慢が足りないと一言で片付けてしまうのは、安直なように思います。勇気ある決断だと思います。



私たちは、一人では生きていけない。まずは、世の中から、与えられる、施しを受けるのです。そして、手にする、頂いて生きていく。それは返さなければいけないのです。それが、仕事をする、世の中に貢献するということです。だから生きていくために、夢、志、目標をはっきりすることで、自分の強みを生かし世の中に貢献する。そうすると、人生がとても充実し、楽しくなり、生きがいを感じるのだと思います。他の人の力を借りずして、今のあなたは存在しないのです。勉強のための勉強、仕事のための仕事をしていませんか。何のための勉強なのか、何のための仕事なのか、そこを見つめ直すことが必要なのかもしれません。



苦労を知らない人、親の七光りな人は嫌いです。そういう人には自我がありません。酷い人は人格がないです。人格は、苦労しているうちに作られます。夢や目標を持ち、ほとんど失敗し、悩み、苦しむ。自分が悪いのか、何が足りないのか・・・。つらい、苦しい。あきらめるのか?夢や目標は?そう、夢や目標のためにやっている。自分のためだ。損得ではない。だから続けられる、続ける。それが実現するとうれしい。思い返せば楽しい。だから夢や目標を持ち続けるのだ。こうすることで人格は作られ宿る。これは全て自分の手で掴みとるもので、周りや親から与えられてつくられるものではない。人格を形成するのは、自分である。だから自我も自分で形成する。与えられたことしかこなしてこなかった人間とは格というレベルで圧倒的に差があるのだ。苦労した人は人相に現れている。自信を持って行動してほしい。ただ、その人が幸せであるかどうかは全く別問題なので混同せぬよう。



前向きにということはポジティブと言える。これは最近のトレンドであるが、それは自分が生きやすくする、幸せを感じやすくするという即効性とともに、他の効果もあるように思う。自分に効果があるのであれば、周りに影響が出る。人は依存しあう。何かに期待する。それは人か、天か・・・。人でも天でも、自分が動かなければ動かない。これが前から言っている運命。自分が動くためには前向きでなければならない。つまり人も天も、前向きな人にしか動いてくれない。これに気が付かないと、人生は浪費で終わってしまう。息をして、時間が過ぎるだけだ。生きるとは前を向いて歩くことだと思う。



チャンスを掴み取るには準備が必要だと書きました。だから愚直に努力する必要があると。それは勉強です。知識が増えてこれば、張れるアンテナも増えて情報も増えてきます。それ、何の役に立つの?とか細かいことをきちんとやることを指摘する人がいますがこういう人は放っておけばいいです。



幸せは掴み取るものだと思っていました。しかし、掴み取るものは、地位や名誉、権力、お金であって、幸せではないということに気が付きました。つまり、努力をして幸せになるというのは何か違うようです。幸せとは、その辺りに転がっているようなのです。なんで気づかないのだろうと思いました。幸せはその辺にあるもので特別なものではないようです。つまり、当たり前という考え方がどうも幸せを見えにくくしているようです。謙虚や感謝を忘れた現代人には幸せが見えにくいようです。いずれにしても、幸せになりたいのであれば、どうなりたいかを考えるよりもどうありたいかを考えるべきです。



社労士や行政書士が中小企業に悪知恵を、ここ数年教え込んでいます。それは雇用者がある意味賢くなって、今まで考えられなかった退職をするからです。そこで、労働契約や社則をここ数年で結構変更している企業は意外と多いと思います。従業員はあまり気が付かないうちに壁を作られています。でも考え方を変えると、今の子はすぐ辞めるというけれども、それだけ過酷な労働環境にしているのは誰のせいなのかということを考えるべきです。自分の取り分を下げたくない分、仕事のできない若い奴は切ってやろうという経営者が多すぎる。そういうことをすると自分の首を絞めているだけです。若い奴は仕事ができないのは当たり前です。反対に仕事ができるであろうベテランは仕事が職歴的に能力と不一致ということに経営者は気づいていないのです。そういう人の給与を減らしてやるべきです。そういう人を優遇して若い人を切り捨てている企業があふれる社会に未来があるのでしょうか。それがくどくど言っている戦後ベビーブームの世代です。年齢の割に仕事ができない。仕事の能力として低い。ただ、即戦力として採用する中途や新卒より、使いやすくて、会社になじんでいるだけです。そんな人たちを優遇する会社に未来があるのか。そんな会社があふれる世の中に未来はあるのか。大卒から三年までの離職率は現在三割程度と言われ、高いと言われていました。しかし、一部報道ではその離職率は昔から三割で高くないと言われています。でも考え方で、ずっと3割というのもおかしな話です。普通なら減っていくはずです。なぜ減らないのでしょうか。それは企業体質だと思います。リーマンショックや景気の悪化のため離職率は横ばいだという声もあると思います。それもそうかもしれませんが、若い人が職を離れたいと思うのは入社して1年から2年程度です。そこのフォローアップがされていないのです。「あいつ辞めるわ」「辞めさせたる」といった体質が変わらないのです。ゆとりという言葉をあまり使いたくはないですが、ゆとり世代、新しい教育課程で学校を出た世代に、変わらない会社の常識を振りかざしたところで通用するわけがないのです。そこで離職することがおかしなことではない、慣れてしまったことがおかしいのです。若い人に自信を持ってほしいのは若い人がおかしいのではないのです。経営者たちが勉強しない、変わらない会社を貫き通すからおかしいのです。そこに、金で関係を形成する社労士や行政書士が現れるからおかしなことになるわけです。繰り返しになりますが、最終的には自分の首を絞めるだけです。ただ、仕事をするのは学校ではないというここのギャップを知ることは大事なので、苦しいけれど、我慢することも必要です。教育の程度が下がっているのだから、企業が教え込むことが増えてくるのは当たり前ですが、それを「あいつは勉強しない」とあたかも個人のせいにして首を切るのは悪徳です。そう考えると、一人前になるまで三年という約束は崩壊して当然なわけです。学校で取得してくるものが圧倒的に少なくなってきている中で、企業で教える量は変化しない。それでは同じレベルになるまで三年以上かかるのは当たり前です。そういった意味で社歴は重宝されるのかもしれません。前から言っていますが「あいつ使えない」というのは「使いこなせない」無能者の発する言葉です。世の中の常識から外れていることは悪いことではないです。規律、規則、法律から外れていると悪いのです。そこの違いを理解していない人が多いです。常識がないのであればつけさせればいいだけです。常識無い奴だなぁという人が多いです。それも考え方で本当に何もない若者だったら、理解できるように教えてあげればすぐに常識人です。白いものはすぐ染まりやすいのです。よっぽど今の常識を理解できない、年長者のほうが理解させるのに時間がかかります。色があるものを変色させるのは困難です。



本当の強さというのは、自分の手で掴み取ったものです。他人から与えられたものでは強くなりませんし、それでは幸せにはなれません。与えられていたところから自分一人で掴み取る苦しさは言葉で表現できませんが、前向きに捉えればやりがいであり、手にすれば達成感と報酬になります。苦しいことから逃げる、できないことから逃げる、できることばかりする。そんな人が成長するのでしょうか。逃げる行為は先延ばしにするだけです。いずれ自分に戻ってきます。できることばかりするのは自分の可能性を狭めるさびしい行為です。だから苦手なこと、できないことには真剣になるのです。真剣にやりなさいとはよく言われますが、それはどこかで、苦手で逃げたいということを表現していることだと思います。逃げたいということに頭を使うから、時間もかかるし、できも悪いのです。真剣に向き合い、頭を使い、知識から知恵を絞る作業をすれば、結果は出るはずです。



人は孤独です。孤独はタバコを吸うよりも健康に害があります。孤独の気持ちは逃げ出したいという気持ちです。だから結婚するのです。そう考えると、結婚とは決して好きどうしというものだけではないようです。さびしいもの同士、寂しさを紛らわせるためという解釈もできるのではないかなと思います。



人生をどうも損している気分にさせるのは時間の使い方のようです。それは「過ごす」という使い方をするからです。過ごすというのは経過するということで、流れていってしまったというような喪失感を生みます。そうすると損をしたという気分になるのです。そう考えると、どうも人生は結構損しています。じゃあどうすれば良いかというと、時間を分ける、分かち合う、共有という考え方にすると良いと思います。誰かと時間を分ける、分かち合う、共有するという過ごし方をすると、多少の報酬が発生するはずです。そこに幸せを感じるヒントがあるようです。報酬があるから後悔がないので前向きなのです。一見、時間を分けるというと、少なくなって損しているイメージがありますが、そこには相手の思いやりがあり、相手からの思いやりもあるわけです。自分がわけている分、相手も分けてくれているのだから損した感情は低減されるのだと思います。時間を割くというのはこういうことなのかなと思います。



諦めたら試合終了とはどこかのマンガの名台詞ですが、諦めなければ終わりは来ない、諦めた結果に終わりが来るということです。良いことがこの先ある保障がどこにもないのと同じように、悪いことがこの先ずっと続く保障もどこにもありません。だから諦めずに続けるのです。



等価交換という言葉もどこかのマンガでよく使われました。何かを得るにはその対価として何かを失わなければならない。強さがほしいという人が多くいます。これも等価交換です。交換に渡されるものは挫折です。挫折から這い上がったとき、強さは手に入るのだと思います。



少し前に、他人に影響を与える存在になるということを書きました。その通りだと思います。なぜなら他人は変えられないからです。変えられるのは自分だけです。だから自分を変えて相手に影響やきっかけを与え変化が起こるのを待つのです。ただ、辛抱が必要です。めげずに待つのです。ただ、自分が正常であって成り立つことを忘れては本末転倒です。相手に影響を及ぼすことだけに特化して、目的を失い、辛抱しているだけでは辛いだけです。それは自分を傷つけているだけです。そうなのです。限度を超えてしまうと、自分を壊して、傷つけてしまうことです。自分が正常であることを守るためには、一定の線引きが必要です。そこで出てくる手段というのは無視なのです。興味がない、口数が少ない、無視は相手にとって最大の攻撃で相手をもっとも傷つけますが、そうでなければ自分が傷ついてしまうなら、それを理解してもらうことも必要なのかもしれません。



考えることが大事とはよく言うものです。しかし、考えるには考えるきっかけが必要です。きっかけを作るのは、自分か相手か・・・。人間はどこかで怖がりながらも、異質なものを求めています。探究心でしょうか。安定は居心地がいいのだが、どこか変わったもの、刺激を求めます。それが出会いです。常に、何かを買い、何かを感じ、誰かに合う。これらはすべて出会いなのです。だから人は永遠に旅をするのです。それを考えると、考えるきっかけというのは外にあるようで、外的要因だと思います。そうなると、考える人になるには、まず自分が考えさせる人にならなければならないようです。考えさせる人になる。正直難しいことだと思います。でも、信念をもってめげずにやり続けることが大事なようです。これは、誰かに評価してもらうためにやっているわけではないから、自己満足でいいわけです。しかし、相手にどれだけの影響度があるかは常にみておく必要はあります。良い意味で考えるならば、そういった行動は、気配りととれるでしょう。心を配り、目を配り、気を配る。今日本人で一番欠けている行動だと言えるでしょう。仕事や日常生活の根源、本質的なところはこのようなところにあるのだと思います。今一度この辺りを考え直す時なのです。



目標が決まると、やるべきことがわかります。あとはやるだけなので簡単なように思いますが、必要のないことが発生し、やりたいことはどんどんできなくなるものです。でも、どれだけやるべきことに時間を割くのかという考えよりも、どれだけ必要のないことをしないという考えにすべきです。しないという行為にはするということ以上の強い意志が必要です。やるべきことをやる人の強さは、する実行力ではないように思います。しないという決定力です。すると必然的に残ったものがするべきことなのです。直線のように見えていたものは結構大回りしなければならないことでした。



昔は〜と武勇伝を語る定年前のベテラン社員さんの再雇用や定年引上げも国が主導していることです。企業がやりたいことではないのです。企業は健康で長く勤めてもらえる優秀な人材がほしいだけです。それはイコール年配ではないです。実績として、年配の人の方が、仕事への姿勢が良いからです。若い奴はダメだと言っている中間職が多いですが、ダメなのはオマエ達だと言いたい。若い人を使いこなせない無能者の発言です。そんな人だから、世の中、お客様のニーズがつかめないのだと思う。だから売り上げは落ちて当たり前だと思う。若い人がこの制約の多い世の中で、常識がないとか言うこと自身、変な話だと思う。これは採用側も取られる側も。常識がないのはどっちだという話。常識がなければつけさせればいいだけ。つけさせようともせず、個人の技能や能力だけしか見ないのは、人を育てる意欲のない常識のない企業。制約の多い時代だから不完全な人間が出てくるのはある程度仕方のないこと。でも、それを育てていける、育てる意欲があるか、お互いにこういったところでミスマッチがあるから、摩擦が大きくなるのだと思う。では、年長者は常識があるのか。答えはNOだ。制約のない時代に成長し、ある程度その時代で土台や実績を作ってきて、ここ数十年で急激に時代が変わって、食らいつくのがいっぱいいっぱいの世代と、それが常識で育った世代の考え方が一致する方がおかしい。ぶつかるのは当たり前なのだ。人が生き物であるならば、社会も生き物です。だから会社も生き物です。不変な方がおかしいのです。増えていく制約、新しい条件に適応すべく勉強するのです。受け入れる器を作るために勉強するのです。そういう意味では、勉強をしない年長者と若い人はある意味似ているかもしれません。物差しは時代で変化します。それを企業のトップが良くわからないのです。経営者は金を残したいのか、人を残したいのか、事業を残したいのかが、わかっていないようです。この先の時代を担っていくのは誰なのか、どういう世の中にしていく、なっていく、残していくかを考えるべきです。制約という言葉が出ていますが、制約によってやることは多いです。しかし、人手が足りません。これは事実を並べているだけです。では、足りない人数分をどうやって補うのかを考えるべきです。当たり前ですが日本人は多忙なのです。多忙だから、制約のクリアしか頭にないのです。逆に言うと、制約のクリアしか仕事としてないさびしい国が日本なのです。だから自動車をはじめとするすべてのモノ、仕事で薄っぺらなのです。それは不況になるわけだ。制約、規制のクリアしか考えていない状態で、客のニーズがつかめているわけがない。売れる商品がでるわけがない。当然なのです。



公務員の給与に口出しをするのも変な話だと思う。公務員になるには公務員試験を受験しなければならない。受験したから公務員になれたのだ。議員だってそうだ。落選すれば、多額の負債を抱えるリスクを超えて議員になったのだ。それを公務員試験も受けない、リスクも知らない人に何かを言われたくない。公務員や議員は本当にプロとして仕事を全うしていたら、妥当な額なのだと思う。問題は、その意識で、ちゃんと仕事を全うしているのか?と疑問を持たれるような仕事の質だから、民間人から言われてしまうのだ。公務員試験を合格した優秀な人材だから、血税で給与を出しているという自覚を持ってほしい。自覚と同時に、一般の人では合格できない試験に合格して、職務に当たっているという自負、自信にもつなげてほしい。そこの上であぐらをかくことは、試験で不合格だった人、試験を受けられなかった人に対して失礼だ。競争とは結果だけだが、そのベースには負けた存在があることを忘れてはならない。



前向きとは、こういう頭を抱え、逃げ出したくなるような、課題に愚直という言葉が良いかはわからないが、まっすぐに、逃げずに向き合い続ける忍耐力、勇気や希望のような内外から支える力を基盤に、悪いことを、逆転に発想できること言うのだと思う。失敗は成功の母という言葉の意味が最近分かるようになってきました。一つは失敗は結果であり、結果はやらなければでないものである。つまり真の失敗は何もしないことである。これは一般論。もう少し踏み込むなら、結果が出ているのであれば対策を打てば成功するかもしれないわけだ。これがポジティブ。原因を考えるというと、重苦しいので、意味は変わらないが、次に挑戦するときに成功するにはどうしたらよいかを考える。そのための材料集めの失敗だった。だから、材料が集められた失敗は、失うのではなく、得ているのだ。一日を無駄にした、捨てていると考えているより、何かを得て積み重ねたと考える方が生産的であるし、精神衛生的にも良いと思う。そう考えると、成功者というものは、知ってか知らずか、今まで書いてきたことを何気なくやっている人が多いように思う。



男は女から生まれる。そんなこと知っているわ!っていう感じですが、だから、男は女が必要なのだということです。これを損得勘定でどちらが偉い、立場が上かということを言うものだから、おかしな話になるわけだ。生物的に役割があるわけだから、それに従えばいい。



挨拶とは禅語の「一挨一拶」から来ている。相手の心を開き、力量を量ることだが、この力量を量るというのは「丁々発止」という書き方もあるぐらいで、激しくぶつかり合うことだ。要するにケンカである。既に昔の人は、人が「わかり合う」にはケンカがなければ成り立たないということを言っていたのだ。最近、衝突を避ける傾向にある。私は衝突するというのは、価値観の違いからくるものだと思っている。それはいけないことなのだろうか。多様性という点では多くの価値観があることは良いことだ。しかも意見が衝突するというのはそれぞれが同じベクトルに向かおうと真剣に考えている証拠ともいえる。真剣に考えていなければ、違う意見は出てこないわけだ。それは避けるべきことではなくむしろ、歓迎すべきことだと思う。そこでケンカになるのは、同じ目標に向かう者同士の意見交換だからとても良いことだと思う。ただし、お互いに尊敬や礼節は重んじる必要がある。なぜ、ケンカをすると後まで長引くのか。それは、そのケンカの中に、私情や好き嫌いを混同するからだと思う。ここで考えるべきは、自分の考えが正しいということを証明することではない。その先にある、例えばお客様にとっての正解を考えることだ。そこがケンカでこじれるポイントだと思う。結局のところ、意見を出し合ううちに、オナニー状態になっているのだ。自己顕示だけの会議ではつまらないのは当然である。それは会議ではなく押し付けである。そういった意味で、会議の目的、終着点を開始前に参加者は良く考えておく必要がある。誰のために、何のために、どうして意見を出しているのか、よく考えるべきである。会議は自分を誇示する場所ではない。その先にある、お客様、顧客を考えるためにあるということを忘れている人は多いと思います。だから会議も仕事なのです。お客様のためだから。管理職や役員、経営層には、会議を金になる、ならない、時間の無駄と考えている人がいるが、そういう人はおそらく2流、3流です。そういう人の影響で自分のモチベーションまで下げられないような、強い自己、自我を確立してほしいと思います。今の自分、築いてきた自信が、未来を切り開きます。



人間はできないことはしないです。できる可能性があるからやるのです。可能性なので、あげることはできます。ここが諦めないというところだと思います。諦めず続ける意味とは可能性の積み上げのように思います。



日々は積み重ね、積み上げです。損をしている分、得ているものがあるはずです。毎日損していると思うと生きにくいです。得をしているというところまで到達するには時間がかかりますが、せめて失った分、これがわかったという何かを得たと考えるようになると少し生きやすくなるのではないかと思います。



あの時があるから、今がある。あのときに戻れたらいいのにと思うことは良くあるとおもいます。でもそれは、今から見ているからそう思うのです。今を構成したのは過去の自分です。時間は流れるだけです。戻ることはできません。過去にあまり入れ込まない方がいいように思います。タイムマシンはありません。戻ったところで今が変わる保証はありません。ただ、過去を考える、現代との共通性を探すといったことは少し意味があるのかもしれません。しかし、現在と環境は状況が大きく異なるので、参考程度にすることしかできません。今風という言葉があります。現代にとって現代らしい価値観や判断基準を持つためには、最新のアイテム、道具であるほうが望ましいです。今風という人は、新しい流れを常に取り入れ、勉強する人なのです。変わらないことは、一度覚えればそのままなので楽です。でも楽でとどまっていていいのでしょうか。変化しないものもあります。それも重要ですが、進化があるものについては、どんどんコンスタントに新しく買い替えることで、新しい価値観を取り入れることになります。すると考え方も今風になると思います。要するに、今を考える、判断するのであれば、今にあった環境の中にいる必要がある、今の物を積極的に取り入れるということが大事なのではないかと思います。そういった意味で、家電製品などは壊れるまで使うというよりも、コンスタントに何年で買い替えという方が良いと思います。お金の問題もありますので、全てが全てそうできるわけではありませんが、今風というものを理解するカギは、現代のテクノロジーを理解する必要があるようです。そういった意味で、生活するというのは、日々とても大きな勉強をしているようです。



ポジティブというのは、前向きという言い方もできます。前を向くということは後ろを振り返らないということです。何とも自分勝手とも取れますが、過ぎたものにいくら時間を費やしても、生産的ではないように思います。失敗した過去を考えるよりも、失敗しない未来を考えるということです。人は色々なものを背負って生きています。それが過去の積み重ねです。良いものも悪いものもあります。それをひっくるめて現在の自分があるわけです。過去に嘆く暇があるなら、明日、何を自分に積み重ねていけるかを考える方がいいように思います。あのころに戻ってやり直したいという気持ちを超えて、タイムマシンなんて必要ない、明日を切り開き、喜びを分かち合う、共有できるようにする強さを現代人には持ってほしいと思います。希望とは乗り越えた先にあるように思います。



最近は、組織内での喧嘩、仲が悪いということをむしろプラスに考えるようにしました。それは広い意味で、組織として良い方向に向かわせるためには自分はこう思うというアクティビティというかモチベーションの強さと他の価値観が衝突しているだけのことだと思うからです。衝突を恐れる、面倒くさがる人がいます。でも衝突しなければわからない人がいるのも事実です。不器用なら不器用なりのやり方しかないのです。衝突したからと言って殺し合いまでなったらダメですが、喧嘩したからといってすぐに死んだり、組織をクビになったりするわけではありません。よっぽど、衝突せずモヤモヤとし続け、言いたいことも言えず、行動を起こせない方が、生産性向上という観点からすると、とてももったいない、損失の多い状態なのです。この壁を超えるのに必要なのは覚悟の勇気です。これがある人が行動者で、成功者やリーダーに多い人だと思います。行動を起こすのには、勇気や覚悟が必要である。その根本にあるのは自分への信頼と自信だと思う。自分を信じるには自分が確立している必要があります。そこには、自分のコントロールができること。具体的には、謙虚であり、感謝、尊敬の念があり、そのことを誇りに思うことだと思う。自分が信用できないのに、他人が信用できるのだろうか。自分の根源が揺らいでいるのに、他人を動かす、影響させることができるのだろうか。まずは足元を固めることから始めるのが大事なのだろう。大きく張り巡らされた根は、太くちょっとやそっとで動揺しないし、それだけ多くの引き出しがある。



私は、他人は変えられると思っていましたが、どうもそれはないようだと思い始めました。自分があるべき姿を示し続けると、相手に影響があるはずと信じていました。確かに、影響はあります。ただ、これだと目標値に達するまで時間がかかりすぎます。だから、変えられないという結論に至りました。こう考えると、過去と他人は変えられない2トップだと思います。今まで無駄な時間を多く過ごしてきました。そんなことに費やすのであれば、これからの未来と自分を変えることに時間を費やすべきでした。あいつは使えないというのは自分が使いこなせないからだというのを今一度思い知らされました。良く考えてみると、他人を変えるというのは操作だととれます。影響を与えるというのは聴こえのいい話かもしれません。でもその本質は自分の都合のいい方向に相手の意思を操作していることです。だから自分勝手なのです。かつ、一方的で、良い面ばかりを見せるようになるのです。そんな自分が嫌いです。何が原因だったのかを考えるのは大切だと思います。だけど、どっちが悪かったのかを決めることには疑問を持つところがあります。そこに時間をかけるよりも、どうしたら未来が良くなるのかを考えるのに費やした方がいい。人間に与えられた時間は有限です。少ない時間を有効に使いましょう。



生きると生かさせられるは言葉の通り違う。生きるとは自発的である。だから行動に意味を求めてしまう。だから意味が無くなってしまうことが一番生きにくく、自発的に終わりにしたくなる。生かさせられるとは能動的で、宿命である。つまり、宿されたものだから、基本は変わらないわけだ。人間は、命を宿されてこの世に生まれる。だから基本は宿命なので、自ら命を絶たない限り、死という選択肢は手に刻まれた寿命に属すると思う。一方生きるという自発的行動の中には自殺という悪い意味の行動も含まれる。という解釈を考えると、人間は生かさせられていると考えるのが自然と思う。自発的に「生きる」という行動は危険なのかもしれない。自発的行動を制限するわけではない。「生きる」という考えに疑問があるということです。ポジティブで自律的というのは、後天的な特性であって、良し悪しでは片づけられない問題だが、やはりプラスだけではないように思う。



今日も無駄な一日を過ごした。これが口癖でした。でもそう言うのは止めようと思います。人間にとって時間は有限で非常に価値の高いものです。その中で無駄は省きたいけど、省ききれない部分もある。無駄と感じるのは、自分の意義のあると思う価値観からずれているからです。つまり、違う価値観から見れば、有意義である可能性はあるわけです。一日無駄にしたと思い悲観するよりも、一日自分の好む、大切にしているものとは違う貴重な経験をしたと前向きにとらえた方が生きやすいと思います。今、自分が直面している現実に向き合い、乗り越えることを考えるべきだと思います。一日損をしたと捉えるのも、一日積み重ねたと捉えるのも、全て自分の中の価値観の問題であるということです。損をするという考えはネガティブですし、それによって自分もネガティブになります。そんなことをするくらいなら、一度考え方を変えて、前向きにとらえた方が幸せな人生だと思います。



悪い時が過ぎれば良い時は来る。成功者は一様に、焦らず慌てず騒がずに時が来るのを待っているのです。何もせず待つのではなく、目に見えない地道な準備をしています。それは、時が来たとき、蓄えがないと乗り越えられないからです。ただ待っているだけでは、偶然を願うのと同じだと思います。桜はなぜ春にあんなにも美しいのか。寒い冬を一生懸命耐えているのだからだろうか。むしろ、その寒い冬にも休みなく、春に美しい花を咲かせるために準備を怠らないからです。春に綺麗な花が咲くのは偶然ではなくて必然なのです。蓄えた力をいっぱいに表現するからあんなに綺麗なのです。



林はなぜ強いのか。一本一本バラバラに生えているように見える木も土の中ではつながっており、みんなが力を合わせていること。また、太陽に向かい、伸びていっている姿は同じ目標にみんなが向かっているのだ。私たちは林に見習い、会社の有るべき姿を考え直す必要がある。



言い方は悪いけど、ある意味で図太くっていうのか、鈍感力というのか、そういうことが有利に働くのではないのかなぁと思う。もう一つ、昔と変わっていない有利な人の特徴は自分勝手である人だと思う。ただ、そうでなくてもそういう人に近い考え方や感じ方を学ぶ方が効率的だから心理学が注目される。大人たちが守りに入っていく、転覆していくのを見ている子供たちが守りに入っていくのは当然だと思う。そして大人たち自身が自分を守ることで精いっぱいなのに、子供にだけ積極性、競争性を求めるのは理不尽な話だと思う。だから、どこかで軋轢ができるのは仕方のないことだと思う。それをいい大人が理解できず、目くじらを立てて怒る大人のなさけないことと思った方が楽だよというのがワタクシの提案です。理解できないのは当然で、理解しようともしない大人を愚かと思えばいい。賢い人とは、話を聴く人のことで、そういう人はどんなに小さい子供の小さな意見にも耳を貸します。逆のことを言うと、歳を重ねるごとに頑固になったり、言うことを聴かなくなったりするのは、聴く力の低下であり、老化による脳機能の低下だと言える。だからそんな人たちを年齢縛りで一概に定年引上げとかしている国は問題アリのようにも感じるのです。逆にいつまでもそういう人が社会に蔓延させるから、日本はいつまでたっても時代遅れの国になってしまうのだと思うわけです。もちろん伝統や文化が大事ではないということとは大きく違います。伝統や文化を尊重しつつ時代背景にあったやり方をするべきというだけのことです。



仕事を変えることは人によっては壁が高いのかもしれない。だけれども、仕事のやり方は変えることができる。仕事は何のためにするのかを考えていくと、最終的にぶち当たるのは人である。人の攻略が仕事の攻略なのかもしれない。そういった意味で賢く仕事をするのは難しい。



自分を楽しむ、充実させるということは大事なことだと思う。堅苦しく言うと自己啓発であり、簡単な切り口だと趣味を持つことだと思う。それは、ある意味で生きる、生活していくことへの目標、意味づけになる。その方が、生きやすいし、明確でわかりやすい。やるべきことがわかっているからだ。



雑用という用は世の中にはない。用を雑にするから、雑用になる。雑用を新人の仕事にする、押し付け仕事にしている人は、あんまり出世しないと思います。それは仕事のやり方が雑だと言っているようなものだからです。



一人の人間にできることは限られている。だから人生での選択は重要なのである。選択とは字では「選ぶ」となっていて、好きなものを取るというニュアンスだが、実際は、いらないものを捨てるという行為である。だから選択とは極めて勇気のいる行為である。世の中には色々なものがあふれており、生活をしていくと、そのしがらみに足を取られる。しがらみを抜けるために捨てる行為が選択だと思う。人生は限りがある。だからその限りを有効に利用するためには、捨てる作業が重要なのだと思う。複雑と言われる問題は、単純が絡み合っている問題だと思う。複雑な問題を解くためには、問題が要求している答えの本質を忘れず、単純問題を一つずつ片付けていく、いらないものを捨て、そぎ落としていく作業だと思う。



逃げずに立ち向かうということは、失敗するリスクを受け入れるということである。結果は成功か失敗の二つしかない。何かをすれば結果は必ず出る。半分は失敗するのだ。その失敗の受け止め方、受け入れ方が行動力につながるのだと思う。そう考えると、ポジティブという要素は非常に重要だと思う。よく間違われているのは、結果と成果である。成果とは成功の後に続くものである。やみくもに成果だけ追いかけていても成果は出ない。成果を出すためには成功が必要である。そのためには、失敗を排除していく必要がある。失敗がありふれた中で成果を追い求めるから成果が出ないのは当然なのだと思う。



人間はいい意味でいい加減です。だから人間として生きていけるのだと思う。そう思うのは、人間は忘れていく生き物だからです。新しい情報が上書きされ、風化するから、いつまでも辛い状況が続かないから生きていけるのです。だから昨今、歴史の風化と言うが、それは大事なことだと思う。しかし、鬱が増えている背景は、おそらく世の中に情報が溢れすぎていることだと思う。記憶が薄れていかない。記録として、忘れていかなければならない情報がどんどん残っていく。だからいつまでも過去に縛られてしまう、風化しないから鬱になるのだと思う。そういった中で出てきた考え方が向き合う、受け入れるというものです。向き合えない、受け入れられないから、拒絶して、忘れようとしているのに、忘れさせてくれないなんてなんだか矛盾のように思います。だから、どこかに逃げられる場所を求めるのだと思います。それが現実世界にあるのか、ないのか。要するに、情報だけがあふれ、それを受ける「器」がないのが現代社会の問題ではないのかと思うわけです。そういった意味で、田舎でラジオを聴きながら農業をやっているような環境の人が精神衛生がいいのは、納得ができるわけです。根本の情報量が少なく、変化も少ないわけだから。そう考えると、今の社会を生きている、生活しているということは、それだけ多くの情報と向き合うことができていて、健康であるということは、昔の人では考えられなかったことで、それだけ現代人が強い証しでもあると思うのです。それか、一時的に強くて、何かを犠牲にして、強さを得ているか。ということは、世の中に普通は存在しないと思う。どこか崩れている、ずれている、偏っているという状態でないと人間は生きていけていない。そのそれぞれの偏りがある数あれば、世の中はなんとか形状を維持できる。そこで、人口減少するものだから、バランスが崩れ、世の中は焦っている。人が減るなら、情報を減らすしかない。でも、それも嫌だからコンピュータが進歩するわけだ。処理、計算だけなら電力さえコンピュータに与えればやってくれる。そうなると、どこかの学者の話ではないけど、コンピュータが人類を滅ぼす話になるような気がするのは、間違いではないような気がしてくる。歴史を考えてみると、昔の記録媒体は、紙とかレコード、フィルムテープとかはどんどん劣化してしまい、消えていっていた。だけれども、今はデジタル媒体で、情報劣化も少ないし、媒体自体の情報量も莫大だ。記録として残ってしまうものが多いのだと思う。情報量が増えれば、処理にかかる時間は必然的に増える。しかし、実際は減っている裏側には、処理する速度が向上したことと、間引きが存在すると思う。早い処理装置はコストがかかる。間引くと、品質が下がる。壁に当たると、イノベーションが必要になる。こうなると、現在では、人間しか解決できない。



自分の好きなこと、得意なことを仕事にしなさいと言われた人も多いはず。だけど、それが仕事として苦痛を強いるものもあるから、好きとか得意というのは、自分の本当の能力や可能性を見つけたり、広げたりするものだと最近つぶやいてきましたが、例外があることを忘れていました。たまに居るんですけど、好きなこと、得意なことが本当に自分に合っていて、仕事としてあっている人がいます。これは幸せなことなのだけど、よ〜く周りから見ていると、本当に幸せなんなのだろうかと思うことがあります。それは息抜きが仕事だから、仕事なのか息抜きなのかの境界線が引けないことです。周りから見ているとずっと休憩もなく仕事をしているように見えるのだが、本人は仕事と休憩を繰り返している。好きなことが仕事だから、休憩も仕事に近いことをするから、休んでいるのかわからない。こういう方が大きな企業で仕事をするとハブられてしまうから、何とも難しい問題です。



中小企業がこの地域は多い。代替わりもある。家族経営もある。そこで、経営者の残すもので三流、二流、一流かがわかる。三流は金を残す。二流は事業を残す。一流は人を残す。こうなってほしいし、こうあるべきだ。人材ではなく、人財なのだと。



経営者の仕事とは、決断を下すことです。決断を下すということは、同時に責任を取ることでもあります。決める行為は、選ぶ行為ではなく、捨てる行為なのです。大事なものを守るためには、どちらかを捨てるしかないのです。それが決断の重みであり、経営者の重みです。



社会に出て若いころは、上司や先輩に何か言われたら戦っていました。でも、最近は戦わなくなりました。それた体力の衰えとか草食化というわけではありません。自分が、上司や先輩の言うことを許す器量を身につけたからです。戦わずして勝つとはこういうことを言うのだなと最近わかりはじめました。許すというのは、何かネガティブなイメージがありますが、そういった行動ができるというのは、相手の行動以上に広い視点を持って考えていることで、その時点で相手以上なのです。それでも、ぶつかるときはあります。そういったときは、妥協というか、落としどころを決め、そこに落とし込みます。



著名人、芸能人いろいろあります。なんでそこまで登り詰めることができるのかって考えると、やはり好きであるということだと思います。世の中は甘くありません。むしろキツイことだらけです。そういったときに好きだと続けられますが、そうでもないとしんどいだけです。好きなことがなかなか見つけられない人がいます。私もその一人ですが、何か興味のあることがあるはずです。その窓口を広げていくことが近道のような気がします。ダメな親、指導者はこういいます。「もっと頑張らないとね」って。それは知らない間に重荷になっています。強制するとやらされている感ができて、嫌いになります。褒め方の上手な人は、今に至る過程、その人自身の存在を褒めます。結果を褒めるだけだと、結果が出せなくなると褒められなくなります。前にもいいましたが、一番つらいときは、自分が努力をしているのになかなか結果が伴わないときです。こういう時、結構成功の近くにいるのに、心がポキッとねって感じで一番折れやすい。折れると失敗になります。じゃあ、モチベーションを持続させるコツは何かというと、褒めてもらうことです。



卵っていうのは不思議です。中からは割れないのです。中から割れるときはヒヨコがでてくるときです。それ以外は外から割られるのです。それだけ旧態依然としたものは外に出るのは難しいのです。そういった意味で、転職者、社外の人の重要性があるのです。中から生命が生まれる時だけ、卵は中から殻が破られます。生命が生まれるということはそれだけ莫大なエネルギーです。内部から変革して自らの殻を破ろうとするのは相当なエネルギーです。だから、外から殻を破ったほうがとても簡単なのだと思います。



失敗とはやってみたから出る結果である。やってみなければ失敗は生まれない。また、失敗ということは、失敗と認めた、諦めたから出る結果である。認め、諦めなければ、失敗しないということだ。成功するカギはここらへんにある。まずやってみて、諦めなければ、失敗以外の成果が出るはずだ。



媚びることは嫌いです。媚びるとは眉の動きを使って誘惑する女の行為です。媚びるという感じは女の眉です。昔の人は良く考えている。



世渡りが上手い人は、頭がいいからではなく、コツを知っているからだと思います。頭の良さで勝負するよりも、権力者に気に入られることに重点を置いているような気がします。権力者に気に入られると、イニシアチブを握れ、自分の強いところで勝負できるようになるから世渡りが上手いのだと思います。諦めなければ失敗しないといいながらも、諦めることも大切だと思う。なにか、新しく始めた習慣などを、意思を持ってずっとやり続けようとする人がいます。でも、ある程度のところで、雲行きが怪しくなったら、落としどころを見つけ、やめてしまうのも手です。この判断をするのが難しい。これが人生。人生というものは、時間の制約がある。だから、うかうか回り道ばかりもしていられないし、チャンスも待ってはくれません。決断力が必要なのです。人生を無駄遣いしない人は、選ぶというより、自分に必要のないものをそぎ落としていくので、とても洗練されていくので、味があり、美しいのです。



際立った個性とは何か。それは鋭く研ぎ澄まされた技術だ。そもそも、どうやったら鋭くなるのか。それは自分の姿勢だと思う。ともかく、現在ある知識や技能で、できること、手が付けやすいもの、好きなことからやっていく。ここに扉はあると思う。できることをやる、それが個性を作り、鋭利にしていく。できること、好きなこと、とっつきやすいこと。これを繰り返していくと、個性が個性をつくるようになり、際立った個性になる。全部がいつもいい顔をしてくれない。だけれども、好きだから続けられる、できるから続けられる。続けられればあとは時間の問題だと思う。さっきも言いましたが、自分勝手、身勝手と個性は別物です。勝手とは、嫌いを受け入れないのです。個性は嫌いということに触れていません。ただ、長所を伸ばそうということです。嫌いなことはしません、好きなことはやりますというのは勝手なのです。自分から扉を閉ざし個性を磨くというのは、嫌いを認め、受け入れる一面があるから、強いのです。だから、続けられるのです。続けられるから磨かれていくのです。そうなるには、まず、動くという大きな一歩があります。慣性の法則だと思います。動かないものはずっと動かない。これは物理現象だけではないのだと思います。していては、未来は暗いです。



来るもの拒まず、さる者追わず。人間、どこか報酬欲があって、嫌われたくないとか失敗したくないっていうものがあります。そこに打ち勝つのは、人よりちょっと思い切った行動、ちょっと怖いことに我慢することです。根っこには、やはり「ちりも積もれば」という考えがあるのだと思います。



チャンスと言われるものは強いものから生み出されるものです。ずっと何もしないでいると、チャンスに気づかずに日常が過ぎていきます。日常からアンテナを高くして、日常の些細なことに気づける用意をしておくことが大事です。段取り八部とはよく言われます。



世界は苦難に満ち溢れています。しかし、成功した事例にも満ち溢れています。成功するためには成功するまで続けることが大事です。周りには勝手なことを言わせておけばいい。降りやまない雨はない。雨は一人にだけ降っているわけではない。夢をかなえよう。



流れに抗うことは浪費である。要するにできた仕事以上に損失が大きいということです。前にどこかで私は、人生は一冊の本を完成させることと書いた覚えがある。ネタがなければ、本は書けない。ではネタはどうやって生むのか。無駄や浪費だろう。全てに意味を求めても仕方がないのかもしれない。生きる意味を考えても無意味だとよく言う。生きる意味を考えるからだと思う。我々は生きているのではない。生かされているのだ。だから生きる意味に意味はなく、考えることは無意味なのだ。生かされる意味を考えよう。その中でそれぞれの一冊の本をつくっていくべきだと思う。



怖いもの知らずと勇気ある行動は大きく異なるものです。怖いもの知らずとは、そのまんまで、後先を考えないことです。勇気ある行動というのは、守りたい大切なものがあり、恐怖におびえず、行動、決断ができることです。だから、怖いものを少しだけ我慢できる行動だからかっこいいのです。



運が悪い、そういう運命だったと考えていました。こう考えているから、生きにくいのです。運とは動く意味があります。人が動き、金が動き、世の中、社会が動いているのに、自分だけ受け身で動かないのであれば、置いてかれます。だから生きにくいのです。川の流れにようにとは上手く言ったものですね。



なぜ残業はなくならないのか。理由は簡単です。仕事が増えたから。なぜ仕事が増えたのか。守るべき法律、規則などが増えたから。仕事の量は変わらないどころか人手不足で増える一方。売り上げは落ちる、人は雇えない。残業して何とかするしかない。構造は簡単なのです。では残業を減らすにはどうしたらよいのか。簡単な話で仕事の量を減らせばいいのです。そうしたら売り上げが減ってしまうではないかという問題に直面します。では、売り上げが減らないような顧客を相手にすればいいのです。そう、お客様は神様ではなく、企業側もお客様を選ぶ時代なのだと思います。それは正しい選択だと思います。すべての顧客に満足させることができるなんてありえません。当然切れる顧客もあるわけです。そこを掘り返すのではないのです。無理なものは無理です。それを無理につなぎとめるのはしんどいだけです。企業組織なので、結果、利益さえ出ればやり方は問わないわけです。それがマーケティングだと思います。顧客満足度を下げずに、売り上げを維持する。来る者拒まず去る者追わず、身の丈に合うというのは昔の人はよく言ったものです。



いじめが社会問題になっている昨今。いじめる側が悪いという保護者側と学校の対応などが取り上げられていますが、こんな言い方をすると問題なのかもしれませんが、本人が乗り越えなければいけない壁で、大人はそれを超えやすくする手助けをするまでにしておかないとその子の成長はないように思います。つまり、いじめが起こる原因は何かの根本的な解決をするということは、保護者や学校側が子供たちのテリトリーの中にあまり介入しすぎると、子供のためにならないということです。子供たちの問題は、子供自身で解決するべきなのです。それが難しい問題であれば、保護者は手助けまでが限度だと思います。いじめはその子が問題を抱えているのであれば、転校しても付きまといます。保護者も子供もいじめと向かい合い、その現実を受け入れる必要があるように思います。そうでないといじめの問題は、大人になっても存在します。大人になってもそういう人間関係で乗り越えられない人になってしまいます。ニュースであるように社会的要因でいじめを受ける場合もあるでしょうが、それは状況を変化させるのは極めて困難です。私個人としては不登校はありです。死ぬくらい思い詰めるなら、一時的にドロップアウトするのも手段でしょう。しかし、いつかは向き合わなければならなくなることを忘れてはいけない。そうやって壁を乗り越える力がない子供を大人が社会に輩出した結果、若者は大人とすれ違うようになり、ある種の子供たちは大人になって、反社会的になり、問題行動を起こしやすくなるのです。だからそういう成人たちを私たちはのけ者扱いするのではなく、社会適合できるようにしなければならない。これは大人にも言えることなのですが、誰にでも問題や壁にぶち当たります。でも、そこから逃げているだけの人生を送っている人は、結局どこに行っても同じ壁にぶつかることになって、そこから先に進めないのです。壁を超える力を備えるべきなのです。それは自らその力を身につけるしかないと思います。



現代社会は出がらしのお茶のような気がする。つまり、いつまでも過去にすがっていて、中身が希薄なのだ。古い歌を有名歌手が歌い直しをしたり、過去のドラマや映画を若手俳優が演じなおしたりすることが悪いとは言わないけれど、現代のプロデューサーにはその程度の能力しかないのかと落胆してしまう。結局金が絡むので安全な方へとなるから、過去の実績にすがる。それが世の中の面白みを奪い、結果としてじり貧になるのだと思う。これが曲芸商法。どこかで頭打ちになる。それはいつまでも人の価値観は同じではないからである。これは正常なこと。だから、過去から離れなければならないのだ。



最近名古屋は魅力がない街と言われその市民性も「仕方ない」というものを言われるけどこれはポジティブで産業都市だからであることの長所だと思う。起きたことを、過ぎたことに時間を割いている場合ではない。再発防止、生産性、品質低下を防ぐにはどうするべきかに力を入れるからそういう思考になるのだと思う。「仕方ない」は次へ進む対処法、魔法の言葉だと思う。だからそれもポジティブにとらえるべきだと思う。いつまでも過去に起きたことにこだわりすぎて前に進めなくなることが問題だと思う。とにかく前に進む姿勢が「仕方ない」だと思う。しかし、過去に犯したことと同じ過ちを繰り返すことは別である。そういう「仕方ない」というドライの姿勢が大事だと言った。これは仕事もそうだと思う。仕事を複数変わっている私もそうだけど、自分の努力の方向性を振り返り反省はしなくてはいけないと思うが、どう実績や業績を積み上げても相手の価値観に響き、評価してもらえなければ意味がない。ビジネスだから結果主義だが、評価の仕方が決まっており、自分のアピールとずれていては無駄な努力の積み重ねで惨めなだけだと思う。相手を動かすこともできるけど、それはとても大きな労力と時間と金が必要だと思う。試しに一つの事柄に絞ってやってみて、変えられないと思ったら「仕方ない」と思う。この「仕方ない」が転職、仕事の変わり時だと思う。変わって自分の思うようにできるようになればその職場で仕事をすればいい。問題なのはそうできないことで自分の中でため込んでしまうようになると、苦しくて仕方なくなるのである。そうなったらスパッと見切りをつけるべき。死ぬほど思い詰めて仕事をするべきではない。それは会社に良いように使われているだけ。従業員のことを何も考えていない、従業員を馬鹿にしている管理職、経営者のいるお粗末な会社だということ。これこそ若者を食いつぶす大人だと思う。自分の価値をもっと買ってくれるところに移ればいいだけのこと。



離婚、転職といったネガティブな印象が世の中であふれていることは面白くない。これはポジティブなのだと。時間を無駄にしている暇はない。自分の幸せは自分で掴まなければ意味がない。時間を消費して無駄にしている暇はないと思う。いい人生にするためには、縁にケジメをつけることも大切だと思う。



人は時間の過ごし方にお金を払っているのだと思う。ご存知の通り、時間は戻らない。しかも一方的に流れ続ける。有料道路がいい例だと思うが、一般道路だと1時間かかるところでも、有料道路だと30分で着くといった具合に、お金で解決する。これがタイム イズ マネーなのだと思う。時間とは仕事の資源なのだと思う。何かをしようとすると、一人ではできないので、誰かの力を借りなければならない。誰かを拘束するということは相手の時間を消費することだ。その対価をお金で支払う。人を使うということは人件費がかかるということだ。世の中は人件費で構築されているのだと思う。この人件費が無駄になる関係がある。これが愛のある関係だと思う。無償の愛とはよく言うが、これはかかる経費以上に、恋人、配偶者や子供など、自分にとって時間の消費以外の何物でもないものを受け入れ、消費という概念を共有するという形に変えるものだと思う。人生最大の買い物は家ではなく、結婚、子作りだと思う。繰り返しになるが、価値観を消費から共有に変えるわけだから、それは大きな壁だと思う。だから、私は離婚にはネガティブな印象が多いが、この考え方からするとむしろ賛成である。自分の人生は一回しかないのに無駄はできないからだ。価値観の折り合いのつかない相手と苦痛な時間の消費をすることよりも、共有できる相手を探して、自分の生活を豊かにしたいと思う欲求はごく自然なものだと思う。そういう観点で、お互いの幸せを考えた上で離婚するということはむしろ最適な選択肢で歓迎すべきものなのかもしれない。この共有という概念は、家族生活にとどまらず、仕事にも適用できると思う。いつまでも、自分の納得、満足感が得られず、苦痛だと思っている仕事を長々とするのは、時間の消費だと思う。そういう場合に転職という選択肢は極めて前向きだと思っている。苦痛でも仕事と割り切れるなら話は別だが。



相撲で日本人横綱がここ数年なかなか生まれません。これは亡くなられた北の湖さんも言われていましたが、大卒の力士が増えたからです。教育水準が上がっていい面もありますが、一昔前は中卒や高卒で力士を目指して横綱になっていたのです。物理的な時間の差です。教育水準が上がることは一見するといいことのようにも思いますが、アスリート、職人などの育成には期限があることと、育成するだけの時間が必要だということです。努力大国日本の場合、時間が決めてしまうものも多いのが実情だと思います。つまり、アスリート、職人、芸術家などは、小さい時にいかに早く、夢や目標をたててそれに向かい行動を実行するかということです。これもノーベル賞と同じです。リソースをどれだけつぎ込めるかだと思います。だから私は知識や一般教養の少ない人を馬鹿にする現代のマスゴミの風潮が大嫌いです。



結婚とは、姓を女性は変えなくてはならないから、今まで出会ってきた人、関わってきた人に今一度感謝をする、そして姓を受け入れる人と今後人生を歩んでいく決断をすることだから、新しい人生のスタートラインに立つことだと思う。よくプロポーズの言葉で「君を幸せにする」というような言葉をドラマなんかでも聴きますが、私はこれは大きな間違いだと思う。それだけ異性が素晴らしかったら幸せにできるかもしれませんが、幸せは自分の手で掴むから幸せなんだと思う。だから人の手で与えてもらうものじゃない。結婚=ゴール=幸せの人であれば、プロポーズの言葉は「君を幸せにする」で正しいと思う。しかしそうでない人にそんなことを言っても、あなたの人生はあなたの人生ということは変わりがないし、自分で見つけた幸せでないと意味がないと思う。幸せとは自分の手で掴みとるものだと思う。



何もしないと、破滅に向かうのがわかっているのであれば、黙って破滅を迎えるのはバカだと思う。当たり前ですが。どうせ破滅に向かうなら、何をして破滅に向かう、もしくは、破滅を避けるために何かする。これがポジティブだと思う。これが中小企業の経営者の限界なのだと思う。売り上げが下がり、倒産の二文字が近づいてきても、黙っているのが大半の中小企業の社長である。ここで機転を利かせられるかどうかが、生き残っていける企業だと思う。仮に倒産をしても、従業員に何か残してやれるものがある社長はましな方だと思う。



仕事をしていく上でやらなければならないことは、自分のやりたいことを見つけ、目標を立て、目標に向かって打ち込む。良い仕事、目標の達成には、人の協力が必要です。そのために人格を磨くのです。仕事ができるには人格が必要なのです。



私はブラック企業や、日本人の労働の過酷さをこれまでつぶやいてきました。その原因が最近どうも人から会社、社会、国にシフトするにつれ、GHQあたりまで核心に近づいたとき、憲法という終点にたどり着きました。ま、憲法を作ったのはGHQなのでほぼGHQが結論と言ってもいいのかもしれません。日本国憲法には勤労の義務と、教育の義務がある。つまり勉強するか仕事をするかしか選択肢はないわけで、それ以外は憲法違反状態ということだ。では仕事のできない障害者は憲法違反なのだろうか。定年退職した老人は憲法違反なのだろうか。専業主婦は仕事なのかと多くの疑問があがってくるわけだ。ストレートにいうとニートという存在が問題になってきたわけだが、これはさっきの話からすると憲法違反状態なわけです。しかし全て仕事をしない、できないことを憲法違反と言っていては話が進まないので、そういう時代的変化が起きて、制度にひずみが生じてきたと捉えることもできるわけです。要するに、憲法9条の改定を問題にするのも結構ですけど、日本国憲法自体日本の国の在り方、先進国としての姿に合わなくなってきているのだと思う。そういった意味で、私はニートは近現代的に考えればイノベーションの種だと捉えることもできるのではないかと思うわけです。



安部総理が「地方創生」なんて言いますが、結局役所や自治体が金をむしばむだけで、ちゃんちゃらおかしいわけです。そこに住む人の経済的向上を考えなければ何もないわけです。その向上のために必要なのが、質の高い仕事に就くこと。それは住人が考えることであって、行政支援で地方創生はあり得ない。国がこうしろといって仕事を貰うのではなく、自ら問題点や伝統技法、技術を革新して新たな仕事にしていく。これも仕事である。こうすることが長く続き、質の高い仕事だと思う。行政支援での地方創生ではすべての責任が国任せで、失敗しても国の責任だし、成功しても国のおかげでは人は育たない。



会社が値段を決めるものは製品。お客様が値段を決めるものは作品。ということを考えると、私たちの社会で成り立っているものの多くは作品になってしまうわけです。だって、会社で決めた価格をお客様が高いと言って値段を下げさせているわけだから、出てきた製品だったはずのものは作品に変わってしまっているわけです。そりゃ安かれ悪かれもあるでしょう。ただ、ここも考え方で、ただ単に安いモノを使って安い製品やサービスを提供するのは誰でも思いつくし、安直すぎる。価格競争まっしぐらで自分の首を絞めるだけなのです。そうではなくて、いかに無駄を減らし、効率を上げて、品質を落とさずにお客様に安価でよいものを提供するかということなのです。安直な値引きに応じないというのは、渋っているという場合もありますが、製品を提供する上で大切なことなのです。作品を提供しているわけではないということがわかっていないと、値引き大好きの大阪人になってしまうわけです。



「安い」の本質もこの不況でぶれているので今一度確認をしておくと、「良いものをお値打ちに」というのが本質。安いモノが安いのは当然なのです。良いものが安いから売れるわけです。そうはいっても、良いものが高価にできて薄利で売って苦しい思いをするのも違うわけです。それは知恵と工夫を凝らして、無駄の低減、効率化をすることで、同じ品質、同じ格で値段を下げられるのです。3歩歩いて作業していたものを、0歩にするとか、無駄、不効率の掃出しです。だからこの辺りだとトヨタL&Fが指導でやっていることです。儲かる仕組みには、アイデア、知恵と創意工夫がされているから、安くてお値打ちが可能となり、薄利多売とならないため継続して事業ができるのです。要するに、頭を使って仕事をすることです。土木系だと身体を使ってというものもありますが、その身体を効率よく動かすのはやはり頭なのです。



売春はなぜ成立するのか。それは単純で買い手と売り手がいるからだ。淫を売る女がどれだけいても、買い手がいなければ成立しないし、淫を買いたい男がどれだけいても、売り手がいなければ成立しない。それだけの話だ。



人は、人によって傷つき、人によって癒される。その間に仲介するのがモノ。媒介としたほうがよいかもしれない。人では傷つけられないほどの傷がつくのはモノのせいです。しかしモノには人の意思があるから人が傷つけたのと同じです。



モノは生き物の身代わりである。だから寿命もあるし、弱肉強食も存在する。あと、身代わりということなので、その生き物の意思もあるはず。ということはモノは生きているとも解釈できる。モノはヒトの身代わりだとすれば、その人がわからなくても使っているものをみれば、その人となりがわかるということだ。モノには使用者の意思があるわけだから。消耗具合なんかを確認すれば、その人がどういう人かわかる。人を外見で判断しないでほしいという人もいるだろうが、その外見はモノで形成されていて、そこに意思が存在するのならば、外見は自分の意思であるから、外見を確認した方が一番その人を理解するのに早いと思うわけだ。身代わりと言う解釈からいくと、私たちを怪我からカバーするという意味もある。モノが損傷して私たちを守る。言い換えると物損です。物損とは自分が怪我をする代わりにモノが壊れてくれたことを言うのです。だから物損で感情を荒立てる必要はないのです。むしろ、感謝すべきなのです。



私は主に修理の仕事を長くやってきました。そこで思うのは、モノの修理は直すものさえあればどこまででも可能だと思いますが、経済観念や時代の価値観によって寿命を迎えるのです。これは人間が変化をしていく生き物だから仕方のないことです。つまり、人間は自分でつくりだした価値というものを自分で終わらせてしまうのです。しかし、そうでなければ世の中は良くならないし変わっていかないから当然なのです。消えていくことに悲しみを持ちますが、いつかは薄れて忘れてしまいます。だから人間なのです。



どこの職種、業種でも言えるんじゃないのかなと思うことは、自社でできることを自社の人件費やコストを考えて外注したり、下請けに任せたりする行為が正しいと思っているのは大きな間違いだと思います。やはり自社でやるべきことでやれない工程、手法に問題があるわけだと思います。つまりやれる工程、手法を考えることも仕事の内だし、厳しい言い方をすれば、やれないことに手を出すべきではないと思うのです。もっとも、やれないことをやれるようにするのが仕事だと思っていますが、それでもできないものを手放すということです。



子供は嘘つきだという大人が多いです。果たして本当に嘘つきなのでしょうか。私はNOだと思います。大人が嘘を言わざるを得ない状況を作り出しているからだと思います。子供はもともと語彙が少なく、表現できることが少ないのです。それをフルに活用しても言葉足らずになるのです。ともかく子供は嘘をつきたくて嘘をついていると思わないことです。上手く表現できないだけです。もう一つは、表現できる環境を与えているかということです。大人が子供の口をふさいでいる状態では正しく表現できず、結果嘘という事になってしまうのです。子供の自由な表現を奪う行為の一つに、暴力や虐待があります。これを経験した子供は喋りません。喋れないのです。表現することが怖いからです。その間、表現を学べないので語彙はどんどん減り、人との接し方もわからないからどんどん孤立するのです。大人はもっと子供達を理解するべきなのです。もっと理解しようと努力するべきなのです。その努力もせずに子供は嘘つきだなんてちゃんちゃらおかしいです。もっと正面から恐れず子供に向き合うべきです。



人口減少、高齢化に伴い、現代社会では人材育成が急務とされている。若い人たちの自由な発想力を伸ばしていくことは大事であるが、自由の履き違えをして基本的なところをおざなりにしていくのは良くないと思います。一番大事なのは基礎固めです。そういったところを考えると基礎とは衣食住の安定であると思います。これに安定のない限り、その上の教育も成り立ってこないと思います。生活基盤の安定がいかに重要かがわかります。安定した食事をする、安住できる場所を確保する。この当たり前の大事さを再認識する必要があるようです。



子どもの言うことはエグイという大人も多いと思います。つまり直接的すぎる。しかし、これが彼らの叫び出ることに大人は気づくべきなのです。子供は経験が少なければ知識も少ない。逆を言えば大人はある意味で余計な知識がつきすぎているところもあるわけです。子どもたちは経験してきたことを自分の持っているライブラリの中で表現するわけです。そこには表現していいのかいけないのかという良否もないわけです。だから純粋であるがゆえに大人は勘違いしやすいのです。エグイことを言うと。それは大人の側に理解が足りないだけだと私は思います。そういう子供たちに大人の色眼鏡で見るということ事態、おかしなことなのです。それで子供の言うことはエグイなんてちゃんちゃらおかしい話です。如何に子供の声に耳が傾けられていないか、理解する力の乏しい大人ですと表現しているのと同じ意味だと思っています。もっと言えば、エグイと思っていても、分からなければ聴けばいいのに、よくわからない大人の見栄で聴かない大人の存在です。そんな見栄ほど恥ずかしいことがあるのでしょうか。所詮、聴く勇気のない大人だからそういう解釈になるわけです。なんて自分勝手な話なのだと思います。



大人になるとはどういうことなのだろうか。これは独立することではないと私は思っています。もちろん独立することも含まれていいでしょう。一つとして、自分の身は自分で守れることだと思います。そして答えとしては自分より弱いモノを守ることができる力があるかどうかだと思います。親になるとこの意味が色濃く刻まれるわけです。自分より弱いモノ、自分の子供を守る。つまり子供がいる人は必然的に大人になってしまうわけです。動物でも同じです。しかし、DVや児童虐待があるのはその人が大人でない証拠なのです。大人でない人が大人の行為をすればそうなるのは必然なのです。



私はゆとり教育は否定しません。それはそれでメリットがあるからです。しかしデメリットも同時に理解しておく必要はあるでしょう。しかし世の中の馬鹿な大人たちを見てください。ゆとりだからと括ってバカにしていると思います。私からすれば馬鹿はそう括っているオマエだと言いたいです。



我々は何のために仕事をするのか。これはいつも出てくる話題です。でも答えを求めることは意味がないと思っていました。ただ、最近自分の中で答えが見え始めてきたような気がします。そのうすぼんやりとしたものは、とにかく金銭だけ儲けて私腹を肥やすのはやはり間違いなのだと確信を持ち始めました。私はこう思います。仕事をすることは、社会という仕組みをもっとよくするためであり、それは自分のためであり、万人のためだということです。極論を行ってしまえば、仕事とはお金を貰い、頂きながら問題の答えを探す教育だと私は考えています。仕事=教育。これが極論です。その副産物というか、結果として出てきたものが世の中を良くするということだと思っています。つまり仕事をし続けることは、教育しつづけることであることから、未来の自分への投資をしていることになると思うわけです。だから世の中は問題も増えるが改善もし続けるのだと思います。もちろん「お金」も関わってきますが、目的が金儲けだけだと陳腐です。自分のために、どれだけ投資、仕事をするか、自分をどう高めるか、という所の意識が、金儲けだけの意識とどれだけ違い、崇高なものかわかると思います。だから中小企業の社長どもはこのような不景気だと金勘定しかしないから、いつまでたっても二流で、自分の私腹を肥やすことしか考えないため、事業、会社は先細りになって倒産するわけです。事業を残したいのか、金を残したいのか、人を残したいのか、考えるべきです。愛と仕事は人間一生ついてくる問題です。ここから目をそむけている人は、二流、三流なのです。問題と向き合う、これが仕事であり、勉強であり、教育なのです。だから私たちは学校教育を終えたから、勉強しないのは間違いなのです。仕事をしていれば勉強しなくて良いというのは大きな間違いなのです。だから、仕事と家庭、仕事と趣味といった具合の人は、仕事だけの人より少し頭が出る程度で、それ以上がないのです。ここに勉強を加えることで、一流になる道は開けると思います。だから企業が教育熱心であるところは強い企業体です。勘違いしてほしくないのは、教育=研究ではないことです。教育を履き違えて、現象の究明ばかりに時間を費やしている企業も中にはありますが、あくまでビジネスであり、ある程度の線引きも必要です。つまり時間当たりの人件費とその効果を考えるべきだということです。これも企業の経営を圧迫する要因になるわけです。話を戻し、仕事+勉強に家庭、趣味とある人が、一流に近づく人だと思います。これが企業も後押ししてくれる会社だと素敵ですが・・・。勉強とは座学だけではありませんが、やはり座学が多いのが現状です。だから学校教育が苦痛な人はやはり一流になるのは難しいのかもしれません。学校教育という言い方は語弊があるかもしれません。要するに知的好奇心だと思います。それをロジカルに学習するということです。日常生活に学習を取り入れるのです。その基礎を作るのが義務教育であり、学校生活であるということです。簡単に言うと、学生生活であまり机に向かって勉強をしなかった人は社会で伸びないということです。ほぼ極論ですが私はそう思っています。そういう人が蔓延すると少子高齢化社会になった時、社会崩壊が起きるのです。つまり現在の社会崩壊の原因は前世代の勉強しない人が作ったものなのです。ではなぜいままでそれで問題がなかったのか。その要素は二つあります。一つは人口です。絶対数が違ったため、三人寄れば文殊の知恵とはこのことだと思います。だから人口が減って、三人も集められず、一人で知恵を絞ろうと思えば苦労が多いのは当たり前なのです。もう一つの要素は、人口減少に付随する部分がるのですが、モラルハザードによる規制強化です。つまりコンプライアンスの強化です。当たり前と言えば当たり前ですが、そもそも法律、規則で縛る必要のないことまで縛らなければならない状況になったのは、モラル、道徳心の低下だと思います。それに見るに見かねた国家が渋々法律、規則を定め、強制的に縛り上げることになったのです。そのため、一人で知恵を絞りながら、昔以上に多い法律、規制をくぐりながら仕事をしなければならない状況が発生するわけです。それはマンパワーが必要になるわけです。ただ人口減少も事実でこれを嘆いていても仕方がないわけです。そうなると、三人でやっていたことを一人でやるには、当然その分の知識が必要になるわけです。この理論に気づき、知識を補う、勉強や学習ができているかいないかが一流への分かれ道だということです。



熱中症が多いようです。これもポイントがあるのですが、熱中症で倒れて運ばれるまではニュースになるがそこから先は報道されない。これがメディアの興味の低下、劣化だと思う。熱中症も症状によっては一か月後などに死亡する例は少なくない。熱中症の怖さと、その後の影響を我々は意識するべきだ。



賢さとは、失敗しないことではないです。失敗しても、落ち着きを失ってはいけません。人は年齢を重ねたからと言って賢くなるわけではありませんが、歳を重ねるまでに沢山失敗しておけば未経験の数が減っていきます。失敗しても嘆くことはないです。むしろ、できるだけたくさんの失敗をやっておけば、その後の人生が順調になるわけです。私たちは失敗を通して色々なことを学んでいるわけです。自分がどこで間違ったかをきちんとわかっていれば、失敗は私たちを素晴らしい場所へ導いてくれると思います。



自分に不幸が起こると、恨みたくなるものです。恨む対象が必要だから、誰かのせいにします。その方が恨む目的がはっきりするものだから、恨みにも熱がこもるもので、いつまでのもその不幸を頭に焼き付けているから、忘れることはできません。そして恨んでいる時間中、自分の時間は進みません。そもそも、誰かのせいにしているから、腹が立ち、恨みに熱がこもり、不幸をまき散らすのです。こうやって恨みの流れを考えてみると、自分で不幸を手放さない行為をしていることになります。自分のためのを思うなら一刻も早く自分の頭から不幸を排出して、無視する方がよっぽど前向きだと思います。ストレスをため込む人と、ため込まない人の差は、上手く心を切り替えられるかどうかだと思います。嫌なことがあった時、その嫌なことに気を取られ、他の事に身が入らず、関係のない人に愚痴を言ったり、八つ当たりをしたり、これでは他の人からも嫌われて逆効果です。小さなストレスを処理できなかったために大きなストレスを生み出してしまうのです。だからストレスを抱え込まないようにしなければいけないのですが、そのために必要なのは、嫌なことがあった時、その傷口を広げないことです。ストレスは起きたことをいつまでも苦にするから生じるものです。もう割り切りましょう。その瞬間だけ嫌な思いをすればいいと割り切るのです。嫌なことを引きずるのは、大事な自分の心を傷つける行為です。



音楽の歴史からすると一般的なところで大きな革命、転換期となったのはCDと登場だと思います。この革命、転換はハードウェアという所だけと思われがちですが、実際のところはもう少し根深く、音楽の価値、ありがたみを陳腐化させた原因と思われます。CDの登場がどうして音楽の価値、ありがたみを陳腐化させたかというと、繰り返し聴くということの敷居を低くしたことです。レコードやカセットではある程度の回数を聴くと劣化が発生し、最終的に聴けなくなります。つまり短命であるがゆえに、その中身、価値は重いわけです。それとスキップ機能です。レコードもカセットも、順番に聴いていかなければ自分が一番気に入っているところまでいけませんでした。それも簡素化されたために、他の曲の重み、価値は下がったと考えられるわけです。



若手社員は現在の中堅以上の社員では育てられないということです。昔は規制も少なく、本当にみっちり仕事に関することだけをやれば三年で一人前でした。しかし、今はそれに付随する多くの仕事があるため、実質時間だけで判断しては今の社員と同じ仕事ができる人材は育てられないのです。つまり、同じ三年で一人前にしようと思ったらそれだけ質の高い、内容の濃い教育を行わなければならないわけです。ですが、これが行えるかというと難しいでしょう。自分が教えられたように教えるのだから。つまりそれは時間があるときの教え方で、中身は薄く、質も低い可能性があるのです。その指導方法で同じ三年経っても、半人前になるかならないかといった状況になるのです。同じように、一人前になるためのやることも昔と比べ圧倒的に増えてきているわけです。昔の二人前を一人でこなさないと一人前になれない。これが最近ようやく中堅層程度から浸透してきて、逆に育てられないのであれば、手がほしいところはそのままお客様に出してしまうのです。これはお客様に対して失礼な話で、バカにしていると思います。これがサービスの質の低下の原因です。もっとバカなのは若葉マーク札を新入社員につけさせて、責任逃れをしようとしている企業です。これは私たちは人材育成ができませんよと表現しているようなものです。失礼極まりない。如何に効率的に学習をさせ、一人前に育てるかを考えるのも仕事です。しかし、バカな大人たちは気が付かずに、中途採用者、転職者の柔軟性と保持する能力だけで採用するから悪循環なのです。これは育てる気力そのものがないことの現れです。



教育を受ける権利が日本にはあります。能力の基礎とはここで作られるわけです。だから学校は重要です。ただ、ここで差が出ることも当然で、そこを商売にする人がいるから、差は無くならないのです。そこで、開けられた溝を埋めたところで同じ土俵で勝負しなければならないのは不利です。それならば、自分ができること、強いことを伸ばしていく、個性を輝かせていくというように、他に人がしないことをやるべきなのです。これがゆとり教育の本質なのです。ただ、教育課程がゆるく、ゆとりがあるというのは二流以下の言う人の文句です。そういう強みを理解できない大人がダメなのです。



企業面接で能力採用をしている企業は楽だと思っていたり、人柄採用なんて理不尽だと思っている時点でアウトだということに気づいていない若い人が多いと思います。私から言わせてみれば、そんな企業はクソだと思います。能力採用、反人柄採用としている時点で、その人に求めているのは、答えのある問題の答えを早く出せというものです。企業活動、人間社会で答えのある問題は有限です。何が答えかもわからない、正解も解らない問題に自分で答え、正解を探していくことも仕事です。つまり、能力のその先にあるものをその採用企業は見ていないのです。つまり、小手先です。もっとも、それを分かって自分で価値を見出だしていくという開拓精神があればそれも良いでしょう。しかし、そんな大人に使われる人は利用されるだけです。つまり搾取されて捨てられるのがヤマです。そこであの企業はブラックだと嘆いていても、問題解決にはならないのです。確かにグレーゾーンをうまくやる企業も多いです。しかし、採用は採用のプロが採用することと、使われる側なので、圧倒的に不利なのです。その状況で考えて行動するべきです。逆なことを言わせていただければ、今企業になじんでいる、30代前後で社歴も2桁前後の人の方が、私は脅威に思うわけです。つまり、そういう大人になじんでしまっている自分に気づかずに年齢を重ねているからです。こわいこわい。そんな大人にはなりたくないです。私も思うのは、一時「社畜」という言葉が出ました。でも、当たり前なのです。企業に勤めているのだから。嫌なら、自営業、フリーランスになればいい。結論は簡単です。使う側か、使われる側か。ただ、一度使われる側を経験しておかなければ、使う側になった時に困るでしょう。それが世襲であり、家族経営の象徴です。だからそういう中小企業は長続きしないところもあるのです。どちらにしても、あんなブラック企業と嘆いても、返ってくるものは少ないです。むしろ、失うものが多い。どうせなら、その分経験を積んでいる、社会勉強していると考えた方がいいかもしれません。



平和主義というと聞こえはいいですが、もめるのが面倒だから「はいはい」って言っておこうというケースもあります。つまり、平和に事を済ませようとする状況にこそ不満足は多く存在している可能性があります。常識のある大人なら大抵は争いを避けようとします。そのために自分の気持ちを抑える努力をしています。文句の一つも言わずに、ことを穏便に済ませた方がいいと思っているのです。嫌われるのが怖くて自分の気持ちを抑圧する。いつも相手の顔色をうかがって争いを避けている。これは危険なことです。こういうことをしている大人が多くて、こういう大人を若い人たちに示しているから若い人はおかしくなるのです。こういう大人たちは既に自分を見失っているのです。だから若い人も自分がわからないのです。そうなると素直ではなくなってきてしまうのです。素直でない大人たちが増える。これは転職事業者が喜ぶモトになっています。つまり、素直になれないから、不満などを全部自分の中にため込んでしまって、大爆発してしまうのです。そして気づいた時には職を失っているのです。こうなるとどこの職場に行っても長続きしないのです。



何を話しているかということよりも重要なのは、何を聴いているかである。話すとは口から発する。聴くとは字の如く耳と目と心を使う。だからコミュニケーションでは聴くことが重要で、コミュニケーションをよく分析すると主導権は話している人よりも聴いている人だということです。



人生には計画が必要です。計画とはどうしたら目的・目標を達成するかを明確にしたもので、どうやって、どうするかが記されているものです。いつまでに、どこに向かうべきかが記されているのです。計画には変更がつきものでず。状況が変わり、自分も変わる。計画も変わります。そうなると自分はどこに向かっているのかわからなくなる時があります。そういったときに戻るものが計画です。今まで歩いてきた道が計画には記され、今の位置から目標までどうやっていくかを確認するのです。こうやって計画とはゴールまでマーキングした地図のようなもので、自分でゴールに向けてマーキングをして、地図の通りに歩みを進めるのだけれど、途中でわからなくなったり、地図の道が無かったり、新しい道があったりしても、どうやってゴールを目指すかというところに戻れるものが地図だと思います。自分の存在を確認する方法は簡単です。他人に認識してもらうしかないのです。つまり、自分ではない第三者を経由しないと、人間は自分を認識できないのです。これは、行動にも当てはまるのです。例えば、自分が自由を認識するためには、他人に自分が思う自由を要求するとともに提供することで、他人から自分の自由を獲得、認識することはできないです。



世の中は理不尽で、よくわからないことばかりおきます。それに好奇心を持ち、答えを求める姿勢は悪くありません。ただ、なぜ人は死んで生まれるのかというような疑問をもっても、答えは見つからないでしょう。極論過ぎましたが、要するに答えが出ない問題に苛立っても無駄だということです。大事なことは答えがないことを答えとして受け入れる余裕が必要だということです。これもある意味で逃げずに向かい合う結果だと思います。物事は必ず白黒つくものばかりではありません。そういったときにその出来事を受け止める、受け入れることも選択肢の中に用意しておくと豊かな人生になるはずです。



自分への信頼がないと才能は伸びていきません。才能が本当に存在するかどうかはわかっていません。あると信じて努力をしているうちに育つのが才能だと思います。やりたいのかやらねばならないのか、どちらにしてもやると決めたら自分を信じてやるしかないです。そうすれば必ず何かが見えてくるはずです。その結果が創造力、努力は嘘をつかないということ、もっと信じてやり続けるしかないという判断。これが人生の全てでしょう。つまり創造力は、根本に自分を信頼することがあるわけです。これがないと努力をしても途中で折れてしまったり、やり続けることが困難になって、投げ出したり、逃げたりするのです。しかし勘違いをしてしまうのは、自分の行った努力以上のことができると思いこんでしまうことです。それはあり得ません。努力をした分、もしくはそれ以下のものが実際に自分にできることになってくるわけです。



人間との魅力とは、私はどこか不安定なところ、完全でないところだと思います。つまり危なっかしい、観ていられないというような不安定要素です。これが支え合い、助け合いの根本であり、人間味なのだと思います。これは塾のビデオ教育にも当てはまります。ビデオ教育は完成されているから、観ている側は安心してしまうのです。だから頭に入りにくい一面があります。しかし、生身の人間の講義であれば、どこかミスをする、どこか予測もしないことが起こるかもしれないという不安要素があるから集中して聴くのです。これはリーダーになる人も同じで、どこか助けたくなる要素があるから多くに人がやってくる、だから結果として多くの事ができる。また、多くの人がいるから多くのチャンスがやってくるため、多くの結果を残すことができる。そして多くに人が動くから、運が動くため、運がよくなるのです。



私たちは人の社会で生きているわけです。人と関わり、人の力を借りて生きているのです。だからチャンスというものはどうも人が与えてくれるようです。どうしたらチャンスが自分の前に現れやすくなるか、それは自分の口で希望を外に出すことのようです。つまりほしいものをはっきりと口外することです。どういう仕組みかわからないけど、自分の中で、こうだという目標や考えを外に出さないとその目標は達成されにくいようです。一つに脳が入力と出力によってできていることがあるようです。つまり、頭で出来上がったことを一回出力してやることで整理ができて、それを入力するとすっきりとするからです。もう一つは、それが人に伝わるとどういう訳か人間同士でその外に出した言葉が少しずつ影響してくることにあるようです。あの人がああいっていたという薄い記憶はどうも残ってしまうようで、それが多くの人に広がればそれだけ情報量としては多くなり、結果としてチャンスにつながりやすくなるそうです。



世の中は専門家に頼りすぎるあまり、個人としての知性が低下しているように思います。簡単に言うと他人頼りです。そうすると対策を解決としてゴールにしてしまう安直さが現れる。多くの人を集め、知恵を出し合い、原因を追究しようとしなくなるわけです。だから同じ悲劇が繰り返されるのです。この顕著な例が学校のいじめです。スクールカウンセラーを設置すればいいという話は、確かにあればいいが、いじめをなくす、減らす根本的なものではないのです。これは専門家が入れ知恵したものを、鵜呑みにしただけです。そういう知性のない大人こそ学校教育を受け直すべきかもしれません。もっと厳しいことを言うのであれば、専門家の言うことは鵜呑みにするし、自分たちの考えを持たず、集まってなぜそうなったのかという原因を考えることもしない、また、いじめを察知する力自身も低下している、人として生きる力自身が低下しているのではないかとこのレベルまで来てしまうわけだ。



若手が育たないとどこの会社でも嘆いていますが、それは合理化しすぎていることにあるように思います。熟年者でないとできない仕事は熟年者がやる。誰がやってもいい仕事は契約社員やパートに任せる。ではその中間は?というとスッカスカなんです。そのスッカスカのところに熟年者を配置できればいいけど、それができないから未熟な新人を割り当てるため、事故が起きやすいのです。これが世の中で大きな事故が起こるメカニズムなのです。それは下の方の人は気づいているのですが、上の人が気づいていないのです。若年者には経験させよ、挑戦させよ、失敗させよとはきれいごとです。会社の実情は失敗は許されないほど、切り詰められているのです。そこにきれいごとに乗せられた若年者がはめられ、失敗し、酷いと命を落としたり、捕まったりします。また退職させられる場合もあります。こんな環境で若年者が育つわけがないのです。それは育てようとする気が全然ないのです。育てようとするのであれば、無駄が必要なのです。今の熟年者が成長する過程は、高度経済成長などがあって、品質よりも供給という場面がありました。つまり、今では認められない失敗が沢山あったのです。今では認められない失敗を経験したから、現在のノウハウが存在して、熟年者として技能、技術があるわけです。それを今の人たちに経験させるだけのリソースが会社にはないわけです。だからよそから即戦力を持ってこようとするとか、単純作業は契約社員かパートに任せるということになるのです。でも実際は、単純作業を重ねてくるからこそできる仕事も存在するわけで、そこを超えていかないと見えてこない高度な仕事もあるのに、その経験はさせずに、いきなり高度なことをさせるから、失敗するのです。それと、失敗してもいいのだけれど、その責任が大きすぎるのです。正社員という聞こえのいい響きに騙されてやると、とんでもない責任が発生するのです。しかもその責任を責任者が負わないのです。トカゲのしっぽ切りなのです。それで成功するまで人材を探し続けるわけです。そんなことをすれば会社が痩せて技術もなくなるのは当然です。これは経営者の考え方がバカなのですよね。会社を残したいのか、人を残したいのか、金を残したいのか、技術を残したいのかがはっきりしていないんだと思います。自分が引退するまでは金が途切れなければいい。あとは若い奴の考える仕事だという無責任さの象徴だと思うわけです。そんな経営者ばかりにしたのは、商工会議所、弁護士、税理士、行政書士、司法書士、社会保険労務士などの入れ知恵です。そこに関係するのが法律と政治です。となると原因は政治にあるようです。しかし何度も言っていますが、政治家を輩出したのは私たちなので、根本の原因は私たちにあるのです。とはいっても、甘い蜜を吸うジジイやババアがゴロゴロしていて、使い捨てられた若者がゴロゴロしている世界に黙っている必要もないと思います。もっとも、それによって再起の難しくなった若者も多いわけですが。天に唾しているのは誰なのか思い知らしめてやればいいだけです。そこに創意工夫が存在するのだと思います。そのために頭を使った仕事をするのです。仕事の基礎、根本的な知識も必要ですが、そこからは世の中大差ないように思うところもあります。どうやって、どうしていくか、どうすると、どうなる、どうすれば、どういうことができる、これを考えるのです。若い人が生き生きと働く世界にするには、既存の概念を崩壊させ、自分たちで新しい価値を生み出していく必要性があるように思います。それが頭を使う仕事、創意工夫という所で、教科書に載っていない頭の使い方をすることなのです。だから面白い身もあるしやりがいもあるのだけど、苦しいのです。



下請け、外注なんて言葉をここ数年よく聞きます。確かに下請けや外注に仕事を出した方が経済観点からすると正解のように見えるのだが、ここが大きな間違いです。それは根本的なやり方が間違っているのです。だからやり方を変えることを考えなくてはいけないのです。下請け、外注に今の仕事を出して、経済的にも、労力的にも浮く側面はあります。しかし、その事業を継続してやっていくことを考えた時、世の中は変わるのでやることはもっと増えるわけです。だから、そんな状況ですぐさま下請けや外注に仕事を投げるようでは会社の未来は暗いように思うのです。



いじめで不登校ということもありますが、それも私は評価すべきことだと思います。いかないという勇気ある選択をしたのです。恥ずかしがる必要はありません。自ら命を落とす必要もありません。学力だけなら家でつけられます。それ以上に傷ついた分、いじめられた人は心を休める必要があります。怪我をすると、血が出ます。その後かさぶたができます。それも取れると元に戻ります。でも、状態によっては元の状態よりも皮膚が厚くなったりします。これが、強さであり、優しさの根源です。人の心も傷つけられた分、直すのに時間は必要ですが、その分かけがえのない財産を得ることができるのです。痛い思いをすれば、二度とそんなことをするものかという気持ちになります。それと同時に、似たような境遇を他人で見かけると、痛みを分かち合うことができます。それが優しさに繋がるのだと思います。痛い思いをしない奴に痛みがわかるわけがないのです。だから傷ついている人は強いのです。



失敗が大事の常々言っています。ただ、失敗したらというところがあまり世の中で言われていないのが残念です。白黒はっきりつくものなら良いですが、そうでない場合は、まず失敗に気づくことです。次に失敗を認めることです。ここが一番重要です。挑戦すること以上に厳しいからです。次のステップが諦めるということです。これは本当に勇気のいることだと思います。これを馬鹿にする人は本当の馬鹿者はオマエだと言いたいです。チャレンジもせず、諦めることもしない人に馬鹿にする資格はありません。そんな人は鼻で笑ってやればいいです。



自由の履き違えに最近自分も気が付きました。自由の裏には責任が引っ付いてくるよっていうのは、高校生のころから知っていましたが、自由というのは気前が良くて心に余裕があり、人を引っ張っていくような状態で、主体が自分にあり、独立していて他者からも縛られないという本質にはっとした。反対に自由ではない状態というのは、ケチで心に余裕がなく、主体性がなくて、他人に依存している状態ということになる。これだけ見ると自由でないということは自分で自分の首を絞めているというのも解ると思う。



専門家やリーダーを求めることは、ある意味で問題を複雑にする危険性がある。鋭い考えというのは問題の本質からずれやすくなる。合理的すぎてせっかちすぎる。私たちは問題の答えを探すのだが、その答えをいきなり求めているわけではない。複数の人と答えを探す作業をするのが生きることだと思う。世の中はとても複雑な要素で構成されている。だから専門家、プロフェッショナルの介入はすでに答えを持っているわけだから、偏りが生じやすくなるわけだ。ある意味で、それでないと納得しない、落ち着かないというのも弱さであるし、それが介入しないと行動できないのも弱さの表れともとれる。専門性が大事ではないとは言っていませんが、複雑な問題を解くには、多くの基礎と多くの経験が礎となる知性が必要です。それともう一つは問題から逃げないことです。知性があって知恵が良く出ても、向き合えなければ意味がないのです。現代社会で必要とされている力とは、学力、知力の高さではなく、それをもとにして、どういうアプローチで解決するかという論理力と、先の見えない課題に対して向き合い続けることのできる忍耐力だと思う。こういうもののベースにあるのが、ポジティブという考えだと思う。



むかつく上司は、どこの会社にもいるもんですが、それは世の中という範囲でみた時、マイナスではなく、プラスであるということです。もしかすると、会社にとってもプラスかもしれません。考え方の多様性というのは、個性であり、それが世の中、会社にとってのかけがえのない財産だからです。



カリスマとか、リーダーという人材の育成というものが世の中で急がれていますが、本質から逸れているように思うわけです。そういった存在を見つけることで、安心したいという気持ちが隠れている。つまり、自分は楽をして押し付けたいという気持ちの表れが、カリスマとか、リーダーの発掘作業だと思う。例えば、電車が開通した、道路が開通したというと、ああ、ありがたや政府、国はありがたいと思ってしまう人は地方に多い。ま、企業としては民間になりましたが半分公ですね。でも、実は違っていて、開通させたのは私たち側ということを忘れているのです。これが今の日本人で情けないところ。国民主権であり、国を動かすのは政治家であるが、それを輩出するのは国民であるという、学校で習う基礎なのです。それを忘れて国がああしてくれた、こうしてくれたと言っていては、この国の未来は暗いかもしれません。震災復興が象徴かもしれませんね。近現代でも福沢諭吉大先生が嘆いていました。



おもてなしというのは、東京オリンピックが決まってからあちらこちらで言われるようになってきましたが、なにがおもてなしなのか。それは、お客様の想像を超えるサービスを提供すること、お客様に恥をかかせないこと、つまり、お客様が動く前に自分たちが動くことです。これが想像であり創造であって、自分がお客様の立場になり、自分でお客様の不便を考えて、サービスを提供することです。お客様が声をかけることは、不便である証拠とともに、お客様にそれだけ恥をかかせることなのです。こういった細やかな心配りがおもてなしなのです。何度も言いますが、日本は何にもない国です。そこから大きな価値を創造してきたのです。それがサービスであり、おもてなしなのです。何をしてもらったらうれしいかを考え、何をしてほしいか知る努力をする。ここに想像力が必要です。これが頭を使って仕事をするということです。ただ、結果として失敗ということもありますが、誠意を持って行った行動に対して、怒る人は少ないと思います。このように、お客様のペースと思わせておいて、実際は自分たちのペースで自分たちがイニシアチブをとるやり方であれば、後手に回りにくい。そうなると仕事はもっとやりやすくなるはずです。



今、自分が何をしたらよいかわからない場合は、目標や計画がないということで、自分の未来に関心がないのとほぼ同じです。決まっていれば、あとはどうやってやるか、どう動くかを考えるはずです。だから今すべき行動が明確なのです。つまり人生とは自分で目標を立て計画を実行していくものなのです。目標を立て計画を実行していくことが人生ということは、その主体者は当たり前ですが自分です。しかし、この当たり前がよくわかっていないから何をしたらよいかわからないのです。相手に自分の行動を決めてもらうことばかりしているからこうなるのです。誰の人生か考え、自分のペースで動きましょう。目標を立てて行動する人生は、良いことが起こりやすくなります。なぜなら、目標に向かうという指針があるわけだから、多くの場面で判断が正確にできるようになるからです。目標もなく、さまよっている、つまらない人生を送っている場合には判断ミスが多い場合があります。どう進むか一度考えましょう。



今の人生が悪いことばかりで嫌になっている人もいるでしょう。しかし、永遠に嫌なことは続くわけではありません。これに気づかない人が、私のように逃げて投げ出してしまうのです。逃げず、投げ出さず正面から向き合った人のところに、良いことが起きるのです。



ほめて育てるというのは少し前からよく聞くようになりました。しかし、ほめて育てるのも段階的に卒業させなければならないと思います。どういうことかというと、ほめる行為は人間にとって報酬なわけで、報酬がなくなれば何もしなくなる恐れがあるのです。育てる、教育というのは誰かの意思が存在するのです。基礎とか根本的なことは皆同じなのだが、そこに伝える側の意思が加えられて伝わるから、自分ではないものを植え付けられるのです。だから、ほめて育てて報酬がなくなり、自分から動こうとしたとき、動けないことに気づくのです。誰かの意思で動き、それによって報酬をもらうことをくり返していると、自分で考える能力が退化していき、そればかりか、教育をして、ほめていた相手に対して悪い感情を抱くようになるのです。さらにはその相手がいないと怠けるようにもなるのです。ほめるだけでは教育は成立しないのです。



歩みは止まってしまえば停滞ではなく、退化しかない。歩み続けなければ、進化はない。時間が止まってしまった人は、歩みを止めてしまった人であり、それは停滞、現状維持ではなく、退化、衰えていくのです。今という瞬間を生きているのであれば、歩むしかない。だから転ばないように前を向くのです。



自分の人生の問題解決ができないのに、仕事の問題解決ができるのだろうか。仕事のできない人は、自分の人生の課題解決があまりできていないのです。自分の問題がわからないのに、他人、お客様の問題解決ができるのだろうか。わからないものの中にわからないものを入れれば複雑になるだけです。



日本は技術の国と言われていますが、技術が最初からあった国ではありません。技術は中国やアメリカ、ヨーロッパから入ってきたものです。ではなぜ世界と戦うことになったのか。それは日本の個性、日本人の個性だと思います。バカが付くほどマジメですというキャッチコピーがありました。それが日本人です。勤勉で、思いやりがあり、気配り、目配り、心配りができる。鋼鉄のイメージのヨーロッパ、自由なイメージのアメリカと大きく異なるものです。つまり、日本の個性とは、日本人、ヒトであると思います。細やかな気配り、目配り、心配りが多くの気づきを産み、同じモノを作っても一線を画するモノづくりができる。これが日本だと思います。サービスでも同じだと思います。前にも書きましたが、日本は紙とか木しかなかった国です。そこに創意工夫で生き延びてきた文化です。創意工夫は人がつくるものです。現代社会では、工業製品とか、無形資産、ソフトウェアも目立ちますが、日本のモノづくりの原材料の根本はヒトです。芸術品は特にそう思いますが、極端な例だと、ピカソが落ちている新聞紙に絵をかいてその評価が10億円になったら、価値のないものに10億円の価値を付加したことになるわけです。そういうことを考えると、この国は今でも、どれだけの付加価値を加えることができるのかというところが経済活動のカギになってきそうです。だから現代社会だとサブカルチャーが市民権を得ていますが、付加価値の高さに私は納得しています。それを違法コピーすることに苛立ちは覚えます。ちょっと大きめのホームセンターに売っている部材と道具で家は建つと思います。あとは建てるための技と壊れないための設計とデザインでしょう。他の国のモノづくりと違うところは、いきなり新しいものを創るというのではなく、既存のモノを組み合わせて新しい価値を生み出すところです。組み合わせが自由自在だから、この国もモノづくりは基本自由なのです。しかも法律で縛られていることも少ないため、イニシアチブが取りやすいというところも特徴でしょう。そういった側面からも法の整備は遅れている原因かもしれません。ただ、モラルがあれば法で縛る必要はないわけです。そこで、価値を付加するには、ニーズを知ることが大事です。ここでも、相手となるのは人間なので、結局人間力が試されるわけです。仕事の基本は人間です。だから人財なのです。それは上辺だけではなく、仕事という道具を通じで、人に響く行動をするところが原点であり、本質だからです。不況のあおりを受け、同じモノで価格勝負になれば、消耗戦になって、体力のない組織、会社、企業は潰れていくのはある意味で当たり前です。違いが価格しかないのだから。だったら、差別化、個性の打ち出しをしていけばいい。今の企業に足りないものはこれだと思います。消耗戦になるから疲れるし、無理も起きる。下手したら事故も起きる。きついし、やりがいを忘れ、つまらなくなるから、良い考えも浮かんでこない。どんどん多忙になっていく。そして破たんする。銭勘定しかしないのは、倒産への道まっしぐらなのです。真面目な仕事はいいことですが、個性がない、面白みがないものは飽きられます。もっとも基礎があっての個性ですが。儲からない商売は、面白くないし、やる気もなくなります。儲かる商売になるためにはどうしたらよいのか。儲からないと嘆いていても仕方がないので、儲かる方法を考えるべきです。経済状況は悪く、人もおかしい、崩壊の音を立てている日本ですが、くどいように言いますが、これは私たちの責任です。また、そう教育し、育成してきたのも私たちです。だから一人でも、今からでもいいから気が付いて、もう一度日本人というものを考え直し、見つめ直すことが重要だと思います。



外面のいい人がいます。いつかあのメッキが剥がれればと思っている人も多いでしょう。所詮メッキなので剥がれます。その剥がれやすさは器の大きさだと思います。まあ、メッキをしている時点で私は小さいと思います。メッキをするのは、自分にそれだけの力がないことを認められないからです。



負けると分かっている試合はしない方がいいですが、わかっていても戦わなくてはならないものがありました。それはガンなどの病気です。現在でも使用すると治りますという薬はありません。だから体が蝕まれるのを観ていくしかないのです。つまり負け試合なのです。しかし、試合放棄はありません。これは病気になっている本人が主役の試合ではありますが、周りにいる人も間接的に戦うわけです。だから病気というのは実は、健康な人も戦っていて、蝕んでいるのです。人間は生かさせられていて、生きています。だからドロップアウトもありだと思うのです。負ける試合の長期戦はキツイからです。ドロップアウトというのは自殺ではありません。延命治療をしないということです。これを推奨しているわけではないですが、本人は苦しんでいるのに、周りが何もすることができないのは、周りも苦しいのです。それが看取りです。生命の文明の中で弱肉強食は存在し、トップは人間ではないのです。生かさせられるというのは受動的で宿命的な内容なのですが、延命治療の生かさせるというのも受動的なのです。これは意思が本人に存在しないためです。つまり、本人以外が望むもので、本人以外の意思が存在するから、本人側を基準とすると受動的になるのです。



人生は一回きりです。その人生を仕事による病気、精神疾患などによって、棒に振る必要はないと思います。履歴書に傷がつくとか、逃げ癖が付くとか、石の上にもとか、うちの会社で続かないのにとか言う奴は無視していい。そいつらは転職したことのない人の戯言。仕事のできない身体になっては遅い。



人間関係を難しくするのは、身近に存在しすぎるからです。言ったことが伝わらない。これです。そもそも、自分を基準にするから、相手に伝わらないというのは前にも言いました。こう、凄く身近なことが落とし穴なのです。相手が自分と同じ価値観であるわけはないのです。決断を下すとき、邪魔にもなるし、頼りになるものが感情だと思います。人間だから曖昧な根源です。一般的には感情とは人を左右するものと思われがちなため、負の側面が目立つのです。逆に、こちらにイニシアチブを持ち、感情を利用するようになれば、良い結果、決断も多くなるように思います。



教育格差が問題になっています。高学歴の親は、高収入、だからその子供も塾へ通わせられる、だから学力もある。しかし、低学歴の親は、低収入で、塾に通わせられないから学力もない。他の要素は遺伝?これはとてもおかしな現象でとても疑問に思うのです。この論理では学校教育が欠落しているのです。教育格差の原因が塾に通うか通わないかという論点になっているのです。本来であれば、学校の学習が十分であれば、塾という存在に左右されることはなかったのです。つまり、教育格差を生み出している原因は、学校教育にあるのだと思います。学校教育が崩壊しているのは、教育の本質を忘れた教員がゴロゴロすることです。教育とはトンビが鷹を生んだ過程だと思います。トンビが鷹を生んだ結果、どうしてそうなるのかとなったとき、教育という答えが出るのです。つまり、教育は極めて成果を求められる厳しい仕事であるのです。それと同時に、トンビを鷹にしなければならないから、それだけ多くの創意工夫が必要であるということです。対する相手は学生、ヒトであり、非常に不安定な存在です。そこに、みんな同じ結果になるように教育をする指導要領や、教員の評価制度があるから、学校教育は崩壊するのだと思います。それと家庭的原因も最初に書きましたが、結果主義になりすぎていることが、時代を歪めているのだと思います。その歪みとは、努力しない人がゴロゴロしている現代社会です。頭のいい親の子は頭がいい。高収入の親の子は塾に行けるから学力がある。これは自分で手にしたものではなく与えられたものです。逆も然りで、頭の悪い親の子は自分も悪いだろうと努力をしない、低収入の親の子は塾に行けないから、どうせ勉強はできないと努力をしない、こうなってしまうわけです。結果だけでみると好条件の方がうらやましいですが、過程で見ると、どちらも同じです。どちらも、何の努力もせず結果を出している。こう考えると、一番苦しいのは親が低収入で、もの凄い努力をしている子と、頭の悪い親の子が、もの凄い努力をしている子になるわけですが、この二人の子は今まで紹介してきたこと大きな違いがあります。お分かりの通り、努力をしているのです。それは今までの子とは違い、努力の機会がない、自分で努力の機会を捨ててしまった子とは歴然の差なのです。その経験が欠落している人は、している人の人生に比べ、薄い人生です。つまり不幸なのです。もっと言うと、自己が確立し、大人になって仕事をするようになり、努力ができないことは致命傷です。努力すると良くも悪くも結果が出ます。その結果をもとに努力をします。というように、努力とは際限なく繰り返され、続くのです。結果が伴うようになればさらに面白みや、やりがいが得られ、もっと努力するようになるのです。これが教育だと思います。努力という行為は幸福につながると思います。子どもは他人との世界を広げていくことで成長するのだと思います。まずは親子の世界です。そこには既に自分の存在を認めてほしいという欲があるようです。そのため様々な注目や愛を得ようとします。そしてその欲が大きくなりより注目、愛を求めるがために怒りを表します。これが反抗期だと思います。これが毎日、自分でストックされていくのです。これは上手くいった、これはダメだったと、どんどん蓄積されて、自己概念や世界観や夢が形成されていくのだと思います。だから思春期の親との関係、人間関係は、自分の核を作ると言っても過言ではないくらい重要なことなのだと思います。



学校の先生は申し訳ないですけど、一部でたわけがいます。それは教え方が下手な先生です。だから塾が存在するのです。もちろん、生徒の側の問題もあるでしょうが、生徒が聴き耳をたてないのは訳があるはずです。それでも変えようとしない、創意工夫がないのは先生の怠慢以外の何物でないのです。塾の指導員は、教員免許はありませんが、結果を出すための創意工夫があります。これがくどく言っている創造です。生徒、保護者の立場になって成績、学力と向き合い、どうしたらできるようになるか考えるのです。部活の顧問であり、規定問題が解決できない先生がその領域まで手が出せるわけがないです。学校の先生は教員免許を持って、プロなわけです。免許は国がお墨付きをつけてくれているのに、どうもプロになりきれていない先生がいるようです。だからアマチュアの塾のほうが上になってしまうのです。塾は競争だから潰れます。潰れれば解雇もあります。じゃあ学校の先生に経済的な解雇はありますか?



学生服の意味を理解していない人は多いでしょう。私は高校時代からその意味を理解していました。学生服は窮屈なのです。だから大人になろうとする学生が着ると似合わないわけです。するとそこにフェチズムが発生する。これが私の高校時代の解釈でした。これは解釈が違えど、ほぼ正解でした。どういうことかというと、先ほどの集団の話だと優劣がつく、弱肉強食、いじめが起きるというのは、それは個性が出るからだということです。だから優劣がつくのです。じゃあ、優劣がつかないようにするには、みんなと同じ学生服で縛ってしまえばいいということです。だから窮屈なのは当たり前なのです。なんで集団なんて作るのかということを考えると、簡単で、一人よりも二人、という力を増やす方向性が本来の集団の有るべき姿なのです。それを優劣をつけるというベクトルに働くことがおかしい。そして、その結束力を高めるものが制服であり、ユニフォームなわけです。それは同じベクトルを表すのです。



私は集団が嫌いです。だから孤立しているのですが、それも間違いではなかったようです。集団にいると、必ず優劣が決定される。すると弱い者イジメになる。集団は知らず知らずのうちに、弱肉強食という野生のルールが存在してしまう。だから学校ではイジメが無くならないわけだ。



女性が女になる、メスになる性の象徴ともいうべき瞬間とは出産であると思う。あれほど声を荒げ、力の限り腕や足をばたつかせ、何も頭では考えられない瞬間はないだろうと思う。それこそ性行為のオルガズムを超える女性の性の象徴的姿であると思う。



指導や教育という側の立場の人も多いでしょう。しかし、自分の満足のいく説明と、自分の達成感と、相手の理解は同じではありません。伝え方、教え方の問題があるのです。だから、それぞれの人を見て、自分に質問をするのです。今からの経験、体験でこの人は何を学ぶ、学びとれるのだろうかと。つまり、これもやはり同じで、相手の立場に立って考えてみないとわからないのです。説明のわかりにくい人のほとんどは、自分が軸、説明の基準、中心となって説明をするから、相手がわからないのです。ひどいことに、それでわからない人は使えない奴扱い。使えないのはあなたです。よく男性の社会では、訊いてこないのが悪いということが多いです。職人気質な文化もあり、目で盗め、なんていうのもあるでしょう。でも、それは基準が自分にあるからです。指導や教育には相手がいるはずです。その相手の目線に合わせていますか?あいつ使えないという前にもう一度考えてみませんか?



大学、新社会人のときに「ノートを取れ」「メモを取れ」と言っていた先生、先輩たちを笑っていました。もちろん、ノートもメモを取っていましたが、書くだけです。メモに何の意味があるのだろうと思い始めたのは、大学生の頃です。メモを取らなくても大事なことは覚えるし、メモを取らない、取っても忘れることは忘れるのです。要するに聴く耳をたてているかどうかなのです。忘れるというのは、それだけ自分にとっての重要度が低いことなのです。そんなことに資源と時間を無駄にして、何のためになるんだと思っています。こういうことを言うとなんて奴だと思われますが、人それぞれあるし、やりやすいようにすればいい。ただ、やることが増えて記録することも多いのに、どうやって重要度を絞っていったらよいのかという時に、情報量を絞り込み集中するという観点では、記録しない、記憶するというのも手段かなと思います。



大器晩成という言葉がありますが、そういう人は、一握りだと思います。実際のところは、さぼっていたりして、チャンスをつかめずにくすぶっている、極端な言い方をすると怠けている人ということになるわけです。これを本当に努力、準備をしてチャンスを待つ大器晩成と一緒にしないでほしい。



塾を経営している人には申し訳ないけど、教育課程、学校で教える内容のレベルを下げる、もしくは総合学習に割く時間を増やすなら、学校の教師のレベルアップが必要だということです。要するに、塾のようにとまでは言わないけれども、教育の質を上げて、中身を拡充させるということです。塾に行った人が優秀かどうかは別の問題として、塾に通わざるを得ない状況にするのは、学校教育の質の低下に他ならないと思います。だから塾という差別化競争が過激になるのではないかと思うわけです。短時間でも効果のある学習方法を取らない教育機関、教育体制に問題があるように思います。反対に、進学の条件が変わることなく、総合学習が拡充されるのであれば、割り切りという考え方をせざるを得ない。総合学習が悪いわけではない。ただ、本来家庭で教えるべきことが、教えられない親が増えすぎた過去の遺産なわけだ。総合学習をさせられる子供には非はないのだ。総合学習に時間を割いて、先生の一般教科の質自身が変わらなくては中身の薄い教育内容になるのは仕方のないことだ。そうなると、親の資本がモノを言うようになるのか?塾で子供が勉強し理解、習得するかは別の問題。聴く耳のない所にどれだけ説明しても、無駄だし、わかったふりではダメなのだ。モンスターなんて言ったりしますが、結局子供のモチベーションを維持するのが大事で、塾などのツールがあっても、それをうまく生かすように持っていくのは、親であるということです。大人になりきれない親が多くて、金の流れと契約しかわかっていない人が多いからモンスターになるのだと思う。



子どもができたから結婚しようというのが悪いとは言わないけれど、人、世の中が自分自身解っていない人がそれを子供に教えられるわけがないから、世の中は混乱するのだと思うし、それを育てていこうと思うと、人口減少、高齢化の問題もあるから多くのリソースが必要であるということです。



時間が戻せたらいいのにと誰しもが思うけど、一度確定した現在があるならば時間を戻しても結論は変化しない。どんな感情であれ記憶は残る。だた、記憶は壁を越えて昇華すると思い出になる。そうなると日々がいとおしくなる。むしろ、いとおしいから感謝をする必要に気が付く。時間を戻す必要はない。

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